走れメロスについて②~メロスはもう少し計画性をもった方がいいと思う~

散乱本 さてさて、前回の続きです。
前回、話が脱線して周辺状況を書きすぎた結果、「走れメロス」に一言も触れぬまま息切れという無様を晒しちまいましたので、今回は最初から直球でいきます。

で、その「走れメロス」。有名な話ですので、いまさらあらすじを書くのもなんですが、一応、知らない人のためにwiki編集簡易版をどうぞ。

純朴な羊飼いの青年メロスは、妹の結婚のために必要な品々を買い求めにシラクスの町を訪れたが、人間不信のために多くの人を処刑している暴君ディオニス王の話を聞き、激怒。王の暗殺を決意するが、あえなく捕らえられ当然処刑を待つ身に。メロスは親友のセリヌンティウスを人質として王のもとにとどめおくのを条件に、妹の結婚式をとり行なうため3日後の日没までの猶予を願う。
メロスは急いで村に帰り、誰にも真実を言わず妹の結婚式を急ぎ、式を無事に終えると王宮に向けて走り出す。川の氾濫による橋の流失や山賊の襲来など度重なる不運に出遭い、心身ともに疲労困憊して体力の限界まで達するが、日没直前、今まさにセリヌンティウスが磔にされようとするところに到着し、約束を果たす。そして、彼らの真の友情を見た王は改心する。

さて、何だか、あらすじだけみると、やっぱりなかなか良い話みたいに思えますよね。
ちなみにこのお話には確か元ネタがあって、ギリシャ神話か何かを題材にしたシラーの詩がそれだったと思います。
基本的なストーリー構成なんかも、ほとんど同じだったように記憶していますが、ちょっとうろ覚え。
で、もし私の記憶が確かならば、上のあらすじはむしろシラーの詩のあらすじでもあるわけなんです。
そういう意味では、そりゃ詩なんですから、そんなヒドイお話のわけがないんですね。
じゃあ、そのプロットを借用した太宰の「走れメロス」もやっぱり詩的でシリアスな話なのかというと、

 


・・・・
いや、どうしてこうなった。

 

・・という感じです。
前にも書きましたが、どうして学校教科書は、それこそ私の子ども時代から変わらずコレを載せ続けてるんでしょうか。
上のようなあらすじしか知らないんでしょうか。
もし、この小説のショーダンが判るくらい笑いに敏感になってほしいと思って載せてるんだったら、それはそれでスゴイですけど。

 

では、どんなところがジョーダンなのか。
私なんか、冒頭の「メロスは激怒した。」っていう何となくバカっぽい書き出しからして、変な笑いがこみあげてきそうになりますけどね。
というのも、太宰の描くメロスという男、おそらくわざとなんじゃないかと思うんですが、正義漢や正直者というよりも、むしろ単純バカにしか見えないんですよね。
たとえば、こんな描写。

メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。

いや、そりゃ捕まるにきまってるやろ!
買い物もったまま行くなよ! いくら「単純」だからって、買い物背負ったままってことは、思いついた瞬間実行してんじゃねえか!
そこはもうちょっと計画とか考えようよ。王様殺す気ないやろ、ホンマは。
しかも「のそのそ」城に入っていくっていう描写。たった四字の表現ですが、ものすごくウスノロっぽい感じをかもしだしていて、ジワジワきます。絶対、わざとだろ、コレ。

さらにきわめつけ。
小説をよく読むと、メロスの行動に、おそらくは誰もがツッコミたくなるに違いない場面があります。
それは妹の結婚式に戻ってきたメロスが、急いで挙げさせた式も無事に終わって、さあ再び出発だと心を決めた次のシーン。

あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。……(略)……メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。

悠々と身仕度」しとる場合ですか!
このあと、あらすじにもあるように、メロスの行く手にはいろいろと障害が立ちはだかったりして約束の刻限に間に合わないんじゃないのかピンチ!ってな展開になるわけですが、それも寝坊のせいだったんじゃないの?とか考えちゃうと、一気に脱力しちゃいます。
このタイミングで、なんで寝るっちゅう選択ができるんや、キミは(実は前日も疲労からフツーに寝てます)。

しかし、お気楽単純バカのメロスはある意味ではブレません。
この後も、「まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃……」っと、余裕綽々です。好きな小歌ってなんやねん。
いやー、ほんとセリヌンティウスは可哀そうすぎますよね。
少なくとも彼はラストシーンで一発でなく百発以上メロスをどついて良かったと思います。
やっぱり友達は選ばなければなりません。

 

と、以上でメロスのダメダメぶりについては、よく判ってもらえたのではないでしょうか。
で、よくご承知のように、この「走れメロス」には、もう一人、重要人物がおります。
そうです、あの「邪知暴虐」で有名な人間不信の王様ですね。
この王様、基本的には物語の「悪役」として位置づけられているはずなんですが、上に見たようなメロスのウスノロっぷりを確認した後ですと、逆になんだか、こっちの方がマトモな人間のように思えてくるから不思議です。
次の場面は、暗殺にきたメロスと王様が最初に対面する場面です。

「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」

どうでしょうか? まあ、私の個人的な印象にすぎないのかもしれませんが、「わしの孤独がわからぬ」とか「わしだって、平和をのぞんでいる」なんて寂しげに呟いてるあたり、こちらの方が単純バカのメロスよりも人間的な「深み」があるように感じてしまいます。
しかも人間の心は「私欲」のかたまりなのであてにならない、疑うのが正しいと教えたのはお前らだ云々なんて言い方は、単に猜疑心が強いというより、近代人の自意識からくる懊悩を語っているかのようです。

 

さて、こっからは私の勝手な解釈なんですが(いや、まあ全部、勝手な解釈ではあるんですが)、この王様がマヌケなメロスに比べて、えらくマトモに描かれてるのは、やっぱりわざとなんだと思うんですね。
じゃあ、何でそんなふうに描いたか。
それは実のところ、元ネタのシラーの詩のプロットにあった価値観を逆転させようとしたからではないでしょうか。
つまり、真正直に他人を信頼したり友情をこの上なくロマンチックに考えたりするのは、やっぱりどこか「バカっぽい」ことなんであって、むしろ他人の心なんてあてにならないと不信の念を他者に抱かざるを得ないような心性のほうが――少なくとも近代人としては――ある意味「マトモ」なんだよ、と太宰は言いたかったのではないでしょうか。

私がヒネくれてるだけでしょうか?
いえいえ、前回ブログでみたように、太宰は私の何倍もヒネくれていたのです。
これくらいのことを考えていても何にも不思議じゃありません。
例えば、以下のような場面をみると、そんな解釈もそれほど無理スジではないように思えてきます。
それは、この「走れメロス」という小説のラストシーンにあたるところです。

ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。

どうでしょうか。 実はこの場面、いわゆる「裸の王様」の寓話になぞらえて描かれてるんじゃないかという説があるんですね。
もっともソースを忘れちゃったんで確かなことは言えないんですが。
でも、実際そういうふうに見てみると、確かにこの場面の構図は「裸の王様」に似てますよね。
素っ裸である(ことに気づいていない、あるいは忘れている)主人公が、子どもの指摘で裸だと気づかされ恥ずかしい思いをする、という構図です。
つまり、少女=〈王様が裸だと告げる子ども〉、フルチンのメロス=〈裸の王様〉、ということですね。

ちなみにメロスが何でフルチンなのか、物語の中で特に合理的な説明はありません。
「風態なんかは、どうでもいい」と必死に走ってるウチに脱げちゃったって感じで描かれてるだけです。
まあ、ここまで読んできた読者にとってはメロスの単純バカぶりをさらに際立たせる演出なのかな程度にしか感じないと思うんですが、太宰としては実は上記引用の「オチ」をやりたいがためにメロスをマッパにする必要があったんだと思います。

で、仮にこのラストシーンが「裸の王様」を意識して描かれてたんだとすると、こうなります。
メロス=〈裸の王様〉=〈自分の本当の姿に気づこうとしない愚か者or同調者ばかりに囲まれていて真実に気づけない人間〉。

どうでしょう? これだと、まさにオリジナルのシラーのプロットとは価値が完全に逆転しちゃうんですよね。
本来は、猜疑心の強い〈王様〉が、メロスの友情と正直さに触れて人を信頼する大切さという「真実」に気づく物語だったのに、以上の解釈だと、正直な心や友情の存在を疑ってもみないメロスこそが、実は「真実」に気づこうとしない愚かな〈裸の王様〉であり、つまるところ、人間の心とはやはり、私欲ばかりであてにならないものなのだ、ということになってしまうのです。

そこまで言わずとも、メロスが体現するような「真正直さ」や「信頼」「友情」なんてものは、 近代世界では、そう簡単に存在できるものではないし、仮にそれがあるかのように振る舞えば、おバカな〈裸のメロス〉のように、どこか他人には滑稽に映らざるを得ないのだ、というメッセージくらいは込められていたように思います。
少なくとも太宰が、「真正直さ」なんて信じていたとは思えません。

 

さてさて、いかがでしょう。さすがにメロスを勝手気ままにイジリすぎちゃいましたかね。
確かにちょっと、いきすぎた解釈(妄想?)であるとは思います。
ただ、ね。
まあ、こんなふうにいろいろと自分勝手に解釈したり妄想の翼を広げてみても、誰にも文句を言われないところが、古典的な文学作品を読む上での面白さなんじゃないですかね。
少なくとも、「他人を信頼することの美しさを描いたドラマだ!」なんて言われて読んで、つまんない説教をされたような読後感が残るよりかはマシだと思います。
これは文学に限らす、映画も絵画も音楽も、他人の批評や感想なんてどうでもよくて、自分勝手に解釈して自分勝手に喜んで自分勝手に好きになって良いもんだと思いますがね、私は。

ともあれ、今日はこの辺にしときましょう。
それでは、それでは。