V-net奥多摩ノックハウスあるいは九十九亭そして今のところ前田先生のおうち

どうも、どうも。暑かったり寒かったりとようわからん気候が続いておりますが、皆さんはいかがお過ごしでしょか。僕はまたしても風邪をひきそうです。

それはともかく、今日はやってきました。って、どこにかって?

それはもちろん、奥多摩へ。

そう、つまりV-net前田先生が苦労の末に手に入れたV-net奥多摩の拠点であり前田先生のマエスク開講場所でありしかもこれから私含めていろいろ文化的自然的遊戯的かつ学問的企画の開催場所とする予定の古民家です! 名前はまだ、ない。(奥多摩ノックハウスという名前が良いんじゃないかとも言われているがしかし僕はもともと九十九亭などという名を提案したりもしたような気がするのだった)

今日、僕は授業がお休みだったので、それを良い機会とやってきたわけですよ。

いや、めっちゃいいところですよ!!

「古民家」というけれど、建物はそんなに古さを感じないし水まわりもきれいだし何よりすごく広い! もともと平屋だったはずのところをリフォームして二階まであるし。(まあ掃除はめっちゃ大変だったろうなあと想像できるし前田先生自身言ってましたが)

もちろん畑もあって庭では焚き火ができる。屋内には囲炉裏がある。そして個人的には縁側が素敵!

と、興奮さめあらぬ感じで書いておりますが、それは今まさしく僕がその古民家中をうろうろしながらスマホでこのブログを書いているからにほかならない。前田先生は別部屋で仕事をしております。そう、僕が多動症的にうろうろしておっても気にせず他の作業ができるくらいの広さなのです。

今、マエスク以外にもここでやる企画をいろいろ考え中です。僕個人は春休みや夏休みに行ってる「読書道場」をこっちでもやりたいなあなどと企画中。

ともかく。何らかの形で生徒たちともこの場所を共有したいですね!

この後は涼やかな古民家内で読書したあと焚き火を堪能するつもり。ということで今日は短いですが、この辺りにしたいと思います。

それでは、それでは!

「アスペルガーっぽい」「ADHDっぽい」の「っぽい」にこだわる

どうもどうも。

さて先日ASDないしADHDにちょっとだけ関係ある記事を書いたら、なぜだかいつもよりアクセスが増え特にいつもは無反応なFBからのアクセスがえらい増えてました。
これはやっぱり世のお母さんたち、あるいは子育て世代にとってこういう問題が切実だからなんでしょうね。ウチ含めて。

実際、V-netに相談にいらっしゃる保護者の方の話なんかを聞いてみても、やっぱりこの数年、「うちの子はちょっとアスペルガー気味で」とか「いわゆるボーダーみたいなところがあって」などと話の最初にそういう断りを入れる方が増えているように思います。昔に比べて。
また逆にいうと、そういう「アスペルガー」とか「ボーダー」とかって言葉が人口に膾炙したってことでもあるんでしょう。

でも、だからこそ。
少し気をつけてみたいとも思っています。

私もまあ、こういう商売ですし前のブログでも書いたようにウチの子に多動的なところがあるのもあって、結構そういう関係の本を読んでます。
で、そういう本を読んだことのある人、いえ本じゃなくてもそういうネットの記事とかでもいいんですが、そんなのを見ると、きっとおそらく多くの人が、「あれ、これ自分にも当てはまるんちゃうん」と思うんじゃないでしょうか。
特にADHD、いわゆる注意欠如多動性障害のチェックリストとか見てごらんなさいよ。
私はもちろん、ウチの妻なんかも当てはまりまくり。
例えば私。
・じっとしていられない
・しゃべりすぎ
・ずっと着席していられない
・着席中手足もじもじそわそわ
・順番待ちが苦手
・静かに余暇を過ごせない
・相手の質問が終わる前に答えてしまう
とある本でのチェックリストですが、なんと9個中7個のヒット。超高打率。
ということで、きっと今の時代だったら確実に「診断」されてしまっているのでしょうが、さてさてでもそれって本当ですか?
いや、まあほんとなんでしょうが、でもここではっきり言っておくと、

「ボクは多動的であることで困ったことなど1度もない」

のですよ本当に。
なんか先週娘について書いたことと若干矛盾するんですが、まあそれが親ってものの業なのでしょうね。自分は平気でも子は心配。
でも本当にそうで、僕はきっと周りから見れば奇異な子どもだったんでしょうが、本人は別に大人になるまで自分の変なところには気づいていませんでした。少なくとも日常生活では。
それは先週、心配のタネとして話題にした娘もそうで、宿題に2、3時間かかろうと親が心配してるだけで本人はいたって平気な顔してます。

さらにいうと、子どもの頃の僕にはいわゆる「アスペルガーっぽい」ところも散見されただろうと思います。
つまり「周りの空気が読めず、こだわりが異常に強い」子どもでした(なお、この辺りの要素ももれなく子どもに遺伝している模様)。
ただ、実はちゃんと類書をいくつか読めば、この程度のことでアスペルガー症候群含むASDという診断は下せません。
これらはせいぜい「アスペルガーっぽい」という程度の、性格的偏向にすぎないものと思います。
でもそれですら、上のADHD的傾向とあいまって、もしか医者にかかっちゃったりしたら、きっと「診断」されて薬なんかを処方されちゃっていたかもしれませんよね。今の時代なら。

で、何が言いたいかというと。

「 ADHDっぽい」「アスペルガーっぽい」「ボーダーっぽい」。
この「〜っぽい」程度のことであれば、かなり多くの子どもはもちろん大人も当てはまっちゃうってことです。
自分自身はもちろん、周りの人々を思い出してくださいよ。
どこかしこに「っぽい」という人はたくさんいるんじゃないでしょうか?
ちなみに私はV-netの先生方含めて、知人友人の実に九割が当てはまります。ひどいなさすがに。

じゃあ、そういう人たちに医者の「診断」は必要か。薬物その他は必要か。
もちろん必要ありません。みんな立派な大人だし結婚もしてますし子どももいます。子どもはみんな変わり者かもしれませんが。
それぞれに子ども時代、それぞれの挫折があったことは確かでしょう。でも、それでも今のように「記号」のレッテルを貼られたわけではなかった。

もちろん。
実際には「〜っぽい」ではすまず、深刻な学習障害を抱えていたり、日常生活に困難を感じている子どもたちやまた大人もいます。
そんな子どもを抱えるお父さんお母さんの気持ちを考えると、本当に胸に太い針を刺されたような痛みを覚えます。「〜っぽい」子どもですら心配なのですから、そうした保護者の方々の心配は察するにあまりあります。
そうしたケースにおいては、きちんとしたメソッドに従った処方が必要な場合もあるかと思います。

ただ、そうでない、「〜っぽい」の場合はどうか。
いやもちろん「〜っぽい」であっても、そうした傾向も「飼いならせた」方がいいに決まっているので、いろんな教育メソッドに触れていくのは大切でしょう。
でも過剰な「診断」に基づいた心配をする必要はない。

あれ? おかしいでしょだって先週アンタ、心配なのはそういうことじゃなくて「今」の問題だとかって言ってなかった?
そんなツッコミが聞こえてきそうです。
そうなんですよね。
問題は、学校。というか日本人特有の、「空気を読む」必要が生じるような共同体的集団なんですよね。
これは学校だけでなく会社なんかの社会組織もそうなのかもしれません。

これについては、とりあえず「複数のコミュニティ」を持つこと、の大切さをここでは言っておきたいと思います。さしあたりは。
子どもであれば芸術でもいいし何でもいい。絵が好きなら絵画の教室でもいいし運動が好きならスポーツチームでもいい。もし勉強が好きなら、民間の教育機関でもいい。
その子の特性にあった、「居場所」となり得る習い事を見つけてあげるのがいいでしょう。
そんな「居場所」が他にあれば、学校にたとえ馴染めなくとも、その子なりに対人関係を学び、また自分なりの成長の仕方を見つけるはずです。
手前味噌ながら、V-netもそんな場所であれれば、と私などは密かに思っています。

学校以外に、自分のアイデンティティを確信できる「居場所」を持つ。
そうすることで、「集団生活に馴染めない」自分というものを相対的に捉えていって欲しい。
「集団生活が嫌い」っいう部分、個性が自分にはあるんだな、程度に思えるようになってほしい。
実際、それは個人の特性の一部分をなすにすぎないのですから。

学校なんてどうでもいい。
少なくとも学校をアイデンティティの場にしない。
そうなふうに親子ともに思え、また考え実行できれば、「〜っぽい」ことの心配なんて、大したことではなくなるんですけどね。
私自身、ほんとに自戒を込めて、思います。

では、今日はこの辺りで。
それでは、それでは。

ASD、ADHD、ボーダーって、人を記号で分類せんといて

どうも、どうも。

そろそろ梅雨が近づいてくる今日この頃。みなさん如何お過ごしでしょうか。
僕はとっても気が重いです。というのも、雨が大嫌い。雨が降る日はなるべく外に出たくない。低気圧のせいか体調も悪い。

なんて。
さて、今日はちょっと身内の話から。ウチの娘の話です。
ウチの娘、現在、小学三年なんですけれども、だいぶん変わり者です。いや、僕が言うのもなんなんですけどね。
美術や音楽が好きで、しかも自然が大好きで、そういう感性に優れてるところは、親バカかもしれませんが、まあ良いところだよね、と思います。

でもね。
学校生活的には、だいぶん困ったさんです。
ちょっと、「ADHD」、つまり多動的傾向。

まず忘れ物がめっちゃ多い。かなり注意しないと、いろんなものを学校に忘れてくる。
時間内に課題がだいたい終わらない。テスト中、「なんか想像してた」せいで半分以上白紙とか平気でやる。
体育の時間、みんなが着替え終わっってグランドに出てるのに、一人教室でなんかゴソゴソやってる。
宿題にえらい時間がかかる。ドリル1ページやるのに、2時間も3時間もかける。。。。
学校公開に見学に行ったら、授業中一人机に突っ伏して寝てる。。。。。。。
等々、いろいろとやらかしてくれてます。

ときどき、一応こういう商売ですから、勉強というか宿題を一緒にやったりするんですけれど、まあほんと僕に似て多動的。
すぐに何かいらんこと始めるし動いてないと思ったら意識どこかに飛んでっちゃってるし。
結構なストレスです。教えてると。

まあね。
考え事に集中するあまり電車乗り過ごしたり駅に荷物全部忘れて電車に乗っちゃいそうになる僕が言えたことではないんですが。
いや、そうなんです。
つまり、全部僕に似てるってことなんですよね。ひどいことに。

でもまあ、やっぱり親としては心配なわけです。
もちろん、こんなのは大した「症状」ではないですし、種類傾向は違えども、もっと重要深刻な悩みを、いろんな親御さんが抱えているのは百も承知。
僕自身そんなに心配してない、っというより僕自身が立派かどうかはともかく何とか大人になってるんでまあ大丈夫でしょう、と思っています。が、やっぱり妻はいろいろ心配してます。

大丈夫! それがヒトとしての個性なんだ! 素晴らしいじゃないか!
と、きっと他人はいうでしょう。実際、みんなそう言います。
でも、ね。

そういうことじゃ、ないんですよね。親の心配ってのは。
勉強なんて、どうでもいいです。
ちゃんと大人になってくれることも、疑ってはいません。
そうじゃない。
心配なのは、「今」、なんです。

学校ってところは、良い悪いは別にして、日本社会の縮図というか、つまり「村」みたいなところです。
その村的共同体の中で、そういう「変わり種」の子は何かヒドイ目にあうんじゃないだろうか。いや、いま既にあってるんじゃなかろうか。
自分たち自身がヒドイ目にあってたような気もするんで、よけいにそう思うんですよね。
きっと、そんなことはないんだろうし、いやむしろ、ヒドイ目にあうことで、子というのは成長するんだろう、と頭で判っていたとしても、です。

これは、きっと「その子」の親でなければ判らないのでしょう。

でも、ね。
おかげで僕は、いろんなお母さんたちが、自分の子どものことで心配している気持ちに共感できます。痛いほどに。
「この間、学校公開行ったら、授業中なのにずっとこっち見て喋ってくるんですよ」
「お友達に混じらず、ずーっと一人で消しゴム削ってるんです」
「出かけると必ず何か忘れ物をしてきます」
「先生の話をまるっきり覚えていません!」

大丈夫です。何も心配いりませんよ。他の子と変わらず、楽しくやってますよ。

僕も、そう言いますし、それは事実です。
でも、そんな「言葉」だけでは、心配はどこかに行ってくれませんよね。

僕には一人、印象深い生徒がいます。
今からもう十年以上前の生徒です。
当時、彼は小学生。とにかく国語ができない、ということで依頼を受けました。
ですが、レッスンをやってみると、国語ができないというより、まず物語の登場人物の気持ちが全く理解できない。さらに言えば、こちらが想定もしていないような、突飛な読み方をする。
レッスン中もずっとゴソゴソしていて、内容に集中できない。
と思えば、関係ない話を、自分の関心のまま、喋りたいだけ延々と話している。

当時はまだ「ASD」も「ADHD」という言葉も「ボーダー」なんて言い方も、今ほど一般的ではなくて、一体どういうことなんだろうと悩んだものです。

でも、ね。
彼はずっと楽しそうでしたよ。
何をするのも。
折々に自分が集中できるものを見つけて、一生懸命それに取り組んでいました。
もちろん、勉強も。
国語は最後までそんなに好きじゃなかったと思いますが、英語が大好きになって、留学もしていないのに、高校生の頃には、ほとんどペラペラになっていました。

そう、彼には小学校から大学受験まで、ずっと勉強を教えました。
いや、勉強を? 単に彼の話し相手になってただけかもしれませんが。
繰り返せば、彼はいつも楽しそうでした。
もちろん、人間関係に悩んだこともあります。その相談をされて、涙を流す彼を必死に慰めたことだってあります。
でも、それでも。
自分が「変わり種」であることを自覚しても、「でも、それで何が悪い?」と言って、彼は、自分の好奇心のままに毎日を、人生を楽しむことに一生懸命でした。ほんとに。

彼は名門と言われる私立大学に進学しました。
今は会計士を目指して、頑張っているそうです。

「言葉」で心配はどこにも行きません。
でも、それでも、僕たちは「言葉」で言いきかすしかありません。その、よくわからない「心配」を。
こんなふうに。

「でも、それで何が悪い?」

今日はこの辺りで。
それでは、それでは。