「走れメロス」について①~太宰治と阪神ファンの共通点~

books800

さて、新たに開設した新ブログサイト。
一発目の記事に何を書こうかなあと思案していたところ、先日コピペした学校教科書での文学作品解釈をクサした記事に目がとまりました(下にスクロールすると載ってます)。

そういえば、ここで「走れメロス」に関する学校解釈をバカにしておきながら、自分の考えはあんまり書いてないなあと。
ということで、せっかくの新ブログ、教育ネタ以外も書いていきまっせとも言ったことだし、一発目の今回は、この「走れメロス」についてちょこっと書いてみたいと思います。
といっても、そんなマジメなもんじゃないので、あしからず。

さて、この「走れメロス」。
まあ一般的には、学校教科書のみならず、他者への信頼と友情を描いた美談として知られとります。
でもね、これ本当でしょうか?先に言っときますとね。


たぶん、ウソです。

あの太宰治が何のヒネリもなく、そんな話を書くはずないと思うんですよね。
そもそも太宰治とは、どんな作家なんでしょうか。
これまた、あまり文学に関心のない方なんかには、『人間失格』なんかのイメージから、根暗な小説ばっかり書いてた人なんてイメージもあるかもしれませんね。

でもね。ここでは詳しく書きませんが、『人間失格』だって、そもそもそんな暗い小説なんかじゃないんですよ。
もちろん、いろいろな解釈がありえますが、少なくとも、私はこれを読んで暗い気持ちになんかなりませんでした。むしろ、ずっとニヤニヤがとまらない感じです。
主題自体はマジメな部分もあるんでしょうが、書きようは結構フザケてます。
例えば「恥の多い生涯を送って来ました」という有名な書き出し。でもね。この後に続く文章、皆さんちゃんと読んでますでしょうか。
この続き読むと、むしろ完全にギャグなんですけど。以下、出だしの引用です。

 

恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

 

そんなワケあるかい‼っというのが率直な感想ではないでしょうか。
いくらなんでも駅の「停車場のブリッジ」を遊戯場なんかと勘違いするわけありません。東北人ナメんな。
いや、百歩ゆずって、そういう勘違いがあったとしても、それを「恥の多い生涯」の最初の例としてもってくるのは、明らかにわざとでしょう。
こんなふうに、自己嫌悪を含む太宰のナルシシズムを、非常にふざけたアイロニカルな調子で全体としても描き出しているというのが、この作品に対する私の印象です。
まあ、あくまで私の感想ですし、いま改めて読むとまた違うかもしれませんが。

ところで、いま上でアイロニカルという言葉を使いました。実は、このアイロニー、というか文学用語でいう、「イロニー」という言葉が太宰の作品を理解する上では重要なんですね。
戦前の、まだ若い頃の太宰治は、日本浪漫派という文学グループに属していたことがあります。この日本浪漫派、戦争中はかなり戦時協力的な感じの文章も書いていたために、戦後は弾劾されちゃったりした集団なんですが、まあ政治的な話はおいておきます。
それよりも、このグループ、特にそのリーダーであった保田輿重郎が重要視していた文学的手法が、ドイツロマン派から影響を受けた、「イロニー」という手法だったんですね。

このイロニーという態度、特に保田輿重郎的イロニーを、すごく乱暴にまとめてしまうと、「意味のないモノ、しょうもないモノを、それと知りながら、あえてだからこそ褒める態度」とでも言えるでしょうか。
保田輿重郎の代表的な作品に「日本の橋」という批評があるのですが、ここで書かれてる内容なんかで説明するとわかりやすいかもしれないですね。
この「日本の橋」のなかで保田は、日本の橋ってヨーロッパの橋に比べちゃうと、小さいし、ボロイし、ショボイよねぇっと、まずは日本の橋をクサします。じゃあ、やっぱり日本の橋なんかダメなのかというと、そうではない。
むしろショボくてダサくてボロっちいかもしれないけれど、だが、そこがいい! っとこうくるわけです。つまり、自分はそれが意味のないつまらないものであることを知っている。だが、自分はその意味のないつまらないことこそを評価するのだ、という理屈。

実はこれって最強の理論ですよね。まあ、少なくとも表面的には。
なぜなら、自分が褒めようと思ってるものを、他人がどんなふうにけなそうが、絶対に守れるんですよ。
例えば、こんなふうに。「ねえねえ、野球の阪神ってさ、めちゃ弱いよね。あんなの何で好きなの?」っと、こう批判されたとしても、「そうだよね。阪神めちゃ弱いよね。ダサイよね。応援するなんて意味ないよね。でもね、だからこそ好きなんやで、その弱くてダサくて意味ないところが‼」っと、こう返せちゃいます(なお、これは昔の阪神ファンのリアルな心情です。最近は知りませんけど)。

で、ですね。
実は太宰治の作品には、保田輿重郎ほどでないにしても、このイロニー的思考が色濃く反映してるんじゃないかと思うんですね。
上に挙げた『人間失格』だって、そうですね。
「オレな、恥の多い生涯送ってしもうてんねん……」→「でもさ、そんなオレって、けっこうナイスじゃない?」
っと、こういう感じで太宰のナルシシズムは構成されてるわけなんですね。
などなど、本題の「走れメロス」の話になる前に、ずいぶん周辺状況を書きすぎました。
まあ、ブログなんだから、アリですよね。
ということで、唐突で申し訳ありませんが、この話題は二部構成とさせてもらって、続きの本題、「走れメロス」については、次回のブログで書きたいと思います。
新ブログ一発目から尻切れトンボとは先が思いやられますが、まあアリ。

ということで、今回はここまで。

それでは、それでは。