別に「文学」読まなくてもいいんじゃない?

蒲団

な、何と、立て続けの更新! どうした、オレ‼
さて、怠惰を人生のモットーとするわたくしめが何でブログを立て続けで更新しようとしておるのかと言えば、決して暇なわけではなく(おかげさまで農閑期の3月なれど結構忙しいのでござる)、実は先に挙げた「受験顛末」のブログには、本当は別のネタを続きに書こうと思っておったからなんですね。
ところが、そこでふと、「あんたのブログ、長いから読むのイヤになんねん」という奥様の素晴らしい諫言を思い出し、これはここで終わりにして、別ブログで新ネタは書こう、と思い至ったわけなのでございまする(お、なんか何か文体がいよいよ変になってきた?)

■読書について
私はまあ、当たり前のことかもしれませんけど、読書好きです。というか活字中毒患者です。
暇つぶしにしても何にしても、文字や文章読みたくなるのです。だから、ジャンルは問わず何でも読みます。
それこそ学術書から新書の類、理系文系かかわらず読みます。小説なら、文学も読みますがSF小説から推理小説、ハードボールドまで、これまた何でも。特にSFとハードボイルドは好きですね。文学ならマルケスや坂口安吾が好きです。

って、別に僕の趣味を開陳したいわけじゃ、ありません。何が言いたいかというと、僕の中では、これらに価値の高い低いがないってことです。貴賎上下の差別なく、それぞれの本を愛しております。
『罪と罰』は、ふつうにミステリーとして面白いと思います。『百年の孤独』と『ねじまき少女』(バチカルビという人の最近のSF小説です)は、ともにその幻想性がいかします。SF作家のイーガンを読めば、自己意識の問題に思いを馳せつつ、ついでに量子力学を勉強したくなります。

さて何で、こんなことを書くかというと、よく生徒のお母さんなんかから、「ウチの子、全然本をよまなくて」といった相談を、相変わらず受けることが多いからなんですな。
で、よく話を聞いてみると、まあこれは千差万別、ホントにまったく本を読まない子も確かにいて大変ですわねと思う場合もあるんですが、逆になかにはある程度本を読んでる子もいて、「いや、お母さん。〇〇君、まあ多少は読んでる方じゃないんですか?」なんて聞いてみると、「いや、何だかマンガみたいな本は読むんですが、いまいち文学とかそういうのが・・・」といったお答え。

まあ、確かに最近のいわゆるラノベ。これは僕もたまに生徒に薦められますけど、さすがに文体が軽すぎて、ちょっと読むのはツライです(まあ、それ言うなら文学作家にも読むのがツライ、バカ文章はいっぱいあります)。
ですけど、これを小中学生が読んでたって、別に問題ないと思います。僕の知ってる生徒には、このラノベを一日に5,6冊読むというヤツがいますけど、そうなったらもう大したもんです(当然、国語は出来るので、僕の受け持ちじゃありません)。
実際、僕だって、小学生の頃は、『銀河英雄伝説』とか『グインサーガ』とか読んでましたし。

やっぱり、ね。精神の成長ってあると思うんですよ。しかも、人によってそれぞれ違うスピードで。
だから、いまラノベしか読んでなくっても、そのうちそれには飽きて、年齢に応じた、もっと別のものを読んでいくようになると思うのですね。
いつまでも子どもがカクレンボやカンケリをして遊んでいるわけではないのと同じです。

さらに言いましょう。逆に言うと、いわゆる文学。どうしてこれを、皆さん子どもに読んでほしいんでしょう? 「文学」って、そんなに良いもんでしょうか?
もちろん、素晴らしい「文学作品」はたくさんあります。
でも、「文学」と言われているものの全てが、素晴らしいものではありません。

例えば、最近の芥川賞。まあ、これを素直にありがたがってる人って、もうそんなに多くはないと思いますけれど、特に最近の惨状ったらないでしょう? 数年前の受賞作さえ、忘れられているんですもん。
僕個人の感想で言えば、最近なら、円城塔さんくらいでしたよ、まあ良いなって感じたのは。でもって円城塔さんは、SF作家ですからね、本来は。
まあ、でも芥川賞は、出版社のただの宣伝ですから、これで大文字の「文学」を語るのはフェアじゃないですよね。

そこで、ご登場いただきたいのが田山花袋の「蒲団」。
先に言っておくと、これは傑作です。理由は後で書きます。
ただ、これをマジメな気持ちで読んだなら、つまり「これは『文学』の古典とされているんだから、きっと素晴らしい作品なんだ!」なーんて気持ちで読んだなら、そのつまらなさに悶絶すること間違いなしです。どうして青空文庫で流し読みしなかったんだと思うに違いないはずです。
大学時代、あらゆる文学作品を読もうと決意していた僕自身がそうでした。時間と本代を返せと思ったものです。
以下、あらすじウィキペデイアより。

34歳くらいで、妻と2人の子供のある作家の竹中時雄のもとに、横山芳子という女学生が弟子入りを志願してくる。始めは気の進まなかった時雄であったが、芳子と手紙をやりとりするうちにその将来性を見込み、師弟関係を結び芳子は上京してくる。時雄と芳子の関係ははたから見ると仲のよい男女であったが、芳子の恋人である田中秀夫も芳子を追って上京してくる。
時雄は監視するために芳子を自らの家の2階に住まわせることにする。だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進んでいて、怒った時雄は芳子を破門し父親と共に帰らせる。

まあ、このあらすじだけ読んだなら、退屈そうだけど、フツーの話ですよね。
でも、このあらすじには決定的な場面が省かれています。それは最後の場面。以下、それこそ青空文庫から引用。

時雄は机の抽斗ひきだしを明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂においを嗅かいだ。暫しばらくして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡からげてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団ふとん――萌黄唐草もえぎからくさの敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟えりの天鵞絨びろうどの際立きわだって汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅かいだ。
性慾と悲哀と絶望とが忽たちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。

おっちゃん、嗅いだらあかんわ! 嗅いだら!!
ええ、これはもちろん、文学史上でも非常に有名な場面なんですね。
文学にちょっとでも詳しい人なら誰でも知っております。
でも、この場面を読んだ折も、初読のときは事前に知っていたこともあり、上記のようにツッコミをいれつつも、それ以外には別段、何の感想もありませんでした。

ただ後年、大学院時代だったかに、何かの機会にもう一度読み返したことがあったのですよ。
そうして読んでみると、これが何ともオカシイ。ヘンな笑いがこみ上げてくるんですね。
いや、登場人物は主人公のおっちゃん含め、いたって真面目なつもりなんですよ。そして文体も実に明治文学らしい固い文章。
ところが、その真面目な文体で描かれる真面目な人物たちの行動が完全にオカシイ。フトンもあかんけど、リボンもあかんやろ、嗅いだら。

何でしょう、今風に言うなら、「シリアスな笑い」とでも言うんでしょうか。
この何とも言えないオカシミを醸しているところが、私が太宰治の作品を好きなのと同じ理由で、傑作だと思うわけです。

でも、ね。やっぱりこんな読み方は、ふつうの中高生にはできないと思うんですよ。
で、そういう読み方ができないうちは、「蒲団」はふつーに「ツマラナイ小説」になっちゃうんですね。実際、真面目に読めば「ツマラナイ」んですから。それどころか、軽く変態です。
ですから、ね。こんなもん、中高生のうちから読む必要ないんですよ。もうちょっと、読書経験が豊富になってから読めばいい。
そして、それは「蒲団」に限りません。多くの文学作品、というよりも小説というジャンル、あるいは芸術全般に言えることだと思います。

ですから、まずは自分が読みたい本をジャンルは無関係にどんどんガンガン読んでいくのが正しいと思います。
もちろん、ちょっと背伸びしたものを読ませたい、という場合もあるでしょう。その際は、ご両親であれば、自分が読んで本当に面白かったものを薦めればいいんじゃないでしょうか。
それがSFでも、ミステリーでも、結果としてたまたま文学であっても。

ということで、今日はこの辺りで。
それでは、それでは。