「危険」の体験

どうもどうも。
すっかり秋の気配が漂う良い感じの季節になってきましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。ただし秋雨前線、お前は別だ。

最近、noteってSNSをはじめましてね。って既に若干飽き始めている感じで変わらずダメダメな僕なんですが、そちらにここの過去記事の中から、自分でも書いて良かったなと思えたものを選んで少し編集した後再掲してます。
つまりnoteの方は、時間が経過しても読むに耐える文章を掲載するイメージ。そういう使い方が正しいのかは知らんが。
で、いよいよこのブログは教育とかに関係ないことも含めて、日々の雑観というか、何かふと疑問に思ったことや考えたことなんかを書き残しておくものにしていく予定。
いや、あくまで予定なんで、どうなるかわかりませんが。

ま、そんな位置付けは皆さんには関係ありませんよね。
何でも言葉にして整理しないと気が済まない性格なんですよ。すみません。

ということで、今日のテーマ。
それは、「危険」の体験。
こほほ。何じゃそりゃ。

いや、実は数日前、ヒルネットの活動で高尾山に登ってきました。
あ、そうです。9月になってヒルネットも元気に活動を再開しております。なんだかんだで少しばかり人数も増え、賑やかに賑やかすぎるぐらいにうるさい感じで楽しく活動を始めてます。

で、何の話だっけ? あ、そう、高尾山。
高尾山に登ってきたんですよ。雨の中。

何でよりによって雨の中? 当たり前ですが、狙ったわけじゃございません。
秋雨前線め。お前が全部悪い。

ヒルネットはいつも木曜日に「お出かけ探検活動」と称して教室から外に出て、山に登ったり川で遊んだり博物館行ったり知らん町の知らん神社に行ったりするんですが、その行き先を決めるのが、だいたい火曜日。
で、火曜日の段階では、曇り程度で雨の降る予報はなかった。さらに水曜日中も小雨ぱらつく程度やないのって感じだったんですが、夜になって、おいおい意外と大雨なるんちゃうん?みたいな予報に変わって、でも今更行き先変えられんしどうすんねん?みたいな状態になっちゃったわけなんですよ。

で、実際に当日、現地に着いてみるとそこまでの雨ではなかったので、まあ参加したメンバーは楽しくのんびり山を登れたわけなんですが、そこで色々と考えさせられました。

当日はやっぱり雨のせいでお休みも多かったんですが、当たり前のことながら、その中で雨の登山はちょっと危険なのではないかというご意見も少しくいただきました。
高尾山、特に1号路は山登りとしては安全な方だとは思いますが、ふつうに自然は舐めたらアカンし、自分の子を自分で見るならともかく人に預けて行かせるわけなんですから、こうした心配は当然です。

で、そんな心配は当然なんですが、関連するあれやこれやを子どもたちや保護者の方々と色々やりとりしていた中で、僕自身、ふと気付かされたことがあったんですな。

それが、「危険」を体験すること。

僕はこのブログや、それこそnoteや、いろんなところで「体験」の大切さを語ってきました。
何事であれ、ナマで、直に「体験」すること。これが大事。
オンラインで色々なことができるようになってきた昨今は、特にその重要性を言っているように思います。

そして、なぜ「体験」が大切なのかというと、そこには、いつも既に「偶然性」がついてまわるからだとも述べてきました。
オンラインのネット空間やましてゲームの中では起こり得ない、「偶然」の出来事。思いがけない何か。出会い。トラブル。おもろいこと。
そんな「偶然」に世界が満ちていると知ること。「偶然性」に満ちた世界と向き合い、時にそれを楽しみ、時にそれから身を守る術を知ることが大切だと考えてきたわけです。

そして、「自然」はそんな偶然性をもっとも感じさせる存在です。

究極的に「自分の思い通りにならない」存在。コントロールができない現象。それが自然環境です。ほんと、いきなり雨降ったりするしね。

そしてまた、自然は「思うようにならない」ものだからこそ、「怖い」。
自然の「偶然性」は、ときに人の命を奪うような「危険性」へと転じるものでもあるのです。

夏の川遊びは楽しい。海で泳ぐ開放感はたまらない。秋や冬の山の自然や澄んだ空気の素晴らしさ。
どれも子ども時代はもちろん、大人になってからも毎年「体験」味わい楽しみたいものです。

ですが、そこには当然、「危険」もある。
毎年、夏になると川での痛ましい水難事故のニュースが流れます。海も安全ではなく溺れるおそれは常にある。山登りにだって滑落等の事故がないわけじゃない。

だからこそ、備えあれば憂いなし。
川で遊ぶならラフジャケットを着用すべき。海に行くならせめて浮き輪を用意しよう。登山初心者が道なき道みたいな登山道を行くべきじゃない。

とはいえ。
それでも「危険」は完全には無くならない。
それは「偶然」起こるものでもあるからです。
どんなに「備え」ていたとしても、予想外のことは起こる。
繰り返せば、「思うようにならない」のが自然環境。完全にコントロールできるものではないのです。

では、「危険」が少しでもあるからといって、川遊びはしないほうがいい?
海には行かないほうが良いだろうか?
山になんか金輪際近づかないべき?

そんなはずありませんよね。

そんなふうに「偶然」起こりうる「危険」なことを織り込んだ上で、僕たちは自然環境を楽しんでいる。いや楽しみ「体験」すべきなのです。
とりわけ、子どもと呼ばれる時分に。

なぜなら、「偶然的」な「危険」は、実は現実世界にもたくさん存在するから。
少し大袈裟にいえば、「人生」にはそんな「偶然」による「危険」も溢れているからです。

子どもたちを現実の「危険」から、常に先回りして守ろうとすべきでしょうか? あらゆるリスクに先んじて大人が対処すべきでしょうか?
そんなふうにして育てられた子どもが、成長し、もはや誰の手も借りられない年齢になったとき、人生で直面した「危険」に対して自分の身を自分だけで守れるとは思えません。
現実の様々なリスクに対して、対処する能力を身につけられているとも思えません。

山を登ったことのない人間に、山の本当の「こわさ」は判らないでしょう。
川で遊んだことのない人は、流れに足を取られる「恐怖」を知りません。
それらを判ったつもり、知ったつもりになるだけです。
そして、「情報」としてしかそれらを知らない人間は、自分が現実世界のなかで「溺れてしまう」まで危険を察知することができません。

自然は、ある意味で、よく教師にも喩えられます。
それは自然が、ある部分での「おそろしさ」を子どもたちに体験させ、危機に対処する術を教えてくれるものでもあるからでしょう。
「思い通りにならない」もの、楽しくもあるが時に「危険」でもあるもの。
そんな自然環境を繰り返し体験することで、子どもたちは「現実」の様々な危険を察知し対応する術を学び、まさしく「思い通りにならないもの」である人生に向かい合う準備をしていくのだと思います。

とはいえ、繰り返せば「備え」はいつも必要です。
「危険」かもしれないものに、何の準備もなく突っ込んでいくのは、単に「無謀」というものです。
また子どもを連れていくなら目を離すべきではないでしょう。人に預けるなら心配するのも当然です。

ですから、いつも既に自然を正しく「怖れる」=「畏れる」態度は必要です。

でも、時々。
自然への「畏れ」は胸に抱いたまま。
自然への「恐れ」を手放すことも大切なのです。

それでは、それでは。


「学び」に必要なもの

夏ですね。ほんと信じられないくらい「熱い」夏です。毎年毎年、異常に暑いだなんのと言っておりますが、ほんとに今年の夏も「熱い」。。。

ヒルネットの活動も7月下旬から夏休みに突入。
「ヒルネットにも夏休みあるんですか?」なんて時々質問されますが、もちろんフリースクールにも夏休みはあります。というか、ヒルネットみたいに四六時中「お出かけ」してたり、教室活動の日でも「散歩」と称し30分以上歩いたりする集団にとって、夏休みはむしろ不可欠。こんな暑い中出歩いてたら熱中症になっちゃいます。

ということで、最近はもっぱら個人レッスンのみを行う日々。
今日はそんな日々のなかで感じたことを書きたいと思います。


そう。今回の記事のお題。それは、ずばり「学び」とは何か。

お、なんだ、前回に続き、いきなりのビッグテーマ。どうしたんだ。そんなデカいテーマで文章を書くのか。
自分で、今、書いてみて字面からくるテーマのデカさに驚いてしまいました。

いや、もちろん、そこまで大したことは書けない。書けないのは前提として、ちょっとした日々の覚書程度のものを書いておこう。つまり、これはここ最近、上記テーマについて僕が感じ考えたことを徒然なるままに(いや、ほんとは全然徒然ってないけど)書き殴ったものとお考えください。

さて。
何かを「学ぶ」と一言でいっても、そこには、まあ色々な種類というか、意味合いがあります。
いわゆる「勉強」だけが「学び」じゃない。

例えば、ヒルネットで大切にしている「学び」。
それはまず、様々なことを実際に「体験」するということです。

いわゆるフィールドワーク。
僕は「お出かけ探検活動」と呼んでますが、知らない街を歩いたり面白そうな博物館に出かけたり。山や川で遊んで直接自然を観察したり。
まあ、単に「お出かけ」して楽しいでも十分なんですが、一応、そこには体験を通じて子どもたちの関心の芽を育むという目的があったりなかったりします。

でも、ね、
以前の記事でも書きましたが、本当に大切なことは、実際に「外」に「お出かけ」すること自体だと思ってるんですよ。何か明確な「目的」がなくてもいい。

色々な場所に出かけるなかで、突然の雨に見舞われたり、それこそ昨今のような暑さに苦しんだり。その暑さが秋になって和らいだと思ったら、今度が冬の寒さに身を縮める。でも逆に、暑いなかで海や川の水に足を浸す気持ちよさや、冬の山を登る爽快さを感じることもできる。
こうした「体験」自体が大切なんじゃないか。
それこそが子どもたちの感受性を育むという意味で、「学び」なのではないか。

こうした「体験」は計画してできるもんじゃありません。いわば、「偶然」の体験です。
そして僕は、これまた以前書いたように、世界がまさしくこうした「偶然性」に満ちていることを、身をもって知ることこそが大切なんじゃないかなあと最近、考えています。

そして、それは実は別段どこかに出かけなくとも、本当は「体験」できることなのかもしれない。
教室に来ることで、年齢も個性も全然違う「誰か」と出会うこと。
その「誰か」と半日一緒に過ごし、ときにケンカしたり、仲直りしたり。気が合わないと思っていた「誰か」と、気がつけば一緒になって遊んでいたりすること。

こうした「日常」にも「偶然性」はそれこそ数限りなく存在します。それは実はスイッチを切ればおしまいとなるネットの世界にはない、「偶然」の「体験」です。
「日常」のなかのちょっとした「偶然」。人間関係のなかで起こる「偶然」。
そして、現実のさまざまな場所に出かけていくなかで起こる「偶然」。
これらの「偶然性」に身をさらしていくなかで、人間は意外な出会いをして、意外なことに関心を持ち、意外な自分の特性に気づくことで、それぞれを各々の形で成長させるのではないかと思います。

以上の「体験」による「学び」。
これは実はもともと公教育の現場においても目指されていたものなんではないかとも思います。
学校の種々の「行事」とは、その「成れの果て」なのかなとも思います。
そもそも異個性の子どもたちを一つ所に集めて教育を行う、というもともとの「理念」には、いま僕がここで書いたような「偶然性」を期待したところもあったでしょう。

ただ、残念ながら現在の学校は、種々の形式化=形骸化が進行し、集団的志向が幅をきかせ、「ちょびっと人より違ったところ」のある「個性」的人間を排除しがちなところがある。
結果、「偶然性」は抑圧され、排他的にプログラムを進行することだけを目的とした組織と成り果てている「学校」も散見されます。
※ただし、そうなってしまった原因は個々の先生にはありません。公教育の中にも驚くほど優秀な先生がいらっしゃいます(もちろん、ちょっと「残念」な先生がいらっしゃることも否定しませんが)。校長先生が代わるだけで素晴らしい環境へと生まれかわった学校も知っています。

話がそれました。
「学び」について続けましょう。
上記の「体験」による「学び」とは、ある意味で、根本の話というか、人間の「成長」を支える基底的な「学び」についての話と位置づけられます。
そこで、次はもうちょっと「勉強」寄りの「学び」についても考えてみましょう。

そもそも人間は、どうして何かを「学び」たいと考えるのか?

いや、「そんなん何も学びたいなんか思ったことないけど」とひょっとしたら10代の少年少女は答えるかもしれません。
でも、この記事を読んでいる多くの大人の皆さんは、そんなことはないのではないでしょうか?
実際には諸処の事情で始めることができなかったとしても、「〇〇を習ってみたい」と思ったり「〇〇語が話せるようになりたい」と思ったことがあるはずです。

卑近な例で恐縮ですが、私の義母は60代も半ばを超えてから英語を学び始め70歳にして英検準二級をとっていました。
私の父は社会人としては技術畑一本を歩いてきたにもかかわらず、定年後になぜか絵画を学び始めています。
こうした例は、皆さんに近しい人のなかでも、よく聞く話ではないでしょうか?

では、そうした新たな「知識」「技術」を学びたいという思いが湧き上がってくるのは、どうしてなんでしょう?(逆にいうと、多くの子どもたちから湧き上がってこないのは、なぜでしょう?)

これは僕の持論なんですが、本来、人間は「学びたい」という欲求を強く持つ生き物なんだと思います。

古来、人間は「我々人間が生きる、この世界はどういう仕組みで動いているのだろう?」「人間が作る社会とは何なのだろう?」「そもそも人間が生きる意味とは何なのだろう?」といったことを繰り返し問い、知ろうと努力してきました。二千年以上もの長きにわたってです。
どうして、そんなことを人間は考えるのでしょうか?
何かを考え、知ろうとすること。いまの自分にない知識や技術を獲得しようと努力すること。それはひょっとすると他の動物に比して圧倒的に非力な人間が、道具を作るなどの工夫をしながら生き延びてきた過程で身につけた「本能」なのかもしれません。
ともかくも、こうした「学び」を得ようとする営為は、人間の本来的な欲求に根ざしたものであるのです。

ところが、上でも記したように、実際に学校に通う年齢となった子どもたちに、「勉強」が好きかと聞けば、大抵の場合は「否」の答えが返ってきます。
これまた、どうしてなんでしょうか?

実は、「学校に通う年齢」以前の子どもに同じ質問をした場合は、必ずしも答えは同じじゃありません。
「僕ねえ、自分の名前、漢字で書けるんだよ!」「2足す2の答え知ってる? わたし知ってる! 4だよ!」
そんなふうに嬉しそうに話す、幼い子どもたちを見たことがきっとあるはずです。
少なくとも、僕は小学校に入りたての一年生の子どもたちから、何度もそんなふうに話かけられたことがあります。

ところが。
そうして無邪気に自分の「お勉強の成果」を自慢してくれていた彼や彼女が、いつの間にか、半年か一年もたつと、「僕、勉強きらいなんだ〜」と言い始めます。これは何でなのか?

答えは、ある意味、簡単。
それは、「強制」の有無です。

「大人」の僕たちは、今になると「学ぶ」ことが楽しく感じられるはずだという意味のことを上に書きました。
しかし、これが「仕事」に関係していたとしたら、どうでしょう。
「仕事」として「さして関心もない」、例えばPCのソフトか何かの使い方を、一定の期限内で覚えなければならないとします。
それが「義務」となった途端。やはり「学ぶ」楽しさは薄まってしまうと思いませんか?

子どもたちだって同じなんですね。
「義務」として、誰かに「やりなさい」と言われてやる「勉強」は楽しくない。
それは実は「学び」ではなくて、「労働」だからなのです。しかも、少なくともすぐに結果として目に見える「報酬」もない。

だから、ある意味で、「勉強」に「学び」の喜びを回復させることは簡単だとも言える。
「強制」をやめればいい。
学びを「強いて勉めさす」のではなく、自発的な欲求に任せればよい。
彼や彼女が自身の関心の赴くまま、最近の流行りの言葉を使えば、「探究」したいと思うことを「学ぼう」と思うとき。
その「学び」に費やされる知的エネルギーは、オッサンである僕なんかとは比べようもないくらいの力となるはずです。

とはいえ、残念ながら。
現在の「勉強」は、ある種の「資格」を得るための「手段」でもあります。
特定の学校に通ったり、そこを「卒業」するための「資格」を得る手段という意味です。
また、いわゆる義務教育期間、特に小学校低学年くらいの子どもたちに、その自主性に任せると言って、漢字も足し算もまったく出来ないって感じに育っちゃったらどうしようってな不安を覚えることもあるでしょう。

まあ、だからこそ本来、子どもたちに接する「教師」と呼ばれる人間は、少しでも「勉強」を「学び」に近づけるべく努力しなければならないんでしょう。
子どもたちが、その「知識」「技術」に関心を持てるように。
自発的な知的関心の芽がすくすく伸びるように。
教師だけでなく、子どもたちの周囲にいる「大人」が皆、なんとかそういう環境を整えてあげる。
そんな簡単なことじゃないって? もちろん、そうですね。僕だって日々、悩み努力を続ける毎日です。自分が関わる全ての子どもたちに対して。

ともあれ。
「学び」とは何か?
答えは特に出ていませんが、そこに必要なものは、ちょびっとだけくらいは書けたかな?
「体験」による現実世界の感受。
自発的な知的関心の涵養。

こうやって書いてみれば、実に当たり前のことです。
しかし、言うは易し行うは難し。
特に後者は難しい。
こちらは前回の記事にも書いた、「子どもたちの自主性」とも関わります。
子どもたちが「学びたい」と思うものを尊重すること。
そもそも、そうした知的関心を自発的に「育つ」のを待つこと。決して「強制」しないこと。

それはきっと、彼や彼女がどんな「人生」を選び歩むのか。それを「信頼」して見守ることと同義なのかもしれません。

それでは、それでは。

追伸です。
そうそう、実はちょっと思うところがあって、noteでも少しずつ記事をアップしていくことにしました。
と言っても、最初はここのブログ記事を改訂・編集したものが中心になりそうですが。
まあ、ただ、ここのはちょっと過去記事をなかなか検索できなかったりするので、過去の文章から今読んでも悪くなさそうなものを、ちょいちょいアップしていく予定です。
良ければ、こちらも覗いてやってください。
どうぞ宜しくお願いします。







子どもの「自主性」

どうもどうも。
いよいよ7月となりましたが、僕の大嫌いな梅雨があける気配はまだありません。あーもうヤンなっちゃんぜよ梅雨とかマジない年中サマーバケーションな世界に行きたい(ウソです。砂漠とか嫌です)。そんなこんなで皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は最近体調がいつも優れません。

さてさて、そんなネガティブ感満載の月1ブログ(あ、このブログはほんとは6月終わりに書いてるのでギリギリ月1です)。
今月のテーマは、ズバリ「子どもさんの自主性」について。

久しぶりに、いや久しぶりでもないかもしれませんが、答えが全く記事書いてる中で出そうにない問題をぶっ込んでいきます。
いや、ほんと別にいつも答えを出そうとしてるわけじゃありませんが。

ありませんが、今回は、特にそう。
なぜなら、これは僕自身が、絶賛悩み中の問題だからなわけです。というか、なかなか答えが出せないなあと昔から思う問題だからなわけです。

いや、悩み出す前に、まず前提を書いておきましょう。

「子どもの自主性を重んじる」
これは正しい。
単なる言葉として、お題目として掲げるだけなら、21世紀現在はほとんど誰も反対しないテーゼかと思います。
いや、もちろん、これにも反対するような昭和的保守人間だっているかもしれませんが。

しかし、一歩引いて考えてみると、当たり前ですが、これはなかなか難しいテーゼなのです。

まず、「子ども」とは誰でしょう。
9歳の少年でしょうか? 17歳の少女でしょうか。
そして「自主性を重んじる」というのは、どの程度のことを言っているのでしょうか? 人生の進路みたいな漠然としたことを言っているのか。それとも日々の日常の過ごし方含めた行動全てでしょうか?

ちなみに17歳の少女の人生の進路を自分で決めさせないなんてことを言い出すのは昭和的保守人間だけでしょう。だから、ここに悩みどころはない(いや、個人的にはね)。

では、9歳の少年が昼夜逆転生活を送っていて夜中ずーっとゲームなりアニメなりやりたい放題見たい放題の生活を送っていたら? それが、もしあなたのお子さんだったら?
9歳は極端な例だとしたら、12歳や13歳ならば? これならある程度ありえる話です。
皆さんが、その子の親なら、どうしますか?

18世紀の回答は実にシンプルです。
「子ども」という存在は「教育」によって知的技能や判断力、道徳性を養われる。それゆえ、人は「教育」によって「人間性を完成」させられる。逆に言えば、「教育」のない「子ども」は人間性が完成していない知的技能や実践理性の劣る存在である。
こう言ったのは、カントです。
ちょっと雑な要約かもしれませんが、おそらく「近代」の教育はこういった観念を共有していたと思われます。
つまり、実践理性や判断力の劣る「子ども」はいわば「半人前」の存在であり、自主性以前に教育による「訓練」「配慮」が必要である、と。

現今の日本の公教育システムも、こうした観念に立脚していると言って良いでしょう。
あ、でも日本の「起立、礼、前ならえ!」とかは戦前の悪しき教練的思考の残滓であり、いま現在も続いているのは狂気の沙汰です。ブラック校則? ああ、それはたぶん田舎の刑務所の話に違いありません。

一方、21世紀現在の僕たちは、全く別の答えをも持っています。
例えば、上記のカント的?教育観と正反対の教育観が、サドベリースクールの教育観でしょう。

日本だけでも様々なサドベリースクールがあり、それらのスクールの考えを一つにまとめることはできません。
が、おそらく共通しているのは、スクール(=大人)が子ども達に「学ぶべき内容」を押し付けることなく、またスクールの運営や諸ルールそのものも子ども達を中心に全員で決めていく、という特徴でしょう。

こうしたサドベリースクールの教育観は、まさに「子ども」を年齢で区別せず「自律」した存在であると捉えたものです。
子ども達を「自律した人間」であると捉えるからこそ、彼らが自主的にルールを決め、自主的に学ぶ内容も決めていくのだと考える。

サドベリースクールでなくとも、多くのフリースクールには、根本的なところで同様の教育観、「子ども観」があると考えられます。
個々のフリースクールは、それこそ多種多様な価値観で運営されているため一概に言えませんが、学ぶ内容を強制しないことであったり、ルールを子ども達の話し合いや自主性に任せているところは多いのではないでしょうか。
ちなみにヒルネットでも、子ども達が「学ぶ内容」は自由ですし、諸処の出来事・問題は最終的に子ども達を含めた話し合いで解決します。

このようにサドベリースクールを最左翼として、現在のフリースクール的な教育観の根底には、18世紀的「子ども観」とは反対に、子どもを自律した存在として遇し、その自主性、主体性を重要視する考えがあると言えるでしょう(さらに言えば、子ども達に真の自主性を持ってもらいたいがために、あえて「自律した存在」として遇しているとも言えるでしょう)。

さてさて、差し当たり正反対の二つの教育観を見たところで、最初の質問です。
では、自分の子どもがーーさしあたり12歳の少年としましょうーー例えば昼夜逆転生活を送っていて夜中の間ずーっとゲームやってたりアニメ見てたりマンガ読み続けてたり、ついでにタバコでも吸っていたりしたら?
その「自主性」を信頼できますか?

「いや、タバコはそもそも法律で禁じられているし健康に悪いから取り上げた方が良い」
「昼夜逆転していると健康に悪いし、そもそも学校に通えない」
「学校には通わなくても良いが、成長期にあまりに不健康な生活を送っていると、将来、身体的な成長未然を原因とする不調が表れるかもしれない」

教育的な「配慮」として、大人が介入してよさそうな理由はたくさん思いつけるでしょう。
しかし、12歳くらいの少年は(もちろん個々の成長は人ぞれぞれだとしても)、それなりに未来を見通した自己判断ができる年齢でもあります。上記は、その「彼」の自主的行動です。
いや、それができない年齢だ、と考えたなら、それはその時点で子どもを「自律」した存在と見なしていないとも言えます。

いや、こんな極端なケースはまれだろう。
そんなふうに考えるとしたら、大間違いで、上記のようなケースは多少話をミックスしているとはいえ、決して少なくありません。
さすがにタバコの例は今現在は、聞いたことがありませんが、過去にはあります。というか、もう時効でしょうから告白しちゃいますと、ゲーム以外の全てに、これは僕の弟の12歳の頃に当てはまります(ごめんね弟くん。君の恥部をこんなところに晒したせいで君が君の子どもに責められたら僕が謝りに行きます)。

ちなみに僕の答えは。
まず前もって言っておいたように、絶賛お悩み中です。

ヒルネットのスタッフとしては、まあ健康上推奨はしませんが、まずは見守るしかないと考えます。
まして、その少年にそのような生活を送らざるを得なくなった生活上、心理上のトラブルがあったなら、行動自体は咎めるべきではありません。
昼夜逆転にしろゲーム漬けの日々にしろ、そこを「逃げ場」とせざるをえない原因があったなら、結果としての行動を咎めるより原因を解決しようと考えるべきです。

いや、たとえそんな明示的な心理的問題がなかったとしても、無理矢理、「矯正」などすべきではない。いま文字にして思いましたが、どんなことであれ子どもの行動を大人が、親が、無理矢理押さえつけようとすることに、僕個人には強い抵抗感があります。

今、僕個人と書きましたが、だいたい僕自身、12歳ではさすがにありませんでしたが、不登校になった10代前半は自堕落の極みと言ってよい生活をしていました。。。14、5歳の頃は、もちろん昼夜逆転。ゲーム漬けではありませんでしたが、明け方までマンガ読んだりテレビ見たり。およそ生産的でない毎日。
どの口が「昼夜逆転は健康に良くないよ」などと言えるのか。
(いや、おかげで40代的に健康を害しやすくなっているのも知ってるので、「その口」ではアドバイスしますが)

ちょっと脱線しました。
いずれにしろ、ヒルネットで種々のご相談を受け、また少なくない子ども達の身を預かる者としては。
やはり、なるべく子ども達を「信頼」したい。その自主性を大切にしたい。

もちろん、状況について話し合うのは良いでしょう。親として、大人として意見を言うのも良い。
でも、あくまで対等に。子ども達を一人の自律した個人として遇した上で、「話し合う」べきでしょう。
何となれば、最終的には、昼夜逆転してたってゲーム漬けになってたって、それはその子の人生です。

逆に言えば、必ず、その子自身が、自分の人生にとっての「最適解」を見つけます。
ゲーム漬けの生活がいつか良くないと自分で思えば、自分で違うことに目を向け始めます。昼夜逆転だって直します。信頼するとは、そういうことです。
実際、いまこうやって書いている僕の頭には、かつて「ゲーム漬け」だったり「昼夜逆転」していたりしながら、いまや立派に自分の道を歩もうとしている青年達のことが何人も浮かんできます。

だから、僕は子ども達の自主性を「信頼」したいといつも思っています。
ヒルネットのスタッフとしてはもちろん、二人の子どもの親としても。

親としても? 本当に?
はい、こっからぶっちゃけ正直トークです。
上記の心構えで終わっていたら、何も絶賛お悩み中とは書きません。

理念を持つことは大切だし、まずは上記の心構えを持ちことが必要です。それは前提。
しかし、そんな理念を僕は自分の子どもに対して、ちゃんと実践できているだろうか?

明示的にあーしろこーしろなどと言っていなくとも、言外に「自分の思う理想」みたいなものを娘に押し付けていないか?
長々とアニメを見ている7歳の息子に不快な表情で「テレビ見過ぎじゃない?」と言ってないか?
そもそも「唯我独尊」的な僕の性格は、子ども達から自主性を奪っていやしないだろうか?

そう。
実は問題は、「昼夜逆転したゲーム漬けの12歳少年」のような、一般的に考えて色々と問題があるかのように見える「ケース」ではないんです。
そういう「ケース」の場合は、むしろ逆に親御さんも、覚悟を決めて「今は見守るべき時期」と思えるかもしれない。

問題は、もっと生活上の瑣末なことです。
例えば、「自由に物事を考えられる主体的な人間になってほしい」と理想を語る反面で、子どもに過剰な「勉強」を押し付けていないか。
それこそ「ゲームの時間」を制限するのは「当たり前」だと思っていないでしょうか?

いや、ゲームの時間を制限することが、「悪いこと」なのではありません。
ただ、「子どもの自主性を重んじたい」と思っているにも関わらず、ゲームの時間については親が勝手にルールを作ってしまえば、それは矛盾だよね、という話です。
そして、僕自身、そういう矛盾を犯してしまいがちなのではないだろうか。

さらに言えば、日常の瑣末な出来事の中で、そうした「矛盾」を矛盾と意識しないままでいれば、まさしく自分の子どもが「昼夜逆転したゲーム漬けの12歳少年」のようなケースと同様な状態となった際、本当に子どもを「信頼」し続ける態度、心構えを維持していられるだろうか。
結局、「見守る」などと言いながら、中途半端に「上から」叱るような愚を犯してしまうのではないか。


絶賛悩み中というのは、こういった意味からです。
ですから、今回は本当に答えも解決もありません。
僕自身が、二つの方向に引き裂かれているような感じもしちゃいます。

ヒルネットで何人もの子どもや親御さんと接している僕と。
「一回限り」の子育てを永遠の初心者として行っている「親」である僕と。

悩みは尽きません。
皆さんは、そんなことを考えたりはしませんかね?

きっと「正解」はないんだと思いますが、いつの間にか色々な子ども達と関わる人生を歩むようになってしまった者の責任として、僕はこれからも「子どもの自主性」については悩み考えていきたいと思っています。

それでは、それでは。