年末、雑感

fullsizerender-2どうもどうも。2016年も何だか馴染みのないままに暮れなんとしております。
歳を重ねると一年が早いなんて言いますが、最近は本当に強く実感してしまいますね。

さて、わたくし事ながら、本年は昨日で仕事おさめ、最後のレッスンとなりました。
そこでも行ったことですが、最近、僕が受験生以外の生徒とのレッスンで、一番取り組んでいるのが読者指導です。
やっぱり狭い意味での「国語」教科にしても、広く日本語力全体についていっても、持続的な力をつける上で、読書の習慣をつけることより効果のあることはありません。

昨日の生徒は 中二ながらも「教養」を積むことに積極的なタイプ。
ちょっと「リベラルアーツ」的なレッスン内容になりました。
とりあげたのは、中上健次の『奇跡』と、村上春樹『風の歌を聴け』。両方、冒頭部の数十頁を一緒に読み進めました。

知っての通り、まったくスタイルの違う両作家。しかし、両者は年齢が実は三つしか変わらぬ同世代です。デビュー年代こそ中上の方がやや早いものの、ある程度、同じ時代や思想をみて育ったはず。
そして、昔々存在した「論壇」においては、中上健次のほうが圧倒的に評価は高かった。いや、いわゆる「文学好き」な層においても、ある時期までは中上ファンの方が多かったように思います。
対して、村上春樹は、かつては「大衆的」といった汚名すら着せられていた。が、現在に至るまで一貫して種々の層からの人気を集め続け、結果として時代に名を残さんとしているのは、村上春樹の方であるようです。
フォークナーの影響からガルシア・マルケスら南米マジックリアリズムを髣髴させる手法で紀州の「路地」を独特に描いた中上健次。
方や、フィッツジェラルドからレイモンド・チャンドラーなど広くアメリカ文学の影響を受け独自の文体と世界観をつくることに成功した(しかも、現在ではもはやそれが独自とは思えぬほど一般化させることに成功した)村上春樹。
そんな両者のルーツと差異、時代背景などを解説するレッスンとなりました。

期せずして、中二生徒にとってはかなりレベルの高い内容となってしまいました。
ですが最近は、あえて、こうした「教養」をーーそれに関心を持てる生徒には特にーーどんどん注入していく授業を行っています。
興味さえ持てれば、高校生だろうと中学生だろうと、文学・哲学でも政治・経済の話でも、きちんと受け止めてくれるものです。
事実、昨日の生徒はそれなりに面白く聞いてくれていたようでした。こうした内容のレッスンでは、後で感想を作文としてまとめてもらうのですが、こちらも楽しみです。

世は実学重視の時代。何だって経済的効能に還元されて価値付けられ、学問もまたその例外ではないようです。
大学もそう。多くの人たちにとって、そこは就職予備校。講義は、ただの「オマケ」でしかないのかもしれません。
2016年もまた、そうしたことを多く感ずる年でもありました。

でも、だからこそ、僕は「教養」を、リベラルアーツを、文学や哲学そしてあらゆる物事の「歴史」を大切にしたい。
学問の「歴史」に謙虚に学ぶ姿勢を持ちたいと思います。
そして僕の授業ではーー皆にそれを押しつけることはないけれどーーそんな世相に逆らえる「武器」を提供したい。
これまた本当にささやかながら、そんな思いも持っています。

では皆さま、良いお年を。
それでは、それでは。

いまんもレッスン日記③ 「学び」と「場所」

前田先生も書いているんですが、最近、V-netの「作文道場」では、ちょっとした実験的メソッドを試しています。
http://blog.livedoor.jp/tokyosawyer/archives/10634820.html

作文は音読やサイコロ計算以上に、「自分から何かを書こう」という主体性が必要です。
ところが、子どもたちはなかなか「文章をガツンと書く」面白さに目覚めてくれません。それどころか、学校などで「いやいや書く」クセをつけられている子までいる。
これを何とかしようと、これまでも前田先生と、2人で色々と試してきたものです。
そして、今のところ行き着いたのが、これ。
教師が無理に指導してやらせようとするのではなく、生徒同士がインタビューをし合うことで「文」を「作」っていく。
一週間にあった出来事を書いてもらったり、特定の課題について書いたりと色々ですが、ともかくも一時間で一本の「作文」を仕上げてしまう。
詳しくは上の前田先生のブログも読んでほしいのですが、今のところ僕たちが何も言わずとも、皆スラスラと集中して書いてくれています。

これは子どもたち全員が、一つの「場」に参加できるように、と知恵を絞った結果でもあります。

子どもたち自身が「思考」し「創作」する空間をつくり、運営する。
一人ひとりが勝手に自分の課題を「仕事」でもするように進める・やらされる空間ではなく、大学・大学院のゼミのような主体的な場にしたい。そういうふうに考えました。

どんなことを学ぶにしろ、それを行う「場」の雰囲気は重要です。

振り返れば、作文に限らず、「音読サイコロ道場」全体にしても、単に音読や計算の方法を伝授する「場」以上のものにしたいとの思いで、これまでやってきました。
ゆくゆくは個人指導で本格的にレッスンを受けていくにせよ、まずその入り口として、V-netがどんな場所なのか知ってもらいたい。
そして、そのV-netという「場」そのものが、「個」性の活性化を目指す場であるということを、知ってもらいたい。

そう、僕たちがいつも考えているのは、子どもたちを、いかに活性化させるかということです。
子どもたちの本来のエネルギーが、「勉強」等で必要以上に失われるのを防ぐこと。
いやむしろ、もっと活発になれるよう、教師を含めたそれぞれがエネルギー交換できる場であること。

つまるところ、教師含め、オモシロイ人間たちが集う「場」であること。

それはお題目ではなく、一人ひとりの「個」を認めるということです。
学校その他の社会で、どんな「問題児」であろうと「アスペルガー」であろうと、その「個」のオモシロさを大切にすることです。
そもそも「教師」である僕たち自身が、社会全体から見れば「問題児」であり「アスペルガー」なのですから。
「多様性」とは、そういうものだと思います。
もちろん、ガツンと怒るときは怒る。「教師」だって「大人」だって、腹がたてば怒るのは当然です、でも、そのオフザケがちょっと「悪い」ことでも、面白ければ、ついぷっと吹き出してしまうこともある。それもまた、人間です。

僕は、何かを「学ぶ場」というのは、あくまで「人間」がつくるものだと思っています。
「教師」や「大人」が教えて、「子ども」が従う場ではない。
あくまで一人ひとりの「人間」同士が交感し、共感していく中で、つくっていくものです。

「教育」とは本来、誰かの行いに、他の誰かが共感し真似をする、
そんなささやかながらも奇跡的な交流から、生まれるものだと思うからです。

それでは、それでは。
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