読書のチカラ

さて、お話のはじまり、はじまり。
いくつも山を越え、
いくつも森を越え、
いくつも大海原を越えた辺り、
天上ではなくて、この地上の、
とある村に爺さんが住んでいた。
爺さんには息子が三人あった。
いちばん上の息子は利口で、たくましい若者。
二番目の息子はまずまずといった若者。
ところが一番末の息子というのは、
まるっきりのお馬鹿さんだった。

さて、これは『せむしの小馬』という本の書き出しです。
この本、ロシアの作家ピョートル・エルショフが今から180年前に書いた古典的作品なんですが、どうでしょうか皆さん、ご存知でしたかね?
いや、お恥ずかしい話なんですが私は全然知りませんでした。
数年前、自分の娘用にと友人の編集者がプレゼントしてくれたんですが、最近本棚で目にしてちょっと読んでみたんですね。すると、結構おもしろい。
お話は、ちょっとお馬鹿な青年イワンが(この辺は「イワンの馬鹿」になぞらえています)、小さいけれども賢い小馬といろいろ冒険した結果、最後は皇帝になるという、おとぎ話的なもの。なんとロシアではバレエになったりアニメ映画になったりしています。
でも、このお話が面白いのは、なんと言っても、その語り方。
上の書き出しもなかなか魅力的なんですが、ロシア文学的な諧謔に満ちた詩的な文章は、むしろ大人が読んで面白いかもしれません。
もちろん読書の楽しさに目覚め始めた、小学校中・低学年のお子さんにもオススメできます。

さてさて、なんでいきなりこんな本の紹介を始めているか。
それは前の記事でも書きましたが、現在僕はやや時間に余裕のあることもあり、生徒の子どもたちと読む、いろんな本を物色中だからなのですね。
何より春休みには「子ども読書道場」という、まさに生徒と「本を読む」ことを目的とするレッスンを準備中でもあります。
が、この読書道場。今回はあんまり反応良くないですね。去年の夏やったときは、かなり受講者も問い合わせも多かったんですが、この春はむしろ国語記述や作文の短期レッスンの方がいっぱいの状況です。
新年度始まりであるのと関係あるんでしょうが、まあ正直、よくわかりません。
とはいえ、この春が不発でも、懲りずに続けていく予定ではあるので、例えば小学校高学年の感性豊かな少年少女であれば、こんな文章を読むのも良いのではと思っております。

「この本のページはね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことではないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
だからこのページ一つが一さつの地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいていほんとうだ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えてごらん、そら、それは次のページだよ。
紀元前一千年。だいぶ地理も歴史もかわってるだろう。このときはこうなのだ。へんな顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか。」
その人は指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニはじぶんというものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆるひろい世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっときえると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。

これはご存知、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節です。
宮沢賢治はまあもう国民的な児童文学作家と言ってもよいような人ですけれども、彼の生涯をみてみますと、戦前、国柱会というナショナリスティックないわゆる当時の新興宗教に入れ込んじゃったりとなかなかヤバイところもある作家なわけです。
でも、やっぱり作品はいいですね。
しかも昭和の作家にしては珍しく、音読してもいい。
上の一節なんかも、それこそどう解釈したっていいわけですけれど、彼の作品には価値観を相対化してくれるような、そういう多義性が多く含まれていると思います。
こちらもやはり、子どもはもちろん、大人になってからもう一度読み直して良い小説と言えるんじゃないでしょうか。

まあ、上にも書きましたが、僕は受けようが受けまいが生徒に喜ばれようが退屈されようが、レッスンで一緒に本を読み読書を奨励していくつもりです。
なんとなれば。
やはり国語力、言語力の基礎ってもんは、他人の書いた文章を読み理解し楽しめることで間違いなく一番養えるものと思うからです。
国語のテストでどんな良い点とったって、それで言語的な力があるとは限りません。
しかし読書家の言葉の力は、たとえ中学国語の内申が3しかなくたって、絶対その子の将来を裏切らないと確信するからです。
手前味噌ながら、私自身がそうでした。
登校拒否になって高校中退してグレてバンドやって全然勉強しませんでしたけれど、読書だけはずっと好きでした。
おかげで、十代の最後にやっと勉強しようって気になったとき自力で学習する力が残っていました。

V-netにくる子どもたちは、みんなチョー個性的でおもろい奴らで、でもだからこそフツーの学校やあるいはフツーのしょうもない価値観にはなじめず苦労してるかもしれない奴らです。そんな子どもたちが多いです。
勉強だって、必ずしもすごく出来るわけじゃないかもしれない。
でも、だからこそ。
だからこそ、僕は彼らに一つだけでも武器をあげたい。
自分で学び自分で考え自分で自分を表現できる、言葉をあやつる力をあげたい。
そして、それを身につける一番の近道が、読書なんだと思うわけです。

それでは、それでは。