語彙力って大切ですよね

どうもどうも。
すっかり秋めいてきたと思ったら急に真夏日みたいに暑い日があったりして相変わらず自律神経が追いつかない今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

さて、つい先日、本屋を意味なくぶらついておりましたら、新書かなんかのコーナーに、「大人のための語彙力」とか「語彙力が教養を決める」だとか、なんかそんな感じタイトルの本がやたら多く置かれてましたが、また最近はこういうのが流行ってるんでしょうかね?

まあ、確かに語彙力が教養というか知性の本質ってのは、一理あります。
「言葉」を知らないってのは、理解力、思考力の双方に響いてくる問題ではあるでしょう。

上記のような本で、どういうものを語彙力と言ってるのかはチラリとも立ち読みしなかったので判りませんが、例えば、「さっき言ってたこと、ちょい意味不明なんで、もっとぶっちゃけた感じでしゃべってよね」と言うのと、「先程の言説には、少々、論理的逸脱がみられるので、より明瞭な説明をお願いしたい」と言うのとでは、全然知的レベルが違って感じられますわな。
で、仮にほんとに最初の例のようにしか話せない人がいるとすれば、その人は口に出さない思考においても、そういう言語でしか思考していないってことになるわけです。
そうすると、他の誰かが物事をもうちょっと難解な言葉で説明してたりするのを聞いても、「池上さんの解説、めっちゃ判りやすいって聞いてたんすけど、俺にはさっぱりっす」とかって残念なことになるわけです。

じゃあ、こういうのはマズイ! 語彙力をつけよう! となっても一朝一夕にはいかないわけで。
やっぱり地道なインプットとアウトプットが必要なのですね。
つまり、日々の読書と、文章を書くことです。
読書は自分の知的関心が赴くままに新書なり専門書なりを読むのもいいでしょうし、娯楽的な小説でも、歴史小説なんかは語彙力を鍛えるのには向いてるかもしれません。もちろん、いわゆる「近代文学」は、その辺の新書なんかより、よっぽど「教養的」です。
で、同時にアウトプットが必要。
これはブログでもなんでもいいと思いますが、短くとも、定期的に何かしら文章を書く習慣があったほうがいいですよね。
読書によって「無意識」に摂取した語彙を、文章をイメージする中で、また「無意識」に使えるようにしていくこと。
これが、日常において語彙力を増やしていくキモだと思います。

で、実のところ、こうした「大人の語彙力」は、子どもの教育環境においても重要です。
というのも、特に中学生以下の子どもにとっては、家庭における言語環境というものが、本人の言語能力にけっこう関係してくるからなんですね。

例えば、多くの子どもたちは、いわゆる国語の読解問題における「説明文」「論説文」の問題が苦手です。
中学受験くらいの問題ですと、端的に内容がつまらんというのもありますが、やっぱり抽象語を多用した文が読みにくい、ということも関係あります。
中学生においても、半数くらいの子どもは、「論説文」に拒否反応を示しますね。

中学生も二年、三年となってくれば、自分自身で最低限インプットの努力をさせることもできるでしょう。
しかしながら、小学生に、いきなり難解な抽象語の多用された本を読め、というのは無理があります。

そこで大切になってくるのが、家庭における言語環境なんですね。
やっぱり家庭の中で、両親が比較的、抽象語を含む、色々な語彙を使って会話していたなら、その子どもは自然と、ある程度そうした言葉遣いに慣れていくものです。
何かやらかしてゴニョゴニョ言ってる子どもに、「何いうとんねん、ちゃんと言えや!」というのと、「もうちょっと論理的に説明しろよ!」と言うのとでは、やっぱり違ってくるのです。
子どもは、「論理」という言葉に「自然」に「無意識」に慣れていきますし、日常の中でわからない単語が出てくれば、「お父さん、今言った『概念』ってどういう意味?」と聞き返してきます。
こうした積み重ねが、抽象語が多用される文章への「抵抗感」を少なくし、「自然」にそういう文章へ親しんでいく契機にもなるというわけです。

まあ、もちろん、そんなことばかりを意識しながら日常会話はできません。
だからこそ、僕たち自身が「無意識」に、いろいろな語彙を使える人間に成長したいもんですよね。

さてさて、今日は短め。
さすがに10月ともなると、だいぶんレッスンも立て込んできて、なかなかブログを書く時間もありません。何とか「継続」したいと思いながらもランダムになりつつある。。。
ともあれ、今日はこの辺で。

それでは、それでは。

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「ブラック部活」はやっぱり問題だと思いますよ

どうも、どうも。
台風中はえらい涼しくなっていよいよ秋到来かと思ったもののその後は30度越えの暑さという自律神経がまるでついていかない今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕はせっかく秋物ジャケット買ったのに全然着る機会がありません(どうでもいい)。

さてさて、今日は最近話題の「ブラック部活」の問題。
つまり、現今の学校クラブ活動の問題。
これが最近、拘束時間があまりに長すぎるのではないか、教師に無用の負担をかけているのではないか、いやそもそも生徒全員に部活動を奨励するような「空気」自体、問題なのではないか等々、マスコミなどがいろいろと騒ぐようになってきておるわけです。

とはいうものの、僕個人は元不登校児、いわゆるクラブ活動の記憶なんてものは、はるか昔中学一年の時の陸上長距離部だった時のものしかなく、その後の10代、20代はバンド活動とか演劇活動とかの「文化的活動」しかやっとらんものですから、個人的体験としては、あんまりフェアには語る立場にないんですがね。
まあ、あくまで「勉強その他を学校外で教えている人間の立場」から書かせてもらおうと思います。

で、そういう立場の人間からするとですね。
正直、「今さらかよ、だいぶ前からチョー問題だと思っとったよワシらは!」という気分です。

というのもね。
やっぱりサッカー部とか野球部とか、体育会系のチョー忙しいクラブに入ってると、ほんと時間ないんですよ。平日の帰宅は遅いし土日も試合とか練習が入る。
これだと、僕達みたいな個人レッスンの指導ですら、なかなかまともに授業が組めません。
しかも、なんとか空いてる時間を見つけても、練習後の時間だったりすると、もう身体が疲れ果てた状態でレッスンに来るので、生徒によってはほとんどアタマが使い物にならない状態。
そりゃ、そうですよね。
肉体労働やってからデスクワークやるみたいなもんですから!

いや、そりゃ自己管理のちゃんとできてる子もいるでしょうし、すごく克己心の強い子だっているでしょう。
でも、いつもこのブログで書いてますが、そんな子ばっかりじゃないんです。
いや、むしろこの場合は、そういう「文武両道」を全うできる生徒の方が少数派、という印象です。
激しい部活をやりながら成績も良くしたい、なんてのは二兎追うものは一兎をも得ず、「スポーツ頑張ってるけど勉強はそこそこ」だったら良い方で、「スポーツはまあ普通で勉強はけっこう残念」という状態に陥っちゃう子も多いんです。

まあ、ね。そりゃ、学校は勉強だけするところじゃありません。
サッカーや野球をプレーする喜びもわかりますし、何より部活で共に汗を流した友人たちとの絆も大切でしょう。そういう楽しさを知るのは10代の特権でもあります。
また社会的見地から見ても、学校の部活動というものが、例えば貧困等の問題により「習い事」としてスポーツをやれない子ども達に、その機会を与える貴重な場であるということも重要です。

でも、それでもやっぱりほぼ毎日三時間以上もそれに時間を費やすのは、端的に「異常」だと思います。土曜も日曜も夏休みも、それだけやらせるのは、おかしい。
まして、その「活動」によって、子ども達の他の活動が制限されてしまうなら、これまた10代の特権である、多様な形での「学び」を奪ってしまうことにもなりかねません。

さらに言えば、なんとなく、生徒みんなが部活動に参加しなくてはならない、という「空気」。
これは僕のような「全員参加」とかって言葉が大嫌いな人間からすると、端的に「最低」です。そういう「空気」が教育の現場にあること自体、「最低」です。
何も部活に参加していない子どものことを、「帰宅部」と呼ぶ習慣?が昔からありますが、そんな言葉があること自体おかしくて、「帰宅部」こそが本来、「普通」のはずです。
だって学校の本義は「部活」にあるのではないのですから。
わざわざ「部活」に参加することの方が「特別」なのであって、参加してないことを殊更に言う必要はありません。

そう、部活に参加するかしないかは、絶対的に自由意志であるべきです。
運動や「体育会系」のノリが苦手な子だっている。
もし、そういう子が部活に参加しないからといって、「帰宅部」などと呼ばれ「差別」される風潮が学校現場にあるとするなら、そんな場所は「教育現場」であることを名乗る資格がありません。

こういうことを言うと、「いや、でも昔から学校の部活はこんなんだったし、それどころか俺たちの時代はもっとヒドかった! でも後から考えるとそれがすごく大切な経験だったぜ!」的なことを言う大人がいます。
でも「大切な経験」は他でも得られる可能性が高いしその「経験」が他の多様な経験の機会を阻害している現状もおかしいし何よりそれを全員に強要するのは違うでしょ、という長々としたツッコミはおくとしても、やっぱり現状の部活が「ブラック」などと呼ばれることの一因は、社会の変化が大きいんだと思います。

昔の部活動というものは、「大人」になるためのイニシエーションとしての側面があったと思うんですね。
「大人」には会社組織などの中での上下関係を含めた対人関係スキルが重要であり、また嫌な仕事、辛い仕事も「根性」で乗り切らなくてはならない局面が多々ある。
こういう「大人」としての能力を身につけるための通過儀礼ないし準備期間として「部活動」が機能していた部分があったと思う。
同じことは、やはり最近「ブラック」の名を冠されていた「アルバイト」などにも言えるかもしれません(まあ、こちらが「ブラック」と言われるのには、貧困問題など、もっと政治経済的な見地からの考察が必要ですが)。

ところが、現在はこういう「大人」の「組織人」としての能力は、あまり重要なものと見なされない傾向がある。
いや、現状の社会では相変わらずこういう「組織人」的な頑張りが評価されているのかもしれませんし、実際にそういう能力が必要な局面も多いでしょう。
ですが、少なくとも社会的風潮としては違う。
むしろ、「個人」として組織に頼らずともやっていけるスキルや発想力など、「個人」の能力、価値を高めることが重要視されている。
組織の中においてさえ、そういう力が求められているのではないでしょうか。

そうなってくると、「部活」における長時間の拘束や上下関係、激しい練習などが、かつてのように日本企業人になるための通過儀礼とは見なされなくなるのも当然でしょう。
むしろ、長時間労働とパワハラに根性で耐える「ブラック企業人」になるための通過儀礼のように思えてくる。
これが「昔はもっと大変だったけど良かった」式の議論が、現状とは噛み合わない理由です。

ま、いずれにしても、ですよ。
やっぱり学問含むその他の経験、可能性を子ども達から奪っているかもしれないとするなら(まあ僕個人はそう見えるケースと多く出会っているんですが)、やっぱり現今の部活動のあり方はいろいろ改善していくべきなんだと思います。
その練習量や練習時間はもちろん、「空気」感も含めて、ね。
例えば週2、3日、一回二時間の練習。やりたい人だけやる。とか。
それ以上にやりたい人は、学校外でやればいい。ただ、そうする場合も、他の「学び」の可能性がなくならないよう、ブレーキをかけながら、それこそ親子で話し合ったりしながらにした方が賢明でしょう。
なんにせよ、こんなに多くの子ども達が「スポーツづけ」になる必要はないんじゃない? とチョー文化系の僕なんかは思っちゃうんですが、やっぱりこれってフェアな見方じゃあないんですかね。

それでは、それでは。

ゲームや汝をいかにせん

どうも、どうも。
秋っぽくなってきたかなあと思っていたら陽射しに関しては再び夏を思わせる暑さが帰ってきた今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。私は日曜、アスレチックに行ったら熱中症になりそうでした。

さてさて、今日はゲームの話。
といって、大して新しい話はできないんですが。
ウチの娘は小学三年なんですが、最近、その友人知人の保護者の方々から時たま聞こえてくるのが、このゲームの悩み。
まあ、多くの皆さんは正直、やらしたくない、やらしたくないんだけれども周りのお友達がやっていたりすると子ども特に男の子は「ウチもゲーム買って!」「僕もゲームやりたい!」の声を徐々に大きくしてゆき、ついに根負け、「制限」付きで買ってやらしてしまうのだとか。
しかも大抵、悩んでるのはお母さん。お父さんはと言うと、団塊ジュニアくらいの年代の方だと結構な割合でゲーム好き。「だーいじょうぶだよー! 俺も子どもんときからやってるし、でもちゃんと大人になってるじゃん! ハッハ!」てな感じでむしろ子どもとグルになって時間などの「制限」を破ってしまう始末。

ちなみにウチは僕自身がまったくゲームをやらずに育ったこともあり、また女の子はまだ男子ほどにはゲーム好きでないのもあって、今のところこの種の悩みを抱えておりませんが、その下の息子のときにはどうなるか。。。
(しかしウチの場合は僕が映画好きのせいで時代からすると周回遅れ的に「テレビ(というかジブリとかディズニーとか)」との付き合い方に悩んでおります)

このゲーム。
まあ、たいていの人は確かに大丈夫なのかもしれませんが、やっぱり「危険」の大きいものであることも本当です。
V-netには様々な相談が寄せられますが、そのうちの一つがこれ。ゲームのやりすぎ。

ゲームにハマりすぎて成績がだだ落ちとかっていうのは可愛いもの。
一日10時間やりっぱなしであるとか禁止されて怒って暴力沙汰だとか。せっかく入った私立中学をやめちゃっただとか。
ここまでいくと、やっぱり「ちょっと心配」程度じゃ済まないわけです。

こうなる理由はゲームに中毒性があるからです。
いわゆるギャンブル依存症とかと似てますね。

とはいえ、もちろん、みんながそうなるわけじゃない。
また、たいてい原因は複合的で、その問題の表出の仕方がたまたまゲームだったという場合も多いでしょう。

とはいえ。
やはり、そういうリスクがある、ひどいケースもあるってことは知った上で付き合う必要があります。
また、教育ってもんは、ここでも繰り返し書いてるように、「みんな」を基準には考えられないものです。
統計的な平均値が「この子ども」に当てはまるとは限らない。
ので、それぞれのご家庭が、自分の子どもの特性や家庭の環境を考えながら、付き合って行く必要があります。

たとえば、そもそも一つのことをやり出すと他が目に入らなくなるタイプの子どもじゃないだろうか。これは長所でもありますが、その対象がゲームになってしまわないかを考える必要があります。
あるいは夫婦共稼ぎで日中はおばあちゃんが面倒を見ている。この場合、ゲームを時間などで制限したとしても、それを簡単に破ることにならないだろうか。
等々。各家庭の条件を慎重に考えてから、「導入」すべきでしょうね。

もちろん、これはゲームをやむなく「導入」しちゃった場合の話です。
本当なら、やっぱりわざわざ買い与える必要はありません。ゲームなんてやらなくても友達はできるし、別に公園でゲームばっかりやってる友達なんていらんわいと言うことだって出来ます。

だけど、それでも買っちゃったら、どうするか。
その時は、お父さんお母さん含めて、子どもとも徹底的に話し合うべきです

上記に挙げたような「危険」について話すのはもちろん、どうしてそれをやりたいのか、やりたいとするならそのリスクとお前はどうやって向き合って行くのか。制限をかける必要があると親である私は思うがお前はリスクを避けるためにそれに賛成するか、するとしたらどういう制限をかけるべきと自分では考えるか。その他諸々。

仮にそうした話し合いで決められたことが守られなければ、再度の「家族会議」です。
これらの「会議」はなるべく「大ごと」であると、子どもには印象付けた方が効果は大きいでしょうね。

でも、きっと子どもは面倒臭がるでしょう。
ですが、この程度の面倒を避けようとするなら、「決め事」は簡単に破られてしまうと考えた方がいい。
また、この種の話し合いが出来ない年齢のうちは、やはり「導入」しない方が賢明かと思います。
「そんな話し合い、うちの子にはムリムリ!」と感じるならば、そういうタイプのお子さんには、いよいよ慎重になるべきです。

いずれにせよ、子ども自身が納得して、ゲームに「自主規制」をかけていけるようにしたい。できるだけ。
子ども自身が、ゲームを含む快楽的誘惑と主体的に向き合っていけるきっかけにしたいところです。

もちろん、これは「理想論」かもしれません。
しかし、「理想論」を参照項にすることで、各家庭の環境に合わせた方針を立てることが出来たら、とも思います。

そうだ。書いていて気づきました。
他人のご家庭を心配している場合ではない。
そう、我が家でも早速、子どもたちと「テレビ」の扱いについて「家族会議」を開催しようではないか! 今晩にでも!
いや、やっぱり明日にでも。
まった、明日は僕が遅い時間になるから来週にでも。。。

それでは、それでは。

漢字を覚える方法

どうも、どうも。
夏休みが終わるとともに急に涼しくなってきちゃって秋の気配もただよい始めた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。涼しいのは最高ですよね。雨を除けば。

さてさて。今日は漢字のお話。
最近、というかここ数年、僕だけがそう思ってるのかもしれませんが何だか漢字をあんまり書けない覚えない子が一昔前、そう十年くらい前に比べると、増えてきているような気がします。いや、ほんとに気がするだけなのかもしれませんが。

もちろん、中には漢字大好き!って少年少女もいないわけではなくて「習ってないけど、これって漢字でどう書くの?」と無邪気に聞いてきてくれる子だったけっこういます。
が、その一方で小学校の中高学年になっても作文書かせると平仮名だらけ、って子もけっこういるんですね。
これがまあ高校生ぐらいだと、「スマホ、パソコンやりすぎで漢字忘れてきちゃってんじゃないのー?」っとまだ笑いのネタにもできるんですが、小学生だと、ほんとここでちゃんと漢字が入ってないとけっこうずっと苦手なままだよ、という危機感も湧いてきちゃうわけなのです。

まあ。実際、僕なんかも国語の先生でございってな顔してるわりに漢字を書くのは苦手な方です。
商売柄、今ではまあその辺の大人よりは漢字書ける方になりましたけれど、この仕事始めたばかりの若い頃は、けっこうひどいもんで黒板の前で恥かいた経験もけっこうありましたよ。
それというのも、僕は子どもの頃から文章書くのは好きな子供だったんですけど、字が汚いのがいやで、それこそ小学校中学年くらいから生意気にもワープロで文章書いてたんですね。物好きな祖父が与えてくれましてね。
おかげで学校の宿題以外で漢字を手書きで書く習慣があまりなく、思春期以後はご存知の通り不登校になり落ちこぼれ。いわゆる学校的勉強からも遠ざかり、ますます漢字と縁遠くなってしまったというわけなんです。何の因果か国語の教師になるまでは。

じゃあ、こんな僕の経験含め、やっぱりパソコンだスマホだ何だと世の中が手書き文化から離れる一方なのが、子どもの漢字離れ?の原因なのでしょうか(いや繰り返せば僕の思い込みで離れてないのかもしれませんが)。
まあ多少は関係ありそうにも思いますが、でも、いくらなんでも小学校の低学年や中学年からスマホいじり倒しみたいな子どもは少ないでしょうし、それだけが原因ではないでしょうね。

正直、よくわかりませんね、原因は。今のところ。

ただ原因が判ろうが判るまいが、やっぱりこの国で生きる上で、漢字は重要です。

何より漢字を知らないというのは、この国においては難解な思考に耐えられない、ということにほかなりません。
いわゆる論理的思考に欠かせない抽象語。
今書いた「難解」「論理」「抽象」。これ全部、2字からなる漢字熟語でできています。
「概念」「相対」「形而」「帰納」。こういう抽象語=漢字熟語を使用して僕たちは思考し論理化し記述しているわけなのですから、その漢字を知らず言葉の意味もちんプンカンプンでは、その記述されたものを読んでもチンプンカンプンとなるわけです。もちろん自分で同様の思考を組み立てることだってできません。

それに実は日本語は漢字を輸入するなかで語彙を充実させてきたという歴史故に同音意義語がめっちゃある。
「そうたい」「そうたい」「そうたい」=「相対」「総体」「早退」。全部、意味全然違うわけです。戦後直後、GHQ占領下で日本語を全部ローマ字にしようなんて議論が行われたことがあるんですが、実際には不可能だったでしょうね。

とどのつまり、この国で生きていくいく上で、漢字は絶対的に必要です。
最低限の漢字や熟語は知ってなきゃいけないし読めなきゃいけない。
漢字が苦手だった僕も、読むことだけは得意でした。まあ、そういう人は多いと思いますが。

で、せっかく読めるのなら書けた方がいい。偉そうには言えんが。

しかし、じゃあどうやって覚えるのか。
よく学校でやらせるのは、習った漢字を10回も20回も書かせるやつ。悪評高いやつですね。
まあ、あんまりにも悪評ばかりなので、最近の学校ではやらせないところもあるのかも知れませんが、うちの娘なんか見てると、やっぱり何が楽しいのか5、6回くらいは「書き写し」てますね。「写経」と僕らは呼んでるんですが。
で、これはやっぱり、よほど意識的に行わないと意味ないわけです。
単に「機械的」にやってたって「自動化された作業」でしかなく記憶には残りません、あんまり。

じゃあ、どうすればいいか。
そのやり方については、正直なところ、僕もまだまだ模索中です。
とはいえ、今のところ一番効果的と思われるのは以下の方法です。

それは、「口で説明させること」。
いきなり書くんじゃなくて、漢字の部首、つくり、その他の組み合わせを口で説明できるくらいしっかりイメージできるようにし、その後に何度か書いてみる。

まず手本を見てその漢字の部首、つくり等々の組み合わせがどうなっているかを理解します。
次に目を閉じてその「字」がどう組み合わ去っていたか、しっかりイメージできるか試します。
その上で、その組み合わせを口で説明できるか試します。
最後にちゃんと書けるかどうか、二、三度実際に紙に書いてみます。

また、その部首やつくりの組み合わせを理解しイメージする時、同時にその漢字の「解字」も知っておくといいでしょう。つまり、その漢字の成り立ちです、
「親」という字は「木」の上に「立」って「見」る存在から成り立っている、なんて話はよく聞きますよね。こういう「解字」みたいなものを知っていると、「字」の組み合わせも理解し覚えやすい。

いやいや、そんな毎回調べられんよ、という声が聞こえてきそうですが、心配無用です。
別にほんとの「解字」じゃなくてもいい。その場のでっち上げでもいいんです。
別に漢字博士になろうってんじゃないんですから、本当の解字よりも、子どもにとってインパクトのある、面白いものをでっち上げて説明してあげれば良いと思います。
だいたい、さっき上で例にあげた「親」という漢字の成り立ち。人口に膾炙しておりますが、ほんとはこういう形で成り立った漢字じゃありません。でも、さしあたり子どもに教える上ではいいんじゃないでしょうか。

でも、子どもが覚える為でなくとも、漢字の解字ってのは、なかなか面白いですよ。
「秋」という字は、なぜ「のぎへん」に「火」なのだろう、とかね?(いろんな説がありますので、よかったら調べてみてくださいね)

さてさて、こんなふうに漢字を一度覚えたとします。
とはいえ、これは使わなければ、一旦覚えてもすぐに忘れてしまいます。
「よっしゃ! じゃあ毎週漢字テストだ!」とスパルタ式に頑張る方法もありますが、なんせ小学生が一年で覚える漢字はすごく多い。熟語の組み合わせを考えれば、単にテストするだけで覚えられる量ではない。だいたいしんどいですしね。

じゃあ、どうするか。
やっぱり、積極的に使うことなんですね。どこで? もちろん文章を書く中で。

つまり、作文を書く中で、なるべく積極的に漢字を使うことを奨励したい。
もちろん、作文はあくまで文章を「作る」ことが主目的です。せっかく集中して書いているところを口うるさくいうことはよくありません。また出来上がったものは平仮名だらけでも必ず褒めてあげましょう。
でも、書いている途中、ちょっと手が止まってしまった時などに直せる範囲で指摘してあげる。
また原稿を推敲している時、漢字に直せるところは直した方がかっこいいよとアドバイスする。
そういうことを繰り返すことで、「文章中で漢字を使う」習慣を少しづつつけていきたいところです。

上で書いたように、僕自身は生意気にもワープロなんぞを使っていたせいで、漢字が苦手になってしまいました。
それはいうなれば、漢字の「知識」だけがあって、「実践」の中で役立てなかった結果だと言えます。
逆にいうと、漢字テストの時にどんなに漢字が覚えられなくても、実際に文章を書く「実践」の中で漢字を役立てて行ければ、最低限、必要な漢字は書けるようになっていくでしょう(上に書いたように、それとは別に難解抽象語を少なくとも「読める」ようになる必要はありますが)。

さてさて。今日も気がつけば、えらく長く書いてしまいました。
どうも筆が滑って仕方がない。
本当は漢字の「解字」の不思議な例など色々書きたかったのですが、もうしんどい。
今日はこの辺にしときましょう。

それでは、それでは。

 

「子ども読書道場」を奥多摩でやってきましたよ

どうも、どうも。
いよいよ8月ももう終わりというなか暑いんだか涼しんだかようわからん天候が続いておる東京ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。9月もやっぱり暑くて雨なんでしょうか。

さてさて、そんな中、先週金曜日、「子ども読書道場」を奥多摩の「囲炉裏教室」で行って参りましたよ。
参加者は四人。
小6、小5、小4、小3と見事に年齢がばらけてしまいまして読む本に色々迷ったんですが、ここは鉄板、シャーロックホームズものにしました。
中心的に読んだのは、「最後の事件」と「空き家の冒険」。
ホームズが宿敵モリアーティ教授と対峙して、「ホームズ死んでしまったん?」と思わせながらの、無理やりの展開による復活!までを読みました。

男の子はやっぱりこういう探偵もの、冒険ものが「好物」ですよね。
合間にこの後の展開がどうなるか、犯人や動機は何かなど、ちょっとばかり話す機会をもうけるんですが、「僕はこう思う」「いや、意外とこうかもしんない」っと、大盛り上がりで話をしてくれました。
読書には、一冊の本を寝食忘れて一人読みふけるという楽しみ方ももちろんありますが、同時に同じ本を読んだ者同士がお互いに感想を言い合ったりして盛り上がる、という楽しみ方もあります。
「読書道場」では、そういう「読書家同士が色々ものを言い合う楽しさ」みたいなものも、ちょっとだけ体験してもらえればという意図もあったりするんですよね。

さて、午前中2時間半ほど一緒に読書し昼食後は、前田先生のサマースクールと合流。川遊びに興じました。
まあ、遊ぶ遊ぶ。泳ぐ泳ぐ。
相変わらず冷たい奥多摩の川水も何のその、いつものように河原で焚き火も始めると、川水で冷えた体を数分乾かし、再び川への繰り返し。
まあ、かくいう僕も、ついに河原の暑さに耐えきれず、服のまま川で泳いじゃいましたが。

その後、後半戦。
3時半から再び、読書と作文。
件の「空き家の冒険」を読み終え、いやーやっぱりホームズ生きてたねえ良かったねえでもちょっと展開が無理やりだったねえなどと感想を言い合いつつ、でも実際、作者のコナン・ドイルは先の「最後の事件」でホームズものを止めようとしてたんだけど苦情が殺到、今風に言えば「炎上」しちゃったせいでこの「空き家の冒険」を書いてシリーズを続けることにしたんだぜ的なウンチクを僕が述べた後、それぞれ作文を書いてもらいました。

作文の時間は前回の反省を生かして(前回はだいぶ時間がおしてしまったんですよね)、十分に時間をとりました。
サマースクールから合流のY君は「おいらは今毎日作文書いてるからメモなんかいらんぜ!」っとメモなしで作文に突入。他の3人は僕がインタビューする形で簡単なメモを作ってから作文を書き始めました。
その日の結果だけみると、やっぱり簡単にでもメモを作っておくと、「見取り図」があるぶん、実際に原稿に書く段になると早いし簡単みたいですね。
一人、「作文やだー面倒だー苦手だー」とのたまわっておった小4I君も、出来上がって見れば、けっこうちゃんとした、おもろい作文に仕上がっておりました。
皆さん、インタビューからメモ作っての「作文道場」式の作文法は、一見めんどくさいかもしれませんが、やっぱりけっこう有効でっせ。

そんな四人の感想で、共通していたのがホームズの「性格の悪さ」。
モリアーティの部下を「雑魚」と読んだり、自分より頭悪い連中を明らかに見下していたりと、圧倒的に「傲慢」なホームズのキャラクターを新鮮に感じたみたいでした。
これはその作文を読んだお母さんも同様だったみたいで、ホームズって意外と「英国紳士風」に思われてるんですね。

そして今回、個人的に嬉しかったのが、前回7月の「読書道場」に参加してくれていた子どもたちの反応です。
先のY君や、合流したサマースクール組の中の何人かが前回の「読書道場」参加者だったのですが、彼らが一様に前回読んだ「怪人二十面相」を「めっちゃおもろいよ!」と言って他の子にもすすめてくれたりしていたんですね。
特にそのうちの一人、G君は知らないうちに続編の「少年探偵団」を自分で購入し、サマースクールにまで持ってきて読んでいました。
こういうふうに「本を読むのってオモシロイな!」って思うようになっていってくれたら、僕としても「読書道場」をやっているかいがあるってもんです。

ということで、次回以後も、今度は休みの期間じゃなくても開講していきたいなあと思っております(時間がうまく調節できれば。。。できるのか?ほんとに?)。
で、できればほんとはもう少し、登場人物たちの心の動きというか、心理的な深みみたいなもののある物語を読みたいとも思ってるんですがね。
ただ、なかなか短編や中編で、しかも文句なくおもろい!といった感じのそういう小説が、僕が無知なせいか児童向け小説では見当たらないというか思いつかない。まあ活発というよりほぼ野蛮という形容がふさわしい男子諸君を念頭においてるせいもありますが。。。
もし、これ読んだ方で、こんな小説どうでっか?というものがあれば、今田までご一報ください。

それでは、それでは。

8月焚き火 in 奥多摩

どうも、どうも。
東京は夏だというのに毎日なんか曇ってばかりの日が続いていますが皆さんいかがお過ごしでしょうか。ひょっとして僕が暑さを呪い続けたせいでしょうか。

さてさて、この日曜日は恒例の焚き火の会 in 奥多摩に行って参りましたよ。
なんと今回、我が家は娘のみならず、たまたま東京に遊びに来ていた甥と姪も参加。
相変わらずアウトドアで全く役に立たない僕は引率者というより完全保護者の一人でした。松永先生、前田先生、レイ先生、すみません。

けれども当日はあいにくの天気。
冒頭にも書いた通り、東京は曇り続きで日曜も8月というより9月上旬の気温。
川の水は増量してるしめっちゃ冷たい。
足をひたしているだけで、大人は凍える冷たさです。

ですが。

まあ、子どもにはあんまり関係ないんですね。やっぱり。
関係なく、飛び込んでおりました。滝壺に。
最近、その楽しさを知ってしまった娘も何度もチャレンジ。ついには三年生にはちときつい、一番高い岩からもダイブしておりましたよ。親の心配子知らず。

午後からは前田先生サマースクール組も合流。
かつてないほどの大人数になって、まさに「子ども祭り」状態でした。
昼食の豚汁も焼きそばも完売。ほんと、大盛況でしたよ。

甥と姪も楽しんでくれたようで、川の上流に探検に出かけたり、女子チームを作って男子たちに(主に標的となった中学生に)水鉄砲で執拗に水をかけたり。
甥は松永先生持参の豚トロ焚き火串焼きがチョー気に入ったようで、翌日になってからも「あの豚トロ、めっちゃうまかったな。また食いたいなあ」と腹回りの贅肉を気にしながらのたまわっておりました(小5男子甥のお腹は既に中年のごとき貫禄をたくわえてしまっているのです。残念です)。

そんな中、僕が注目したのは小学生たちの喧騒を避けて一人黙々と勉強をする男の姿。
中学生Y君。何もこんなところまで来て勉強せずとも、とも思いますけど変わり者Y君はどこ吹く風。あくまでマイペース。
でも、まあ。わからんでもないですね。
「マエスク」が最たる例ですが、いつもと違う自然環境の中、ふと勉強したり読書したりしてみると、思った以上に集中できたりするもんです。
そんな僕だって、お盆中帰省していたんですが、親戚と行った有馬温泉や妻実家でなぜか本ばかり読んでましたよ。なぜか、普段より気分良く、集中して読めたりするから不思議です。

そんなこんなで今週も金曜日、明後日ですが再び奥多摩に行ってきます。
今度は奥多摩の「囲炉裏教室」で、8月の「読書道場」です。
まさしく、いつもと違う自然環境のなか、集中して読書できると良いなあと思っとります。

さてさて、今日はこの辺で。
さすが8月夏休み。多忙です。なかなかブログも更新できず記事も短くなっちゃいますね。
8月行った授業のことや作文のこと国語のこと、いろいろ書きたいことはあるんですが、間に合いません。またの機会に。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏休みに文章を書こう

どうもどうも。

夏なのに妙に涼しいなあなどと思っていたら急に蒸し風呂みたいな暑さになったりして全く自律神経がついていかないよ何か風邪ひきそうってな感じの日が続いておりますが皆さん如何お過ごしでしょうか。僕はもう一回風邪ひきました。

さてさて。最近は夏休みということで、普段はV-netに通えないようなお子さんのレッスンが続いております。

その依頼の内容はというと、今夏は、というか毎夏休み多いのが、やっぱり作文です。春先の休みは入試、というか国語全般のご相談が多いのに対して、夏休みは宿題の影響でしょうか、作文の依頼が多いんですね。

いま宿題、と書きましたが、夏休みの宿題と言えば、読書感想文。

子どもたち、だいたい嫌いですよね、読書感想文。その他、日記とか自由研究とか、いろいろな作文の宿題。

でも、ね。

やっぱり重要です。作文。というか、文章を書く力。でっちあげる力。

特に子どもの、小学生くらいの年齢で、文章を書く力を身につけておくと、後々、楽ですよね。

読書感想文なんて、本読んで感想なんて何もないよ、おもろかったの一言で終わりだよ!って気分にも確かになりますが、一方で大人になれば、特に感想も何もないレポートをクソほどでっちあげる必要が出てくることも事実です。

今さら言うことでもありませんが、日本で生きている限り、日本語で文章を書く、作る作業から逃れることは、なかなか出来ません。大人になれば、なるほどそう。

でっちあげもたくさん書かねばならなくなる。例えば就職時のエントリーシート。「本当のこと」を書いてたら、誰も就職できませんよ(っと、就職したことないオッサンがテキトーなことを言ってます)。

でも、こういうでっちあげの文章。思ってる以上に、書くのに困ってる大人は多いみたい。新書のコーナーに行けばわかります。「文章の書き方」的な本の多いこと多いこと。ネットで文章、書き方、で検索すれば、死ぬほど類似のページが出てきます。

となると、やっぱりこういう力を子どもの頃に身につけておきたいところです。

どうすれば、いいか。三つ必要です。

一つはやっぱり定期的に書いておくこと、書き続けること。これは、前にもここに書きましたよね。

文章ってやつは書けば書くほど上手くなります。どんなに下手でも書き続けることです。そのうち、その子どもなりのリズムというか、書き方みたいなものが、ある程度出てきます。逆いうと、長いブランクがあると大人だって「あれ?この文どこで切ればいいの?意味不明に長い文になっちゃったけど」って感じで書き方がわからなくなってしまいます。

次に読書。

やっぱりアウトプットするにはインプットが必要。「何でもいいから文章を書け!」って言われたって、その「何でもいい」のお手本がわかってなければ書きようがない。かといって文を書く段になって「お手本の文章」を探すことなんてできません。だから出来れば普段から本読む習慣があってほしいところ。逆にいつも本を読んでいる子はアイデアさえあれば、自然と言葉が出てきます。

最後はやっぱり自信を持つこと。

これには周りの大人のフォローが必要。とにかく子どもが頑張って書いた作文は褒めてあげること。いや、もっといえば「演技」が大切。いかにも面白い、笑える、すごい!こんなに書けるんだ!って感じで演技してあげてほしいです。親が、大人が、自分の書いた「作品」に興味を持ってくれている、面白がって楽しみにしてくれている、っと子どもに感じさせること。特に小学校の中学年くらいまでなら、これが、子どもが自分の文章力に自信を持つきっかけになる。

とはいえ。

三つ目のもの以外、はっきり言って、そう簡単ではない。少なくとも、周囲の大人の努力だけでは、なかなか文章を書く習慣も、読書の習慣も簡単には身につきません。もし簡単なら、親ならみんなもうやってるはず。

ということで、せめて夏休みくらい、学校や習いごとのないときくらい、腰を据えて文章を書く練習を、読書を、やってくれないかなあ?っと多くの親は思ってしまうし、その思いを汲み取って出されるのが各種の作文の宿題なわけです。たぶん。きっと。いや惰性で出ているわけじゃあない、よね?

でも、ここに落とし穴が。

大人の皆さんも覚えていると思いますが、夏休みの宿題ほど、うっとうしく面倒なものはない。せっかくの休み、勉強や「学校的なもの」から解放されたいのに、こいつのお陰で解放感もなんだか半減。とくに作文は後回しになったあげく、夏休み終盤にひいひい言って仕上げた記憶もあるはずです。

はっきり言って、これでは意味ないですよね。上に挙げた三つ目の要素、「自信を持つ」の反対の効果しかない。つまり「文を書くこと」にネガティヴな印象ばかりが付いてしまって、かえって作文が嫌いになってしまいます。その挙句、大人になって「文章の書き方」のような本を読んでるんじゃ仕方がない。

では、どうすれば、いいのか?  夏休みの作文をポジティヴにこなせて、できれば文章を書くのを好きになってもらう方法は?

そうそう都合よくはいかないにしても、せめてポジティヴには乗りきってほしいところ。それくらいなら、多少は大人の出番もあります。特に子どもが3〜4年くらいまでなら。

それは何とかイベントにすることです。あくまでイヤイヤやる課題ではなく、「作品」をつくる感じを醸すこと。

夏休みの工作とかと同じことです。できれば、お父さんお母さんも、同じ本を読んで、一緒に作文を書いてもいい。それができなくとも、せめてそういう1日をつくって一緒に作文を仕上げてあげて下さい。もし読書感想文なら、本を選ぶところから一緒に選んであげてほしい。

決して、子どもだけの、「孤独な作業」にしてしまわないことです。孤独な事務のごとき「作業」を楽しくやれるはずがない。そうではなく、「文章をつくること」は、あくまで「創作」のはずなのです。そして「創作」とは、できれば皆で「楽しむ」もののはずなのです。

だから、当然、それは自由なものでなくてはならない。あれをしてはダメ、これをしてはダメ、で面白いはずがありません。例えば「感想文」から離れたものになってしまったって構いません。あくまで「文章」を「創作」することが目的なのですから。

「何だか読書感想文というより、小説というか、マンガみたいなギャグばっかり書いてて。。。」別にいいんです。そんな「創作」ができるのなら、思いっきり褒めてあげて下さい。だって大したものでしょう? 他人の「創作」に刺激されて、感想以上のものをうみだすことができたなら。

そう、ここでも同じことを言います。出来上がった「作品」は、それがどんなものであろうとも、褒めてあげてほしい。「演技」して面白がり喜んであげてほしいと思います。それによって作文という「夏休みの宿題」が、個人の「創作活動」として完成します。読み手を持ってこその「作品」です。

そうして、その「創作」を成功させたという幼い記憶こそが、文章を書く、という力を、才能を、その子に芽生えさせるきっかけとなるはずです。

今日もいろいろ長々書いてしまいました。できれば多くの子どもたちにとって夏休みが楽しいものになってほしいと思います。

ということで、僕はこれから娘の夏休み課題、「フォト俳句(何か写真とって俳句をそれに付けるとかいうやつ)」の対策を娘と一緒に考えます。

それでは、それでは。