「ホームグラウンド」でありたい!

どうもどうも。
皆さん、明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いします!

ということで、またまたまたまた随分、期間が空いてしまいました。
って、まあ良いんです。もはや開き直り。このブログ(そしてnote)の記事は、わたしイマンモが気が向いた時に、書きたいことあるときに、徒然なるままに書き散らす雑文以下、パルプフィクション、カストリ雑誌記事として今後も継続していく所存。真面目な文章なんぞ金輪際書かんぞオラァ!(ってことは流石にない)

さてさて、ということで新年1発目のこの記事。
こういう場合は、一年の抱負なんかを述べるのが良いんですよね。

でもなあ、何かなあ。
そういう何か、お行儀が良いというか、ありふれた感じは、あんまり好きじゃないんだよね。

いや、実はPC開けるまでは、そんな記事を書く予定だったんですよね。
「よし、ここは1発、景気の良い抱負を書いて、2023年のコレやるぞリストでも書いて『死ぬまでにしたい10のこと』(良い映画)的な感じのこと書いて、あーなんか良い感じのブログやんちょっと感動したわー的な気分になる文章にしよう!」と晴れ晴れとした顔しながらPC開いたんですよ。

でも、なんかそんな気分じゃないなあ、やっぱ。
というか、そこまで力んで主張したい抱負なんぞ、ない。

もっと言うと、自然体でいたいんですよね。何かを成し遂げるとかじゃあなくて、目の前のことを一つひとつゆっくりでもこなしていきたい。
ヒルネットのメンバーの子ども達が、少しずつ、でも確実に前に進む姿、成長する姿を、あくまで「見守って」いきたい。

そう、ヒルネット。

まあ、「抱負」と言うことがあるとすれば、やっぱり僕の場合はヒルネットに関わることになるでしょうな。

しかし、やっぱり。
「よし! ヒルネットで今年こんな企画をやって、そんでもって、もっとオルタナティブスクールってな感じのカッコいい雰囲気醸して、教室の規模もホニャララホニャララ……!」みたいなことはあまり考えない。全然考えない。
昔も書きましたが、そんなふうにいろいろ事前に考えても、子ども達自身がそういう気分にならなければ、それをやってみたいと思わなければ、あんまり意味ない。

「大人」や「教師」が、たとえ子ども達にとって良かれと思ったことであっても、勝手に「企画」して、無理にそれを押し付けるんじゃ、悪い意味で既存の「学校」と変わりません。子ども達の内発性を無視して「大人」が「学ばせたいこと」を決めてしまうのでは、本当の意味での彼・彼女らの「学び」の体験とはならないでしょう。
いや。少なくとも、ヒルネットでは、そんなことはしたくない。

そりゃ、僕にだって、今年はサイコロ計算みたいな「遊び」と「学習」の間のようなことをする時間を増やしたいとか、小学生向けにもうちょっとリベラルアーツ簡単版みたいなのをやりたいなあとかはあります(あるんかい!)。
でも、子ども達がその気になって盛り上がってくれればOKですが、そうでないのに無理にやったって、やっぱり上手くいきません。それこそ前の記事で書いたように、「イヤだ!」と言われてしまえば、それまでです。
「習い事」ならば別でしょうが、ヒルネットはそういう場所ではない。あくまで、子ども達自身が「主人公」であるべきなんです。

だから、以上のような「抱負」はヒルネットには、そぐわない。
あたかも水の如く。子どもも大人も今いるメンバーに合わせて形を変えていくのがヒルネット。

ただ、もし一つだけ「抱負」があるとするなら。

それは、ヒルネットが、子ども達の(場合によっては大人も含め)「ホームグラウンド」のような場所となってほしいということでしょうか。

どういうことでしょう?
これは、いわゆる野球やサッカーのようなスポーツに存在する概念ですね。
つまり、ホームグラウンドとは、そのチームやメンバー、スタッフにとっての本拠地。
帰れる場所。安心して過ごせ、試合になれば応援してくれる人々がたくさんいる場所。
反対の場所がアウェイですよね。
いわゆる敵チームの本拠地です。そこではなかなか暖かい声援は期待できない。歓待はされない。

僕たちは生きていく上で、いくつかの「ホーム」を持っています。

家庭や家族。恋人や友人。仲間。そんな仲間が集まる場所。

幼い頃は、家族が一番の「ホーム」かもしれません。あるいは、成長し大人になれば恋人や新たな家族、家庭ができるかもしれない。
しかし、成長期の少年や少女にとって、家庭は徐々に、少しずつ、「ホーム」というには頼りない存在となっていきます。親には打ち明けられない悩みが出てきたり、考え方や価値観が段々とズレてきたりもする。当然のことであり、将来「独立」するためには、避けられない過程でしょう。
一方、成長の過程では、反比例するように「アウェイ」な場所は増えていきます。社会のさまざまな局面に立ち会うことが増え、傷つくような機会も増えるでしょう。

そんな「アウェイ」の場所で傷ついたときに。
帰るべき場所。安心できる「ホーム」があれば、人間は強く生きることが出来ます。

しかし繰り返せば、彼・彼女にとって家族はもう完全には安心できるホームではないかもしれない。
その時、たとえば「学校」の一部、そこで出来た仲の良い友人などが、新たな「ホーム」となり得た人は幸運である。部活の「仲間」、同じクラスの友人たち。
しかし、大昔の僕自身含め、「そこ」には到底、居場所を作れない子どもだって確かに存在する。
学校がむしろ「アウェイ」と感じる子だってたくさんいる。

ヒルネットは、そういう子どもたちの「ホームグラウンド」でありたい。
学校に行っているとか行ってないとかだけじゃない。
「ホーム」はたくさんある方がいい。小さい頃から続けている習い事。小さい頃からの地元の仲間。いろいろな形のホームはある。
あるいは、たった一つの形であっても、帰ることのできる「ホーム」を持っていれば、人間は「アウェイ」な場所で傷ついたとしても、再び立ち上がることができる。

そんな帰るべき、安心できる場所。「ホームグラウンド」の一つとして、ヒルネットはありたい。

ヒルネットに今いるメンバーも、やがては高校や大学、社会のさまざまな場所へと巣立っていくことでしょう。
そんなふうに「大人」になってからも、何かあったときに、いや何もなくともふと思いついて、ぶらりと立ち寄り帰って来られるような場所でありたい。
いや、実際に立ち寄らずとも、ふと思い出し「あの時は楽しかったな」と思えるような記憶とともにある場所。そういう場所になれたらいいなあと思います。

今のヒルネットが、果たしてそんな「場所」に成れているかは判りません。
しかも、一年の「抱負」というには、逆に過大すぎる「夢」かもしれない。

でも、本来、「学校」とはそういうホームとしての役割を果たす「居場所」だと思います。
友人と出会い。逆に人間関係に悩み。そして、いつかそれら全てが若き日の好き思い出となっていく。
記憶の中でだけでも、帰っていける場所。

ヒルネットを、そういう「学校」にしていきたいと思います。

それでは、それでは。


「イヤだ!」という自由

なんということでしょう! なんなんということなのだ!!
このブログめっさ更新してない案件発生中!!!!

はい。ということで、最近もクソ忙しく (失礼)、まともに記事を上げることのできてないイマンモです。
なんとかヒルネットの活動記録は上げているものの、そちらを書いているとこちらまで手が回らないというか、日月の休みをしっかり休養しないと年齢的にもそろそろ一週もたないというか最近旅行いったりしてたせいだったりとか諸々のせいでゴニョゴニョ。。。。
気がついたら前回の記事夏休み終わりやんけーい!!!

ということで、今週は覚悟を決めて、ヒルネットの活動記録も休みにして、こちらの記事を書こうと決めて日曜書こうと思っていたら『すずめの戸締まり』とか家族で観にいっちゃったせいで、今日、今、ノートPCに向かっているわけです。

ということで今回のお題。それは「自由」あるいは「自主性」という問題について。

うわーめっっちゃ難しいテーマ出してきた。いや出しちゃった。
うーん、でもこのブログは僕自身がモヤつき考えていることを答えも出ぬまま、しかし文章として披露することで、地球の片隅で読んでくれているかもしれない誰かと問題意識を共有することを目的としている(そうだったのか?)。

ということで、考えたところ、今自分がモヤつき考えているのが、こういうテーマ。なんだから仕方がない。

と言って、もちろん、哲学的に「自由」の問題を考えようなんてことをするわけじゃあない。
(哲学的問題としての「自由意志」の問題について知りたい人は、「自由意志」「因果的決定論」「物理主義」などでググるべし)

閑話休題。
フリースクールをスタッフとして運営する者としては、場に集う子どもたちの「自由」「自主性」という問題について、いつも既に考えないわけにはいきません。いや、フリースクール云々関係なくとも、子どもたちと向き合う「仕事」をしている人間であれば、必ず考える必要があると思います。

子どもたちの「自主性」について。
子どもたちの「自由」について。

ちょっとした話から考えてみたいと思います。
とある物事を、とある子どもにすすめたり、あるいは頼んだりしたときの話です。
その子が答えます。「イヤだ!」
それだけ。理由も何もなく、ただイヤなんだ、と。

もともと、あまり多くを喋らない子です。時々、理由もなく不機嫌だったりも、する。
その子に別のことを頼みます。答えはやっぱり「イヤだ!」。
理由は? イヤだから。

「一緒に本読まない?」「イヤだ」
「一緒にゲームしようよ」「イヤだ」
「公園まで散歩にいってみようと思うんだけど」「イヤだ」
「もう、そろそろ帰ろうよ」「イヤだ!」

ま、正直、困りますよね。
困りますが、この「イヤだ!」を、僕はとてもとても大切な言葉だと考えています。

なぜでしょうか。
なぜなら、それは個人の主体的な意志を示す最初の一歩となる言葉だからです。

私たち大人は、子どもたちに何事かを強制することが大好きです。
「勉強しなさい」
「ゲームはするな」
「静かにしろ」
「ご飯を残すな」

何でもいいですが、いろいろなことを子どもたちに「指図」します。
それはもちろん、大人にとっては必要なことだったり、子どもの将来や何かを慮ってのことだったりします。だから、そんな強制が不必要だと言うわけじゃない。

でも、もし子どもに「自主性」を期待するなら。
子どもたちの「自由」な意志を尊重するなら。

「イヤだ」という言葉を決して無碍に扱ってはいけないと思います。


「自分の子どもに自主的に勉強にする習慣をつけさせたいんです」
ちょっと昔、それこそヒルネットの活動をまだ始めておらず、主にV-netで個人レッスンのみを行っていた頃(いや、今も行っていますが)、けっこう多い相談が上記のようなものでした。

でも、これは実はなかなか難しい相談なのです。

なぜなら、そのお子さんには「自主的に勉強する習慣」がないからこそ相談にいらっしゃってるわけなんですが、じゃあそのお子さんが何で自主的に勉強できないかというと諸々理由はあるにしろ概ね過去から現在にかけて「勉強はやらなきゃいけないもの」という他律的自律的な観念のもと「強制」されてきたということが理由として大きい。

もちろん、本来、何かを学び知り考えることは楽しいことです。
何かしら自分を高めようとすることは、一つの生きる「意味」だと思います。

しかしながら、他律的な「強制」が働くところに、そんな学びの「楽しみ」は生まれない。生まれにくい。

子どもに「自主的に勉強にする習慣をつけさせたい」という願いには、暗黙のうちに「子どもに勉強をさせる」という強制性を含んでいます。
そのような「構え」を手放さないうちは、なかなか学びの「楽しさ」を子どもも見つけられない。
だから、おそらく本当は、「学ぶ楽しさを一緒に見つけよう」と思って接することが大切なのでしょう。
そうでなければ、その子はきっと、はっきり激烈に、「イヤだ!」という言葉を発することになります。

と言って、僕は世の中の「大人」たち、お母さんやお父さんたちを何か「啓蒙」したいとか何とか思って、こんな文章を書いてるわけじゃあないんです。
最初に書いた通り、これは僕自身がモヤっていることを書くブログです。

つまり、子どもに何かを強制するのが好きな「大人」の中に、ひょっとしたらこの僕自身も含まれるのではないかと思ってこの文章を書いています。

これも、譬え話です。
ヒルネットでは、月末に一回、奥多摩古民家をお借りして「焚き火の会」を行っています。
この場所は、お借りしているわけなんですから、帰る時は、きっちりキレイに元の状態に戻して帰る必要がある。当たり前ですね。
じゃあ、帰る際の清掃は誰が行うのでしょう? スタッフでしょうか? それは何だかおかしい。ヒルネットの参加メンバーは「お客さん」じゃないんですから。

じゃあ、みんなで片付けよう。これは真っ当な考えです。
いや、でもちょっと待ってよ。誰かが言います。僕は今日、薪を山にいっぱい拾いにいった。焚き火の火起こしもした。そのとき〇〇君はスマホいじってただけだったじゃん。
別の誰かが言います。焚き火できたなら良いじゃん。あたしなんか今日、料理班だったから、ずっと料理してて焚き火にすらまともに当たってないのよ。
なるほどなるほど。
じゃあ、他のメンバーでやるかい?
ところが、ここで1発。
「イヤだ!」

現実には、こんなモメ事は起こってません。似たような状況から、僕がいま勝手に考えたトラブルです。
でも、こんな「イヤだ」は自分勝手でしょうか? 単なる「わがまま」と切り捨てて良いものでしょうか。
でも、じゃあ薪を拾いに行った子は清掃を免除されるべき? 料理していた子は?
いやいや、そんなの関係なく、「みんな全員でやろうぜ!」と声がけしてみれば?
「イッヤッダ!」

こんな「イヤだ」も大切にすべきでしょうか。
その通り。
少なくとも僕は大切にすべきだと思います。

大切にするというのは、この場合、別に「じゃあイヤな子は清掃しなくても良いよ」ってことではありません。
何とか話して一緒にやった方がいいに決まってる。
でも、やっぱり本当に「イヤ」なら、やらなくても良いと思います。僕は。
周りの子からは文句も出るでしょう。それが原因でトラブルにもなる。その不利益は被らざるをえない。
でも、「イヤだ」「やらない」というのが、その子の意思で決めたことなら、それを無理に強制するのは、なんかやっぱり違うと思う。
まして、そこで「みんなで決めたルールだろ」なんて学校みたく「強制」するのは絶対に、「イヤだ!」です。

僕たちは強制と同じように、「秩序」が大好きです。
何事も、スムーズに、順序よく進んでほしい。
みんな和気藹々と、トラブルなく、整然とあってほしい。
人の迷惑になるような、つまり「場」の空気を乱すようなことはしてほしくない。

上の掃除の話では、「イヤだ」という子は、きっとそうした「秩序」をいろんなところで乱してきてしまった子でしょう。
じゃあ、そんな「秩序」を守るために、その子を排除するのか? 絶対に、あり得ません。
「秩序」を守るよう「強制」するのか? やっぱり、あり得ません。

世の中一般では、こんな「イヤだ」は我儘だ自分勝手だと叩かれるかもしれない。
ですが、繰り返せば、その拒否の言葉は、子どもたちの最初の、「強制」を跳ね返す、自分の自主的な意志の発露です。勝手に出来上がっていた「秩序」の外に出るための、主体的な行動の出発点になる言葉です。

「イヤだ!」と何かを拒否することは、たしかに「良いこと」ではないのでしょう。
ですが、僕は本当に子どもの自主性を尊重するなら、やっぱりその態度を大切にすべきだと思います。
皆さんは、どう思われますか?

それでは、それでは。

学校行かないのが「正解」だった

どうもどうも。
すっかり秋の気配すら漂ってきた今日この頃。皆さんいかがお過ごしでしょうか。ほんとに夏終わるん?ほんとにほんと?(でも秋雨と台風は嫌いなので今年は前線もろとも太平洋上で消滅してほしい)

さて、秋の気配が漂ってくるということは、そう。いよいよ夏休みも終わりの日が近づいてきました。いや、地域によっては、もう新学期が始まっている場所もあるでしょう。

これが憂鬱でない、少年・少女はおそらく、いない。たぶん。
比較的、学校が好きな、友達と会えることを楽しみにしているようなお子さんであったとしても、何となく気が重いなーってな気分になるのが、まあふつう。お盆休み明けに出社するのがイヤなのと一緒。

まして、学校が「嫌い」。
あるいは、「居心地が何となく悪い」と感じている子どもたちにとっては、死刑執行の行われる日を待つ囚人のごとき気分にちがいない。いや、ほんと大袈裟でなく、そんな気分なんですよ、場合によっては。

よくこの時期になると、「夏休み明けのSOSを見逃さないで」等々といった文言がネットその他に散見されるようになりますが、これも別段「煽っている」わけじゃありません。
宿題の自由研究がなぜだか全然手につかない。
何だか妙に不機嫌で話しかけても生返事。
頭痛や腹痛を訴えるけれども医者に行ったら健康体。

そりゃ、そうです。
1学期の間、ヘトヘトになりながら通学していたような子どもにとって、「休み」が終わる足音が聞こえてくるのは、もうほんとに辛い!
関係ありませんが、僕は昔、日曜にやってる「サザエさん」が大嫌いでした。それは当番組が「日曜という休み」が終わるチャイムのように感じていたからです。
まして長い夏休みの終わりを告げる足音というのは、まさしく地球滅亡のカウントダウン同然です。

一方で。
「2学期が始まったら、学校行ってみるよ」
「いや、俺はちょっとサボりたくなっただけ。もうしっかり休んだから、夏休みが終わったら、ちょっと学校がんばってみる」
既に1学期の段階から、学校を休みがちになっていたり、あるいは通わなくなっていたりする子どもが夏休み序盤でこんなことを言っていたら。
場合によっては、保護者の皆さんは「ああ、そうかもしれない。夏休みが終わったら、この子は以前のように学校に通うようになるかも」といった期待を抱かれるかもしれません。

が、この時期。夏休みの終わり。
その「期待」が子どもたちには重くのしかかる。
いや、そもそも上記のような「自分の言葉」自体がひどいプレッシャーになる。

彼・彼女は嘘を言ったわけではないんです。ただ、単にホッとしただけ。
皆が等しく学校なんかに通わなくなる「休み」が始まり、それ以前の「学校に行かねば」というプレッシャーがなくなったことから生まれた言葉なのです。
そうだ。俺はちょっとサボってただけ。
みんなと変わらない。休みが終わったら、きっと学校に行ける「はず」だ。
自分自身でも、そんなふうに考えた、正直な気持ちだった。

だからこそ、苦しい。
結果として、「嘘」になってしまうかもしれないことが、怖い。
自分で言った言葉だから。自分の本当の気持ちだったから。
学校に行かねばならない。
もし、それが「嘘」になってしまったなら。
母さんや父さんは、またどんなに心配しガッカリした顔をするだろう。。。。


一部の子どもたちは、まさしく今、そんな苦しみ、悩み、葛藤のまっただなかにいます。

もし、そんな苦しみを、お子さんが抱えていると思ったならば。
その際は、「無理して学校なんか行かんでもええんやで」という雰囲気を、ご家庭の中で作ってあげてください。
直接、言葉をかける必要はないかもしれません。
場合によっては、学校の話題すら出さない方が良いかもしれない。
しかし、どちらにせよ。
「学校なんか、行っても行かんでも、マジでどっちでも良い」って態度を親がまとう。言外に伝える。夫婦の、家族の会話の端々に、そうしたニュアンスを響かせる。
それだけでも子どもたちは楽になれるはずです。

それは判っている。だが、口でいうのは簡単だけれど、なかなか実行できない。
親としては、どうしても子どもが心配で、それを口にしてしまう。態度に表してしまう。
そんなふうに思われるかもしれません。
しかし、そもそも何が心配なのでしょうか?

学校に行かないと、自分の子どもが「落ちこぼれる」?
何から落ちこぼれるのでしょう?
勉強が心配なのでしょうか?
社会に適応できなくなると?
世間一般の「ふつう」じゃなくなるから?

現在、実に中学生の7人〜8人に一人は、いわゆる「不登校」と呼ばれる状態にあるとの調査もあります。
昔とちがい、「不登校」はもはや珍しいものではありません。良くも悪くも、「ふつう」のことです。
また、学校に通わずとも、勉強をする場所はたくさんあります。
もっと広い、人間関係やその他の体験を含む「学び」を深める場所も、十分な数ではないにしても、特に都会では相応に存在します。僕が運営するヒルネットも、そうした「居場所」「学び場」の一つになれれればと思い活動しています。

そういう現状は判っている。それでもなお、唯一人の「この自分の子」についての心配は消えない。
当然かもしれません。それを簡単に無くすことはできない。

ですが、「自分の子」ではないけれど、実際、「不登校」だったお子さんが、今、元気に過ごしている現状を知ったら?
それは所詮「他人の子」、まれなケースと思われるかもしれません。
でも、ちょっとだけ心が軽くなるかも。
そんなことを願いつつ、僕の知ってるケースを紹介しましょう。

S君は中学2年生。都内の進学校と言われる私立中学に通っていました。
きっかけは些細なこと。というか、周りから見れば、些細に見えたこと。
ちょっとした人間関係のトラブル。
ですが、本人にとっては結果的に、「些細なこと」ではなかった。
段々と学校に行くのが億劫になる。朝が起きられない。
夜になれば、明日は学校に行こうと思うのだけれど、翌日になると、どうしても家から出たくなくなる。

さあ、もちろん周囲は心配します。本人だって心配です。
「不登校」。
そんな「烙印」を押されたくない。「ふつう」がいい。そもそも自分が行きたくて入った中学じゃないか。

数年間、本人はもちろん、保護者の方も悩み苦しみ七転八倒。

しかし。やがて、少しずつ本人の中にエネルギーが満ちていきます。
「学校」はもう無理。じゃあ、どうしようか。
S君はまず、自転車で旅をしました。目的は? 別にない。行き先は? その辺りを、ぶらぶら。
ぶらぶらしたついでに、日本全国をほぼ一周しました。

そして帰ってきてから。
ゆっくり。徐々に。しかし、やがて猛然と。
S君は「勉強」を開始しました。それまでは参考書なんて1ページも開いたことはありません。数年間、ずっと。

しかし、鬱屈していた何かを吐き出すように、S君は勉強を続けました。
そんな感じで、高卒認定試験は楽々パス。
次、大学受験。
こちらは、やや苦労したものの、それでも今では、東京の有名と言って良い私大に通っています。
すっかり学問好きとなった彼は、自分の興味の赴くままに、今も猛然と「勉強」してます。

さて、もう一人。M君。
公立中学に通っていた一年の終わり。同級生からちょっとしたイジメにあった彼。
それがきっかけで、やはり学校に行けなくなります。

そこからは、ほとんど家にこもってスマホにゲーム三昧の日々。
そりゃあ、お父さんお母さんは心配します。当たり前ですよね。
うちの子はゲーム依存症じゃないのか?
このまま家から出ないまま成人してしまったら、どうしよう。。。
そんな不安を抱えながら、それでもご両親は静かに息子を見守ることにしました。

当人はどうかというと、実はこちらだって心配してるんです。
ほんとはちゃんと学校行くべきなのでは?
勉強だって、このままだとどんどん遅れていってしまう。
でも、机に向かえない。そのエネルギーがない。勉強することで、あの嫌な嫌な学校のでの嫌な嫌な出来事がフラッシュバックしてしまう。。。。
なので、どうしてもスマホを見てしまう。ゲームの中で全てを忘れたくなる。
そんな、なかなかのしんどい日々。

が、それでも明けない夜はない。いずれは嵐も過ぎ去るもの。

やがて、少しずつ人生を前向きに捉え始めたM君。勉強も数学だけでも、という感じでちょっとずつ始めます。
そして、高校。
自分にあった、自分のペースで勉強を進められる、かなり自由度の高い一条校を探し出す。
受験するため、勉強のピッチを上げる。けっこう緊張しながら試験を受ける。面接もあったそうですが、これも何とかクリア。
結果。見事、合格しました。今では、その学校に、友達もできて、けっこう楽しそうに通っています。

もちろん、M君の悩みは完全に晴れたわけではない。ゲームだってそこそこやる。
だけど、一方で友達と遊びに行ったり、自分なりの趣味を見出し、そのための小旅行に一人で出かけたり。
今後の長い人生で、たとえまた落ち込むようなことがあったとしても、そこから回復できる自分の力を信じられるようになったはずです。

これらは皆、個人レッスンで知り合ったり、親御さんから個人的に相談を受けて知った子どもたちの例です。
二人の例ですが、実は何人かの話を混ぜて「二人」の人間にしています。
つまり、上の「二人」の背後に、同じように大学に進学したり、高校に進学したりしている例がたくさんあるということです。

そして、手前味噌ながら、ヒルネットに通ってくれている、みんな。
特に小学校の時分から、もう4年も通ってくれている年長のメンバーたち。
彼らは、もう何も心配がない。
ってことは、まあ親御さん的にはないでしょうが、それでも僕から見ると、本当に「人間」として成長してる。

自分達だけで遊び含め色々なことを計画し、実行できる。
自分より年少のメンバーたちの世話をしてくれる。
自分自身で進路を考え、その先にある人生を考える。

昔は少し頼りなげだった彼・彼女らが、今ではすっかり「大人」です。
実際、「ふつうの中学」に通っている中学生たちより、大人に見えるし、しっかりしている。
なんて言うと、褒めすぎかな。
でも、本当に成長した。
だから、普段から接している僕からすると、そんな彼・彼女らにとっては、「学校に行かないことが〈正解〉だった」と思えるのです。
いや、ほんとに。心の底から。

さて、話を戻すと。
これらは確かに「他人の子」の話。
たった一人の「自分の子」の話じゃない。
でも、その「自分の子」だって、同じように悩み、苦しみつつも、やがて自分だけの道を見つけられるようになるかもしれない。

「学校に行かないことが〈正解〉」
今はまだ、そんなふうには考えられないかもしれない。
でも、いつかは心の底から、そう思える日が来るかもしれない。
だから、せめて。
今は子どもたちが「学校」のプレッシャーをなるべく感じずに済む雰囲気を作ってあげてほしい。「無理して学校なんか行かんでもええんや」という気持ちにさせてあげてほしい。
夏休みが終わり、新学期が始まる「カウントダウン」が鳴り響いている、今だけでも。

それでは、それでは。