どうもどうも。
春休みも終わってようやく新年度の日常を感じつつある今日この頃、みなさん如何お過ごしでしょうか。
私は変わらず生徒と作文書いたり国語問題解いたり文章記述の仕方を教えたり小説を一緒に読んだりする日々なのですが、私が生徒と読む小説でかなりよく取り上げる作家の一人が、芥川龍之介です。
この芥川、みなさんはどんな印象をお持ちでしょう?
人によって様々でしょうが、いわゆる「ザ・文学」の人って感じがしませんかね?
何てったって、あの芥川賞の芥川ですから。川の名前は伊勢物語にも出てきますし。
もっとも「芥川賞」も最近は「賞取った直後はめっちゃ本売れるけど数年後には『あの人は今』的な感じでどこに行ったか判らなくなる新人作家とお笑いの人がとる賞」ってイメージかもしれません。
そんでも、芥川の権威はそう簡単には揺るぎません。
相変わらず、中学の教科書に載ってる。
つまり、学期試験にでる。なんか登場人物の心情の変化とかを記述で書かされる。
こういう、いわゆる「ザ・(うざい)文学」の人。
で、実際、学校の授業の、しかも中学の国語授業で取り上げられると、すごーーーくつまらん感じがしちゃいますよね。
だから小説読むのが趣味の人間としては、逆に学校教科書に好きな作家が載って欲しくなかったりします。
ま、とは言いながらも、たまに自分の授業で生徒の試験対策とかなんかで、何とかナオコーラとかペプシとかの小説読まされるのはもっと苦痛なんですが。
ともあれ、芥川龍之介。
実のところ、私はよくもう一人の「ザ・文学」、太宰治と一緒に取り上げるんですが(この人も教科書によく載ってます)、それは何も「文学的」見地からでなない。
理由は簡単。二人とも、実はまあまあ、とっつきやすいからなんです。
「文学」ってまあそもそもジャンルとしてどんなもんかよく判りませんし現代小説においては正直言って小説雑誌のカテゴリーにすぎない気もするんですが、一般的には何か難しそうな小説って印象じゃないかと思います、あと、何かつまらなそう。
で、実際、一部の実験的な現代小説は一読すると難解だし、つまらない。
村上春樹ですら、ハズレみたいなの読むと内容は薄いしモテ男の日常を書いてるだけだし描写はまどろっこしいし、あまり小説読まない人には「軽く」はない。
古井由吉の「杳子」なんて読んでごらんなさいよ、最初の数ページにわたる描写だけでたいてい読むのを止めると思います(いや、私は好きなんですがね)。
私は「文学」=「するめ」説を唱えているんですが、そういうまどろこしい小説も、実は我慢して読んでいくと、だんだん面白くなってきますし、そうなると逆にいかにもテキトーに世俗受け狙って書いたんだろうなあって感じの小説は耐えられなくなります。
けど、まあそうなるにも最初から「杳子」ってチョイスはない。
その点、芥川は読みやすい。しかも、たいてい短い。
もちろん、晩年の「或阿呆の一生」とか「歯車」とかは、初心者はやめときましょう。死にたくなります。
「神々の微笑」とか、思弁的なやつも、予備知識がないとしんどいでしょう。
でも逆に、「アグニの神」とか「煙草と悪魔」とか、超カルイ、ショートショート風のものもあります。面白いかどうかは別として。
実は学校教科書でよく取り上げられる、「羅生門」とかも、いきなり読むのはほんとはマズイ。あんまりはっきりした物語がありませんからね。
芥川の短編は、多くが非常に構成が整っていて、整っていすぎて、はっきり言うと面白くないぐらいなんですが、そのぶん今風にはエンタメ的に読みやすいものが多いです。
ところが、「羅生門」は構成ははっきりしてますが、物語的などんでん返しとかはないので、芥川を初めて読む人にはそんなにおもろくないでしょう。
まして、なんか道徳的な話なのかなあなどと思うと余計まずい。
ウィキペディアなんかには「人間のエゴイズムを克明に描き出し」なんて書いてますが、そんなふうに読むと、マジつまらんです。
そうじゃない。
芥川龍之介の「平安もの」を読む面白さがあるとするなら、まず一つ目は、その「暗さ」。そして映像的な描写のような気がします。
例えば、書き出しのこんな文章。
ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。
「円柱に蟋蟀」なんて描写がかっこいい!ついでに漢字もかっこいい!なんて私は思うんですがどうでしょうか。そんなことはフツーはないんですかね? あるいは、
羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。
これも非常に映像的。最初の文章がロングショットでとらえた描写なら、そのあと「膿を持った面皰のある頬」にカメラがずっと寄っていく感じがする書き方です。
そして、話のトーンがずっと、暗い。
人間のエゴイズム云々とかそんなことはどうでもよくて、ただひたすら平安末期の陰鬱な感じ、薄暗く汚らしい感じが行間を漂っています。
羅生門の上で死体から髪抜いてる老婆とかマジ不気味。
でも実際、芥川の羅生門が最初に評価されたのは、そうした陰鬱な「雰囲気」が、非常に現代的に感じられたからではないでしょうか?
そうしたモダンな「暗さ」があって初めて、人間の「内面」云々の描写に新鮮なリアリズムが感じられたんだと思います。
決して「道徳」的な表現として評価されたのではなく、もっと背徳的な小説という印象があったのでしょう。
それを教科書的なモラリズムに貶めて教えるのは、本当に罪深いことだと思います。
ところで、芥川の「平安もの」には、この「羅生門」以外にも「偸盗」という小説があるんですが、私自身は話もこちらの方が面白いし、そうした描写の「暗さ」がはっきり出ていると思います。
男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳が一本、このごろはやる疫病にでもかかったかと思う姿で、形ばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車のわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつか脂ぎった腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。
この「偸盗」はお話の展開も、登場人物も皆、古典的なエンタメ作品としてよくできているので、芥川の初読者にはオススメです。
教訓とかは、ありません。
いや、あるのかもしれませんが、そんなことは無関係に、平安末期の陰鬱な、ハードボイルドな作風を楽しめばいいんじゃないかなと思いますね。
如何でしょうかね。
今日は本当に「感想文」。
いつも以上ににとりとめのない文章に終始してしまいました。
それでもちょっとだけ、芥川龍之介を手にとってみよう、もう一回読んでみようなんて気になったとしたら、つまらん試験の題材にされてる作家たちも少しは浮かばれるかもしれません。
それでは、それでは。