「アスペルガーっぽい」「ADHDっぽい」の「っぽい」にこだわる

どうもどうも。

さて先日ASDないしADHDにちょっとだけ関係ある記事を書いたら、なぜだかいつもよりアクセスが増え特にいつもは無反応なFBからのアクセスがえらい増えてました。
これはやっぱり世のお母さんたち、あるいは子育て世代にとってこういう問題が切実だからなんでしょうね。ウチ含めて。

実際、V-netに相談にいらっしゃる保護者の方の話なんかを聞いてみても、やっぱりこの数年、「うちの子はちょっとアスペルガー気味で」とか「いわゆるボーダーみたいなところがあって」などと話の最初にそういう断りを入れる方が増えているように思います。昔に比べて。
また逆にいうと、そういう「アスペルガー」とか「ボーダー」とかって言葉が人口に膾炙したってことでもあるんでしょう。

でも、だからこそ。
少し気をつけてみたいとも思っています。

私もまあ、こういう商売ですし前のブログでも書いたようにウチの子に多動的なところがあるのもあって、結構そういう関係の本を読んでます。
で、そういう本を読んだことのある人、いえ本じゃなくてもそういうネットの記事とかでもいいんですが、そんなのを見ると、きっとおそらく多くの人が、「あれ、これ自分にも当てはまるんちゃうん」と思うんじゃないでしょうか。
特にADHD、いわゆる注意欠如多動性障害のチェックリストとか見てごらんなさいよ。
私はもちろん、ウチの妻なんかも当てはまりまくり。
例えば私。
・じっとしていられない
・しゃべりすぎ
・ずっと着席していられない
・着席中手足もじもじそわそわ
・順番待ちが苦手
・静かに余暇を過ごせない
・相手の質問が終わる前に答えてしまう
とある本でのチェックリストですが、なんと9個中7個のヒット。超高打率。
ということで、きっと今の時代だったら確実に「診断」されてしまっているのでしょうが、さてさてでもそれって本当ですか?
いや、まあほんとなんでしょうが、でもここではっきり言っておくと、

「ボクは多動的であることで困ったことなど1度もない」

のですよ本当に。
なんか先週娘について書いたことと若干矛盾するんですが、まあそれが親ってものの業なのでしょうね。自分は平気でも子は心配。
でも本当にそうで、僕はきっと周りから見れば奇異な子どもだったんでしょうが、本人は別に大人になるまで自分の変なところには気づいていませんでした。少なくとも日常生活では。
それは先週、心配のタネとして話題にした娘もそうで、宿題に2、3時間かかろうと親が心配してるだけで本人はいたって平気な顔してます。

さらにいうと、子どもの頃の僕にはいわゆる「アスペルガーっぽい」ところも散見されただろうと思います。
つまり「周りの空気が読めず、こだわりが異常に強い」子どもでした(なお、この辺りの要素ももれなく子どもに遺伝している模様)。
ただ、実はちゃんと類書をいくつか読めば、この程度のことでアスペルガー症候群含むASDという診断は下せません。
これらはせいぜい「アスペルガーっぽい」という程度の、性格的偏向にすぎないものと思います。
でもそれですら、上のADHD的傾向とあいまって、もしか医者にかかっちゃったりしたら、きっと「診断」されて薬なんかを処方されちゃっていたかもしれませんよね。今の時代なら。

で、何が言いたいかというと。

「 ADHDっぽい」「アスペルガーっぽい」「ボーダーっぽい」。
この「〜っぽい」程度のことであれば、かなり多くの子どもはもちろん大人も当てはまっちゃうってことです。
自分自身はもちろん、周りの人々を思い出してくださいよ。
どこかしこに「っぽい」という人はたくさんいるんじゃないでしょうか?
ちなみに私はV-netの先生方含めて、知人友人の実に九割が当てはまります。ひどいなさすがに。

じゃあ、そういう人たちに医者の「診断」は必要か。薬物その他は必要か。
もちろん必要ありません。みんな立派な大人だし結婚もしてますし子どももいます。子どもはみんな変わり者かもしれませんが。
それぞれに子ども時代、それぞれの挫折があったことは確かでしょう。でも、それでも今のように「記号」のレッテルを貼られたわけではなかった。

もちろん。
実際には「〜っぽい」ではすまず、深刻な学習障害を抱えていたり、日常生活に困難を感じている子どもたちやまた大人もいます。
そんな子どもを抱えるお父さんお母さんの気持ちを考えると、本当に胸に太い針を刺されたような痛みを覚えます。「〜っぽい」子どもですら心配なのですから、そうした保護者の方々の心配は察するにあまりあります。
そうしたケースにおいては、きちんとしたメソッドに従った処方が必要な場合もあるかと思います。

ただ、そうでない、「〜っぽい」の場合はどうか。
いやもちろん「〜っぽい」であっても、そうした傾向も「飼いならせた」方がいいに決まっているので、いろんな教育メソッドに触れていくのは大切でしょう。
でも過剰な「診断」に基づいた心配をする必要はない。

あれ? おかしいでしょだって先週アンタ、心配なのはそういうことじゃなくて「今」の問題だとかって言ってなかった?
そんなツッコミが聞こえてきそうです。
そうなんですよね。
問題は、学校。というか日本人特有の、「空気を読む」必要が生じるような共同体的集団なんですよね。
これは学校だけでなく会社なんかの社会組織もそうなのかもしれません。

これについては、とりあえず「複数のコミュニティ」を持つこと、の大切さをここでは言っておきたいと思います。さしあたりは。
子どもであれば芸術でもいいし何でもいい。絵が好きなら絵画の教室でもいいし運動が好きならスポーツチームでもいい。もし勉強が好きなら、民間の教育機関でもいい。
その子の特性にあった、「居場所」となり得る習い事を見つけてあげるのがいいでしょう。
そんな「居場所」が他にあれば、学校にたとえ馴染めなくとも、その子なりに対人関係を学び、また自分なりの成長の仕方を見つけるはずです。
手前味噌ながら、V-netもそんな場所であれれば、と私などは密かに思っています。

学校以外に、自分のアイデンティティを確信できる「居場所」を持つ。
そうすることで、「集団生活に馴染めない」自分というものを相対的に捉えていって欲しい。
「集団生活が嫌い」っいう部分、個性が自分にはあるんだな、程度に思えるようになってほしい。
実際、それは個人の特性の一部分をなすにすぎないのですから。

学校なんてどうでもいい。
少なくとも学校をアイデンティティの場にしない。
そうなふうに親子ともに思え、また考え実行できれば、「〜っぽい」ことの心配なんて、大したことではなくなるんですけどね。
私自身、ほんとに自戒を込めて、思います。

では、今日はこの辺りで。
それでは、それでは。