子どもの「自主性」

どうもどうも。
いよいよ7月となりましたが、僕の大嫌いな梅雨があける気配はまだありません。あーもうヤンなっちゃんぜよ梅雨とかマジない年中サマーバケーションな世界に行きたい(ウソです。砂漠とか嫌です)。そんなこんなで皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は最近体調がいつも優れません。

さてさて、そんなネガティブ感満載の月1ブログ(あ、このブログはほんとは6月終わりに書いてるのでギリギリ月1です)。
今月のテーマは、ズバリ「子どもさんの自主性」について。

久しぶりに、いや久しぶりでもないかもしれませんが、答えが全く記事書いてる中で出そうにない問題をぶっ込んでいきます。
いや、ほんと別にいつも答えを出そうとしてるわけじゃありませんが。

ありませんが、今回は、特にそう。
なぜなら、これは僕自身が、絶賛悩み中の問題だからなわけです。というか、なかなか答えが出せないなあと昔から思う問題だからなわけです。

いや、悩み出す前に、まず前提を書いておきましょう。

「子どもの自主性を重んじる」
これは正しい。
単なる言葉として、お題目として掲げるだけなら、21世紀現在はほとんど誰も反対しないテーゼかと思います。
いや、もちろん、これにも反対するような昭和的保守人間だっているかもしれませんが。

しかし、一歩引いて考えてみると、当たり前ですが、これはなかなか難しいテーゼなのです。

まず、「子ども」とは誰でしょう。
9歳の少年でしょうか? 17歳の少女でしょうか。
そして「自主性を重んじる」というのは、どの程度のことを言っているのでしょうか? 人生の進路みたいな漠然としたことを言っているのか。それとも日々の日常の過ごし方含めた行動全てでしょうか?

ちなみに17歳の少女の人生の進路を自分で決めさせないなんてことを言い出すのは昭和的保守人間だけでしょう。だから、ここに悩みどころはない(いや、個人的にはね)。

では、9歳の少年が昼夜逆転生活を送っていて夜中ずーっとゲームなりアニメなりやりたい放題見たい放題の生活を送っていたら? それが、もしあなたのお子さんだったら?
9歳は極端な例だとしたら、12歳や13歳ならば? これならある程度ありえる話です。
皆さんが、その子の親なら、どうしますか?

18世紀の回答は実にシンプルです。
「子ども」という存在は「教育」によって知的技能や判断力、道徳性を養われる。それゆえ、人は「教育」によって「人間性を完成」させられる。逆に言えば、「教育」のない「子ども」は人間性が完成していない知的技能や実践理性の劣る存在である。
こう言ったのは、カントです。
ちょっと雑な要約かもしれませんが、おそらく「近代」の教育はこういった観念を共有していたと思われます。
つまり、実践理性や判断力の劣る「子ども」はいわば「半人前」の存在であり、自主性以前に教育による「訓練」「配慮」が必要である、と。

現今の日本の公教育システムも、こうした観念に立脚していると言って良いでしょう。
あ、でも日本の「起立、礼、前ならえ!」とかは戦前の悪しき教練的思考の残滓であり、いま現在も続いているのは狂気の沙汰です。ブラック校則? ああ、それはたぶん田舎の刑務所の話に違いありません。

一方、21世紀現在の僕たちは、全く別の答えをも持っています。
例えば、上記のカント的?教育観と正反対の教育観が、サドベリースクールの教育観でしょう。

日本だけでも様々なサドベリースクールがあり、それらのスクールの考えを一つにまとめることはできません。
が、おそらく共通しているのは、スクール(=大人)が子ども達に「学ぶべき内容」を押し付けることなく、またスクールの運営や諸ルールそのものも子ども達を中心に全員で決めていく、という特徴でしょう。

こうしたサドベリースクールの教育観は、まさに「子ども」を年齢で区別せず「自律」した存在であると捉えたものです。
子ども達を「自律した人間」であると捉えるからこそ、彼らが自主的にルールを決め、自主的に学ぶ内容も決めていくのだと考える。

サドベリースクールでなくとも、多くのフリースクールには、根本的なところで同様の教育観、「子ども観」があると考えられます。
個々のフリースクールは、それこそ多種多様な価値観で運営されているため一概に言えませんが、学ぶ内容を強制しないことであったり、ルールを子ども達の話し合いや自主性に任せているところは多いのではないでしょうか。
ちなみにヒルネットでも、子ども達が「学ぶ内容」は自由ですし、諸処の出来事・問題は最終的に子ども達を含めた話し合いで解決します。

このようにサドベリースクールを最左翼として、現在のフリースクール的な教育観の根底には、18世紀的「子ども観」とは反対に、子どもを自律した存在として遇し、その自主性、主体性を重要視する考えがあると言えるでしょう(さらに言えば、子ども達に真の自主性を持ってもらいたいがために、あえて「自律した存在」として遇しているとも言えるでしょう)。

さてさて、差し当たり正反対の二つの教育観を見たところで、最初の質問です。
では、自分の子どもがーーさしあたり12歳の少年としましょうーー例えば昼夜逆転生活を送っていて夜中の間ずーっとゲームやってたりアニメ見てたりマンガ読み続けてたり、ついでにタバコでも吸っていたりしたら?
その「自主性」を信頼できますか?

「いや、タバコはそもそも法律で禁じられているし健康に悪いから取り上げた方が良い」
「昼夜逆転していると健康に悪いし、そもそも学校に通えない」
「学校には通わなくても良いが、成長期にあまりに不健康な生活を送っていると、将来、身体的な成長未然を原因とする不調が表れるかもしれない」

教育的な「配慮」として、大人が介入してよさそうな理由はたくさん思いつけるでしょう。
しかし、12歳くらいの少年は(もちろん個々の成長は人ぞれぞれだとしても)、それなりに未来を見通した自己判断ができる年齢でもあります。上記は、その「彼」の自主的行動です。
いや、それができない年齢だ、と考えたなら、それはその時点で子どもを「自律」した存在と見なしていないとも言えます。

いや、こんな極端なケースはまれだろう。
そんなふうに考えるとしたら、大間違いで、上記のようなケースは多少話をミックスしているとはいえ、決して少なくありません。
さすがにタバコの例は今現在は、聞いたことがありませんが、過去にはあります。というか、もう時効でしょうから告白しちゃいますと、ゲーム以外の全てに、これは僕の弟の12歳の頃に当てはまります(ごめんね弟くん。君の恥部をこんなところに晒したせいで君が君の子どもに責められたら僕が謝りに行きます)。

ちなみに僕の答えは。
まず前もって言っておいたように、絶賛お悩み中です。

ヒルネットのスタッフとしては、まあ健康上推奨はしませんが、まずは見守るしかないと考えます。
まして、その少年にそのような生活を送らざるを得なくなった生活上、心理上のトラブルがあったなら、行動自体は咎めるべきではありません。
昼夜逆転にしろゲーム漬けの日々にしろ、そこを「逃げ場」とせざるをえない原因があったなら、結果としての行動を咎めるより原因を解決しようと考えるべきです。

いや、たとえそんな明示的な心理的問題がなかったとしても、無理矢理、「矯正」などすべきではない。いま文字にして思いましたが、どんなことであれ子どもの行動を大人が、親が、無理矢理押さえつけようとすることに、僕個人には強い抵抗感があります。

今、僕個人と書きましたが、だいたい僕自身、12歳ではさすがにありませんでしたが、不登校になった10代前半は自堕落の極みと言ってよい生活をしていました。。。14、5歳の頃は、もちろん昼夜逆転。ゲーム漬けではありませんでしたが、明け方までマンガ読んだりテレビ見たり。およそ生産的でない毎日。
どの口が「昼夜逆転は健康に良くないよ」などと言えるのか。
(いや、おかげで40代的に健康を害しやすくなっているのも知ってるので、「その口」ではアドバイスしますが)

ちょっと脱線しました。
いずれにしろ、ヒルネットで種々のご相談を受け、また少なくない子ども達の身を預かる者としては。
やはり、なるべく子ども達を「信頼」したい。その自主性を大切にしたい。

もちろん、状況について話し合うのは良いでしょう。親として、大人として意見を言うのも良い。
でも、あくまで対等に。子ども達を一人の自律した個人として遇した上で、「話し合う」べきでしょう。
何となれば、最終的には、昼夜逆転してたってゲーム漬けになってたって、それはその子の人生です。

逆に言えば、必ず、その子自身が、自分の人生にとっての「最適解」を見つけます。
ゲーム漬けの生活がいつか良くないと自分で思えば、自分で違うことに目を向け始めます。昼夜逆転だって直します。信頼するとは、そういうことです。
実際、いまこうやって書いている僕の頭には、かつて「ゲーム漬け」だったり「昼夜逆転」していたりしながら、いまや立派に自分の道を歩もうとしている青年達のことが何人も浮かんできます。

だから、僕は子ども達の自主性を「信頼」したいといつも思っています。
ヒルネットのスタッフとしてはもちろん、二人の子どもの親としても。

親としても? 本当に?
はい、こっからぶっちゃけ正直トークです。
上記の心構えで終わっていたら、何も絶賛お悩み中とは書きません。

理念を持つことは大切だし、まずは上記の心構えを持ちことが必要です。それは前提。
しかし、そんな理念を僕は自分の子どもに対して、ちゃんと実践できているだろうか?

明示的にあーしろこーしろなどと言っていなくとも、言外に「自分の思う理想」みたいなものを娘に押し付けていないか?
長々とアニメを見ている7歳の息子に不快な表情で「テレビ見過ぎじゃない?」と言ってないか?
そもそも「唯我独尊」的な僕の性格は、子ども達から自主性を奪っていやしないだろうか?

そう。
実は問題は、「昼夜逆転したゲーム漬けの12歳少年」のような、一般的に考えて色々と問題があるかのように見える「ケース」ではないんです。
そういう「ケース」の場合は、むしろ逆に親御さんも、覚悟を決めて「今は見守るべき時期」と思えるかもしれない。

問題は、もっと生活上の瑣末なことです。
例えば、「自由に物事を考えられる主体的な人間になってほしい」と理想を語る反面で、子どもに過剰な「勉強」を押し付けていないか。
それこそ「ゲームの時間」を制限するのは「当たり前」だと思っていないでしょうか?

いや、ゲームの時間を制限することが、「悪いこと」なのではありません。
ただ、「子どもの自主性を重んじたい」と思っているにも関わらず、ゲームの時間については親が勝手にルールを作ってしまえば、それは矛盾だよね、という話です。
そして、僕自身、そういう矛盾を犯してしまいがちなのではないだろうか。

さらに言えば、日常の瑣末な出来事の中で、そうした「矛盾」を矛盾と意識しないままでいれば、まさしく自分の子どもが「昼夜逆転したゲーム漬けの12歳少年」のようなケースと同様な状態となった際、本当に子どもを「信頼」し続ける態度、心構えを維持していられるだろうか。
結局、「見守る」などと言いながら、中途半端に「上から」叱るような愚を犯してしまうのではないか。


絶賛悩み中というのは、こういった意味からです。
ですから、今回は本当に答えも解決もありません。
僕自身が、二つの方向に引き裂かれているような感じもしちゃいます。

ヒルネットで何人もの子どもや親御さんと接している僕と。
「一回限り」の子育てを永遠の初心者として行っている「親」である僕と。

悩みは尽きません。
皆さんは、そんなことを考えたりはしませんかね?

きっと「正解」はないんだと思いますが、いつの間にか色々な子ども達と関わる人生を歩むようになってしまった者の責任として、僕はこれからも「子どもの自主性」については悩み考えていきたいと思っています。

それでは、それでは。

フリースクールにだって簡単にゃ行けんさ

どうも、どうも。
東京は今日も雨。めっちゃ雨。いよいよ僕の天敵たる梅雨の季節がやってきた模様です。っていつもより早くない?早すぎない?
いやー雨は大嫌いなんですよ。濡れるのが嫌い。見るのも嫌い。思春期のころ雨が降ると天パの髪が湿気のせいですぐフニャフニャになってムカついたトラウマのせいなんでしょうか。農家の人には悪いが梅雨ほど嫌いなものはない。そうだ、北海度に移住しよう。

などと、雨が嫌いとうことだけで、すでに一定の文量を消費してしまっている駄目ブログですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

さて、本日のテーマ。
それは「別にフリースクールに無理に通わせようとせんでもええ」。

お、なんだ、この自己否定的なテーマは。
先日の記事で書いた通り、せっかく自分でフリースクールを始めて2年が経ったっちゅうのに、なんでそんなこと書くんや?
というか、「フリー」なスクールなんやから通わなくていいのは自明でないのん?

おっしゃる通り、「フリースクール」は当たり前ですが、通っても通わなくてもいい場所です。
まさしく、そこは「自由」な学校のはず。

ところが、最近、公私ともに相談ないし質問等受けるものに、以下のような話があります。要約すると、
「息子or娘が中学校に行かなくなった。それはもう仕方がないが、せめてフリースクールに行けばどうかとすすめるのだが、これを息子or娘が断固として拒否する」
ってな話です。

これ、親として、気持ちすごくわかる。
僕自身、自分が不登校だった経験から、あまり学校制度自体には重きをおいていませんが、自分の娘&息子が平日の昼間っからちゅどーんと家に居られると、「ヘイYOU! お前さんの少年少女的ニチジョーはマジそんな感じでダイジョーブなのかYO! せめて太陽の光サンサンと浴びてセロトニン出す生活してみたらどうだってばYO!」って口走りたくなります。

だから、とりあえず我が子の「不登校」という現実を受け止めた親御さんたちは(こうなるにも相当の修行が必要ですよね)、「学校以外の通う場所」を見つけてあげたくなります。
いや、別に家に子がいてくれてもいいんですが、特に都市部に暮らしている人間としては、せっかく学校以外に色々な「学び場」があるのだから、そういう場所を利用した方がこの子の人生の可能性が広がるんじゃないの? そう考えてしまいます。いや、「しまいます」と書きましたが、それが至極フツーでしょう。

また、他者と関わらない少年時代を送ることで、大人になったとき一定程度必要な、社会性が身につかないのではないか、という心配もあるかと思います。

ただ、ね。
上の要約文に、あえて「中学生」と書きました。
というのも、やはり中学生以上の年齢の子にとって、場合によっては「フリースクール」に類するものは結構ハードルが高い。
なぜか。
これは以前、記事にした記憶もあるのですが、中学生ぐらいの年齢の子どもたちは、ただでさえ自意識がめっちゃ発達している。というか、大人から見るとヘンテコに発達している。
「え? そんなこと気にするの? 君の寝グセなんか誰もみてないよ?」と言っても寝グセひとつで世界の全体が自分を嘲笑しているかの錯覚に陥るのが14歳の少年少女。エヴァンゲリオンに乗れる子どもたちの条件なのです。ATフィールドは心の壁なのです(すみません)。

だから、彼・彼女らは、できれば「ふつう」でいたい。
大人である親以上に「ふつう」からはみ出すのが「怖い」のです。

いや、もちろん、そんなふうには決めつけられない。そうじゃない成長期のお子さんだっているでしょう。
あくまで、これは相対的な話です。
ただ、少なくとも、「俺はフツーなんて大嫌いだぜ! 変人呼ばわりけっこう! 俺はそこらのフツーの大衆とは違う生き方をするんだぜ!」などとシャウトできるのは大人の中二病患者だけです(僕とか)。
まあ、多くの場合、少なくとも高校生以上ぐらいの年齢にならないと難しい。

ともあれ、仮に「ふつう」からはみ出すことを恐れる自意識に苦しんでいる中学生くらいの少年少女がいたとして、彼らがいわゆる「不登校」の状態に陥っていた場合。
学校には行けない。でも、そんな「ふつうじゃない」自分がイヤだ。じゃあ、どうすればいい? やっぱり学校に行こうか。でも朝起きると、やはり学校に行くことは「不可能」になる。でも、それはきっと「ふつうじゃない」……。
この堂々巡り。
この、どうしようもない心理的隘路から抜け出すのにすら、子どもによってはかなりの時間がかかるものです。

そこに。
「もう学校行きたくないんなら、行かなくていいよ。それより、〇〇っていうフリースクールがあるから、ここに通ってみること考えてみない?」
という親からの提案。
それは、まだ心の整理のついていない彼・彼女からすると、「いやいや待ってくれYO! まだ俺その段階じゃないから!」ってなっちゃいますよね。


つまり、「フリースクールに行く」という選択は、「不登校の自分」=「ふつうじゃない自分」を認めることになりかねない選択なのです。それを受け入れるには、まだ準備が足らない。
そして、場合によっては、そのような提案をしてくる親は、自分のことを「ふつうじゃない」と見ているんだと思い、傷つき反発します。

いや、保護者は悪いんじゃない。
お父さん、お母さんだって悩んだ末に、子の「不登校」を受け入れ、そういう提案に至ったはずです。ただ、大人である僕たちと、子どもたちとでは、心の時間の流れ方も違えば、色々なことを整理するやり方だって違うというだけです。
(ついでに言うと、「保護者が悪いわけじゃない」ということ。これは何度も言っておきたい。
子どもが「不登校」になると、特にお母さんたちは、「私の〇〇が悪かったのでは?」「あのとき、こうしておけば良かったのでは」と自分を責めます。その心理も痛いほどわかります。
でも、「素晴らしい子育て」なんて、みんなできるわけがない。
誰にとったって「親」になることは初めての体験なのです。
そして、子が「不登校」になったことは、貴女の「失敗」などでは断じてない。それは、その子にとって、必要な「成長のプロセス」なのです)

さて、ではどうすれば良いのか?
もちろん、それは一人ひとりの子どもによって違います。ケースバイケース。
ただ、それでも大まかに言って、いくつかのモデルケースはあるかと思います。

まず、大前提として、その子ども自身がある程度、「動き出す」兆候をちょっぴりでも見せてくれるのを待つ必要があります。
繰り返せば、まだ上記のような心理的悪循環の中にいる状態、言葉を変えれば、「エネルギー不足」の状況で、親がいろいろ提案をしたって、「シャッター」を下されてしまうのは、目に見えています。
あくまで、彼・彼女が自分のココロと折り合いをつけるのを、ある程度待たなければいけない。

その上で、彼や彼女が、少し前向きに、「外」に出ても良いかな、といった素振りを見せてくれたなら。
例えば、高校受験をどうするか、なんて話を子どもの方から、ふと振ってくることがあったなら。そんなことを考えられるだけの「エネルギー」が満ちてきたなら。

そのとき、初めて色々な選択肢があるという話をしてあげれば、良いと思います。
高校には必ずしも行かなくとも高卒認定試験などの制度があること。
通信制の高校だってたくさんあること。
そして、もし今、人と交わっていく気持ちが少しでも芽生えてきたのなら、フリースクールのようなところに通うことだってできること。

何も目的は高校なんかじゃなくてもいい。
僕の知っている子は、ただ何となく何も勉強していないと不安だから、と塾に通い始めた子もいます。
好きだった絵なら、習いに行ったっていいと言って画塾に通うようになった女の子もいます。
それどころか、なぜだか突然、旅行がしたいと言って、自転車で全国をめぐるようになった少年もいます。

フリースクールは一つの「手段」にすぎません。
どんな形になるかはその子次第です。が、必ず子どもたちは、自分に合った、「外」の世界との向き合い方を見つけていくはずです。

もちろん、この話は中学生だけのことではありません。
早熟な小学生高学年くらいの子であれば、中学生と同じように、自意識からくる苦しみを感じている可能性が高い。
特に近年は不登校の低年齢化が進んでいます。
とはいえ、やはり小学校の低学年、中学年くらいの子であれば、まだフリースクールや、その他のオルタナティブ教育に、親がすすめるままに乗ってきてくれることも多いでしょう(もちろん、これだってケースバイケースです)。
そして、そんなふうに自意識がまだ育ちきっていないからこそ、学校以外の場所であっても「他者」と触れあうことの効用は大きいと言えるでしょう。

逆に言えば、中学生くらいまで「学校」の中で「他者」に囲まれ自意識をすり減らしてきた経験のある子どもが、たとえ「不登校」となり数年間「孤独」に過ごす経験をしたとしても、再び「外」の世界に出ていった時に社会性を取り戻すのに、そんなに時間はかかりません。子どものころ自転車に乗れたなら、数年乗らずともすぐ感覚を取り戻すのと同じです。

ですから、まずは「待つ」ことです。
いろいろと子どものためにしてあげたい。提案したい。問題を解決してあげたい。
わかります。その気持ちは、痛いほど。
しかし、その「解決」は、ひょっとしたら、子どもの「不安」を解決してあげるためのものではなく、自分の「不安」を「解決」しようとするための手段なのかもしれない。

「待つ」ことは本当に辛い時間です。
ですが、子どもを信じてあげてほしいと思います。
何もせず、ボケっとゲームばかりやっている息子の少し大きくなった背中を見ながら。一日ソファから動こうともしない娘のソファの端からはみ出た足を見ながら。
でも、彼も彼女も、本当はボーッとしているわけではないのです。
心の中で、さまざまな声と戦いながら、時に怯え逃げながら。少しずつ少しずつ、心の幹を育てているのです。
それは大人から見れば、とてもゆっくりな足取りでしょう。
それでも、確実に、彼も、彼女も、半歩ずつでも、足を前に進めようとしているのです。
自分の人生を歩む「力」を蓄え続けているのです。

それでは、それでは。


「成長」のための居場所

どうもどうも。
ちょっと肌寒い日もあることながら、桜もだいぶんと前に散っちゃって、いよいよ春本番(誤用)といったここ最近の日々ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。この書き出し久しぶりやね。

いつもいつも無駄にダラダラと文章を書き連ねておる当ブログですが、今月は少々短めの記事。ちょっと、ここ最近いろいろ疲れとんねん。

で、疲れておるにも関わらず、忙しいなか、何でこの月1ブログを今日書こうと思ったか、いや書かねばならぬと考えたのか。
それはちょいヒルネット(僕のやってるフリースクール)のことを書かねばならぬと思ったからなのでありました。

そう。
なんと、この4月で、ヒルネットも活動を開始してマルっと2年。
活動開始、2周年を迎えることとなったのであります!

おお。我ながら感慨深い。
。。。というほどでも実はないのだが、やはり節目にこういう記事を書いとくのも大事かな、と思いましてね。

でも、活動開始して1年を記念するとかならわかるけど、なんで2年?
そう思われる方もおられるでしょうが、ちょうど今から1年前は、いわゆる「緊急自体宣言」のさなか。バタバタしておって、落ち着いてヒルネットの記事をあげとる場合ではなかったんですな。
(おっと、そういう今も緊急事態宣言のさなかなわけですが、やはりガースーやコイケ女帝がいろいろ言っても一年前とは全然違っちゃうわけですよね)

ということで、コロナについては、今もおさまっておるわけではありませんが、2年経ったここいらで総括記事を少しく書いてみたいなと思ってみたりしたわけです。

いやー、いろいろあったよねー。
ま、そんな「いろいろ」をいちいち記事にしとったんでは、キリがないどころか永遠に終わらない。
でも、何よりこの2年間、僕が痛感したことは、


子どもたちに勝手な「教育」を押しつけてはいけない

ということでした。
まあ、これはフリースクールに限らないのかもしれませんが、とりわけ子どもたちの意思や自由を尊重した環境づくり、居場所作りに腐心してきた身としては、特に強く感じたことでした。

いや、ね。
ヒルネットを始める前は、こう見えても、いろいろ考えとったわけです。
こういう感じの教育を実践してみよう、こんなふうにすれば子どもの好奇心や探究心は芽生えて行くんじゃないのか云々。
それはブイネットの個人レッスンやグループレッスンで培ったメソッドも色々ありましたしね。

でも、違うんですよ。
ヒルネットを始めてみて、すぐに気づきました。

僕のところに、少なくともヒルネットに集ってくれた子どもたちが求めているのは、そんな「大人が理想とする教育」なんてもんじゃない。

ヒルネットを頼ってきてくれた子らは、皆、とても感性が豊かで、想像的で、物事の変化に鋭敏な子どもたちです。
でも、だからこそ既存の「学校教育」のなかで、何らかの形で傷をおわされてもいます。それゆえに僕みたいなひねくれたオッサンのところにわざわざ足を運んでくれたのです。

そんな彼・彼女らが求めているのは、大人が勝手に考えた「教育」なんてものじゃない。何かの枠組みじゃない。
そうではなく、もっと言葉にはしにくい、ある種の体験や学び、成長こそが大切なんじゃないか。

例えば、まずはそこが、その「場所」が、ちゃんと自分を受け入れてくれる居場所であるという実感。
そこで他の子どもたちと、ときにこすれ合いながらも、ともに過ごし成長していくという体験。
今までの自分が知らなかった場所が、世界が存在するという体験。
その世界の中で、自分の意思で、自由に何かに挑戦できるという実感。
上手く言葉にできない、そんな「実感」「体験」の方が大切なんじゃないか。

だから、最初頭にあった「僕の考えた最強の教育」的なものは、捨てました。
そうではなく、集ってくれた子どもたちの個性に合わせて、自在に形も方法も変えられるようにしよう。それこそ「ひるね」ができるような、子どもたちが気持ち的にのんびりできる場所となっていこう。

週一回のフィールドワークも、最初は「学習」に目線を合わせていましたが、今ではハイキングでも川遊びでも、ある意味で何でもありです。
教室でのWorkとしては、なぜか今では折り紙が流行っています。あるいは一日絵を描いている子だっています。
逆にお弁当を食べるために行っていた公園までの「散歩」は、1日の欠かせぬ「行事」になりました。

ところが。
そのような、まさしく「自由な学び場」であろうとするなかで、むしろ僕自身にも、子どもたちがある種の「学び」を得て、また「成長」しているのではという、それこそ「実感」が湧いてきたのです。まさに親ならぬ「教師無くとも子は育つ」状態。

では、それはどういう「学び」か。「成長」か。
これまた、簡単に言葉にするのは難しい。

例えば、いつも自分の気持ちが優先してしまってそれを注意されると塞ぎ込んでいた少年が、他人を労り他人に感謝し他人のためにできることをしようと思うようになった。
歳下の「子ども」が嫌いだった彼が、年長者として「ちびっ子」たちの世話をしてくれるようになった。
自分一人で電車に乗れず「お出かけ」先に興味もなかった彼や彼女が、東京のいろんな場所に興味を持つようになった。
ちょっと「散歩」に出るだけで疲れていた少女が、どんな山でも登れるようになった。

「言葉」にすると、それは本当に些細な変化に過ぎないかもしれません。
でも、僕は強く「実感」します。

その、言葉にすると些細な行動の内側に、とてもとても大きな「成長」があるのだと。
「勉強」とは違う、ささやかな「学び」が、彼・彼女の人生の大切な指針の一つになるのだと。

思えば、自分自身がそうだったではないか。
ろくすっぽ「勉強」などしなかった10代。大切だったのは、フリースクールや大検の予備校で知り合った知人友人と過ごした「時間」そのものだった。
何かを「学んだ」記憶も実は定かではないけれど、そこで彼らと、彼女らと、過ごすなかで起こった様々な出来事が、最悪なことも含めて、僕自身のココロの幹を少しずつ太くしていってくれた。
やがて、「勉強」とは違う「学問」を学びたいと思わせるココロを形作っていってくれた。自分がどんな人生を歩みたいかを「学ばせて」くれた。

今、ヒルネットという場所が、そこに通う彼や彼女にとって、そうしたココロの幹を太く強くできる居場所になっていてくれればと思います。それぞれの人生のカタチを学べる場であればとも思います。
そして、この2年間の経験は、そして子どもたちが見せてくれた「成長」は、そういう場所にヒルネットがきっと「成長」していけるに違いないと実感させてくれるものでした。

ヒルネットは、これからも水が自在に変化するように、子どもたちのあり方に合わせて形を変えながら活動をしていきます。
教室では自由に学び、遊びます。いろいろな場所や世界を探検します。

子どもはもちろん大人でも、「ひるね」するように、ちょっと休憩したいときは、いつでも立ち寄ってみてください。
それでは、それでは。