学校システム老朽化

どうもどうも。
全くほんとに急に暑いですよね。何でしょうこれは。クーラーつけるとつけたで何か体だるいし。どうしたらいいんでしょうか。って感じの毎日を皆さん何とか過ごせてるでしょうか。

さてさて。
前回、不登校に関係する記事をあげたら、まためっちゃアクセスが急に増えておりました。まあ、そりゃそうですよね。
昨今の教育現場、以前書いたADHD関連の話にしろ、この不登校の話にしろ、ちょうど小・中学生くらいのお子さんを育ててらっしゃる方で、自分の子どもが「既存の教育システム」からズレている、あるいはズレちゃうんじゃないか、という不安を全く持たない親御さんなんて、ほとんどいないと思います。
これは何もV-netで保護者の皆さんからお聞きしている話ばかりじゃない。
プライベートでも友人知人、娘の学校の友人親御さん含め、「いやーオタクのお子さんはしっかりしていらっしゃるから羨ましい」なんて話も振ろうものなら、たいてい「いえいえ実はそれが……」なんつって息子娘さんの心配事の話になります。

でも、ね。
じゃあ、そういうお母さんお父さんがみんなヒドく神経症的に不安がってるだけなのか?
ま、もちろん、そういう場合もあるでしょう。僕だって、そうかも。
でも、やっぱりそれだけじゃあない。

つまり、逆にいうと、それだけ今の学校システム、教育システムが子どもたちの態勢に合わなくなってきてるんですよね。

あ、今当たり前のこと言ったかな?
そう。そんなことはもう何年も言われてることです。

日常的に子どもたちに接していて判りますが、子どもたちの態勢の傾向というか、問題の表れ方というか、良い悪いじゃなくてタイプの違いというか、そういうもんは、だいたい7年〜10年くらいで少しずつ変わるものです。
だから、こちらも10年前と同じ教え方をしていては、子どもに理解されない。理解させられない。
例えば10年前。僕は受験に特化したレッスンしか行なっていませんでした。
今はどうか。いつの間にかもっと根本の、「国語力」自体の底上げを図るようなレッスンがメインになってる。もちろん変わらず受験レッスンも行なってますが、昔のやり方とは全然違う。表面的な「テクニック」を指導するだけでは伝わらないし成績も伸びない。

これは僕の指導力が向上したというだけでしょうか? もちろん、それもあるでしょう(ないと困る)。
と、同時に社会が変わった。教育に何を求めるのかも変わった。受験の指導に求めるものも変わった。つまるところ、子どもたちのタイプも変わった。

翻って、既存の学校教育はどうか。

いや、僕はほんとは安易に学校の批判とかしたくないんですよ。ほんとのほんとに。
単純に「学校」を「悪」と見なして不満のはけ口にするのは、思考停止だとも思います。
いや、クソのような学校や教師がいるのも承知してますよ。校長含め無責任体制そのものってケースも知ってます。
でも、逆に一人一人の教師の質でみると、素晴らしい人材がいることも知っています。ものすごく一生懸命になって、子どもたちのために尽くしてくれる教師や校長だって少なからずいるのです。

それでも、難しい。

教師一人一人の力では、どうすることもできないほど、難しい。

もう、ね。圧倒的にシステムが古すぎるんですよ。
上に書いたように、子どもたちのタイプも、社会が教育に求めるものも、10年くらいで変わっていきます。
なのに、学校のシステムの根幹は、30年前とまるで変わっていない。つまり、僕が小学生だったころから変わっていない。
相変わらず30、40人学級。1クラスごとのメンバー固定で集団行動。教科は選択できず体育、美術、音楽とかも固定。中学入ればクラブ活動運動部。
変わったのは給食が美味くなったことぐらいか(これも地域による)。
これでは、うまく行かないのも、当たり前だと思いません?

例えば、最近の子どもたちはもう、正直、集団で授業を受けることが難しくなってきているのではないかと思うことがあります。
30人から40人の子どもが一人の先生と黒板を見つめて休憩挟むとはいえ数時間、集中して話を聴き続け理解もするというのは、難しくなっているのではないか?
実際、塾など民間の教育期間は、小・中学生に関してはどんどん個人指導化が進んでいます。これは少子化の影響ばかりではないでしょう。
特段の「集中」を要せずとも、過度の「刺激」により「関心」を強引に惹起するテレビ、ネット、ゲームがこれだけ普及するなかで、「主体的に関心を持って」一人のおっちゃんおばちゃんの話を、「多数」の中に紛れた形で聴き続けるのは、少なくとも15歳以下の子どもには難しいのではないか?
しかも、これらの娯楽もどんどん「個別」にカスタマイズ可能なものとなりつつある。

でも、明治の頃はもちろん、戦後のはじめも違ったわけです。
ラジオは「みんな」で聴くものだった。
テレビは「お茶の間」で「家族」とともに視聴した。その「家族」は田舎であれば、兄弟5、6人が普通だった。

もっと言うと、昔は、「みんな」が基本だった。
「みんな一緒に」が場合によっては美徳でさえあった。

高度成長期までは、「みんなで団結して」ことに当たるのは、日本企業の成長に欠かせない要因だったかもしれません。
まだ儒教的、あるいは古き良き村落共同体的美徳が生きていた時代です。
でも、これは60、70年代の全共闘世代あたりから崩れていきます。
でも、この世代はまだ、「みんなで団結して」大学封鎖とかできました。
その子どもたち、つまり団塊ジュニア世代くらいから、いじめや不登校等、教育現場で歪みが表れ始めます。
そして、その団塊ジュニア世代の子どもたちが教育現場の主役となった現在、もう儒教的価値観や村落共同体的美徳は、影も形もありません。
企業文化においても、実態はともかく、柔軟な「個の発想力」が賞揚されます。
「みんな一緒」はむしろ、「悪い」価値観となりました。

もちろん、僕はその辺の自称保守のおっさん連中のように、それが良くないとは思わないし、だから昔は良かったんだ日本的美徳を取り戻せみたいな一部自民党的発想は代議士ごと屑かごにまとめて放り込むべきだと思っています。
良い悪いじゃない。事実として、もうそういう風に変わってるんです。不可逆的に。

じゃあ、どうすればいいか。
絵に描いた餅となることを承知で言えば、まず超少人数クラスを実現する必要があるでしょう。
多くても、10人くらいのクラスです。
少し前、学力の経済学だとか何とかという本がベストセラーになっていて、少人数学級は学力向上にはコスパがどうこうとかって言ってましたが、端的に意味のない議論だと思います。
なぜなら、特に学校教育に求めているものは、「学力」だけではないから。
そして、「この私(の子ども)」に関して不安に思っているのは、その自分の子がデータ上の「平均値」を下回っている「例外」かもしれない、ということだから。
ってことはともかく、現在のオルタナティヴ・スクールの実践例なんかを見ていても、10人程度の少人数にすれば、ずいぶんと子どもたちの学校生活におけるストレスは軽減されるのではないかと思います。

そして、授業は単位制にすること。
つまり、とる授業、時間割をそれぞれ別々にできればいい。
もちろん、1年生には難しい、ということであれば、3年生くらいからでもいいかもしれません。でも、いずれにしろ、「みんな一緒」の集団行動を、授業で強いる必要はない。
というのも、既存の学校における「変わり者」の居心地の悪さは、この集団制、クラスが固定的であるせいで、人間の流動性が少なすぎることあ原因だと思うからです。
この人間関係の固定化が、「村」的な陰湿性を集団に与えるのでしょう。
結果的に、アスペルガー「っぽい」、ADHD「っぽい」変わり者は、クラスから排除されがちになり、場合によっては「不登校」となります。
授業の選択制が仮に難しいとしても、この「クラスの固定性」は何としても打破すべきだと思います。

そして、できれば学校は、子どもたちにとって、数ある「所属社会」の一つくらいの位置付けであってほしい。
つまり、多数の所属する集団がある中で、そのメインの一つ、くらいであってほしい。
そのためには、現状のように夕方近くまで、学校で過ごさなくてはいけない、という状況を変えるべきでしょう。
もちろん長く居る日もあっていいですが、今日は午前中2時間で終わり、みたいな日もあっていいんじゃないでしょうか。
そのためにも、授業はやはり必須科目と選択科目にわけ、中学年以上は科目クラスをそれぞれ選択できるようにできればいいのにな、と思います。

と、まあ以上は完全に「妄想」です。
「財源がない」と言われれば、おっしゃる通りかもしれません。
「制度変更までの移行期間はどうすんだ」と聞かれれば、ですよねとしか答えようがない。

でも、何か。
何か変えなければ、このままではほんとに公教育は「もたない」んじゃないでしょうか?

さてさて。
今日もほんとは宣伝のブログを書くつもりだったのに、どうしてこんなことに? 全然、国語の話に触れとらんやんけ。。。。
仕方ないので、本文とは全く関係ありませんが、また夏企画のURLを貼っときます。宣伝です。踏まなくてもいいですが、興味があれば、ぜひ。

それでは、それでは。

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