文系学問って、そんなに無駄でしょうか?

どうも、こんにちは。またまた更新期間がずいぶんと空いてしまいました。なかなか時間がない、というのはやっぱり言い訳なんでしょうね。
まあ実際、ブログなんて、そんな時間かけて書くもんじゃないんですから、それくらいの時間いくらでもあるだろうと言われれば確かにそうなんですが、それにしても毎週毎日更新するような継続性を維持するのは、なかなか大変なことだと思います。世の中の、ブログ発信を主要なメディアとして活用してる人には、頭が下がります。いや、ホント、FaceBookでさえ、よくみんなあんなに更新してるなと。

さて、それはともかく先月の末頃、文科省がこんな通達を出しました。

国立大学の人文系学部・大学院、規模縮小へ転換 文科省が素案提示
文部科学省は27日、全国の国立大学に対して人文社会科学や教員養成の学部・大学院の規模縮小や統廃合などを要請する通知素案を示した。理系強化に重点を置いた政府の成長戦略に沿った学部・大学院の再編を促し、国立大の機能強化を図るのが狙いで、6月上旬に文科相名で大学側へ通知する。

詳しくはリンク先を見てほしいんですけれど、まあやっぱり文科省としては国立文系を廃止と言わずとも縮小していきたい、少なくとも予算はなるべく削りたいってことなんでしょうね。
この流れは昨年ごろから急速に加速してる印象なんですが、まあ今すぐどうかなるわけじゃないにしても、現在の小学校低学年くらいの子ども(私の娘もそうですが)が高校生になる頃には、実際、国立文系(あるいは下手すると私立も?)の選択肢は、ひょっとするとだいぶん少なくなってるかもしれませんね。
もちろん今のところは反対意見も多いんですが、そこはやっぱり巧いもんで、こういうニュースを観測気球としてあげておいて、世論が段々こなれてきたころに、するっとことを進めていくつもりなんでしょう。

先に言っておくと、私はこうした文系廃止ないし縮小論には反対です。
いや、正確には学部がどうのこうのというより、その背後にある実学重視、いや功利的な効率重視の志向が、教育・学問にはそぐわないと思っています。

とはいえ、一方で、こうした施策は日本の大学、文系学部自体が招き寄せたものでもあります。
たとえば、学科横断型の超域文化系学科の乱立。
総合ホニャララ学部とか、そういうやつね。まあ、私自身そういう研究科の出身なんで、あんまりえらそうには言えないんですが、やっぱりちょっと増えすぎだよなという印象です。
人間環境ホニャララとか、外から見れば、何やってるかさっぱりわかりませんよね。
もともとこういう学科横断型の分野・学科の創設は、1980,90年代のポストモダン思想の潮流とも相俟って、既存の学部学科の学問的閉鎖性・硬直性を打破しようという試みのもとにつくられたものです。
ですから本来はイレギュラーな存在であり、法学や文学といったオーソドックスな学問体系があってはじめてその独自性も光るというものだったはずなのですが、いまや別にそれってもとからの文学部や法学部でもやれてたよねって分野にまで新奇な名前をつけて新学科を創設しちゃうありさま。
そりゃ、新奇な名前で人集めようってのもわかるけど、もうちょっと整理縮小できちゃうんじゃないの? と突っ込まれちゃっても仕方がない状態になってたわけなんですね。

他方、大学で学ぶ学生はというと、これは何もいまにはじまったことではありませんが、何でその学科学部を選んだのかよくわからない完全モラトリアム型の学生が、それなりの数、存在します。
まあ、これは文系の学生だけの話ではありませんし、日本人のライフコースにおいては、この大学期におけるモラトリアムの中で学ぶことも多いわけですから、一概に否定する必要もないと思います。
ですが、やっぱり専門学部に関連する著作どころか本そのものを全く読まないような学生は、本来、文系学部には居てはいけないんではないでしょうか。
さらに言えば就職活動があろうがなかろうが、3年生以降のゼミはそこが学問の場である限り、決しておろそかにすべきじゃないし、卒論をいい加減に書くような態度も許すべきではありません。教員側も個別の事情をもとに変な温情はかけるべきではないでしょう。
いや、そんな原理主義的な物言いは実情に合わない、就職活動はほんと大変なんだとかって、もし言うのであれば、それはもう文系学部が、いや日本の大学自体が「就職予備校化」していることの証左なわけですから、そんなもんはやっぱり文系だろうが理系だろうが少子化のなか予算も足りないんであれば、当然、縮小されても仕方ないんだと思います。
だって、もうそこは文学や法学や社会学を学ぶ場ではなくて、単に就職するための通過儀礼の場にすぎないんですから。学問の内容なんて関係ないんですから。
などと書いていたら、またちょうど、こんなニュースが入ってきました。

大学を「職業教育学校」に…19年度実施方針
政府は、実践的な職業教育や技能訓練を行う高等教育機関として「職業教育学校」を設置する方針を固めた。
高校卒業後の進学や、社会人の専門知識の習得を想定している。学校は新設せず、希望する既存の大学や短大などに職業教育学校へ転換してもらう考えだ。4日の政府の産業競争力会議(議長・安倍首相)で原案が示され、月内にまとめる成長戦略の柱とする。

こちらは今度、私学の話ですね。
以前、G大学(グローバルな人材を育てるエリート大学)とL大学(ドメスティックな産業の労働者としての技能を身につける大学)の提言について書きましたが、こうしたある意味、露骨な学歴による階層性の形成をよしとする考えも、大学の実情をみていると、意外と問題なく世論にも受け入れられていくんじゃないかと思ってしまいます。
実際、日本は大学が多すぎて、ほんとは教員の職業確保のためにこんなにあるんじゃなかろうかと思ってしまほどの数ですから、その一部が「職業訓練校」になったとしても、それこそ困るのは、そこを職場にしていた先生たちなんじゃないかとも思うわけです。
ただ、おそらく問題は、実際の「職業訓練学校」を卒業した人たちが、この学歴社会の日本では、とうの「職業」につける可能性が、ものすごく低いということなんですね。
おそらくL大学という名前にせよ、「職業訓練学校」という形式にするにせよ、地方の私学や、やや偏差値の低い学校が、そういう形に鞍替えするとしたら、単純に今以上に学歴差別の対象にされてしまうだけなんじゃないかなと思います。

 

話を戻して、国立文系の問題。
繰り返しますが、以上のように現在の大学にいろいろな問題があるのは百も承知で、それでもなお私は文系廃止・縮小論に反対です。
もちろん現在の学部学科が再編成されたって構いませんし、その結果、存在意義の疑われるような教員や学生が放っぽりだされても知ったことじゃありません。
けれども、その理由が、文系の学問の多くが実学でないから、つまり「一文にもならない学問」だから、というものであれば、これは許すべからざることです。

それは文系学問の根本にある機能が――哲学はもちろん歴史学や政治学、そして文学でさえ――ものごとを意味づけ、評価すること、あるいはそれを学ぶことにあるからです。
たとえば、なぜ我々は歴史を学ぶ必要があるのか。それは別段、この国の由来を知るためだけではありません。
我々が歴史を学ぶ必要があるのは、過去を知ることによって現在を意味づけ、評価するためです。
現代の社会がどのような経緯で成り立っているのか、その経緯をどう評価し、その先にある現在未来をどう意味づけるか。過去を通して現在を考えるのが、本来の歴史学です。
このように現代を意味づけ評価するということは、哲学や社会学においても根本は変わりません。文学でさえ、ある文学作品を通して人間社会を考察するものなのです。

こうした学問を学ぶことを「意味がない」と考える社会とは、どのような社会でしょうか?
それは現状に対しての批判精神を欠いた社会であると言わざるをえません。
何となれば、ものごとを意味づけ評価するとは、ものごとを批評し場合によっては批判することにつながるからです。
人々が現状に対して何ら批評的な眼を持たない、何の異議申し立てもしない社会というのは、私には恐ろしいものに思えます。
そして、おそらくはそうした批判を受けやすい対象である行政権によって、教育の場から、そうした学問が排除されてしまうというのは、やはり健全なことではないのではないでしょうか。

ちょっと中途半端ですが、今回はこんなところで終わっておきます。
この話題は、また機会があれば取り上げたいと思います。

それでは、それでは。