教育と偶然性: 大学的な、あまりに大学的な

どうもどうも。
少しずつ秋の気配が漂いつつあるもののやっぱりまだまだクソ暑い東京から中継しておりますが皆さんいかがお過ごしでしょか。こないだ浅草行ったら暑くて死にそうでした。

さてさて、月一連載を公言するようになった当ブログ。
だいたいいつも記事が長すぎんだよもっと短くコンパクトにまとめて記事増やせよなという心ある忠告をこの間幾度も受けておりますが、しゃーないやんけワシ文章書き出したら無駄に長くなるんじゃい。ホント、メールとかでも。
孫正義やホリエモンみたいな人間からしたら全く非効率極まりない生き方をしているわけですがそもそも人間の「生」などほとんど無駄のカタマリのわけですから無駄を無駄として楽しめないなら早く死んでしまうのがもっとも効率的なわけでもあります(中二感)。

さて、そんな無駄について無駄な前書きをだらだら無駄に書いておるわけですが、実はこれが無駄ではない。

というのも、今日のテーマは「偶然」についてだからであります。
もっと言うと、日々の中で「偶然」出会う、様々な「無駄」についてこれから無駄に書いていく。

 

さて、この「コロナ禍(最近飽きられ始めたらしい)」の渦中においても、すでに公立私立の小中高の教育機関が通常の活動を、まあ多少制限されながらも無事行っておることは皆さんご存知の通り。
おかげさまで当方が運営しておるフリースクールのヒルネットも、今月から都心の方にもボチボチ出かけようかなと思っております。こないだ浅草行ったしね。

ところが、ここに一つ、頑として通常の活動を行わない教育機関がある。

そう。それが、大学。

いやーひどいね。ひどいね大学大学ひどい。
なんか後期もリモートだってよ。で、下手したら来年度もなんて噂も飛びかってやがるぜ。マジか。いやアホか。

いや、コロナに関するリスクはわかりますよ。
一箇所に集まる人数も桁違いだし、高校生なんかと違い、授業の帰りに呑んだりもするでしょう。同調圧力の強い日本で風評被害が起こるのも怖いかもね。

でもさ。じゃあ、学費返せよ。
あるいは、せめて休学者募って学費免除しろ。
4年間の維持費がどうとか研究機関として維持する必要がとかチマチマ言い訳してんじゃねーよ。
本当にそこに通ってる学生のこと考えてんのか?
必死に働いて子どもの学費なんとか稼いでる親がいることわかってんのか?
もう時代は昔のバブルじゃねーんだぜ? 学費自腹で払ってる学生だっていっぱいいるってわかってんの?
年間100万の重みは昔とは違うんだぜよ?
リモート授業で十分だと? お前ら戦後日本の大学が学生にとって「授業」を受けるだけの場所じゃなかったってこと一番よく知ってるよな!?

。。。などと興奮してはしたない言葉遣いでもって非中立的言辞を述べたてたことをここにお詫び申し上げます。
(ついでに言っておくと、実際にオンラインで授業をやっている先生方は被害者。非常勤だと一方的にお金切られたりもしているからね。ということで、以上はむしろ大学上層部にむけて)

ま、実際、私立大学も(あるいは国公立も)金儲けの機関ですからね。
特に、かつて研究機関に身をおいて内側から非常勤講師等の使い倒しを見てきた上、逆に学生を送り込む側の立場にも身をおいてきた自分からすると、まあこんなもんだよな、という突き放した気分にもなります。
営利企業としては、リモート授業等により「顧客=学生」の不利益を最小限にしつつ、「社員=教授・講師」の給与支払いおよび施設管理・維持を行い、その上で資本の再生産を可能にするギリギリの経営判断を行っているのでしょう。

(余談:ちなみに「教育」が、単なるサービス産業なのか、あるいは営利を超えたものであるべきなのか、という議論においては、もちろん本来的には後者の立場をとるべきである。しかし、義務教育機関が保守硬直化し、高等教育機関の監理化・資本主義化の進んだ日本において、純粋に「教育」が非資本的営為である余地はどんどん少なくなってきていると言えよう。
個人的には、税金や寄付で賄えない「教育事業」は、営利活動で構わないと思う。が、過剰に純利益を求めて子どもたちやその保護者を「だます」ようなやり口は、「教育」やそれに類する営為においては厳に慎まれるべきである。本来的に「教育」は、資本主義社会においても、少なくとも「理念」としては利他的なものでなければならない)

さてさて、それにしても僕は何をこんなに怒っているのでしょう。
それこそ大学生でも、その保護者でもないくせに。
それは現在の大学がーーオンラインの場のみに「閉じた」環境にある大学が、教育機関としては大切なはずの、「偶然性」と「無駄」の効用に対してあまりに無自覚であるように思われるからなのです。

 

ご存知の通り、って全然ご存知じゃないかもしれないんですが、僕がやってるヒルネットの活動では、毎週、木曜になると様々な場所に、「お出かけ探検活動」と称してブラブラ出かけております。
知らない街を散策することもあれば、山や川に遊びに出かけることもある。
あるいは、毎日、天気さえ許せば、お昼の時間、近所の善福寺公園や、時々足を伸ばして井の頭公園なんかに「散歩」にも出かけます。

特に「散歩」については、最近みたいに暑い中だと、けっこう子どもたちはブーブー。
公園でお弁当を食べることにしてるんですが、「教室で食べればええやんかいさ」と文句も言います。

だけど、僕としては、けっこうこの「散歩」が大事だと思ってるんですよね。
もちろん、木曜の「お出かけ探検」も大切。
それは歩くことで体力を付けてもらいたいってこともありますけど、やはり何より、教室にずっと閉じこもっていては得られない、様々な「偶然の出来事」に出会えるから。

川沿いをのんびり歩けば珍しい野鳥に出会うこともある。
なぜか渓谷を散策していたらウサギを拾うようなこともある(事実)。
天気だと思って山を歩けば突然の雨にも合うし、浅草の街で蒸し風呂のような暑さに苦しむことだってある。

良いこともあれば、悪いこともある。
当たり前のことですが、予定通り、計画通りに進むことなんてあまりない。
世界は偶然に満ちあふれているのです。

そして、実はこれは、教室での活動にだって言えることなのです。
絵画の話がアニメの話になってしまったり。論語を読むはずが孔子の悪口大会になってしまったり。逆に雑談のはずが意外と深い話になったりすることもある。
急に怒りだす奴がいるかと思えば、誰かと誰かがふとしたことで友達になることもある。
それは僕たちのような少人数のフリースクール以外の場所にも言えることでしょう。
人間が集まる場所には、何かしらの「偶然性」があふれている。常に何かハプニングがある。
教室の「外」、自然環境のなかに飛び出せば、それがより意識化されるということです。

大切なことは、こうした「偶然の出来事」の一つひとつは、一見たわいもないこと、「無駄」なことにも見えるということです。
渓谷にいってウサギを拾って帰ってどうする。
せっかく高尾山に登るのに雨なんてひどい。
でも、本当にそうでしょうか?

僕たちを成長させ、世界に、そして社会に向き合える人間へと成熟させてくれたものの中には、そうした一見「無駄」な、たわいもない出来事の累積があったとは言えないでしょうか?
他者への共感を育み、アクシデントへの適応力を育てるのは、そうした「偶然」=ハプニングや、「無駄」ともいえる失敗の積み重ねではないでしょうか?
真夏の暑さも知らずに育つことが、自然への感受性を育てるでしょうか?

僕が、人間の「学び」に、リアルに人間が集う「(居)場所」が必要だと思うのは、こうした理由からです。

オンラインでも勉強はできます。
実際、「講義」を聴いたり行ったり、純学問的な議論を行うだけなら、Zoomでやるのもけっこうでしょう。もちろん、それらも「生」であるに越したことはないにせよ。

ですが、総体としての「教育」、「学び」の環境としては、それは十分ではない。
そして大学は、研究機関でもありますが、多くの学生を「教育」する機関でもあるのです。

実際、一つ学問を学ぶにしろ、それは授業でのみ学ばれるわけではない。
授業の合間の昼食時に。あるいは、その帰路で。たわいもない会話を友人と交わす折々の中で。
ふと、さっきの授業についての話をする。
関連する本についての感想を言い合う。
あるいは気の合う仲間と、そのままカフェで話し込む。安い酒を酌み交わしながら議論する。
最初は教授の禿頭を笑う話だったかも。でも、いつの間にか、彼が授業の最後に語った政治観へと話が及ぶ。文学論への違和が口をついてでる。
授業やゼミでわざわざ発言するほどの意見じゃない。でも、それが一つのきっかけなって親しい者同士だから交わすことのできる議論が巻き起こる。

大学ってのは、そういう「場所」です。
いや、少なくとも、僕にとっては、そういう「場所」でした。

いや、そんな大学生活を送ったのはアンタだけだよと言われるかもしれません。
でも、何もそんな「マジメ」な学問の話でなくてもいいんです。
大学時代、友人と過ごした何気ない日々。日常のふとした思い出。くだらないけれど、とても幸せだったような、そんなちょっとした仲間との記憶。
そして、そんな日々が、やはり振り返っていると、いまや大人になった自分の大事な一部分を作っていることに気づくはずです。

そう。一見、「無駄」な、それらの記憶。
ですが繰り返せば、そうした様々な「偶然」と「無駄」が積み重なって、ヒトは人生の貴重な「学び」を得ていくものなのです。
そして、大学もまた、そうした「学び」を得るための場所の一つのはずなのです。

 

コロナ禍が今より騒がれていた5月ごろ。
ネットでは、盛んにオンラインによる学校教育の是非が議論されていました。
そうした議論を見ながらも、僕はどこかで違和感を感じずにはいられませんでした。
僕自身、Zoomで個人レッスンなどは行いつつも、それがコロナ禍の中での「教育」のモデルとみなされることには、ひどく居心地の悪い思いをしたものです。
確かに「勉強」は教えられる。それ自体は悪いことじゃない。
だけど、これがずっと続くっていうのは、やっぱり「教育」のありようとしてはディストピアなんじゃないのか?

いま、オンラインに「閉ざされた」大学の惨状を見て、そのときの違和感がやっと言葉になったという思いでいます。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

 

不登校と、「ふつう」という意識

どうもどうも。
いやーやっと梅雨が明けたと思ったらクソ蒸し暑い夏がやってきましてちょっと道を歩いただけでソッコーで熱中症になりそうな昨今ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。まあ、それでも長雨のジメジメよりはマシだよね。

予想通りというか、自分のことなのでそんな予想しなくていいんですが、やっぱりこのブログはどうやら月一連載になっちゃいそうな気配ですね。。。。
最近は、よくブログ読んでますよ的なことを教室でもプライベートでも言われたりもするもんで、もっとガンバらにゃならんよなーとも思うんですが、正直、月一ぐらいのペースの方が気が楽っちゃ気が楽。文章書くのは好きなんですが、論文書いてた昔っから、どうも遅筆なもんでしてね。

さてさて、そんな恒例の言い訳タイムはともかく。
今日の本題。

先日、Facebookを漫然と眺めておりましたときのことです。とある記事に、ふと目がとまりました。
不登校関連で親の会を運営されている方の記事だったのですが、短文ながら、その中で、自分のお子さんが「不登校」という選択をした際の、親としての心理、動揺を赤裸々に綴っておられたのです。
で、僕としては、その記事の内容に非常に感銘を受けるというか、「いや確かにこういうもんだよなあ」的な思いを強く持ったんですな。

その方の記事に書かれていた心理とは、こういうものです。
お子さんが不登校になった折に、親として、その事実をどうしても認められない。
「不登校児の親」という自己認識にどうにも抵抗感をもってしまう。それゆえ現に学校に「行かない/行けない」子どもの現実ををまっすぐに見られない。。。

記事を書かれた方は、今は親の会を主催されておられるほどに、「不登校児の親」としては「ベテラン」の方です。
こうした文章を書けるほどに、当時の心情に対しても客観的な距離を持てます。

が、いま現在も、その感情を文章どころか口にすることさえできないほどに、何とも言えぬ鬱屈した心情を抱えているお母さん、お父さんが確かにいます。

少なくとも、僕は上記の文章を読んで、自分が「不登校児の親」の気持ちに対して、少しばかり鈍感な部分があるかもしれないと反省させられました。
ここでも何度も書いている通り、僕自身が30年以上前、一人の「不登校児」でした。
それゆえに「不登校」を選択した際の、子ども自身の混乱や不安については、遠い記憶とはいえ、少なからず想像できるつもりです。

しかし、その親については。
母親の、そして父親の気持ちについては、どうか。

「学校に行かないのも一つの選択肢」
「学校になんか行かずとも必ず幸福になれる」

それらの言葉はは本当のことです。
しかし、それを聞く当の親御さんの前で、言葉がどこかで上滑っていないか。

 

繰り返せば、「学校」に行かなくとも幸福な人生を、そして青春を送ることは当然可能ですし(実際、僕は人並み以上に十代二十代を満喫したと思っています)、そういう意味でも、それは人生の「選択」の一つにすぎません。
何より、社会的にこうしたメッセージは今後も強く打ち出して行くべきです。それは何より今、苦しんでいる子どもたちやその親御さんのために必要です。

ただ、僕が「反省」したのは、今、目の前で悩み苦しんでいる親御さんにかける言葉として、それらは「励まし」の言葉にはなっても、その心に寄り添った言葉ではないように思ったのです。
いや、「励まし」も必要なんですけれども、何というか、鬱病の人に「がんばれ」と言っても無駄なのと同様に、「悩みの渦中」というか「底」にいる場合、それは本当の心の奥の奥には届かないように思ったんですよね。
いや、そんな「慰め」を与えようと思う方が傲慢だろうか。

 

でも、きっとそれは、親御さんだけの問題ではないはずなのです。

先ほど、遠い昔のことながら自分の記憶から不登校を選んだ「子ども」の気持ちなら少しはわかると書きました。
では、ちょうど14歳のころ、「不登校なりたて」の僕は、目の前の大人に、「学校行かないくらい問題ない! それは人生の選択肢の一つ。君の前には明るい未来がひらけているよ!」的なことを言われて救われたでしょうか。

いや、少しは救われたようにも思う。
実際、当時「不登校は本当のエリート!」的な標語の本を祖母だか母だかの本棚から引っ張り出して読んだ記憶もあるし。

でも片方の頭では、「なんや、しらこいこと言うな〜」と少し白けた気分にもなってしまったようにも思います。
これは僕がひねくれていたからだろうか?

 

最近、僕はよく、ヒルネットにまだ通うエネルギーが溜まっていないような、それこそ「不登校なりたて」の少年たちの相談も教室で受けています。
以前にここでも書いたかもしれませんが、やはり「不登校」という選択をする年齢が、小学生より年齢が上がるほどしんどい。中学生くらいになると、けっこうしんどい。

学校で負った「傷」が深くなっているというのもありますが、年齢特有の鋭敏な自意識が、悩みを深くします。
「不登校」である自分を他人がどう思うか。こんな自分は「ふつう」じゃないんじゃないか。いやいや、これは「今」だけのことで、少し休んだら、また学校に行けるかもしれない。。。
つまるところ、「不登校」である自分を「認めたくない」という意識。

それはまさしく、上記した親御さんの心情と同じものです。

そんな彼・彼女らに、僕は、「学校に行かない選択」の先にある希望について話します。
学校に行かずとも、ちゃんとした大人になっている人々の話をします。
自分のことを含め、そうした「選択」をしたからこそ得られた貴重な経験について話します。

それらが、ある程度、彼・彼女らを元気づけていると信じたい。
が、一方で彼らだって、僕の言葉をどこかで「しらこい」と感じているはずなのです。
なぜなら、そんな「希望」や「理想」は、今まさに「学校に行けてない=イケテナイ」自分の境遇、悩みや不安を解決してくれるものではないから。
「ふつうじゃない」という「イケテナイ」レッテルから自分を解放してくれるもんじゃないからです。

 

そう、また出ました。「ふつう」
このブログを書くなかで、意識的に、あるいは無意識的に何度も使ってしまう言葉。「ふつう」

学校に行かないことが、「選択」ではなく、なぜ「イケテナイ」ことと感じてしまうのか。
「不登校児の親」だと自認することがなぜできないのか。
なぜ学校に無理に行かせてしまうのか。なぜ無理に行くのか。

それが「ふつう」の「選択」ではないと思われているためなのでしょう。

この国は、と言ってしまって良いのか分かりませんが、いずれにせよ現在の日本は、本当に、この「ふつう」という感覚、同調圧力が強い場所だと思います。
学校に行くのが「ふつう」。
高校・大学に行くのが「ふつう」。
会社に就職するのが「ふつう」。
男(の子)の「ふつう」。
女(の子)の「ふつう」。

そして、「ふつう」でない人間を「差別」する。レッテルを貼る。排除する。
意識的にも無意識的にも。
悪意をもって。あるいは時に善意から。

それは教育現場で言えば、「不登校」の問題だけではありません。
人より落ち着きがなく教室をすぐ立ち歩く彼は「発達」に「障害」があるとレッテルを貼られる。
時々、すっとんきょうなことを皆の前で言う個性的な彼女も同じく「発達」がデコボコゆえに「排除」される。

それこそ30年前よりかはマシかもしれない。
それでも、「ふつう」でない自分を「イケナテナイ」と思わせるほどには、この国の同調思想は根強いものです。

だからこそ、「不登校は人生の選択にすぎない」というメッセージは、本当は、不登校を選んだ当の少年・少女やその親たちではなく、そんな問題は自分には関係ないと思っている「ふつう」の人たちにこそ、届けなければいけない。

 

ヒルネットを始めた時、考えていたことがあります。
それは、「学校に行っていない子ども」と「学校に行っている子ども」の垣根をなるべく無くしたいということでした。
ヒルネットにはちょっと学校に疲れただけの子も来てほしい。また逆に、ヒルネットの子どもたちには、僕がみている個人レッスンやグループレッスンの子どもたちと自由に交わっていってほしい。さらには個人レッスンの子どもたちがヒルネットの活動に参加することがあってもいい。
平日昼に通っているか、夕方や土曜に通っているかという時間差があるだけで、同じ教室に通っているという関係意識を子どもたちの間に作りたい。

それは、ある程度、実現しているとも言えますし、まだこれからの部分でもあります。
いずれにしろ、「ふつう/ふつうでない」という二分法を超えて、それぞれを多様な「個性」として受け止められる感性を、少なくとも自分が関わる子どもたちには育んでほしいと思っています。

 

「ふつう」であることは「イケテル」ことではありません。「ふつう」でないのは「イケテナイ」ことじゃありません。
この国でそう思うのは、本当に大人だって難しい。
でも、だからこそ「ふつうじゃない」自分を責める子どもや親を、一人でも減らしたいと思う今日この頃です。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

学校は全然アフターコロナとかじゃなかったって話

どうも、どうも。
今年もまた大嫌いな梅雨真っ最中、気圧変化のせいか僕は毎日体調がどんより優れぬウンザリな日々を送っておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。あー早く梅雨明けないかなー。。。

さてさて、このブログもすっかり月一連載みたいになってきております。
いや、まあ相変わらず言い訳するなら、忙しい。
ステイホームとかが終わってリアルにヒルネットや個人レッスンを再開したら、やっぱり忙しいんですよね、これが。
休日になかなかブログをアップしようって気になんない。
そうこうしてるウチに気がついたら一月経っちゃってたって感じなんですよね。いやマジで。

まあ、このブログを楽しみにしてくれている人がいるとしたら申し訳ないこってす(そんな人あんまりおらんでしょうが)。
今後もせめて月一連載のペースでは続けていこうと思うので何卒よろしく。。。

 

とまあ、さてさて本題。
ここ東京では、相変わらず実態的にも、経済的にも、心理的にも「コロナ禍」が梅雨の雨空のようにダラダラと続いておりますが、一方で皆ある程度ふつうに生活もしなきゃなんないということで、アフターコロナだとかニューノーマルだとか、いやさアフターコロニーだとか、いやそもそも宇宙世紀だとか、いろいろな言葉が女帝コイケ的にもてはやされておる日々です(もはや意味不明な文)。
と、そんな今日この頃の第三新東京市ですが、ここにちっとも新世紀になっていないものが一つある。

それが、学校。

いや、ね。
知ってましたよ。
前回の記事を見直してみたら、そんなこと自分でも匂わせていたような気もします。

それにしても、ね。
変わらんどころかヒドクなってるんじゃねーの?

いや、ほんと何でしょうか。
小学生に7時間授業とか。30分一コマにせよ1日8コマとか。
中学生なら土曜日なのに6時間。あと、めっちゃ多い宿題、課題。
私立公立関係なくひどい。

いやーしかしオンラインがどうとか9月入学がどうとか言ってて結局これかよ。
ふざけんなよ。
ちゃんと生きてる子どものこと見てんのかよ。数字だけでつじつま合わせよーとしてんじゃねーよ。

そう。
つじつま合わせ。
あるいは見えない「誰か」からのクレームへの「言い訳」としてやってるようにしか見えない。
事態に合わせて現状を変えることができない。
いや、もっと言えば、主観的には「中庸」な選択をしてるつもりで結局現状を追認し新たな解決策を何ら提案できない。
70年前と何も変わってねーじゃん。

いや、現場の先生たちは悪くないんすよ。ほんと。
いや、悪い先生も一部にはいるんでしょうが、それは現在の状況とはまた別の問題。
むしろ悪いのは、もっと上の奴。
学校長だったり教育委員会だったり。
そして、もちろんラスボスは文科省。文科省が結局、「ことなかれ」に走ったせいで、こうなった。

前回のブログでも書きました。
学校の本来の役割は「勉強」にあるわけではない、と。
そういう意味では美術や音楽も、あるいは小学校なんかでは必要かもしれない(ただし中学校、お前はダメだ)。
でも、一日7時間にして宿題増やしてまでやることじゃないよね。
それで子どもたちにヨユーなくなったら本末転倒だよね。
アホか。

(※余談ではあるが、コロナ禍への対応については、正直、お金をたくさんとってるだけ一部私立小中高の方が、対応は最悪であるとも言えた。
とある名門私立高校ではなぜか1対200のZoom授業を強行し生徒の顰蹙を買っていた。いや、大学じゃないんだからムリよね。誰が考えたんだか。
またオンライン授業はしないのに、大量の課題を出して、その日の夕方にネットで提出させるというブラック企業的小中学校も散見された。
こういう私立小中高は学費を返納すべきだとけっこう本気で思う。「学歴」のためだけに金出してると思っとりゃせんか?
いやまあ、それを言うなら大学。ヒドイ酷すぎる。通信制でしか授業もゼミもできない上、施設に立ち入り制限するなら通信制大学並みの学費にするのが筋でしょう確信犯的詐欺行為か?)

で、こんなアフターセンチュリー以上にヒドイ現在の学校生活に対して、今まで以上に「耐えられない」と思う子どもたちだってたくさん出てくる。そりゃ、そうだよねえ。。。

この一ヶ月でもう何件もの不登校の相談を受けました。
年齢もバラバラ。
深刻度もいろいろ違う。

コロナ禍で家にいる期間、子どもによっては、その状況にうまく対応出来ていた。
皆が「不登校」の状態ゆえに特に自分の置かれた状態を気にすることなく自分の行いたいことができていた。
「非常時」が「常時」になったが故の「安心」があった。

しかし、それに「終わり」がやってくる。
家にいる期間の「安心」があったが故に、休校あけの学校に対するストレスは、当然大きなものだったはずです。
しかも、その学校はかつて以上に「ヨユー」のないものになっていたりもする。。。

この記事を今、読んでいる皆さんの中にも、お子さんのことで様々なお悩みを抱えている方がおられることでしょう。
今書いた通り、コロナ休校明けから学校に行けなくなった。あるいは「行き渋り」がひどくなった。そこまで行かずともストレスからか家庭での言動が荒れている等々。。。。

そういう場合、まずは彼・彼女が「エネルギー」を回復するのをゆっくり見守りたいところです。

これは現時点でお子さんが「学校」を明確に「拒否」している場合はもちろんですが、そこまでいかずとも、むしろ「何とか学校に行こうとしているのだけど行けない」、「学校の何がイヤというわけじゃなくても行けない」といった感じの場合にこそ重要でしょう。

 

お子さんが急に「不登校」になれば、親として心配になるのは当たり前。
何とか「解決」できないかと焦ります。誰だってそうでしょう。

ですが、その「不安」は必ずお子さんにも伝染します。

すでに本人だって悩んでいるのです。
急に「ふつう」じゃなくなった自分。どうして学校に行けないのか? このまま学校に行けず自分の人生どうなってしまうんだろう。。。
少なくとも小学校高学年以上の子どもならば、大人と違って視野も狭い分、誰だって悩みます。大人以上に悩んでいます(そして不登校の「理由」は、ここでも繰り返し書いてきたように、自分ではなかなか言語化できないものなのです)。
そうした素振りを「大人」である僕たちに見せてくれなかったとしても、です。

そこに「親」の「不安」が重なってくる。
これは、辛い。
自分で「不安」に思っていることを、どうやら「大人」である親も不安に思っている。ということは、やはり自分の状態は「とんでもなく心配な状況」なのではないか。。。
そんなふうに考えてしまい、それを解決しようと自分なりに焦り、でもどうしようもなく自己嫌悪が深まるばかり。。。そういう悪循環に突入してしまいます。

ですから、まずはゆっくり見守りましょう。
焦って「解決」しようと思うのはやめましょう。

「どうってことないよ。
学校なんて行こうが行くまいが何とかなるさ。
学力の遅れなんて心配するな。
お前が本気になれば、そんな遅れすぐに取り戻せるさ。
大丈夫。
どんな道を進んだって、お前ならきっとうまくやっていけるとも」

嘘でもいい。
演技でもいい。
まずは、そういうメッセージを子どもに送ってあげましょう。
態度でも。そして言葉でも。

もしお子さんが、まだ小学校中学年ぐらいの年齢なら、「エネルギー」が再び充填されたときに、ふと学校に通うようになるかもしれません。
コロナ休校あけの「ショック」が原因なら、とりわけそういうことも多くあるかと思います。

あるいはお子さんが中学生以上なら。
それはもう、彼・彼女自身が自分の「人生」を、「自分なりの生き方」を悩みつつ選び始めたということなのかもしれません。少なくとも、そう受け取ってあげるべきでしょう。
それは「ふつう」の道ではないかもしれない。
しかし、おそらく彼・彼女なりの「ベスト」な人生を歩むための第一歩ではあるはずです。

学校はアフターコロナになっても結局、何も変わりませんでした。
ですが、せめて僕たち親は、少しずつでもその価値観を変えていってもよいのではないでしょうか。

それでは、それでは。