「春はあけぼの」の前衛性

どうも、明けましておめでとうございます。
と言っても、もう明けちゃってから、随分と時間が経ってしまってますね。
なんだか、去年もこんなことを書いた気がするんですが、気のせいですよね。
気がつけば、またブログの更新も4ヶ月も空いちゃってます。まあ、もうこれは開き直って、季節の風物詩的なものなんだと割り切ってしまおうかな。
いやはや、それにしても時間が経つのは早いもので、気がつきゃ、もう完全な受験シーズンですよ。おかげさまで日々忙しく、連日の授業で、正月明けから今日まで、ほぼ休みなしという状態でした。で、久しぶりに連休を取れたので、ブログでも書いてみるかな、と思い出したわけですね。

そういえば、先日は、あの呪わしきセンター試験も終わりましたね。
呪わしき、というのは、まあ国語にたずさわってる者なら、あのマーク式クイズで国語力を測るなんてシステムは普通誰でも賛成しないものなので。ましてや、残り数年で終わることが決定しているとくれば、そんなもので部分的とはいえ自分の人生の一端を決定される受験生がかわいそうで、ね。
それはともかく、問題を見た人ならわかると思いますが、今年のセンター古典はえらく簡単な問題文でしたね。数年前の源氏物語で懲りちゃったんでしょうか。
私は古典苦手な生徒には、特にセンターでは選択肢レトリック読みの強化を推奨しておるわけですが、今年に限っては普通に読んで答えても、誰でも問題なく読めちゃったんじゃないでしょうか。

さて、その古典なのですが。
最近、誰だったでしょうか、中学生くらいの男の子に、「古文なんか読めても現代では意味ないのに、なんでこんな勉強しなけりゃならないんだろうか」的なことをボヤかれました。
まあ、よく聞くボヤきだとは思います。でもね。
やっぱり、それはおかしいんですよね。

まあ確かに、ほんとにどうしても学びたくないなら、別に古典なんて知らなくても良いかもしれません。いや、古文に限らず歴史も数学も必要ないかもしれません。
でもね。

それは、端的に「」だと思います。
せっかく知ることをできることを、せっかく読んで味わえるものを、ドブに捨てるように見捨ててしまうのは、自分で損をとる行為だと思います。

せっかくいろんなものを味わえる舌があるのに、カップラーメンが世界で一番うまいなんて思ってるとしたら、それはもったいないことですよね。
せっかく見知らぬ土地へと出かけたのに、その地の風物や景色を堪能せずホテルに引きこもりっぱなしだとすれば? それはお金の無駄というものです。
もちろん、カップラーメン以外にろくな食べ物がないとか知らない土地に旅行になど行けないといった環境にあるのなら、それは致し方ないことです。しかし、そんな境遇を私たちは普通、不幸であると考え同情するはずです。

古文の文章を読めないというのは、本当はこれと同じことです。
例えば、枕草子の冒頭部。誰でも知っている部分ですが、あの風物の鮮烈なイメージを、どれほどの人が味わえているでしょうか。また、あれがどれほど前衛的な、清少納言の知的な遊戯に溢れているか。
清少納言は、いとも簡単に「春はあけぼの」と書き出します。
しかし、あの当時、「春」と「あけぼの」をつなげて考えるような感性は、全く一般的ではありませんでした。ふつう、「春」とくれば「梅」だったのです。
それも当然。だって「あけぼの」は、何も春ならではの事象じゃございません。365日「あけぼの」は見られる光景です。
にもかかわらず、清少納言は「あけぼの」を春に限定する。しかも、書の第1行目で。
当時、教養度を競うことにかけては現代日本作家がハナクソに思えるような平安文芸サロンで、この「異様」な風物描写を一発目に持ってくる大胆さは、従来の文芸手法への否定的革新という意味では、ほとんど「ポストモダン的」と言って良いものでした。

「秋は夕暮れ」もそうです。今の私たちは「秋」とくれば「夕暮れ」とするのは当然と思っています。
でも、これも清少納言が「開拓」した感性なのです。
ふつうは「秋」とくれば「萩」とか「月」でした。まして清少納言は「夕暮れ」に「烏(からす)」を「寝床(山)」へと飛ばせます。これを「文学的」とするには、彼女が自身の知性に絶対的な自信があったからこそできる前衛的発想だったのです。
だって、よくよく考えれば、別段珍しい光景でもなんでもないでしょう? これも「秋限定」ではない。
しかし、彼女はあえて、「秋は夕暮れ」としたのです。
この「秋」と「夕暮れ」を違和感なくつなげる感性が一般化していくのは、清少納言のフォロワーたる新古今の歌人たちがこぞって歌にしていったためです。
「三夕の歌」が有名ですね。逆に言えば、その感性の浸透は平安末期まで待たねばなりませんでした。

いかがでしょうか。
興味を持って「読んで」見なければ、こうした古典文学の面白さはわかりません。
いや、それは現代文学、近代文学だってそうでしょうし、映画や演劇だってそうです。
学問であれば、歴史や数学物理だって同じこと。すべて皆、興味を持って学んだり、読んで味わってみれば、それぞれに新しい「面白さ」を発見できるはずです。
それらをスルーしてしまって、「面白さ」を体験できないのは、面白い映画を見たことがないのと同様にもったいない、「損」なことだと思います。

確かに実際、今の学校教育では、文法がどうとか下らないことしか教えないために、古文は読みものどころか苦痛の種にされています。
「古典文を読んで味わう」どころか「読む」力さえ養われていません。
上の方に書いた例で言うなら、旅行に出かける財力さえ奪われた状態です。
けれども、だからって学校教育の「罠」にはまって、自分から「学ぶ必要なし」と決めてかかることは、愚かだとしか言えません。
古文に限らず、数学でも物理でも歴史でも、どうか子供たちには、「強制されたもの」とはいえ、せっかくの「機会」ですので、それを「損」をしない方向で生かしていってもらいたいと思います。

それでは、それでは。