教育と「時間」:焚き火の会、諸々

どうもどうも。
梅雨が明けたと思ったら、むしろ曇り続き。で、じゃあ暑さはやわらぐかと思いきや湿度がすごい高くて1日中もわーーっとしてる暑さが続く今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は湿度のない国に行きたいです。

さてさて、そんなもわーーっとしている中、この月曜日、V-net恒例・焚き火の会に行って参りましたよ! しかも家族で。
今回はクソ暑いので奥多摩百間茶屋キャンプ場!
山に囲まれ川で遊び滝壺に飛ぶ!
都心はもわーーでしたが、川べりはやっぱ涼しい! 最高っす。

今回はそう、もう書きましたが家族で参加です。
奥多摩は車で行けるので、毎回夏は家族で参加しているのですよ。
(千葉も車で行けるし行ってるではないか。とお思いでしょうが、ウチの奥さんは高速を運転するのが恐ろしいので千葉には行けないのですよ。え? キミが運転しなさいよって? ハハハ、わたくしは父親が自動車会社に勤めていたにも関わらずエディプス的なコンプレックス的な何かでしょうか、運転免許を持っていないのですよ。素晴らしいでしょう)。

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、今回も子どもさんたちは元気いっぱいでしたよ。
相変わらず奥多摩の川水は夏でも冷たいのですが、関係なし!
飽きもせずルーティンのように川に飛び込む滝壺に飛ぶ!
唇は紫色! でも飛ぶ!跳ねる! そして泳ぐ!
寒くなりすぎたら焚き火に当たって豚トロを食し超辛いタイカレーを罰ゲームか何かのように食し苦悶の表情を浮かべながらそしてまた川に泳ぎ飛ぶ!
そんでもって気がつけばウチの娘も飛んでるではないか!

いやー子どもが楽しそうにしてるのは、ほんと良いですね。
「遊ぶ子どもの声聞けば / 我が身さえこそ揺るがるれ」って『梁塵秘抄』が謡う通りであります。

そんな中、今回は参加されていたお母様のもらした一言が印象的でした。
「ほんと、スケジュールがないのが良いですね。一日中、好きに時間を過ごせるんですね」

言われてみれば、ほんとにそう。
まあ、僕たち教師自体がスケジュールに縛られるのが嫌い。なので、自然にこうなってるわけですが、普通の「自然教室」的なヤツって、まあウチも家族でいろいろ参加したことありますけど、何か定刻にイベントを用意したりして、「時間」のスケジュールを何かしら消化しようとしますよね。

でも、ね。
そういうのって、学校とかだけで十分じゃないですか?
みんな揃って何かしなきゃいけないのって、しんどくないですか?

なるほど。
確かにスケジュールにしたがって、何事かを整然と進めていく、という行程に慣れることも必要でしょう。
大人の社会はそんなことばっかりです。
それに従えないと、僕みたいな大人になります。ひどいです。

でも、子どもの時から、何から何まで「時間」に縛られてるなんて、やっぱりつまらんですよ。息苦しいです。
子どもの頃くらい、「時間」を気にせず、五時のサイレンを気にせず、自分たちのルールで、自分たちが決めた「時間割」で一日中遊べる日があったって、いやたくさんあったって、いいですよね。

考えてみれば、ほんとに僕たち日本人の社会は、何でもかんでも「時間通り」です。
それは日本人の「美徳」とされます。
電車は時間ぴったりにやってきて、バスでさえほとんど遅延しない。
配達は「時間指定」で届けられ、始業に遅刻する人もほとんどいない。

素晴らしい社会です、ね。

でも、ときどき息苦しい社会です。
電車は時間ぴったりに来るけれど、少しでも遅延すると、車内から舌打ちが聞こえる。
配達は「時間指定」で来るけれど、それはドライバーさんの疲弊に支えられている。
始業にみんな遅刻しない代わりに、抗うつ剤を飲んでいる。

素晴らしいけど、「幸福」なんでしょうか?

ある有名人の方が、「電話をかけてくるヤツは人の時間を奪うことを何とも思わないヤツだから嫌い」的なことをネットの記事で言っておりました。
まあ、その通りです。僕も電話は好きじゃありません。別にメールも好きじゃありませんけど。
でも、この方が言っていたことの本意は別にして、「時間を奪われる」ことって、そんなに嫌ですか?
無意味な時間があるのは、そんなに「悪」でしょうか?

でも、人生なんて、究極的には「無意味」なもんじゃありませんか?

少なくとも、教育は「無意味」な時間にあふれています。
いえ、「無意味」な時間がなければ成り立たないものです。

授業中の一見、無意味なおしゃべり。
授業が脇道にそれて話される小話。冗談めいた物言い。
生徒たちの「人生相談」。保護者の方々の「心配相談」。
時々の説教。子どもたちの涙。

全部、「時間」的効率を重視するなら、「無意味」で「無駄」なものばかりです。
でも、これらがないと生徒や親御さんたちとの信頼関係は生まれないでしょうし、何より「真面目」で「脇道」にそれない授業ほどツマランものはありません。
だからこそ、僕は、僕たちは子どもたちとかかわる際には、「無意味な時間」こそを大切にしたいと思っています。

「無意味な時間」の蓄積こそが、子どもたちに「教養」を、「夢」を、そして「幸福」を授けてくれるものだと信じています。

今回は焚き火の会の報告にしようと思っていたのに、またもや書きすぎました。
どうも、一回書き出すと長くなるな。。。ともあれ、まあ今日はこの辺で。

それでは、それでは。

 

「不登校」にこそ必要な「居場所」

どうもどうも。
いやー、いよいよ梅雨もあけて毎日がめっちゃ暑いというかサウナのような暑さですが皆さん如何お過ごしでしょうか? 僕はもう外に出たくありません。亜熱帯気候日本へようこそ。

さてさて最近、このブログでは不登校とかADHDとかに関する記事が多いわけなんですが、その理由としては、やっぱりもちろん僕も教師である以前に一人の親なわけで、自分の娘がだんだんとそういう悩み、トラブルに直面する機会が多くなってきたからなのであります。
娘自身の問題もそうですけれども、やはりその友達やクラスメートの問題なんか見てると、先回のブログでも書きましたが、あーやっぱり学校のシステムの中だとなかなか上手く立ち回れんよなーと思うケースがほんと身近でもありまくりなんですね。

と同時に、V-net。
これはもうウチの特色なんでしょうけれど、やっぱり単純に勉強の悩み、というだけじゃなくて、私立公立かかわりなくいろんな学校での問題その他ありまして、そういう悩みを抱えた親御さんあるいは子どもたち自身が、松永先生に相談にいらっしゃる。とりあえず「サイコロ音読道場」に参加してみる。あるいは僕含めて各先生に勉強習いつつ各々もろもろの問題の解決をはかる。
と、こういうケースが多いというかほとんどなわけで、そういうことからも、どうしてもブログの記事もいろんな教育問題について筆が滑っていくというわけなんですね。そう、今もまさに。

で、これはもう手前味噌でしかないんですが、そうやってV-netにいらっしゃって、しかもいろんな形で長く通ってくれた子どもたち、これがもういつの間にか、すごく「調子のいい感じ」の中高生あるいは大学生大人に成長してくれておるんですよ。
いや、少なくとも焚き火に来たり僕らのレッスンを受けたりしてる時は、「調子が良さそう」に見える。
もちろん、それは何も問題がなくなったって意味じゃありませんよ。
その間も親御さんからは色々なトラブルや悩みの相談を受けますし、色々な理由で僕たち自身が子どもたちを叱責することだって、ままあります。
ありますが、そんな中で親御さんとも密にコミュニケーションをとり子どもたちとも怒りも笑いも共有していくことで彼彼女らの「調子」を整え、そうするといつの間にやら「調子が良さそう」な「大人」に彼彼女たちはなっている。

まあ、きっとでも、そういう場所はV-netだけじゃないんだと思います。
そういう意味でも、ほんと手前味噌。
なんですが、ともかくも、その子にはその子に合った「場所」ってもんがきっとある。
学校では、なかなかそれは難しいかもしれない。もちろん学校が合えば、いうことないですが。
でも、学校に合わなくとも、その子の性質に合った場所、ってのがきっとあります。
まだ小さいお子さんなら、それは習い事かもしれないし、中高生なら趣味のサークルかもしれません。もちろん、オルタナティヴスクールとかかも。

で、どうしてこんなことを書くかというと、何度かここでも書いていますが、人には複数の、「居場所」が必要だと思うからです。
それは「社会」と言い換えてもいいかもしれません。

このブログでは何度か、「不登校」でありながら、とっても「調子のいい」子どもたちについて書いてきました。
ですが、当然ながら僕の知らないところで、「調子の良くない」状態に今も悩んでいる不登校の子ども・親御さんはいるに違いありません。
では、どういうケースの「調子がよくない」のか?

もちろん、実はそんなもん千差万別で、簡単に「こうすればいいです」って解答があれば、世の中から不登校なんてなくなってるし引きこもりもニートの問題も解決してます。
だから、絶対に簡単には言えないし言ってはいけないんですが、ただそれでも遠慮がちに少しだけ書かせてもらうと、それがこの「居場所=社会」って問題です

先々回のブログで、「〈ふつう〉にこだわるのは良くない」って話をしましたが、その具体的なことが、これ。
つまり、いろんな理由で不登校になった子どもたち・その親御さんが、まず最初に考えてしまうのが、子どもたちにとっての既存の、そして〈ふつう〉の「居場所」である学校、ここに戻りたい、戻したい、と思うことなんですね。

別にこれは間違いじゃありません。
不登校にも色々あって、僕はこれを仮性近視にちなんで「仮性不登校」とでも呼ぼうと思うのですが、学校に行ったり行かなかったりを繰り返す子どもの中には、それこそ高校進学などを機に、普通に学校に通うようになる子もいます。
だから、一概に「学校に行きたくないなら行かなくていいじゃん?」っとお気楽に言うのもどうかと思います。
しかし、例えば半年、一年と学校に通っておらず、転校などの転機があっても不登校を繰り返す場合、これを無理に学校に行かせようとするのは、やはり難しいように思います(何度も言いますが、あくまで一般的なケースにすぎません)。

ただ、ここで苦しいのは、実はむしろ子ども本人が「学校に戻りたい」と思っているケースも多い、ということなんですね。
学校に行かなくなる理由はそれこそ千差万別ですし、また理由はどうあれ不登校が長引くともう自分の意思では如何ともし難く、学校には行かないのではなく「行けない」のですが、そういう実際の行動とは無関係に、「出来れば学校には戻った方がいい」と、こう思う子どもは多いものなのです。

なぜって、それは当然。
学校はそれまでの子どもたちにとって、所属していて当然の「居場所=社会」だったのですから。
そこから脱けてしまうことは、相応に恐怖を感じることなのです。

大昔の話で恐縮ですが、かつて少年だった僕が不登校になり始めた頃、藤子不二雄A氏作の「明日は日曜日また明後日も」という漫画を何かをきっかけに読んだことがありました(ずっとタイトルは忘れていたのですが、どうやら有名な漫画らしく検索したら、すぐ出てきました。。。)。
これがまあ会社に行けない過保護に育った男の話なんですが、今でいうニートあるいは引きこもり。これを今から30年前。中学生だった(が学校には行ってない)僕が読んじゃったわけなんです。

トラウマですよ。強烈な。

漫画読んでこれほど鬱になったのは、「デビルマン」漫画版でヒロインが生首姿になっているのを小4で立ち読みして以来のことでした。
どれぐらい衝撃トラウマだったかというと30年経った今でもはっきりお話を覚えているくらいのトラウマです。
ちなみに確認のためさっきネットの試し読みで読んで再び吐きそうになりました。それぐらいです。

つまり、学校に行けない僕は、こうなるかもしれない。
もう二度と、この「社会」に復帰できないのかもしれない。

学校=「それまでの既存の社会」に戻れないかもしれない、というのは、そういう恐怖を喚び起こすものなんですね。
だから、なんとか学校に行こうとは思う。実際に行けば、その場で嘔吐してしまうのに。

では、ほとんど「呪い」ともいえる、こうした状況からどうやって抜け出たのか。
僕の場合にすぎませんが、やはりそれは新たな「居場所=社会」を発見できたことでした。
16歳で大検を取得するために通った予備校。
ここで僕は運良くというか何というか、当時自分より年長だった品行方正とは決して決して言えない何人かの友人と出会ったのですが、その友人たちそれぞれの生い立ち境遇が本当に悲惨この上ないものでありすぎて、正直、「学校行かんかったとか引きこもってたとか、そんなん全然マシやんけ」って気分になったことでした。
だって塀の中にいて、リアルに「社会」から隔絶されてた人とかいるんだもん。

で、そういう友人たちと新たな人間関係を構築し、つまりは新たな「社会=居場所」を作ることができたことが、僕の場合は数年にわたる「不登校→引きこもり」的状態から脱するきっかけになったのでした。

で、これは個人的な話にすぎませんが、V-netの子どもたちはもちろん、他の諸々のケースを見たり聞いたりしていても、やっぱり新たな「社会関係」を子どもたちが見つける、構築する、ということが「呪い」を解くためには重要なんじゃないかなと。
それはもちろん、定期的に通うような場所じゃなくて趣味のサークルでもいいし何だって構わないと思うんですが、子どもたち自身がそういう場所に出会うこと。
おそらく出会うまでにはいろんな所に出入りして、これも違うあれも違うとやっぱり苦しむでしょうけれど(やっぱり僕は社会不適合なのか!?と思うでしょうが)、それでもいずれは気の合う仲間や「居場所」を発見できると思います。

そして、その場所できっと学ぶことができるはずです。
「 社会」と、それらを織りなす価値観は、決して単線的なものなどではないということを。
「人生」を生き抜くための志向は、常に多声的なものであるということを。

こうしている今も、まさに上記した「呪い」に苦しんでいる子どもはたくさんいると思います。
そうした子どもたちが、一刻も早く「自分の居場所」に出会えることを、僕は心より願っています。

それでは、それでは。

学校システム老朽化

どうもどうも。
全くほんとに急に暑いですよね。何でしょうこれは。クーラーつけるとつけたで何か体だるいし。どうしたらいいんでしょうか。って感じの毎日を皆さん何とか過ごせてるでしょうか。

さてさて。
前回、不登校に関係する記事をあげたら、まためっちゃアクセスが急に増えておりました。まあ、そりゃそうですよね。
昨今の教育現場、以前書いたADHD関連の話にしろ、この不登校の話にしろ、ちょうど小・中学生くらいのお子さんを育ててらっしゃる方で、自分の子どもが「既存の教育システム」からズレている、あるいはズレちゃうんじゃないか、という不安を全く持たない親御さんなんて、ほとんどいないと思います。
これは何もV-netで保護者の皆さんからお聞きしている話ばかりじゃない。
プライベートでも友人知人、娘の学校の友人親御さん含め、「いやーオタクのお子さんはしっかりしていらっしゃるから羨ましい」なんて話も振ろうものなら、たいてい「いえいえ実はそれが……」なんつって息子娘さんの心配事の話になります。

でも、ね。
じゃあ、そういうお母さんお父さんがみんなヒドく神経症的に不安がってるだけなのか?
ま、もちろん、そういう場合もあるでしょう。僕だって、そうかも。
でも、やっぱりそれだけじゃあない。

つまり、逆にいうと、それだけ今の学校システム、教育システムが子どもたちの態勢に合わなくなってきてるんですよね。

あ、今当たり前のこと言ったかな?
そう。そんなことはもう何年も言われてることです。

日常的に子どもたちに接していて判りますが、子どもたちの態勢の傾向というか、問題の表れ方というか、良い悪いじゃなくてタイプの違いというか、そういうもんは、だいたい7年〜10年くらいで少しずつ変わるものです。
だから、こちらも10年前と同じ教え方をしていては、子どもに理解されない。理解させられない。
例えば10年前。僕は受験に特化したレッスンしか行なっていませんでした。
今はどうか。いつの間にかもっと根本の、「国語力」自体の底上げを図るようなレッスンがメインになってる。もちろん変わらず受験レッスンも行なってますが、昔のやり方とは全然違う。表面的な「テクニック」を指導するだけでは伝わらないし成績も伸びない。

これは僕の指導力が向上したというだけでしょうか? もちろん、それもあるでしょう(ないと困る)。
と、同時に社会が変わった。教育に何を求めるのかも変わった。受験の指導に求めるものも変わった。つまるところ、子どもたちのタイプも変わった。

翻って、既存の学校教育はどうか。

いや、僕はほんとは安易に学校の批判とかしたくないんですよ。ほんとのほんとに。
単純に「学校」を「悪」と見なして不満のはけ口にするのは、思考停止だとも思います。
いや、クソのような学校や教師がいるのも承知してますよ。校長含め無責任体制そのものってケースも知ってます。
でも、逆に一人一人の教師の質でみると、素晴らしい人材がいることも知っています。ものすごく一生懸命になって、子どもたちのために尽くしてくれる教師や校長だって少なからずいるのです。

それでも、難しい。

教師一人一人の力では、どうすることもできないほど、難しい。

もう、ね。圧倒的にシステムが古すぎるんですよ。
上に書いたように、子どもたちのタイプも、社会が教育に求めるものも、10年くらいで変わっていきます。
なのに、学校のシステムの根幹は、30年前とまるで変わっていない。つまり、僕が小学生だったころから変わっていない。
相変わらず30、40人学級。1クラスごとのメンバー固定で集団行動。教科は選択できず体育、美術、音楽とかも固定。中学入ればクラブ活動運動部。
変わったのは給食が美味くなったことぐらいか(これも地域による)。
これでは、うまく行かないのも、当たり前だと思いません?

例えば、最近の子どもたちはもう、正直、集団で授業を受けることが難しくなってきているのではないかと思うことがあります。
30人から40人の子どもが一人の先生と黒板を見つめて休憩挟むとはいえ数時間、集中して話を聴き続け理解もするというのは、難しくなっているのではないか?
実際、塾など民間の教育期間は、小・中学生に関してはどんどん個人指導化が進んでいます。これは少子化の影響ばかりではないでしょう。
特段の「集中」を要せずとも、過度の「刺激」により「関心」を強引に惹起するテレビ、ネット、ゲームがこれだけ普及するなかで、「主体的に関心を持って」一人のおっちゃんおばちゃんの話を、「多数」の中に紛れた形で聴き続けるのは、少なくとも15歳以下の子どもには難しいのではないか?
しかも、これらの娯楽もどんどん「個別」にカスタマイズ可能なものとなりつつある。

でも、明治の頃はもちろん、戦後のはじめも違ったわけです。
ラジオは「みんな」で聴くものだった。
テレビは「お茶の間」で「家族」とともに視聴した。その「家族」は田舎であれば、兄弟5、6人が普通だった。

もっと言うと、昔は、「みんな」が基本だった。
「みんな一緒に」が場合によっては美徳でさえあった。

高度成長期までは、「みんなで団結して」ことに当たるのは、日本企業の成長に欠かせない要因だったかもしれません。
まだ儒教的、あるいは古き良き村落共同体的美徳が生きていた時代です。
でも、これは60、70年代の全共闘世代あたりから崩れていきます。
でも、この世代はまだ、「みんなで団結して」大学封鎖とかできました。
その子どもたち、つまり団塊ジュニア世代くらいから、いじめや不登校等、教育現場で歪みが表れ始めます。
そして、その団塊ジュニア世代の子どもたちが教育現場の主役となった現在、もう儒教的価値観や村落共同体的美徳は、影も形もありません。
企業文化においても、実態はともかく、柔軟な「個の発想力」が賞揚されます。
「みんな一緒」はむしろ、「悪い」価値観となりました。

もちろん、僕はその辺の自称保守のおっさん連中のように、それが良くないとは思わないし、だから昔は良かったんだ日本的美徳を取り戻せみたいな一部自民党的発想は代議士ごと屑かごにまとめて放り込むべきだと思っています。
良い悪いじゃない。事実として、もうそういう風に変わってるんです。不可逆的に。

じゃあ、どうすればいいか。
絵に描いた餅となることを承知で言えば、まず超少人数クラスを実現する必要があるでしょう。
多くても、10人くらいのクラスです。
少し前、学力の経済学だとか何とかという本がベストセラーになっていて、少人数学級は学力向上にはコスパがどうこうとかって言ってましたが、端的に意味のない議論だと思います。
なぜなら、特に学校教育に求めているものは、「学力」だけではないから。
そして、「この私(の子ども)」に関して不安に思っているのは、その自分の子がデータ上の「平均値」を下回っている「例外」かもしれない、ということだから。
ってことはともかく、現在のオルタナティヴ・スクールの実践例なんかを見ていても、10人程度の少人数にすれば、ずいぶんと子どもたちの学校生活におけるストレスは軽減されるのではないかと思います。

そして、授業は単位制にすること。
つまり、とる授業、時間割をそれぞれ別々にできればいい。
もちろん、1年生には難しい、ということであれば、3年生くらいからでもいいかもしれません。でも、いずれにしろ、「みんな一緒」の集団行動を、授業で強いる必要はない。
というのも、既存の学校における「変わり者」の居心地の悪さは、この集団制、クラスが固定的であるせいで、人間の流動性が少なすぎることあ原因だと思うからです。
この人間関係の固定化が、「村」的な陰湿性を集団に与えるのでしょう。
結果的に、アスペルガー「っぽい」、ADHD「っぽい」変わり者は、クラスから排除されがちになり、場合によっては「不登校」となります。
授業の選択制が仮に難しいとしても、この「クラスの固定性」は何としても打破すべきだと思います。

そして、できれば学校は、子どもたちにとって、数ある「所属社会」の一つくらいの位置付けであってほしい。
つまり、多数の所属する集団がある中で、そのメインの一つ、くらいであってほしい。
そのためには、現状のように夕方近くまで、学校で過ごさなくてはいけない、という状況を変えるべきでしょう。
もちろん長く居る日もあっていいですが、今日は午前中2時間で終わり、みたいな日もあっていいんじゃないでしょうか。
そのためにも、授業はやはり必須科目と選択科目にわけ、中学年以上は科目クラスをそれぞれ選択できるようにできればいいのにな、と思います。

と、まあ以上は完全に「妄想」です。
「財源がない」と言われれば、おっしゃる通りかもしれません。
「制度変更までの移行期間はどうすんだ」と聞かれれば、ですよねとしか答えようがない。

でも、何か。
何か変えなければ、このままではほんとに公教育は「もたない」んじゃないでしょうか?

さてさて。
今日もほんとは宣伝のブログを書くつもりだったのに、どうしてこんなことに? 全然、国語の話に触れとらんやんけ。。。。
仕方ないので、本文とは全く関係ありませんが、また夏企画のURLを貼っときます。宣伝です。踏まなくてもいいですが、興味があれば、ぜひ。

それでは、それでは。

V-net夏のスペシャルレッスン一覧
http://www.vnet-consul.com/lesson/speciallesson/

「不登校」の進路

どうもどうも。

ほんと急にめっちゃ暑いですね。こんなふうに急に気温が上がるとまた自律神経がついていけなくて、身体がおかしくなっちまいますよ。ということで、皆さん何とか元気に暮らせているでしょうか。僕はもう夏バテになるかもです。

さてさて、今日は最近の生徒の近況から。
実は現在、僕が受け持っている生徒、その三分の1ほどが、いわゆる「不登校」の状態、あるいはそもそも「通常の学校」には通う気のなかった子ども達です。
いや、いま「子ども達」なんて言葉を使いましたが、正直、失礼。
失礼と感じるほどに、彼らは大人です。少なくとも、僕は勉強自体は「教えている」ものの、それ以外の部分ではほとんど対等に接してるつもりです。
別に意識してそうしてるんじゃなくて、彼らが僕にそうさせるんですよね。

以前も書いたような気がしますが、彼らはみんな博学。こちらが知的に優位だろうとタカをくくって、あんまりテキトーことをいうとふつうに恥をかくことも、ままあります。
一昨日なんか、歴史の知識に関しては、おそらく僕にひけを取らないF君が、休憩中に何やら書物を取り出して眺めだしたので、何を読んでるんだろうとチラリと見ていると、随分な大著。歴史学の本なのですが、大学生、いや大学院生が読むような書なのです。

他の生徒もみんな同様。
文学はもちろん、政治論や社会科学の本、哲学書、自分の関心にしたがって何でも平気で読んでいます。
当然、国語力は皆、相当高い。
じゃあ僕は何を教えてるんだってことになりますが、そうは言っても彼らもオールマイティじゃあない。それぞれに苦手「教科」もあるわけで、英語や歴史や地理やらそれぞれの「興味の薄かった教科」を教えてるわけです。まあ、ぶっちゃけ英語が多いんですが。

とはいえ、苦手分野があろうがなかろうが、こんだけ「国語力」が高ければ、心配無用。
それぞれの関心にしたがって、それぞれの「進路」を決め、人生を切り開いていってくれるでしょう。
実際、前も書きましたが、「高卒認定試験」を受験する生徒もたくさんおります。
この試験は決して難しくない。2年ほどちゃんと「苦手教科」も勉強すれば、必ず全単位を習得できます。
また、今の時代はいいですね。
僕の時代は上記試験の旧形「大検」ぐらいしか、まともな選択肢はありませんでしたが、今は通信制高校の発展形みたいな形の学校も「チャレンジ・スクール」とかって名前を変えて存在してます。
いや、昔も通信制や定時制高校はありましたが、実態は「再チャレンジ」させてくれる感じではなかったのですよね(実は僕も1ヶ月だけ県立の定時制高校に通ったことがあるのですが、僕の地域の柄が悪かったせいなのか、完全なるヤクザ予備校でしたよ)。
それが今では、通学は週三回で楽しい文化祭まであるとか。生徒も別にヤンキーとかじゃないそうです。生徒に聞いていると、授業も選択制だし、なんか大学みたいな雰囲気ですよ。
三年間ちゃんとレポートなどを出してさえいれば、高卒の免状はもらえるそうなので、「高卒認定」以外の選択肢としては、昔と違って悪くなさそうです。

まあもちろん、これらの選択肢は高校の免状がもらえるというだけの話。
僕も苦労しましたが、この後の大学受験こそが、「勉強」という意味では本番でしょう。
とはいえ、僕の生徒たちはなかなか頼もしく、すでに大学受験を見据えているもの、高卒認定取得後のアメリカ行きを考えているものなど、遊んでばかりだった僕と違ってあんまり心配なさそうです。

それというのも、やはり彼らが、自分が何をやりたいか、また何を知りたいのか、という自身の知的関心や境遇に自覚的だからなんですね。

じゃあ、どうして彼らはそんなふうに知的関心が高いのか、行動に意欲的なのか、というとそれはもちろん勉学なり行動なりを「社会的な常識」によって「強制」されていないからです。
つまり、学校の時間割やテストに縛られず、良い高校大学に入り企業に勤める、といったライフコースに縛られていない。
そして、そういう「余計なもの」を捨象した結果、「自分の時間」をいっぱい持てた。

僕自身、「不登校」だった折に経験しましたけれど、そりゃ最初はそれ以前の抑圧からの解放なのか、いっぱい遊んじゃいますよ。いや、僕なんかずっと遊んでばかりでしたよ。
でも、ね。やっぱり、遊ぶのにも限度がある。
ゲームを四六時中やってたら飽きますし、漫画ばっかり読んでても、だんだん同じ話に思えてくる。
そうすると、不思議なもので、やはり人間は自分が「高まる」ようなことをしたいと思うようなのですね。しかも、あくまで「娯楽」として。
それは一つの面に現象するのではなくて、おそらく多方面に漸次的に現象します。
人によっては音楽に、芸術に、そして社会への関心を深めます。
また人によっては文学に、政治に、都市工学に関心を持ちます。
それら全部「おもろい」から本を読んだりするわけです。こうして知らぬ間に「国語力」までもが高まる。
実際、彼らの人生は、まだまだこれらからですが、私のかつての知人には、やはり中学時代から「不登校」に陥ったものの、「大検」を取得後、慶應SFC、東大大学院と進学して、社会学の学者になった女性もいます。

いや、そりゃ理想論じゃんか。
あなたが見てんのは「成功例」ばかりなんじゃないか。
そんな声も聞こえて来そうです。
確かに現状、学校に通えずに引きこもっている息子、娘を持っている親御さんからすれば、どこか絵空事に聞こえるかもしれません。
他人のことはいい。問題は「この私の息子」であり、「この私の娘」なのだ、と。
一般論には還元できない悩みなのだと。

まったく、その通りだと思います。
これは先に書いた、ASDやADHDの話とも共通しますが、教育の話の難しいところは、どんな内容を書こうとも、必ず「この私(の子ども)」の悩みとは、どこかマッチしないように思えるところです。
そこで、最後に上記の僕の生徒たちに、共通する、もっとも重要な部分について書いておきましょう。

それは、彼らが、そしておそらく親御さんが、「自分は〈ふつう〉ではない」と率先して認め、むしろそれをアイデンティティーとしているところです。

〈ふつう〉の人生とは何でしょうか?
〈ふつう〉の人、〈ふつう〉の子どもとは?
もちろん、そんなものは存在しません。
当たり前ですが、人はみんな違いますし、人生は一様ではありません。
しかし、誰もがそう頭ではわかっていても、「何となく」良い学校にいったようがいいように思うし、ちゃんと就職した方が安心だろうと思う。
今のように社会が不安定な時代だと、よけいにそう思ってしまうことも多いようです。

ですが、それは「絶対」ではありませんし、そうじゃない人生にも常に可能性があふれています。
たまたま自分が、自分の息子が順風満帆なライフコースを歩んでいたなら、「他の人と同じようなライフコース」に満足していても良いでしょう。
しかし、そうでないことの方が、実は多い。
ASD、ADHD「っぽい」かもしれませんし、友人関係や社会生活が苦手かもしれない。
それらが原因で、「不登校」になるかもしれない。

そうであるとき、僕たちは、よくわからない〈ふつう〉を求めようとしがちです。
でも、端的に、それは間違いです。

自分が、自分の子供が、何か人と違う道を歩みだしたとき、勇気を持ってそれまでのつまらない〈ふつう〉の〈常識〉的価値観を捨てるべきなのです。
そして、歩み出そうとしているその道が、その人生が、彼彼女たちの〈特別な道〉であることを認め理解することです。

何となれば、何かを生み出せる人間とは、常に〈特別な道〉を歩んできた人たちなのですから。

少なくとも、上記の僕の生徒たちはそのことを知っているんだろうと思います。

では、今日はこの辺りで。
それでは、それでは。