いまんもレッスン日記② 「学校」には、もう行かない

img_4319公立私立に関わらず、いわゆる「ふつうの学校」。
そんな「ふつうの学校」には、もう通わない。行く意味がない。
最近、私の生徒の中には、そういう選択をした少年たちが増えてきています。

もちろん生徒によって、事情は様々です。
いわゆる登校拒否を経験した少年。
地方から東京に引っ越してきたところ、勉強スタイルから人間関係まで、まるっきり合わなかった少年。
最初から、「ふつうの学校」に行く気が無く、オルタナティヴ・スクールを選んだ少年。

彼らはみんな個性的。なのは、V-netの生徒としては当然で珍しくないにしても、同時に彼らは、とても「優秀」です。
勉強ができる、という意味では必ずしもありません。いや、むしろ「ふつうの勉強」は、教科によってはブランクがあったりして、苦手としているかもしれない。
けれども、そんなことがどうでもよくなるくらい、ある分野において、彼らはみんな博学で、意欲的で、好奇心に満ち溢れています。
主体的で、かつ理知的です。

ある生徒は、驚くほど歴史に詳しい。私自身、かなり歴史は好きな方なのですが、そんな私とでも、日本史・世界史ともに殆ど対等に話し合えるほど。また彼は物語世界への造詣も深い。
また、ある生徒は、十代にしては珍しく、政治的な問題への関心がきわめて高い。当然、それに関係する知識の吸収に関しても意欲的です。また、この少年は感受性に優れており、文章を書かせると、なかなか味わい深い文を作ります。

その他の生徒たちも、みんな自分の「得意分野」になるとオタク的な知識を披露してくれます。
さらに言うと、その「得意分野」以外のこと、すなわち教養全般に対しても吸収することに柔軟です。
決して「そんなことは学びたくない」といった態度を取らない。知識をシャットアウトしようとしない。
「無理やりやらされる勉強」から少しでも離れたことが、かえって学習への拒否感を少なくしているのかも知れません。
あるいは、それは過去に、ふと調べ始めた何かや、読み始めた書物などによって、知的な面白さを感じたり、自分の高まりを実感できたりする体験を、ひそかに味わったことがあるからでしょう。

彼らとのレッスンに、私は時折、不思議な縁を感じることがあります。
というのも、もう遥か昔の話ですが、今から数十年前に14歳の中学生だった私もまた、やはり「ふつうの学校」には行かないという選択を行った人間だったからです。
そのせいで苦労もしましたし、両親には本当に迷惑をかけたと今でも思います。ですが、おかげでなかなか、人とは違うオモロイ十代の時間を過ごさせてもらいました。
また、「勉強」にはブランクが生じましたが、再びそれを始めた折には、かえって面白く感じたのか、結局、大学には入「院」生活含めて10年も通ってしまいました。

私の生徒たちが、これからどんな人生を歩むことになるのかは判りません。
それはもちろん、私が通ってきた道とは全く違うものでしょう。
それでも、彼らの将来が、きっと明るくオモロイものになることは間違いありません。
そんな彼らの人生に、ほんのわずかな時間であるにしても、自分が関われたことを、私はとても幸福に思うのです。

それでは、それでは。

いまんもレッスン日記①:「発言」すること

fullsizerender夏休みに行った「読書道場」ですが、おかげさまで楽しく行うことが出来ました。いろいろな発見もあり、教師としても非常に有意義でした。
参加してくれた生徒たちに、まずは感謝したいと思います。

参加してくれた生徒たちを観察していて、一番面白いなと感じたのは、彼らが意外と「発言」してくれたことです。

今回も、小説を読みながら、私はときどき立ち止まって、「物語の展開はどうなるか」、「犯人は誰だと思うか」など、いろいろ生徒に質問を投げかけてみました。
すると、最初はもじもじしている彼らですが、やがて堰を切ったように「自分はこう思う」「この次の展開はこうなって、きっとオチはこうなんだぜ」などど、勝手に話し出すのです。
特にやや未だ幼い感じを残すも元気いっぱい多動的小4男子が、我先にと質問に答えようとしている姿が印象的でした。

私は個人として、そして国語教師としても、子どもたちが何に対してであれ「意見」を言えること、それを「発言」し他者に伝えられるようになることを非常に重要だと思っています。
「自分の意見を正確に他者に伝えること」こそが、実は言語能力の基礎であり、日常においては最も重要なことだと考えるからです。
ときに多人数に対して、説得的に自分の考えを「発言」していくなかで、他者を説得するための論理力も磨かれます。
いわゆる「アクティヴ・ラーニング」なるものを実践するのにも、主体的な意見の表明は欠かせないでしょう。

本を読み終えた後に書いてもらったレビュー作文もそれぞれに個性的でした。
全員の前で、書いた原稿をもとに「一定の時間話し続ける」という約束で発表してもらったのですが、ふだんのお行儀のよい「読書感想文」と違って、「登場人物のお母さんがぎゃふんと言わされる展開は胸がすっとした」だの、「物語の先が見えるこの小説はつまらない」だの、実に《正直》な感想を語ってくれました。

今後も彼らの「発言」を聞かせてもらえるレッスンを、いろいろと工夫していきたいなと思わせてくれる授業になりました。
今一度、参加してれた生徒諸君に感謝しておきたいと思います。どうも、ありがとう。

それでは、それでは。

読解力とは何か

子ども読書道場(夏休み)どうも、どうも。相変わらずの暑い日々、脳みそも溶けだしそうな感じですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は夏バテ一歩手前状態です。

さて、前回告知した、夏休み「子ども読書道場」なんですが、おかげさまでたくさんの受講希望をいただきました。ありがとうございます。レッスンの性格上、あまり多数を相手にはできないんですが、これを一つの機会に、なるべく多くの子どもに読書の楽しみを知ってもらいたいと心底思っております。もし、ご希望の方がまだいらっしゃれば、あと一人ぐらいは何とか受け入れ可能ですので、是非お早めにお問い合わせを。

ということで、今回も読書のネタを。

私は子どもたちと小説を一緒に読んだりするとき、よくこんな質問を途中で挟みます。
「このお話、この後どうなると思う?」
もちろん、子どもがどんな答えを返してこようと、それを訂正したりはしません。ただ、実はこうした問いには、子どもたちの読解力を確認し養う意味が含まれています。
「この先の展開がどうなるか」という問いに答えるためには、それまでの話の大まかな内容はもちろん、細かな描写や伏線、登場人物の心の動きを、総合的に把握している必要があります。さらには、それまで個人が触れてきた「物語」の展開から想定する力も必要でしょう。
総じて、読者である子ども読解力をはかれる上、それを考えてもらうことで、読書に不慣れで、やや話を読み取る力に劣る子どもの読解力を養ってあげることもできるのです。

他にもいろいろと質問します。
「(物語のある状況で)こんな状況になったら、君ならどうする? どう思う?」
「君以外の人間はどんなふうに行動する?」
「予想した通りの結末だった?」
「この物語、作者はどんなつもりで書いたんだろ?」
あんまり深刻にならないよう、さりげなく質問します。うーん、と考え込まれてしまっても、よくありません。

これらの質問はすべて、読者の読解力を確認しつつ、それを伸張させる試みでもあります。
そして実は、いわゆる「国語」「現代文」の問題で問われている「質問」と形としては同じでもあります。
「傍線部の〇〇の気持ちを書きなさい」「傍線部のような行動をとったのは何故でしょう」等、国語物語文の設問は、私が「素朴」な形に見せかけて質問する内容と一見、同じようです。

しかし実は一点、重要な点が異なります。
それは、私の問いには「正解」が存在しないということです。
その子なりに感じたこと、考えたことを答えてくれればいい。それをことさらに否定する必要は全くありません。
どうしても、先々を読み通すことに困難を覚えていそうなら、「ヒント」を与えて、その子なりに続きを想像できるようにしてあげれば良いのです。
そして、読み終わった後の「感想」。これだって、つまらなかったら、一言「つまらない」でもいいはずです。

本来、読解力とはこうした「読み」の繰り返しによって身につくものでしょう。
一人で読書する場合でも、質問者はいませんが、代わりに自分自身がこうした問いを無意識に発しながら読み進めているわけです。
そして、自分自身が質問者である場合、当たり前ですが「正解」を期待することなどありえません。
繰り返せば、こうした自由な「解釈」こそが子どもの読解力を育みます。
「正解」を求めるやり方は、むしろそうした「自由」を奪い、読書の喜びを減殺し、何より子どもたちから思考の柔軟性を奪うでしょう。

しかも、やや専門的な話をすれば、文学理論において、「誤読」は読解における当然の作用であり、むしろ読みの多様性を保証するものです。
そこでは、優れた文学作品とは作者の意図さえも超えた解釈を生み出すものであるとされ(逆に言えば、作者の意図通りにしか読めないものは駄作です)、時代の文脈や、他作品と響きあうことで、様々な読み方をもたらすものだとされています。

何もそんな難しいことを言わなくてもいいでしょう。昔読んだことのある小説を、何年かぶりに読んでみたら、読後の印象が全く違ったなんてことは、誰にでもよくあることかと思います。
それはかつての読み方ーー「誤読」の仕方と、現在の「誤読」の仕方が、年齢や社会状況の変化などによって、大きく変わったからにほかなりません。

さて現在、文科省は教育現場におけるアクティブ・ラーニングの実質化を推奨しています。
さらに2020年以後は、それに合わせて試験内容の変化が予想されています。
もし、本当にそうした方向に教育内容を変化させ、さらに言語能力の軸の一つである読解力を育成したいと考えるなら、読解力を判定する試験は現状から大きく変えるべきでしょう。
あらかじめ「正解」の用意された「閉じた」読解のあり方から子どもたちを解放し、文章をより自由に解釈し思考しうる教育を、各現場で実践していくべきだと考えます。

では、今回はこんな感じで。
それでは、それでは。