走れメロスについて②~メロスはもう少し計画性をもった方がいいと思う~

散乱本 さてさて、前回の続きです。
前回、話が脱線して周辺状況を書きすぎた結果、「走れメロス」に一言も触れぬまま息切れという無様を晒しちまいましたので、今回は最初から直球でいきます。

で、その「走れメロス」。有名な話ですので、いまさらあらすじを書くのもなんですが、一応、知らない人のためにwiki編集簡易版をどうぞ。

純朴な羊飼いの青年メロスは、妹の結婚のために必要な品々を買い求めにシラクスの町を訪れたが、人間不信のために多くの人を処刑している暴君ディオニス王の話を聞き、激怒。王の暗殺を決意するが、あえなく捕らえられ当然処刑を待つ身に。メロスは親友のセリヌンティウスを人質として王のもとにとどめおくのを条件に、妹の結婚式をとり行なうため3日後の日没までの猶予を願う。
メロスは急いで村に帰り、誰にも真実を言わず妹の結婚式を急ぎ、式を無事に終えると王宮に向けて走り出す。川の氾濫による橋の流失や山賊の襲来など度重なる不運に出遭い、心身ともに疲労困憊して体力の限界まで達するが、日没直前、今まさにセリヌンティウスが磔にされようとするところに到着し、約束を果たす。そして、彼らの真の友情を見た王は改心する。

さて、何だか、あらすじだけみると、やっぱりなかなか良い話みたいに思えますよね。
ちなみにこのお話には確か元ネタがあって、ギリシャ神話か何かを題材にしたシラーの詩がそれだったと思います。
基本的なストーリー構成なんかも、ほとんど同じだったように記憶していますが、ちょっとうろ覚え。
で、もし私の記憶が確かならば、上のあらすじはむしろシラーの詩のあらすじでもあるわけなんです。
そういう意味では、そりゃ詩なんですから、そんなヒドイお話のわけがないんですね。
じゃあ、そのプロットを借用した太宰の「走れメロス」もやっぱり詩的でシリアスな話なのかというと、

 


・・・・
いや、どうしてこうなった。

 

・・という感じです。
前にも書きましたが、どうして学校教科書は、それこそ私の子ども時代から変わらずコレを載せ続けてるんでしょうか。
上のようなあらすじしか知らないんでしょうか。
もし、この小説のショーダンが判るくらい笑いに敏感になってほしいと思って載せてるんだったら、それはそれでスゴイですけど。

 

では、どんなところがジョーダンなのか。
私なんか、冒頭の「メロスは激怒した。」っていう何となくバカっぽい書き出しからして、変な笑いがこみあげてきそうになりますけどね。
というのも、太宰の描くメロスという男、おそらくわざとなんじゃないかと思うんですが、正義漢や正直者というよりも、むしろ単純バカにしか見えないんですよね。
たとえば、こんな描写。

メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。

いや、そりゃ捕まるにきまってるやろ!
買い物もったまま行くなよ! いくら「単純」だからって、買い物背負ったままってことは、思いついた瞬間実行してんじゃねえか!
そこはもうちょっと計画とか考えようよ。王様殺す気ないやろ、ホンマは。
しかも「のそのそ」城に入っていくっていう描写。たった四字の表現ですが、ものすごくウスノロっぽい感じをかもしだしていて、ジワジワきます。絶対、わざとだろ、コレ。

さらにきわめつけ。
小説をよく読むと、メロスの行動に、おそらくは誰もがツッコミたくなるに違いない場面があります。
それは妹の結婚式に戻ってきたメロスが、急いで挙げさせた式も無事に終わって、さあ再び出発だと心を決めた次のシーン。

あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。……(略)……メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。

悠々と身仕度」しとる場合ですか!
このあと、あらすじにもあるように、メロスの行く手にはいろいろと障害が立ちはだかったりして約束の刻限に間に合わないんじゃないのかピンチ!ってな展開になるわけですが、それも寝坊のせいだったんじゃないの?とか考えちゃうと、一気に脱力しちゃいます。
このタイミングで、なんで寝るっちゅう選択ができるんや、キミは(実は前日も疲労からフツーに寝てます)。

しかし、お気楽単純バカのメロスはある意味ではブレません。
この後も、「まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃……」っと、余裕綽々です。好きな小歌ってなんやねん。
いやー、ほんとセリヌンティウスは可哀そうすぎますよね。
少なくとも彼はラストシーンで一発でなく百発以上メロスをどついて良かったと思います。
やっぱり友達は選ばなければなりません。

 

と、以上でメロスのダメダメぶりについては、よく判ってもらえたのではないでしょうか。
で、よくご承知のように、この「走れメロス」には、もう一人、重要人物がおります。
そうです、あの「邪知暴虐」で有名な人間不信の王様ですね。
この王様、基本的には物語の「悪役」として位置づけられているはずなんですが、上に見たようなメロスのウスノロっぷりを確認した後ですと、逆になんだか、こっちの方がマトモな人間のように思えてくるから不思議です。
次の場面は、暗殺にきたメロスと王様が最初に対面する場面です。

「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」

どうでしょうか? まあ、私の個人的な印象にすぎないのかもしれませんが、「わしの孤独がわからぬ」とか「わしだって、平和をのぞんでいる」なんて寂しげに呟いてるあたり、こちらの方が単純バカのメロスよりも人間的な「深み」があるように感じてしまいます。
しかも人間の心は「私欲」のかたまりなのであてにならない、疑うのが正しいと教えたのはお前らだ云々なんて言い方は、単に猜疑心が強いというより、近代人の自意識からくる懊悩を語っているかのようです。

 

さて、こっからは私の勝手な解釈なんですが(いや、まあ全部、勝手な解釈ではあるんですが)、この王様がマヌケなメロスに比べて、えらくマトモに描かれてるのは、やっぱりわざとなんだと思うんですね。
じゃあ、何でそんなふうに描いたか。
それは実のところ、元ネタのシラーの詩のプロットにあった価値観を逆転させようとしたからではないでしょうか。
つまり、真正直に他人を信頼したり友情をこの上なくロマンチックに考えたりするのは、やっぱりどこか「バカっぽい」ことなんであって、むしろ他人の心なんてあてにならないと不信の念を他者に抱かざるを得ないような心性のほうが――少なくとも近代人としては――ある意味「マトモ」なんだよ、と太宰は言いたかったのではないでしょうか。

私がヒネくれてるだけでしょうか?
いえいえ、前回ブログでみたように、太宰は私の何倍もヒネくれていたのです。
これくらいのことを考えていても何にも不思議じゃありません。
例えば、以下のような場面をみると、そんな解釈もそれほど無理スジではないように思えてきます。
それは、この「走れメロス」という小説のラストシーンにあたるところです。

ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。

どうでしょうか。 実はこの場面、いわゆる「裸の王様」の寓話になぞらえて描かれてるんじゃないかという説があるんですね。
もっともソースを忘れちゃったんで確かなことは言えないんですが。
でも、実際そういうふうに見てみると、確かにこの場面の構図は「裸の王様」に似てますよね。
素っ裸である(ことに気づいていない、あるいは忘れている)主人公が、子どもの指摘で裸だと気づかされ恥ずかしい思いをする、という構図です。
つまり、少女=〈王様が裸だと告げる子ども〉、フルチンのメロス=〈裸の王様〉、ということですね。

ちなみにメロスが何でフルチンなのか、物語の中で特に合理的な説明はありません。
「風態なんかは、どうでもいい」と必死に走ってるウチに脱げちゃったって感じで描かれてるだけです。
まあ、ここまで読んできた読者にとってはメロスの単純バカぶりをさらに際立たせる演出なのかな程度にしか感じないと思うんですが、太宰としては実は上記引用の「オチ」をやりたいがためにメロスをマッパにする必要があったんだと思います。

で、仮にこのラストシーンが「裸の王様」を意識して描かれてたんだとすると、こうなります。
メロス=〈裸の王様〉=〈自分の本当の姿に気づこうとしない愚か者or同調者ばかりに囲まれていて真実に気づけない人間〉。

どうでしょう? これだと、まさにオリジナルのシラーのプロットとは価値が完全に逆転しちゃうんですよね。
本来は、猜疑心の強い〈王様〉が、メロスの友情と正直さに触れて人を信頼する大切さという「真実」に気づく物語だったのに、以上の解釈だと、正直な心や友情の存在を疑ってもみないメロスこそが、実は「真実」に気づこうとしない愚かな〈裸の王様〉であり、つまるところ、人間の心とはやはり、私欲ばかりであてにならないものなのだ、ということになってしまうのです。

そこまで言わずとも、メロスが体現するような「真正直さ」や「信頼」「友情」なんてものは、 近代世界では、そう簡単に存在できるものではないし、仮にそれがあるかのように振る舞えば、おバカな〈裸のメロス〉のように、どこか他人には滑稽に映らざるを得ないのだ、というメッセージくらいは込められていたように思います。
少なくとも太宰が、「真正直さ」なんて信じていたとは思えません。

 

さてさて、いかがでしょう。さすがにメロスを勝手気ままにイジリすぎちゃいましたかね。
確かにちょっと、いきすぎた解釈(妄想?)であるとは思います。
ただ、ね。
まあ、こんなふうにいろいろと自分勝手に解釈したり妄想の翼を広げてみても、誰にも文句を言われないところが、古典的な文学作品を読む上での面白さなんじゃないですかね。
少なくとも、「他人を信頼することの美しさを描いたドラマだ!」なんて言われて読んで、つまんない説教をされたような読後感が残るよりかはマシだと思います。
これは文学に限らす、映画も絵画も音楽も、他人の批評や感想なんてどうでもよくて、自分勝手に解釈して自分勝手に喜んで自分勝手に好きになって良いもんだと思いますがね、私は。

ともあれ、今日はこの辺にしときましょう。
それでは、それでは。

「走れメロス」について①~太宰治と阪神ファンの共通点~

books800

さて、新たに開設した新ブログサイト。
一発目の記事に何を書こうかなあと思案していたところ、先日コピペした学校教科書での文学作品解釈をクサした記事に目がとまりました(下にスクロールすると載ってます)。

そういえば、ここで「走れメロス」に関する学校解釈をバカにしておきながら、自分の考えはあんまり書いてないなあと。
ということで、せっかくの新ブログ、教育ネタ以外も書いていきまっせとも言ったことだし、一発目の今回は、この「走れメロス」についてちょこっと書いてみたいと思います。
といっても、そんなマジメなもんじゃないので、あしからず。

さて、この「走れメロス」。
まあ一般的には、学校教科書のみならず、他者への信頼と友情を描いた美談として知られとります。
でもね、これ本当でしょうか?先に言っときますとね。


たぶん、ウソです。

あの太宰治が何のヒネリもなく、そんな話を書くはずないと思うんですよね。
そもそも太宰治とは、どんな作家なんでしょうか。
これまた、あまり文学に関心のない方なんかには、『人間失格』なんかのイメージから、根暗な小説ばっかり書いてた人なんてイメージもあるかもしれませんね。

でもね。ここでは詳しく書きませんが、『人間失格』だって、そもそもそんな暗い小説なんかじゃないんですよ。
もちろん、いろいろな解釈がありえますが、少なくとも、私はこれを読んで暗い気持ちになんかなりませんでした。むしろ、ずっとニヤニヤがとまらない感じです。
主題自体はマジメな部分もあるんでしょうが、書きようは結構フザケてます。
例えば「恥の多い生涯を送って来ました」という有名な書き出し。でもね。この後に続く文章、皆さんちゃんと読んでますでしょうか。
この続き読むと、むしろ完全にギャグなんですけど。以下、出だしの引用です。

 

恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

 

そんなワケあるかい‼っというのが率直な感想ではないでしょうか。
いくらなんでも駅の「停車場のブリッジ」を遊戯場なんかと勘違いするわけありません。東北人ナメんな。
いや、百歩ゆずって、そういう勘違いがあったとしても、それを「恥の多い生涯」の最初の例としてもってくるのは、明らかにわざとでしょう。
こんなふうに、自己嫌悪を含む太宰のナルシシズムを、非常にふざけたアイロニカルな調子で全体としても描き出しているというのが、この作品に対する私の印象です。
まあ、あくまで私の感想ですし、いま改めて読むとまた違うかもしれませんが。

ところで、いま上でアイロニカルという言葉を使いました。実は、このアイロニー、というか文学用語でいう、「イロニー」という言葉が太宰の作品を理解する上では重要なんですね。
戦前の、まだ若い頃の太宰治は、日本浪漫派という文学グループに属していたことがあります。この日本浪漫派、戦争中はかなり戦時協力的な感じの文章も書いていたために、戦後は弾劾されちゃったりした集団なんですが、まあ政治的な話はおいておきます。
それよりも、このグループ、特にそのリーダーであった保田輿重郎が重要視していた文学的手法が、ドイツロマン派から影響を受けた、「イロニー」という手法だったんですね。

このイロニーという態度、特に保田輿重郎的イロニーを、すごく乱暴にまとめてしまうと、「意味のないモノ、しょうもないモノを、それと知りながら、あえてだからこそ褒める態度」とでも言えるでしょうか。
保田輿重郎の代表的な作品に「日本の橋」という批評があるのですが、ここで書かれてる内容なんかで説明するとわかりやすいかもしれないですね。
この「日本の橋」のなかで保田は、日本の橋ってヨーロッパの橋に比べちゃうと、小さいし、ボロイし、ショボイよねぇっと、まずは日本の橋をクサします。じゃあ、やっぱり日本の橋なんかダメなのかというと、そうではない。
むしろショボくてダサくてボロっちいかもしれないけれど、だが、そこがいい! っとこうくるわけです。つまり、自分はそれが意味のないつまらないものであることを知っている。だが、自分はその意味のないつまらないことこそを評価するのだ、という理屈。

実はこれって最強の理論ですよね。まあ、少なくとも表面的には。
なぜなら、自分が褒めようと思ってるものを、他人がどんなふうにけなそうが、絶対に守れるんですよ。
例えば、こんなふうに。「ねえねえ、野球の阪神ってさ、めちゃ弱いよね。あんなの何で好きなの?」っと、こう批判されたとしても、「そうだよね。阪神めちゃ弱いよね。ダサイよね。応援するなんて意味ないよね。でもね、だからこそ好きなんやで、その弱くてダサくて意味ないところが‼」っと、こう返せちゃいます(なお、これは昔の阪神ファンのリアルな心情です。最近は知りませんけど)。

で、ですね。
実は太宰治の作品には、保田輿重郎ほどでないにしても、このイロニー的思考が色濃く反映してるんじゃないかと思うんですね。
上に挙げた『人間失格』だって、そうですね。
「オレな、恥の多い生涯送ってしもうてんねん……」→「でもさ、そんなオレって、けっこうナイスじゃない?」
っと、こういう感じで太宰のナルシシズムは構成されてるわけなんですね。
などなど、本題の「走れメロス」の話になる前に、ずいぶん周辺状況を書きすぎました。
まあ、ブログなんだから、アリですよね。
ということで、唐突で申し訳ありませんが、この話題は二部構成とさせてもらって、続きの本題、「走れメロス」については、次回のブログで書きたいと思います。
新ブログ一発目から尻切れトンボとは先が思いやられますが、まあアリ。

ということで、今回はここまで。

それでは、それでは。

新Blogサイト完成‼

ということで、今日。2014年7月11日。

実は、つい最近まで、私の勤めるV-netのHPの工事が行われておりまして。
で、その工事はつい先日、完了いたしまして、めでたく新HPのお目見えとなったわけなんですが、何と、それにともない従来のHPにのっかった形のブログではなく、教師個人がブログを開設、HP以外でもそれぞれに情報発信していくという話になったのでした。

ということで、昨日から、決してPCに強いわけでもないのに、変な広告が載るのがイヤで、何とか独自にブログを開設しようと(っといっても独自サーバーのモンじゃないですけど)四苦八苦しておりました。

 

そして。ついに完成。

 

もったいないので、過去のブログ記事も最近のモノを中心に、コピペでこっちに貼っ付けました。
おかげで何だが、今日だけエライ記事更新してるやんみたいなイビツなことになっちまいました。まあ、アリ。
一応、いま現在の記事とゴッチャになっちゃまずいので、コピペのぶんはなるべく過去の日付を入れとります。まあ、忘れているのも多そうだけど。

今までの記事はV-netHPに載せるものだったので、原則として教育に関係する話題しか書いてきませんでしたけれども、今後は教育関係の話はもちろんとしても、趣味の文学やSF、映画の話や、政治や時事ネタ、ちょっとした日常についてなんかも、折々に書いていきたいと思います。
ということで、今後ともヨロシクお願いいたします。

 

by IMADA

「考える」ことと「国語」についての雑感

2014年5月23日

何とはなしに、自宅PCにデータの残っていた、数年前に書いたブログを眺めておりましたら、国語指導の基本みたいなことを書いた記事を見つけてしまいました。
具体的に、当時どういうことがあって書いたものなのかはサッパリ忘れてしまっているんですが、自分で言うのもなんですが、なかなかマトモなことを書いとります。
で、HP上には、もう残っていないみたいなんで、その一部を再掲。
ついでに、いまの考えもメモっときたいと思います。
以下、昔の文章。
********************
「考える」ということは、「問う」ということです。
「どうしてなんだろう?」「何でそうなったんだろう?」「どんな気持ちなんだろう?」etc。
もちろん、実のところ人間は誰でも、こうした問いかけを普段から行っているはずです。もしできなければ、その人は日常において何事も判断できないでしょう。
ただ、本当の意味で人が重要なことを「考える」ためには、自分に対する問いかけと、その応答、応答に対する更なる疑問……、と繰り返し自分の中で「ダイアローグ」を行っていく必要があります。
国語や社会の記述問題で良問と言える問題は、文章を読んでいくなかで、または既知の情報を応用するなかで、以上のような「考える」力を養うことのできる問題だと思います。したがって講師としては、生徒たちに繰り返し「何で?」「どうして?」と問いかけ続けることが必要です。やがて彼らがそうした言葉を、言われずとも自らに向かって発することができるようになるまで、執拗に。
ところが、生徒の中には、ごくまれに、そうした問いかけに対して、押し黙ってしまう子供もいます。
普段から無口な子であったり、単に人見知りで緊張のためだったりするなら話は別です。
指導する上で気を付けなければいけないのは、勉強に関する問いかけ、つまり国語なら国語の問題に対する問いをこちらが発した途端、黙り込んでしまうようなタイプの生徒なんですね。
必ずしも問題が難しいからではない。受験勉強など一切していない子供でも、麻布国語のような良問であれば、それなりの答えが返ってきます。いやむしろ、そうした子供たちの方が塾的な硬直反射型思考に染まっていないせいか、文脈さえきちんと整理してあげれば、問いかけを前に黙り込んでしまうことは少ないようです。逆に、こちらの問いかけの前に沈黙してしまうような生徒の中には、国語以外の教科においては超優秀という子もいます。
実のところ、沈黙タイプの生徒の多くは、問題を「解く」ことばかりに意識がいっている子どもなんですね。
つまり「問い」には、あらかじめ決められた「答え」が存在すると信じていて、文章を読んだときに感じる素直な感想や、問いかけに対する素朴な思いを口にするよりも、そうした「答え」を探そうとしてしまう子ども。
彼らの沈黙には、「問い」に対する確固たる「正解」以外のことを口にしてはならないといった意識的・無意識的な身構えが感じられます。
では、これら沈黙タイプの生徒には、どう対処すればよいのでしょう。こうした子供たちには、まずは問題を「解く」という意識を、むしろ忘れさせなければなりません。
何事にも「正解」を求めるような気持ちから解放させてあげる必要があります。
******************
何だか昔のヤツは文章が「かたい」ですね。
それはともかく、文中にある「沈黙タイプの生徒」については、さらに注釈が必要でしょうね。
上では単に、進学塾のやり方に染まりきったタイプみたいな書き方をしていますが、いま考えると、そうしたタイプ以外にも、「沈黙」しちゃう生徒はいるように思います。
たとえば、国語の集団授業などで教師から答えを求められたとき、頓珍漢な答えをいってしまって恥をかいた経験がある生徒。しかも、国語が得意でないために、一度や二度ではなく、そうした経験を何度もしちゃってる。
こうした経験のある子どもは、やはり「不正解」を口にすることが怖くなってしまいます。また「恥」をかいたらどうしよう、という自意識が邪魔をして柔軟な思考が奪われてしまうわけです。
ともあれ、こうした「自信喪失型」の生徒にせよ、上に書いているような「進学塾タイプ」の生徒にせよ、まずは「考えること」の楽しさ、思考錯誤することのオモロさを再発見させてあげることが大切ですよね。
たとえ「問題の答え」としては正しくなかったとしても、課題文に対して面白い解釈を示してくれたなら、思いっきり褒めてあげる。場合によっては「正解」にしてあげる。
本来、文章というものには「誤読」なんて存在せず、百人いれば百通りの解釈があっていいんだということを、「問題」から離れて何度でも強調してあげる。
昔の麻布中の国語に、物語の先の展開を自分なりに考えて書けなんて問題がありましたが(しかも課題文はブラッドベリ作のSF‼)、そうした自由度の高い問題で遊んでみるのもいいでしょう。
いずれにせよ、生徒から「考えること」の自由度を奪うような指導だけはしてはならんと、自戒をこめて思います。
何となれば、「国語」という教科は本来、言語を用いて「考えること」を訓練する教科なのですから。
それでは、今日はこの辺で。

「走れメロス」と学校教科書

2014年4月25日

先日、中三のH君との授業を行ったときのことです。
都立高志望のH君、何とか内申を上げようと、今回は早めの学校授業の復習がしたいということで、教科書を持ってきたんですね。
で、じゃあひとまず内容を音読してみるかとページを開いてみたんですが。
これが、すごくつまんない。
特に文章がいいわけでもないので、音読も盛り上がらん。
いわゆる教科書用に書き下ろされた説明文なんですが、毒にも薬にもなりそうにない内容なんですね。
先のブログで松永先生も書いておりましたが、日本の公教育における国語教科書はひどいですね。
特に私の感覚では中学教科書がひどい。
これに載せる文章、誰がどんな基準で 選んでいるんでしょうか。
毎年、テスト勉強に付き合うために「走れメロス」や「羅生門」をやっているとウンザリしてきます。
いや、ね。ちゃんとした解釈でやれりゃいいんですよ。
自由に解釈していいっちゅうなら、こちとら文学研究も一通りやってきたんだ、様々な「読み方」を生徒に開陳するのだって、やぶさかじゃありません。
いや、それはめっちゃ楽しい授業です。教える側からすれば。
でも、ね。あくまでテスト勉強なんですよ。
学校が教える解釈に従わなきゃならん。
で、こうなるとクソつまらんのです。
だって、ねえ……。メロスが友情に熱い男? 王様は人間不信の悩めるオッサン?
イヤイヤイヤイヤ。
フルチンで走ってる男の話ですよ?
だいたいメロスが約束の時間に遅れそうだったのは、寝坊が原因なんですぜ?
ふざけて書いてるに決まってるじゃないですか。
この太宰に限らず、今に残る近代文学の作品は、すべからくどこかに「毒」をひそませているものです。
その「毒」が判んなきゃ、面白くもなんともない。
ところが、その一番「美味しい」部分を大抵の場合、学校では教えないわけなんですね。
しかも、もちろんそんなこと、教科書選んでる人たちの大半は顧慮してませんよね。
でも、ね。
まだ、小説はマシなんですよね。教科書に載せる文章としては。
内容の解釈まで行かなくとも、少なくとも音読したら、大抵気持ちの良い文章です。
それだけでも、やる意味はある。
最初にも書いた通り、ヒドイのは説明文なんですね。
文章もビミョーな上、内容もビミョー。
そんな内容の文章を、授業で二週も三週もかけて説明するよりも、内容がはっきり判らなくとも構わないので、プラトンや『徒然草』を一年通して音読で読み切っちゃう方がよっぽど良いと思います。
いや、そもそも教科書選んでる人たちは、中学生の知力をナメ過ぎていると思います。
所詮、「子ども」なんだから、プラトンなんか読ませても判らない、それよりも「分かりやすい」書き下ろしの説明文を読ませておこう。こんなふうに考えてるのではなかろうか。
でもね。
松永先生のリベラルアーツを見ていればわかるように、ちゃんと教える側が解説してあげれば、プラトンぐらい中学生なりに理解しますよ。そりゃ、大学院生のようには理解しないでしょうが、彼らなりに受け止めます。
何も、国語が得意な生徒ばかりじゃない、いわゆる「苦手」とされている生徒でも、きちんとリベラルアーツの議論に参加できております。
学校授業に大手塾の講師を活用したりする以前に、土台の部分で改善するところはいっぱいあるんじゃないですかね。ホントに。
それでは。今日はこの辺で。

「チャレンジ」ってやっぱり大切ですよねという話

2014年3月6日

さてさて、今シーズンの受験も、もう完全に終了し、久方ぶりにのんびりした生活を満喫しております。
私の生徒の中で最後に残っていた都立高受験組では、これまた小六の頃からの生徒であるK・Aさんが、見事、新宿高校に合格してくれました。
普段の彼女の実力を知っている私としては、順当、といった評価だったのですが、本人は一度もうダメだと思っていたようです。緊張したのか、試験場でいくつかポカをしたらしく、発表までの間、泣いて過ごしていたとか。気の強い彼女の性格を知っているだけに、話を聞いた時は意外な気がしたものです。
ともあれ、結果は見事、合格。K・Aさん、本当におめでとう。
その一方で、同じく六年生の頃からの生徒であるKさんは、残念な結果となってしまいました。
芸術系の高校にチャレンジしたKさん。私自身、非常に悔しいし、残念です。
というのも、Kさんもまた、少なくとも勉強に関してはよくできる生徒だったからです。特に国語に関しては、選択肢問題や抜き出し問題を外すことはほとんどなく、また少し苦手だった記述問題や作文問題も、最終的にはよく書ける状態になっておりました。
ただ、そこは芸術系高校。実技試験の評価がイマイチだったのか。そもそも実技に関するプロフィールが弱かったのか。それとも内申の問題で届かなかったのか…。学科試験はよくできたと聞いているだけに、原因がはっきり分からず、もやもやとした気分です。
とはいえ、私立の滑り止め校には既に合格している、Kさん。
彼女は、この年齢の少女にしては珍しく、まわりに流されたりしない、自分の意志をはっきり持った女の子です。やりたいと思ったことをやり通すことのできる強い子です。
きっと、新しい高校でも、めげずに新しいチャレンジをしていってくれるものと思います。
「チャレンジ」と言えば、前回のブログでも書いたように、今年の大学受験生は、結構、受験的にはチャレンジ校だな、と思われた大学にも合格してくれました。
ICUの合格をすでに決めていたK・T君。慶應SFCを併願していたのですが、ちょっとこちらは厳しいだろうか、とも私などは少し心配もしていたのですが、何と見事に合格。私の心配は杞憂に終わりました。
現在、K・T君はICUに行くか慶應SFCに行くかで悩んでいるとのこと。なかなか贅沢な悩みですよね。ともあれ、おめでとうございます!
さて、「チャレンジ」つながりで言うと、今回、どうしても書いておかなければならない生徒がいます。それは一浪中の大学受験生であったN君のことです。
N君が私の生徒として国語を習いにきたのは、今から3年ほど前のことです。
その頃、実はN君は、いわゆる登校拒否に陥っておりました。
講師プロフィールを見て頂ければわかるように、私自身もまた、登校拒否を原因として、通常の学校生活を送ることができなかった人間です。
その経験からも、私はN君に対して、ある種のシンパシーを感じておりました。
学校に行けなくなることの苦しみ。親に心配をかけているという自責の念と、周囲からの冷たい視線。そして何より将来への悲観。
いま思えば、たいしたことではありませんでしたが、当時は十代特有の精神的不安定さもあいまって、結構辛いものがありました。
実際のところ、N君がどうであったかは分かりませんが、やはりそれなりに精神的に苦しい時期もあったと思います。
そして何より、一度、登校拒否等により学校から遠のいてしまうと、学業の面でもまた、当然ながら人よりも随分と遅れてしまうということです。
私などは、最初に大学を受験しようと決めて勉強を始めた頃は、英語の単語どころか、現在完了等の文型などを聞いてもチンプンカンプンといった状態でした。
N君も、国語については比較的、本を読んでいたりしたためか、ある程度できる状態にありましたが、英語や世界史に関しては、かなり苦労したものと思われます。一浪してしまったのも、主に世界史を中心とする暗記モノにやられてしまったためでした。
それが何と。
今年、N君は志望校であった立教大、そして法政大に見事、合格を決めてくれました。
いやあ、これはホント、うれしかったですね。
英語の上野先生にも、大感謝です。上にも書いたように、積み重ねが必要な英語では、私と同じように、N君もきっと苦労したでしょうから。
本当に、良かったと思います。
人間は一度くらい失敗しても、あるいは一つの道から脱線してしまったとしても、「チャレンジ」する気持ちがあれば、いくらでも挽回できる。
月並みな言葉です。月並みな言葉ですが、これは私が自分の生徒のみならず、受験が上手くいかなかった子ども達、皆に言いたい言葉です。
そしてN君の志望校合格は、この言葉の正しさを立証してくれたと思います。

では、今日はこんな感じで。

お見事、大学受験生諸君!

2014年2月21日

松永先生のブログでも紹介されていましたが、今年度は結構、大学受験生の調子が良いんですよね。
もちろん、まだ結果の出ていない生徒もいるわけなんですが、前回のブログでもちょびっとだけ紹介したように、私の生徒だけでも明治大やICUにすんなり(?)合格しとります。
その後、これまた高校受験の頃からの生徒であるKT君もICUに合格していたことが判明。
このKT君や、前回ブログで触れた明治に受かったK君などは、まだ慶應SFCなんかの結果を待ってるとこですけど、いずれも個人で金メダルとったから団体は銅メダルでもいいやといった、ゆとりある気持ちで結果を待っていることと思います。
このK君とKT君(イニシャルで書くと実に紛らわしいんですが・・・)。
二人とも高校受験の時からの生徒なんですが、それから3年たったいま、本当に、見事に「優秀」な人間へと成長してくれました。
何といっても二人とも、「勉強」ならぬ「学問」への関心が高い。
K君は哲学への関心が高く、大学に入ったらウェーバーを手始めに、ハイデガーやカントの著作を読んでいきたいと受験勉強中から繰り返しておりました。
KT君は政治学や社会学への関心が高い。勉強の一環と言いながらロックや現代の民主主義論などの本を受験中から読んでおりました。
「本を読めない人間は大学にいってもしょうがない」というのは最近の松永先生の口癖ですけれども、この二人に関しては、この条件は問題なくクリアできることでしょう。
思えば、高校受験時代は私に繰り返し怒鳴られていた二人ですけれども、今回の受験に関しては実に穏やかに、私も楽しく授業を行うことができました。
それで、きちんと結果も出すのですから、本当に大したものだと思います。おめでとう、K君、KT君!
などと書いていましたら、ここでまたうれしいニュースが飛び込んで参りました。
前回ブログで書いたように、ICU合格を決めていたT君、なんともう一つの受験校である早稲田大の国際教養学部も合格したようです!
ICUか早稲田国際、どちらかに受かれば良いというつもりで受験したにもかかわらず、結果、どちらにも合格するという快挙! 実に素晴らしいと思います!
このT君とは、なんともう6年以上の付き合い。彼が中学受験をした小学6年から、ずっと教師として彼の成長をみてきました。
T君は、とても純真で、そしてまっすぐな男です。自分が「正しい」と信じたことに一直線で突っ走る。差別や不平等を決して許さない、いまどき珍しい正義漢でもあります。
ですが、そのまっすぐさゆえ、周囲から誤解されることもしばしばありました。
中学時代、高校時代と必ずしも周囲から理解されているとは言い難い時期もありました。授業中、何度か悔し涙をこぼす彼を励ましたこともあります。
でも、彼は決して負けませんでした。持ち前の明るい性格で、すぐに自らを奮い立たせました。
そうした際、彼を支えたものの一つが英語でした。
これはもう上野先生のおかげとしか言えないのですが、中1から3年間、上野先生に英語をみっちり習った彼は、学校の先生が帰国子女と間違えるほど英語が好きで、しかも使える学生へと成長していったのです。
そして、つらいことがあっても英語の勉強さえ始めれば、すぐに忘れて熱中できる、そんなふうになっていたのです。
ただし。そのぶん彼が苦手としたのが国語。
決して文章読解力が、とりわけ劣るというわけではないのです。が、思い込んだら突っ走ってしまう彼の性格上、選択問題などで、「答えはこれだ!」と思い込むとなかなか修正がきかない。結果、バツを連発してくらうという悪循環。
この数年間は、何とか彼の国語の成績をあげようと思考錯誤を繰り返した日々でもありました。ずいぶんと厳しい言葉を彼にぶつけたこともあります。
けれど、それは決してつらい時間ではありませんでした。彼のまっすぐで明るい性格に、私自身も何度も救われました。彼もまた、よくついて来てくれたと思います。
そして大学受験。
夏を過ぎたころからは、もうICUと早稲田国際のみにしぼって、対策を二人で繰り返しました。
ICUの「人文科学」「社会科学」と題された日本語長文読解問題を、いかに効率よく、最小の失点で時間内にやりおおせるか。
早稲田国際の国語では、特に苦手な古文で、どう点を取るか。選択肢から内容を、どう推測するか。
彼自身、本当に一生懸命、取り組んでおりました。
そして、その二校に見事合格。
これ以上ない結果だと言えます。いまはただ、「よくやった!」と心からねぎらいの言葉をかけてあげたいと思います。
ただ、一方で、どこか寂しい気持ちがあることも、否定できません。
何といっても6年です。本当に、いろいろなことがありました。
彼がもう、事務所であの元気な声を響かせることがないのかと思うと、彼の合格をうれしく思う一方で、何だか寂しい気持ちにもさせられます。
とはいえ、合格、本当におめでとう、T君。
また、何かの折には事務所に遠慮なく遊びに来てくれよな!