「不登校」の進路

どうもどうも。

ほんと急にめっちゃ暑いですね。こんなふうに急に気温が上がるとまた自律神経がついていけなくて、身体がおかしくなっちまいますよ。ということで、皆さん何とか元気に暮らせているでしょうか。僕はもう夏バテになるかもです。

さてさて、今日は最近の生徒の近況から。
実は現在、僕が受け持っている生徒、その三分の1ほどが、いわゆる「不登校」の状態、あるいはそもそも「通常の学校」には通う気のなかった子ども達です。
いや、いま「子ども達」なんて言葉を使いましたが、正直、失礼。
失礼と感じるほどに、彼らは大人です。少なくとも、僕は勉強自体は「教えている」ものの、それ以外の部分ではほとんど対等に接してるつもりです。
別に意識してそうしてるんじゃなくて、彼らが僕にそうさせるんですよね。

以前も書いたような気がしますが、彼らはみんな博学。こちらが知的に優位だろうとタカをくくって、あんまりテキトーことをいうとふつうに恥をかくことも、ままあります。
一昨日なんか、歴史の知識に関しては、おそらく僕にひけを取らないF君が、休憩中に何やら書物を取り出して眺めだしたので、何を読んでるんだろうとチラリと見ていると、随分な大著。歴史学の本なのですが、大学生、いや大学院生が読むような書なのです。

他の生徒もみんな同様。
文学はもちろん、政治論や社会科学の本、哲学書、自分の関心にしたがって何でも平気で読んでいます。
当然、国語力は皆、相当高い。
じゃあ僕は何を教えてるんだってことになりますが、そうは言っても彼らもオールマイティじゃあない。それぞれに苦手「教科」もあるわけで、英語や歴史や地理やらそれぞれの「興味の薄かった教科」を教えてるわけです。まあ、ぶっちゃけ英語が多いんですが。

とはいえ、苦手分野があろうがなかろうが、こんだけ「国語力」が高ければ、心配無用。
それぞれの関心にしたがって、それぞれの「進路」を決め、人生を切り開いていってくれるでしょう。
実際、前も書きましたが、「高卒認定試験」を受験する生徒もたくさんおります。
この試験は決して難しくない。2年ほどちゃんと「苦手教科」も勉強すれば、必ず全単位を習得できます。
また、今の時代はいいですね。
僕の時代は上記試験の旧形「大検」ぐらいしか、まともな選択肢はありませんでしたが、今は通信制高校の発展形みたいな形の学校も「チャレンジ・スクール」とかって名前を変えて存在してます。
いや、昔も通信制や定時制高校はありましたが、実態は「再チャレンジ」させてくれる感じではなかったのですよね(実は僕も1ヶ月だけ県立の定時制高校に通ったことがあるのですが、僕の地域の柄が悪かったせいなのか、完全なるヤクザ予備校でしたよ)。
それが今では、通学は週三回で楽しい文化祭まであるとか。生徒も別にヤンキーとかじゃないそうです。生徒に聞いていると、授業も選択制だし、なんか大学みたいな雰囲気ですよ。
三年間ちゃんとレポートなどを出してさえいれば、高卒の免状はもらえるそうなので、「高卒認定」以外の選択肢としては、昔と違って悪くなさそうです。

まあもちろん、これらの選択肢は高校の免状がもらえるというだけの話。
僕も苦労しましたが、この後の大学受験こそが、「勉強」という意味では本番でしょう。
とはいえ、僕の生徒たちはなかなか頼もしく、すでに大学受験を見据えているもの、高卒認定取得後のアメリカ行きを考えているものなど、遊んでばかりだった僕と違ってあんまり心配なさそうです。

それというのも、やはり彼らが、自分が何をやりたいか、また何を知りたいのか、という自身の知的関心や境遇に自覚的だからなんですね。

じゃあ、どうして彼らはそんなふうに知的関心が高いのか、行動に意欲的なのか、というとそれはもちろん勉学なり行動なりを「社会的な常識」によって「強制」されていないからです。
つまり、学校の時間割やテストに縛られず、良い高校大学に入り企業に勤める、といったライフコースに縛られていない。
そして、そういう「余計なもの」を捨象した結果、「自分の時間」をいっぱい持てた。

僕自身、「不登校」だった折に経験しましたけれど、そりゃ最初はそれ以前の抑圧からの解放なのか、いっぱい遊んじゃいますよ。いや、僕なんかずっと遊んでばかりでしたよ。
でも、ね。やっぱり、遊ぶのにも限度がある。
ゲームを四六時中やってたら飽きますし、漫画ばっかり読んでても、だんだん同じ話に思えてくる。
そうすると、不思議なもので、やはり人間は自分が「高まる」ようなことをしたいと思うようなのですね。しかも、あくまで「娯楽」として。
それは一つの面に現象するのではなくて、おそらく多方面に漸次的に現象します。
人によっては音楽に、芸術に、そして社会への関心を深めます。
また人によっては文学に、政治に、都市工学に関心を持ちます。
それら全部「おもろい」から本を読んだりするわけです。こうして知らぬ間に「国語力」までもが高まる。
実際、彼らの人生は、まだまだこれらからですが、私のかつての知人には、やはり中学時代から「不登校」に陥ったものの、「大検」を取得後、慶應SFC、東大大学院と進学して、社会学の学者になった女性もいます。

いや、そりゃ理想論じゃんか。
あなたが見てんのは「成功例」ばかりなんじゃないか。
そんな声も聞こえて来そうです。
確かに現状、学校に通えずに引きこもっている息子、娘を持っている親御さんからすれば、どこか絵空事に聞こえるかもしれません。
他人のことはいい。問題は「この私の息子」であり、「この私の娘」なのだ、と。
一般論には還元できない悩みなのだと。

まったく、その通りだと思います。
これは先に書いた、ASDやADHDの話とも共通しますが、教育の話の難しいところは、どんな内容を書こうとも、必ず「この私(の子ども)」の悩みとは、どこかマッチしないように思えるところです。
そこで、最後に上記の僕の生徒たちに、共通する、もっとも重要な部分について書いておきましょう。

それは、彼らが、そしておそらく親御さんが、「自分は〈ふつう〉ではない」と率先して認め、むしろそれをアイデンティティーとしているところです。

〈ふつう〉の人生とは何でしょうか?
〈ふつう〉の人、〈ふつう〉の子どもとは?
もちろん、そんなものは存在しません。
当たり前ですが、人はみんな違いますし、人生は一様ではありません。
しかし、誰もがそう頭ではわかっていても、「何となく」良い学校にいったようがいいように思うし、ちゃんと就職した方が安心だろうと思う。
今のように社会が不安定な時代だと、よけいにそう思ってしまうことも多いようです。

ですが、それは「絶対」ではありませんし、そうじゃない人生にも常に可能性があふれています。
たまたま自分が、自分の息子が順風満帆なライフコースを歩んでいたなら、「他の人と同じようなライフコース」に満足していても良いでしょう。
しかし、そうでないことの方が、実は多い。
ASD、ADHD「っぽい」かもしれませんし、友人関係や社会生活が苦手かもしれない。
それらが原因で、「不登校」になるかもしれない。

そうであるとき、僕たちは、よくわからない〈ふつう〉を求めようとしがちです。
でも、端的に、それは間違いです。

自分が、自分の子供が、何か人と違う道を歩みだしたとき、勇気を持ってそれまでのつまらない〈ふつう〉の〈常識〉的価値観を捨てるべきなのです。
そして、歩み出そうとしているその道が、その人生が、彼彼女たちの〈特別な道〉であることを認め理解することです。

何となれば、何かを生み出せる人間とは、常に〈特別な道〉を歩んできた人たちなのですから。

少なくとも、上記の僕の生徒たちはそのことを知っているんだろうと思います。

では、今日はこの辺りで。
それでは、それでは。