高校受験は「オイシイ」?

2013年11月29日

いやー忙しい。いや、ホントにありがたいことではあるんですけれど、それにしても忙しい。気がつけば、またずいぶんブログを更新しとりませんでした。
まあ授業もそうなんですけど、松永先生との共著本の仕上げ執筆や、前田先生と新しい事業の準備なんかに追われておるうちに2ヶ月があっちゅうまに終わってしまいましたね。
そうそうプライベートでは第二子が誕生したりもしましたしね。いろいろ気遣って下さった方々、ありがとうございました。おかげさまで長男、すくすくならぬぶくぶくと元気に横にも育っております。
で、この忙しさの一因となった松永師との共著本なんですけれど、めでたくこの12月4日に発売されることとなりました。タイトルは『有名大附属高 入試国語はこのパターンで解ける』。
なんだよ久しぶりにブログ書いたと思ったら宣伝かよってなお叱りの言葉を頂きそうですけれども、そうその通りでまったくもって「宣伝」です。
もうAmazonでは予約が開始されてるみたいなんで、今年度の受験生にはちと遅いかもしれませんが、今後、附属高校の受験をお考えの方々は、ぜひともぜひともよろしくお願い致します。
で、これで終わっちまったら、ホントに「宣伝」だけになっちまうんで、ちょっとばかり私立大附属高受験のお話を。
中学受験から高校受験、大学受験までの全受験生を相手にしておる中で、ときどき思うことなんですが、表面的にみると私大附属高の高校受験って、けっこうオイシイですよね。
まず中学受験に比べて教科が少ない。私立の場合、中学受験は国算理社の四教科、しかもたとえば社会なんかは地理も歴史も公民も覚えなきゃならない。これに対して私立高校受験の場合、英国数の三教科だけ。
もちろん英語が超苦手って人にはビミョーかもしれませんが、少なくとも勉強する範囲は少なくてすみます。
私立大学受験に比べると、問題がやさしい(いや、あくまで比較論なんで、中学生からすれば十分難しいんですけどね)。何より文系学生の場合は、日本史世界史などの暗記をしなくてすみます。
しかも、それでうまいこと早慶大附属の高校なんかに入れれば、大学受験をオミットして、そのまま早大や慶應に進学できちゃいます(いや、そんな簡単にはフツーなかなかいきませんけどね)。
まあ、もちろんケースバイケースですけどね。社会や理系教科大好きの御仁には当てはまりませんし、何より私立に限った話。国公立大受験や都立県立高受験なんかの話を含めればまったく違う話になります。中学受験だって学歴のため、というよりは地元の公立中学に通わせたくないから、という希望の方が多いくらいですし。
でも、まあ特にこの時期の中学受験生諸君のストレスのかたまりみたいな顔を見ていますと、やはり心身ともに成熟しつつある中三受験生の方が、ある程度、自分でストレスをコントロールしながら勉強できるよな、とは思います。
しかも15歳くらいになれば、小学生と違って「自分の受験のために勉強してる」という意識がちゃんとありますから、少々私なんかに厳しいことを言われてもちゃんと受け止められますし。……まあ、例外もないわけじゃありませんが。
こういう部分だけとってみても、私大附属高受験って「オイシイ」ところがあるんじゃないかなあと思います。
とはいえ、これはもちろん中学受験生なんかと比べての話。
問題も大学受験に比べれば簡単かもしれませんが、国語だけをみても、もちろん高校受験の問題だって学校によってはかなり難しい。
特に早稲田や慶應、中央に明治。この辺りの附属高を考えている人は早めに勉強に取りかかった方が良さそうです。しかも、その際は各校の傾向に注意すべし、です。
特に早稲田大系や中央大系。これらの学校は政治法律に強い大学の附属のためか、問題文がとにかく難解! 大人が読んでもちょっとキツイと思わせるものを平気で出してきます。
たとえば、こんな感じ。
「対象が単に内的なものであり、かくして同時に単に外的なものである場合、あるいは同じことだが、対象が単に外的なものであり、かくして単に内的なものである場合、その対象は欠陥を持つもの、すなわち不完全なものである。
たとえば、子供も、人間である以上、理性的存在ではあるが、しかし、子供そのものの理性は、まず内的なもの、すなわち素質、使命、等々として存在するに過ぎず、そしてこの単に内的なものは同時に、子供にたいしては両親の意思とか、教師の知識とか、一般に子供の周囲にある理性的世界として、単に外的なものという形をもっている……」
これは早稲田実業高の平成16年度の国語問題文です。上に「宣伝」した本の中でも触れてるんですが、どうでしょうか、これ簡単に読めます? フツー難しいですよね。
ということで、早稲田大や中央大の附属高を受験しようと思っている人は、早い時期からこうした難解抽象語文に慣れようと努力しておいた方が良いかなあとは思います。
アレ、こうやって書いてみると、結局、私大附属高校受験も、あんまりオイシクないかな?
ともあれ、今日はこの辺で。
それでは、それでは。

子どもを読書家にするためにやってはいけない三つのこと。

っと、けっこう重めの内容のブログを書こうとしてたら更新が滞るばかりなので、ここはちょっと軽めの話を一つ。
国語教師である私がたまに相談される、といってもそんなに深刻な話ではなく、会話の中でちらりと話に出るくらいの相談内容について、今回は記してみたいと思います。

その相談とは、ザックリいうと「子どもが、どうすれば本を読むようになってくれるか」というものであります。
つまり子どもの国語力を自力でもつけさせたい、そのためにはやっぱり読書でしょってことで、何とか子どもを本好きにさせたいのだけれども、肝心の息子娘本人にはサッパリその気がない。で、この状況を改善するアドバイスが欲しいってことなわけであります。
まあ繰り返すと、相談というよりは雑談の中でちょっと聞かれる程度の話ではあるのですけれども、年少のお子様を持つクライアントの皆々様、だけではなく同じく小学校上がったばかりぐらいの息子娘を持つ友人なんかからも、よく同じような質問をされるんですよね。

で、当たり前ですが、このことに関して万人に当てはまり、かつ即効性のある処方箋はなかなかございません。
各ご家庭の生活スタイル、子ども達の性格など何やかんやが関係してくるわけでありますから、ケースバイケース、一人一人の子どもごとに違った答えがあるはずなんですね、基本的に。
さらに言えば、もしそんな簡単に答えがあったならば、この世はみんな読書家、文章読解力の足りなさに悩むなんてことは、とっくの昔になくなっているはずなのであります。

ただし、であります。
「本を読むようにするには、何をすれば良いか」ではなく、「何をしてはいけないか」であれば、ある程度、誰にでも当てはまりそうなことがあると思うんですよ。
さらにそこから逆説的に、即効性はないにしても、じんわりと子どもの読書への関心を高めていく方法みたいなものも見えてくるんではないかと。

そこで「子どもを読書家にするのに何をしてはいけないか」、私個人の考えるベスト3を発表しましょう。
①自分が読んだことのない本を薦める。
結構ありがちなのが、これですね。
色々なパターンがありますが、たとえば話題になった児童文学とかを自分は全く目を通していないのに薦めてしまう。
もちろん、たまたまその本がホントに面白くて上手くいく場合がないわけじゃないんですけど、「○○って本が面白いってよー」なんて薦めたところ、「で、お母さん(お父さん)は読んだの?」などと反撃されて言葉に詰まってしまうなんてことになったら目もあてられません。
どんなものでもそうですけど、人に何かを薦める場合は、やはり自分が良かったと思うものを薦めるべきかと思います。
いや、別に最近読んだ本じゃなくても良いんです。自分が子どもの頃に読んだ本でいい。どうせ薦めるなら、そういう本の方がよっぽど良いと思います。
さらにですね、ちゃぶ台返しなことを言っちゃいますと、そもそも無理矢理には本なんか薦めない方が良いんじゃないかとさえ思うんですね。
むしろ「感想」を話した方がいい。
自分が面白かったものって本に限らず、ついつい色々と話してしまうものですよね。
面白い映画か何かを観たら、子どもや他の家族にも、何がどんなふうに面白かったか、なんだかんだと話してしまうはずなんです。
で、同じことを自分が読んだ本に対しても行う。
そういう「感想」を言いあえる環境を、もし家庭の中で作っていければ、ある程度、子ども達も読書への関心が高まっていくんではないかな、と私なんかは思うわけです。
②やたらハードルの高い「タメになる」本を薦める。
これもまあ、上の話とよく似たことではあるでんすが、ちょっと違うのは、こちらの場合は「理想が高すぎる」点にあるんですね。
たとえば、こんな感じ。
「ウチの子、全然、本を読まなくて困ってるんですよね」
「そうですか? ○○君はこの間、△△という本を、休み時間に熱心に読んでましたけど?」
「いえ、そういうミステリーとかマンガみたいな本は読んでるみたいなんですけど、ちゃんとした真面目な本はサッパリで」
「真面目な本? でも何も読まないよりは、いいんじゃないですか?」
「ですけど、やっぱりウチの子も、もう五年生ですし、夏目漱石の『坊っちゃん』くらいは読んでほしいんですけど……」

いやいや、五年生で『坊っちゃん』は重すぎますって。
坊っちゃんの悲しみを理解するには、もうちょっと人生経験が必要です。
もちろん、ホントにわかってるのかタマに読んでる子もいますし、親御さんとして、できれば「文学」と名のつくような本に興味を持ってほしいという気持ちはわかります。
『坊っちゃん』とは言わなくても、せめて重松ホニャラカとか入試の問題文になりそうな本くらい手に取って欲しい。
でもね、やっぱり「こういう本を読んでほしい」と理想を言うことで、せっかく子どもが楽しんで読書しているのに水を差すのはイカンと思うのですよね。
ひょっとしたら、その子が読書の歓びに目覚めて、ゆくゆくは「文学」的な作品をも読むようになるかもしれないのに、水を差されたことで、その可能性も潰してしまうかもしれない。
だいたい重松ホニャラカ程度の小説であれば、こちらもマンガと大して変わらんレベルのものなんですから、ミステリーやSF読んでるのであれば十分なわけですよ。
もちろん『坊っちゃん』読んでれば素晴らしいですが、人それぞれ成熟の度合いがあるわけで、それをすっ飛ばして無理やり読んでも、ちっとも面白くない=「読書ってツマラン」てな結果になるのは目に見えているわけであります。
さらに言っちゃいますと、これは①の話にも通じますが、「タメになる」とかいう理由で読書を強制されるのは、子どもにとっては、たとえ読書家であってもイヤなもんなんだと思います。
わたくしごとで恐縮ですが、子どもの頃の私は比較的、読書家の方でありました。そんな私に当時、新聞記者をやっていた伯母が「この本、勉強になるから読んでみ」などと言いながら、ものすごく道徳臭あふれる本を何冊かくれたことがあります。で、私がその本を読んだかというと、伯母には誠に申し訳ないのですが、少年期を通じて一度もページをめくることはございませんでした。
読書って本来、楽しむものなんですよね。
それを「タメになるから」という理由で読めと言われると、それが一気に「勉強」の一部みたいになってしまって、フツーに読む気を失ってしまうわけです。
もちろん中学生以上になれば、読書で教養を積んでいく必要もあるかと思います。
しかし小学生くらいまでの間は、本人が興味を持った本をどんどん読ませてあげるのが一番良いんではないでしょうか。
できれば、それを大人も読んでみて、上に書いたような「感想」を言いあえる家庭環境を作っていくのがベストだと思いますがね。
③読書家の他の子どもと比べて、口うるさく本を読めという。
「他の子と比べる」、「口うるさく言う」。これ本来、別カテゴリーなんですが、うまくベスト3でまとめたかったんで、一緒にしてしまいました。
で、これらはもう、読書に関係なく、基本的にやってはイカンことの定番中の定番ですわな。
特に「他の子と比べる」のがイカンのは、わざわざこんなとこで書くまでもないことかもしれません。実際、露骨にこんなことする親御さんは見たことありません。
……と思ったんですが、恥ずかしながら私の身内で、これに近いことがありまして。
先ほど書きましたように、少年期の私はまあまあ読書家で、さらに私の従妹も少女時代はかなりの読書家だったんですね。
で、周囲としては何の他意もなかったんでしょうけど、そういう私たちを褒める一方で、当時、わんぱく盛りだったウチの弟に対しては、「○○は本は読まないから、モノづくりみたいな仕事に将来つくのかな」なんてことを無邪気に語りかけておったわけです。
で、そんな弟が長じてから私に言った科白が、「あの頃、それがスゲー、コンプレックスになってて、絶対本なんて読むもんかと思ってた」というものでありました。
まあ、弟はその後、思春期に精神的暗黒面に堕ちた結果か、突然、ゲーテやらドストエフスキーやらニーチェやらを読むようになって、今では私と同じくフンコロガシ的研究にいそしむような人間になってしまっているんですけれども、それでも「娯楽」として本を読むことは非常に少ないです。
さて、もう一つ。「口うるさく言う」。
これはもう、①や②で書いたことからもわかる通り、むしろ全くの逆効果を生む、というよりも本を嫌いにさせるための必殺技といった方がよろしいのではないかとさえ思われます。
今までの話のまとめにもなりますけれど、ようは無理やり強制したって本を読むようには絶対になりません。
読書は「楽しい」ものなんですから、ガミガミ言って「楽しくなさそう」なイメージを与えてしまうと、もう活字の並んだ本なんて見るのもイヤってな状態に子どもがなるのは目に見えておるわけです。
逆に言うと、いかに本を読むことが楽しい「娯楽」であるか。これを子ども達に伝えることができれば、すぐにではなくとも、段々と本を読むことに興味を持っていってくれるんではないかと私なんかは思います。
そのためには特定の本を薦めたり、本を読めと直接言ってきかすよりも、まずは私たち自身が読書を楽しむ姿を子ども達に見せてあげることが肝要なのではないでしょうかね。
先に書いた家庭内で、本の「感想」を言いあったりするのも、その一つのあり方ですよね。
そこまでしなくても、空いてる時間や休みの日なんかに、お母さんやお父さんが夢中になって本を読んでいる。そして読み終わった本が、家のそこかしこにあって、「親があんなに面白そうに読んでいたものは、一体何だったのだろう?」などと思った子どもが、すぐにそれを手にとって読めるような環境。
こんな状況、環境を作っていければ理想ですよね。まあ、簡単ではないかもしれませんが。

と、結局、今回も長々と書きすぎました。
今日はこの辺で終わっときましょう。

そうそう、もう「宣伝」というには遅すぎますけれど、来週から春休み企画の「国語記述・作文講座」が始まります。
内容は、まあ作文の基礎技術から入試に通用する文章力までを四日間でマスターしちゃおうぜってことになっておるんですが、結局、クライアントの皆さま一人一人のニーズに合わせる形になりそうな感じなので、作文だけ、入試問題だけやりたいってことなら、それはそれでOKです。
まだ一応、受け付けておりますので興味がございましたら、どうぞ。
さらに24日にはV-net恒例のパーティーもございます。
なぜか分かりませんが私が十数年ぶりに余興でベースを演奏することになってしまっておりまして、別にそんなもん聞きたくもないかもしれませんが、もしご都合が合えば気軽に参加してやって下さい。一見様も大歓迎でございます。
さらにさらに29日にはこちらも恒例フィールドワークに出かけます。
今回は所沢で本物の零戦を観た後、貸切車で移動後、皆で埴輪を作るみたいです。なんじゃそりゃってな組み合わせですが、楽しそうなら関係ないのです。
当日、毎田先生、いつも通り私の引率もお願いしますね。
以上、これら全部、HP上のお知らせ欄に載ってますので、詳しくは、そちらを見てやって下さい。
それでは、それでは。

「生きる力」を養いたいという話

2013年3月7日

まさか毎田先生がこんな真摯な思いとともにV-netフィールドワークを企画しておられたとは!
http://www.vnet-consul.com/vnetblog/%EF%BC%92%E6%9C%88%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC%EF%BC%88by/
私なんか「これ行ったら絶対オモロイぜ! ただオッサン二人で行っても何だし、子どもたちも誘って行ったら良いんじゃない?」ってな感じの軽いノリで参加していたのに……。

いえいえ、すみません。これはさすがに冗談です。
いやー、でもホント楽しかったですよねー、「神田川水上バスツアー」。
近世の江戸地理と現状との変化なんかも良くわかって、歴史オタクのイマンモは大満足でした。
毎田先生も書いておられたように、やっぱり講師自身が「これ、絶対オモロイ」って思えるようなことを体験させないと、子ども達だって「オモロイ」とは決して思ってくれないんですよね。
そうしないと知的好奇心だって育たない。
(まあ、私の場合は明らかに自分の楽しみで企画に乗っかってるだけのような気もしますが……。毎度毎度、私まで「引率」させてしまって申し訳ないです)

さてさて、こうしたフィールドワーク。あるいは春夏恒例の焚き火。
これらV-netの「勉強」以外の活動を抽象化すると、つまるところ、それは人の「生きる力」を養うところに目的があるのだろうなと私は勝手に考えているのであります。

「生きる力」。何じゃいそれは?

まあ、これは「きちんと将来、飯を食えるような人間になる」と言っても良いのかもしれませんし、「他者を惹きつける魅力ある人間に育つ」と言いかえることも可能かと思います。
ともかく狭い意味での「受験勉強」だけでは体得できないような、物事に対する主体的な判断力や感性の鋭敏さなんかを養うこと。
これは前回のブログで書いた「何で?」と問いかける力にも通じます。
いわゆる高度成長期までのライフコースが崩れてきちゃって、「俺なんとか就職できちゃったぜ!」なんて思ってると当然のごとくブラック企業といった感じの現今の日本社会においてではですね、自分の置かれている状況を的確に把握し主体的な判断を下せること、ホイスカといろんなアイデアを思いつけてそれを実行に移せること。まあ、だいたいこうした「力」を養うことが肝要なわけです。
「生きる力」とは、まさしくこのような、たとえ今後の日本社会がどうしようもない状況になっても(いや、ホントになったらイヤですが)、己一人の力でもって主体的に「生きていく」ことの出来る「力」のことなのであります。

たとえば焚き火。
ひょっとして焚き火未参加で噂だけ知っているなんて方は、焚き火って言ったって同時に農業体験かなんかもイベントとしてやっているのだろう、などと思っていらっしゃるかもしれません。

してません。ただ薪を燃やして炎を眺めてるだけです。

まあ最低限、薪を割ったりウチワで火を起こしたり竹刺し作ったりはするわけですが、後は盛大に燃えている炎をノンビリ眺めておるだけなのであります。
いや、これが実にイイんですよ。大人としては十分に癒されますしストレス発散にもなるわけです。最近は奥多摩の川辺のキャンプ場でやることが多いのですが、川の音を聞きながらの焚き火はかなり良い!
が、やはりオチンチン力全開の男の子達がこれだけで満足するわけがありません。何をするか。
①素っ裸になって滝壺に飛び込む→②飽きたと思ったら私を川に突き落とす→③当然、私に倍返しをされる→④流されたビーチサンダルを探しに下流まで冒険の旅に出る→⑤戻ってきたと思ったら、拾ってきた流木を焚き火につっこむ。
これ、全部事実ですが、こんな感じで勝手に(野蛮な)遊びを思いついて、勝手に楽しんでいるわけです。
でも、これが大事なんですね。
決められたことやっても、つまんないでしょ。
自分でオモロイことを思いつくことが大事なんです。
自分で与えられた環境をオモロクすることが大切なんです。
だいたいV-netの課外活動は現地集合、現地解散を原則としています(もちろん幼い低学年以下のお子様は別ですが)。
つまり一人で知らない駅まで電車を乗り換えながら辿りつかねばならない。現地での体験だけではない、その過程がすでに、ちょっとした「冒険」なわけです。ボケッとしてたら辿りつけない、まさに自分の主体的な判断力が必要とされるのです。
まあ、そんなこと書いてる私自身が、ボケッとしたまま目的駅を乗り過ごしてしまうという、それアンタが一番ダメなんやないのという失敗もおかしておるわけなんですがね……。
いずれにせよ、こうした体験が、自然環境に対する子ども達の感性を高め、またある種の「逞しさ」を磨いてくれるものだと思っておるわけです。

その一方で、「生きる力」を養うためには、やはり「知性」も必要だと考えます。
物事を主体的に判断するためには、ダイアローグ(自問自答=思考)する「力」が欠かせません。「知性」とは、その源です。

たとえばリベラルアーツ。
これは原則的に松永先生が行っている少人数のクラスです。
私も一度だけヘルプで担当したことがありましたが、言ってみれば大学のゼミみたいなことをやるクラスです。
いきなりソクラテスとかマキャベリを読んだりする。
「ゲーッ!そんなのついていけないよー!」ってな心配は無用です。
古典的な書物が難しいに違いないというのは、はっきりいって誤解。
いや、カントとかヘーゲルとか、やたら難解なのもありますが、ソクラテスなんかは読む気さえあれば誰でも理解できる代物です。
むしろ解説する方が大変(だからフツーの塾では難しいんでしょうね)。
で、これの何がオモロイかと言うと、書かれた時期は大昔かもしれませんが、その内容はむしろ「現在」を教えてくれるものだからなんですね。
政治思想史なんていう歴史にかかわるドマイナー・フンコロガシ的研究をしてきたせいか、私には200年や300年くらいでは人間の考え方など変わらないもんだという実感があります。
それどころか、昔、アリストテレスの研究をやってる友人が言っておりましたが、2000年前の人間も、今の人間も大して変化してないらしいです。
そこでソクラテスの書物を開いてみる。と、書かれているのは、まさに「現在」を髣髴させる民主主義の問題なんですよね。
ソクラテスの生きた古代ポリス社会、ギリシャは現在の民主制の起源ともされております。
ところがソクラテス、というか実質的著者であるプラトンの民主制に対する評価はと言えば、これがメチャンコ低い。何故か?
おそろしくザックリ言いますと、民主制では人気者だけど政治能力はまるっきりないオバカさんが簡単に実権を握ってしまことがある。一方で、逆に超優秀で道徳的な人間をやっかみで追放しちゃったりする。
それどころか人気取りのためだけに大衆の欲望に思いっきり迎合する輩が出てきたり、逆に危機をあおって自分の求心力を高めようとする政治家も現れてきたりする。で、またこれに市民がホイホイのせられて盛り上がっちゃう。
いわゆる衆愚政治ですな。
まあ、ソクラテス(=プラトン)は、こんな感じで民主制を批判しました。
で、その是非はともかく、21世紀「現在」の日本の民主主義が、こうした紀元前の民主制批判に応えられているかというと、何とも非常にビミョーな感じがしてくるわけですよ。
「イヤ、政治とか難しくて分かんないッス」とか言ってる場合じゃなくて、現に私たちの生活っちゅうモンは何かしら政治に左右されておるわけですから、現状を把握して自分がどういうふうに行動していくか、生きていくかっていうヒントとしては、やっぱりこういう古典的書物が役に立つわけなんですね。
「生きる力」を養うには「知性」も必要というのは、まあ、こういう意味です。

さてさて、本当はこの後、実はいわゆる「勉強」にだって、実利的な意味とは別に、やっぱり「生きる力」を育てるところがあるんだよ、ってな話を書こうと思ってたんですが、ちと長くなりすぎました。これはまた別の機会に。
今日はこんな感じで終わっておきましょう。

国語力についてかいていたら、受験合格の報せが入って嬉しくなった話

2013年2月15日

前回はちょっとばかり感傷的な文章を書いてしまったので、今回は軽めの調子で。

さて最近思うんですが、というか実はけっこう前から思っているんですが、国語力ってホントのところ、どういうものなんですかね。

まあ、分かりやすい話としては、難しい本が読めることであったり、文章の内容がすぐ理解できることであったり、そしてもちろん文章を滞りなく書けることなんでしょう。

当然、これはフツーの日本人として生きていく上で絶対に必要な能力です。

ちゃんとした文章が書けなければ、何かいいアイデアを思いついても、それを多くの人様に伝えることができません。企画書が書けません。真面目な内容のメールも書けません。ブログだって書けません。

しかもアイデアを思いつくには、それなりに本だって読んでなきゃ、無理です。世の中には天才的な感性の持ち主だっているでしょうが、ふつうはそれなりの教養が下地にあってこそ、いろいろと思いつけるもんだと思います。

だいたいリテラシーが劣っていると、この世知辛い世の中、なんだかんだと騙されやすい。

しかし、ですね。じゃあ、国語力向上のメリットってのは、日本社会でつつがなく生きるためだけに必要なものなんでしょうか。

たとえば、ある会社に就職したとして、その会社の公用語が英語だった場合、国語の能力って意味ないんでしょうか。いや、某IT会社のワンマン社長がそんなことを公言していたのを、ふと思い出しただけなんですが。(詳しくは知りませんが、その後、どうなってるんでしょうかね)

「何てこった! こんなことなら最初から英語だけ死ぬほど勉強しておけば良かった!」

などと社会人にもなって悲嘆の声を上げる人はいないでしょうが、たしかに国語の勉強に何の意味があるのか/あったのか、と思う人はいるかもしれません。

しかしイマンモはそういう人に対して、声を大にして(字を太字にして)言いたい。「その考えは違うな、間違っているぞ!」

いや、確かに学校のテスト勉強やら国語の入試テストなんかはゲームをクリアするための難関クイズにすぎない面も多々あります。

松永先生がセンター試験について書いていたように、せっかく試験に小林秀雄の文章を出題するなら全問記述、いやさ小論文にしろよ、とツッコミを入れまくりたくなります。

しかし国語教科の現状は置いておいて、そんな国語クイズに付き合いながらも、本当に身につけるべき国語力とは何か?

それは、しごく当たり前のものです。

「コミュニケーション能力」。イマンモは本当の国語力とは、これに尽きると思います。

つまりは話している中で、自分の考えを過不足なく相手に伝えられること。相手が話していることをきちんと理解できること。相手の考えていることを察知すること。物事を論理的に思考すること。

対話し、思考し、説得する能力。

国語のレッスンとは、基本的な読み書きの練習でもありましょうが、同時にそれは日常において、話を理解し、考えを理解させるための練習でもあると私は考えています。

相手は文章となりますが、これをじっくり読み解くことは、他人の話をしっかり聞いて理解することの基本となります。文章を書くことは、自分の考えを相手に伝え説得するために必要な思考を養うものです。なぜ難解な文章を読むのか? それにより難解な思考論理を我がものとするためです。

対話し、思考し、説得する能力。これに秀でていて、かつ面白いアイデアをホイスカ思いつける人間は、はっきり言って「無敵」でしょう。詐欺師にだってなれます(笑)

そして、アウトプットする言語が英語であろうがフランス語であろうが、こうした能力を養っておくことは対社会的には必ず必要だと思います。

したがってイマンモは、初めてV-netを訪れてくれた生徒の国語力を、単純にテストの点数だけでは見ません。

もちろん、それも資料の一つではありますが、むしろ、その生徒の対話能力、こちらの問いかけに対する反応によって、本当に国語ができないのか否かを見極めます。

多くの生徒はテストの点数が悪く、伸び悩んでいると、国語が出来ないんだと思い込んでしまいます。

しかしスムーズに対話が出来て、こちらの冗談交じりの質問にもちゃんと答えられるような生徒は、本質的には国語力がないわけではない。

それまでの指導が悪かったのか、「国語クイズ」を解くテクニックを知らないだけであることが多い。もちろん、いろいろなケースがあるので一概には言えませんが、最終的にはまっとうな点数が取れるようになる場合が多いのです。

…………てな、感じでこのブログをそろそろ終えようとしたとき、うれしい報せが飛び込んできました。

東京工業大付属の高校を受験していた中学生S・A君から「合格した!」との電話がかかってきたのです。

一瞬、電話口でのお母様が静かな口調だったのでヒヤリとしましたが、本人に代わると嬉しさ爆発の声が。

数学けっこう難しかったって聞いたけど、との私の問いかけにも、「いや全然、余裕でしたよ」との返答。(数学を見て頂いていた勝山先生、ありがとうございます)

「で、国語はどんな感じだった?」と私。「いやー、先生が言ってた通り、意味不明な随筆が出ました。これには苦労したけど、百字の記述以外、他の記述問題は何とかなりました。選択肢問題は全部合ってるハズですよ」とのこと。

本人は嬉しさで手が震えているなんて言っていましたが、まさしく順当な合格だったのでしょう。

思えば、このS・A君も国語だけができないといって、半年ほど前に私のところに相談にやってきたのでした。

しかし私は当初から、彼は国語ができないなんてことは絶対にないと確信しておりました。

確かに記述問題に苦労しておりましたし、選択問題でも時折ポカをする。

けれども、レッスン中の彼の受け答えは非常にしっかりとしたもので、レッスンを聞いていた他の先生方がてっきり大学受験生なのだと思い違いをしていたほどでした。

繰り返すと、こういうタイプの子どもは、ちゃんと教えさえすれば、必ず「国語ゲーム」くらいすぐにできるようになるものなのです。

もっとも、そんな彼にも恒例の「6時間ぶっ通しフルマラソン授業」で、血ヘドを吐くまで過去問を繰り返してもらいましたが。

とはいえ、本当に良かった。

数学が好きで、休み時間でも何故か数学の問題を解き続けていたS・A君。彼はロボット工学を勉強したくて、東工大附属の学校を受験しました。「単なる見世物のようなロボットではなくて、本当に人間の役に立つ、社会的に意味のあるロボットが作りたい」と、かつてその夢を語ってくれました。今後は、その夢に向かって、自分の本当に好きな学問に没頭してゆくことになるのでしょう。

ただし、「本? あんまり読まないッスねえ」なんて言ってないで、時々は読書なんかもしてよね、とちょっと思うイマンモでした。

かつての受験生。そして、現在

2013年2月7日

この間、上野先生が書かれていたブログ。「屋上ピクニック」。
http://www.vnet-consul.com/vnetblog/%E5%B1%8B%E4%B8%8A%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%80%EF%BC%88by-%E4%B8%8A%E9%87%8E%EF%BC%89/

この記事で言及されている数年前の大学受験生、I君は私の国語の生徒でもありました。
私もよく、彼とともに〈屋上ピクニック〉を楽しんだものです。
一読者として上野先生の記事を読んでいるうちに、何やら色々なことが思い出され、柄にもなく感傷的な気分に浸ってしまいました。

I君は実に印象的な受験生でした。山梨出身の元野球部員で朴訥、真面目。
いわゆる「受験勉強」に関しては非常に不器用でしたが、それを超えた学問に対する向学心が人一倍強い。
よく受験には直接関係ない哲学や政治思想に関する質問をされて、こちらもついつい授業を脱線して、それらについての自分の知識や考えを長々と話してしまったことを憶えています。

私は彼が非常に好きでした。人間として不器用で、しかしだからこそ誠実で。学ぶことに謙虚で、同時に学ぶことに必死だった彼。もし同世代であったならば、尊敬しうる友人であったかもしれません。

しかし私は、彼の受験に関しては、大した力になってやれなかった。そんなことはない、と彼は言ってくれるかもしれません。しかし、こうした思いは、彼と別れて以来の数年、ずっと私の心の中で引っかかっていたものでした。

ですから昨年、彼から新聞記者になったという連絡を受けた時は、非常にうれしかった。それまでの引っかかりが消えたわけではない。が、少しだけ、そんな思いを軽くしてもらった気がしたのです。

今後もきっとI君は、その誠実さと必死の努力によって、様々な困難や挫折を乗り越えていってくれるでしょう。
そんな彼の人生の一部にかかわれたあの頃のことを、私もまた、様々な思いとともに記憶し続けていたいと思う。

今年度もまた、さまざまな少年少女たちの、人生の一コマに立ち会う機会を与えてもらいました。作文道場の生徒たち、個別に直接指導を行っている何人もの少年、そして受験生。

特に受験生は、昨年からの一年間、ともに一つの目標に向かって努力した「同志」です。
そして同時に、彼らは、受験が終わるとともに、別に通常授業の依頼がない限り、しばらく会うことがなくなるかもしれない、そんな少年、少女たちなのです。

以前もブログに登場してもらったNちゃん。彼女は結局、都内の私立校は補欠。ふつうに行けば、第二志望であった埼玉県内の私立中学に通うことになりそうです。
おっとりしているようで、実は負けん気の強いNちゃんは都内私立高の結果に悔しそうにしておりましたが、県内の私立中はかつて彼女のお姉ちゃんも在籍した学校です。きっと楽しい学校生活を送れることと思います。

ですが、私はこうした結果よりも、彼女のこの一年間の頑張りを褒めたい。実は彼女が本気で中学受験を考えるようになったのは、昨年の春先からでした。
国語に関しては、それ以前から私が教えていたので、それほど遅れはなかった。しかし、理科や算数や社会、こうした教科に関しては昨年春の段階では、真っ白に近かった。少なくとも他の受験生に比べて、相当のハンディキャップがあったはずです。
にもかかわらず、彼女はそのハンデを乗り越えた。国語は最終的に過去問で八割から九割取れるようになっていました。当初の模試で20点しか取れなかった算数も、彼女と毎田先生の努力で7割近く取れるようになっていったのです。

こうした努力は結果よりも何よりも重要です。
Nちゃんと初めて出会った時、彼女はまだ3年生。幼さの残る、小さな女の子でありました。イマンモは、いまでもどこかでNちゃんを、そんな「小さな女の子」と思っていたのかもしれない。
けれども今年度の彼女の頑張りは、そんな「小さな女の子」には到底できないものでした。
いつのまにか、私自身も気付かぬうちに、彼女もまた強く強く成長していたのです。
そんな彼女の成長と頑張りも、私はいつまでも忘れることがないでしょう。

そしてS君。彼は今年、志望していた学芸大附属の中高一貫校に合格しました。
合格したという報せを電話でもらったとき、私は「良かったねぇ、本当に良かったねぇ」と繰り返すことしかできませんでした。うれしさのあまり、他に言葉が出なかった。

彼の能力を知っている人間が客観的に見れば、S君の合格は順当なものに見えるかもしれない。
しかし募集定員はたったの30人。適性検査以外に面接などもあり、正直、私は心配で仕方がなかったのです。

だからこそ、彼が合格したという報せは、私を深く安堵させるものでした。
と同時に、様々な感情で私は胸がいっぱいになりました。
小学三年生の頃、焚き火から帰るバスの中で彼が眠りこけてしまったこと。作文道場で冗談を飛ばし合いながら一緒に作文を作ったこと。V-netの催しで、英語演劇や自作の童話を披露していた彼の姿。
この何年かの間、彼と過ごした日々のことが思い出され、「本当に良かった」という言葉以外、何も言えなくなってしまった。
彼とのこの数年の思い出も、きっと私は忘れることができないでしょう。

たかが受験、と人は言うかもしれません。
しかし、そこで味わうかもしれない挫折。それを乗り越えるための努力。そして結果を手に入れたときの喜び。
これらはすべて、人を成長させるものです。あるいは成長するための種子となるものです。
その後に続く人生の、様々な困難に立ち向かうための、最初の第一歩となるものなのです。

私は、子どもたちの人生の、そんな大切なひと時を、ほんの少しかもしれませんが共有できることを、何よりもうれしく思っているのです。

By今田