「ブラック部活」はやっぱり問題だと思いますよ

どうも、どうも。
台風中はえらい涼しくなっていよいよ秋到来かと思ったもののその後は30度越えの暑さという自律神経がまるでついていかない今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕はせっかく秋物ジャケット買ったのに全然着る機会がありません(どうでもいい)。

さてさて、今日は最近話題の「ブラック部活」の問題。
つまり、現今の学校クラブ活動の問題。
これが最近、拘束時間があまりに長すぎるのではないか、教師に無用の負担をかけているのではないか、いやそもそも生徒全員に部活動を奨励するような「空気」自体、問題なのではないか等々、マスコミなどがいろいろと騒ぐようになってきておるわけです。

とはいうものの、僕個人は元不登校児、いわゆるクラブ活動の記憶なんてものは、はるか昔中学一年の時の陸上長距離部だった時のものしかなく、その後の10代、20代はバンド活動とか演劇活動とかの「文化的活動」しかやっとらんものですから、個人的体験としては、あんまりフェアには語る立場にないんですがね。
まあ、あくまで「勉強その他を学校外で教えている人間の立場」から書かせてもらおうと思います。

で、そういう立場の人間からするとですね。
正直、「今さらかよ、だいぶ前からチョー問題だと思っとったよワシらは!」という気分です。

というのもね。
やっぱりサッカー部とか野球部とか、体育会系のチョー忙しいクラブに入ってると、ほんと時間ないんですよ。平日の帰宅は遅いし土日も試合とか練習が入る。
これだと、僕達みたいな個人レッスンの指導ですら、なかなかまともに授業が組めません。
しかも、なんとか空いてる時間を見つけても、練習後の時間だったりすると、もう身体が疲れ果てた状態でレッスンに来るので、生徒によってはほとんどアタマが使い物にならない状態。
そりゃ、そうですよね。
肉体労働やってからデスクワークやるみたいなもんですから!

いや、そりゃ自己管理のちゃんとできてる子もいるでしょうし、すごく克己心の強い子だっているでしょう。
でも、いつもこのブログで書いてますが、そんな子ばっかりじゃないんです。
いや、むしろこの場合は、そういう「文武両道」を全うできる生徒の方が少数派、という印象です。
激しい部活をやりながら成績も良くしたい、なんてのは二兎追うものは一兎をも得ず、「スポーツ頑張ってるけど勉強はそこそこ」だったら良い方で、「スポーツはまあ普通で勉強はけっこう残念」という状態に陥っちゃう子も多いんです。

まあ、ね。そりゃ、学校は勉強だけするところじゃありません。
サッカーや野球をプレーする喜びもわかりますし、何より部活で共に汗を流した友人たちとの絆も大切でしょう。そういう楽しさを知るのは10代の特権でもあります。
また社会的見地から見ても、学校の部活動というものが、例えば貧困等の問題により「習い事」としてスポーツをやれない子ども達に、その機会を与える貴重な場であるということも重要です。

でも、それでもやっぱりほぼ毎日三時間以上もそれに時間を費やすのは、端的に「異常」だと思います。土曜も日曜も夏休みも、それだけやらせるのは、おかしい。
まして、その「活動」によって、子ども達の他の活動が制限されてしまうなら、これまた10代の特権である、多様な形での「学び」を奪ってしまうことにもなりかねません。

さらに言えば、なんとなく、生徒みんなが部活動に参加しなくてはならない、という「空気」。
これは僕のような「全員参加」とかって言葉が大嫌いな人間からすると、端的に「最低」です。そういう「空気」が教育の現場にあること自体、「最低」です。
何も部活に参加していない子どものことを、「帰宅部」と呼ぶ習慣?が昔からありますが、そんな言葉があること自体おかしくて、「帰宅部」こそが本来、「普通」のはずです。
だって学校の本義は「部活」にあるのではないのですから。
わざわざ「部活」に参加することの方が「特別」なのであって、参加してないことを殊更に言う必要はありません。

そう、部活に参加するかしないかは、絶対的に自由意志であるべきです。
運動や「体育会系」のノリが苦手な子だっている。
もし、そういう子が部活に参加しないからといって、「帰宅部」などと呼ばれ「差別」される風潮が学校現場にあるとするなら、そんな場所は「教育現場」であることを名乗る資格がありません。

こういうことを言うと、「いや、でも昔から学校の部活はこんなんだったし、それどころか俺たちの時代はもっとヒドかった! でも後から考えるとそれがすごく大切な経験だったぜ!」的なことを言う大人がいます。
でも「大切な経験」は他でも得られる可能性が高いしその「経験」が他の多様な経験の機会を阻害している現状もおかしいし何よりそれを全員に強要するのは違うでしょ、という長々としたツッコミはおくとしても、やっぱり現状の部活が「ブラック」などと呼ばれることの一因は、社会の変化が大きいんだと思います。

昔の部活動というものは、「大人」になるためのイニシエーションとしての側面があったと思うんですね。
「大人」には会社組織などの中での上下関係を含めた対人関係スキルが重要であり、また嫌な仕事、辛い仕事も「根性」で乗り切らなくてはならない局面が多々ある。
こういう「大人」としての能力を身につけるための通過儀礼ないし準備期間として「部活動」が機能していた部分があったと思う。
同じことは、やはり最近「ブラック」の名を冠されていた「アルバイト」などにも言えるかもしれません(まあ、こちらが「ブラック」と言われるのには、貧困問題など、もっと政治経済的な見地からの考察が必要ですが)。

ところが、現在はこういう「大人」の「組織人」としての能力は、あまり重要なものと見なされない傾向がある。
いや、現状の社会では相変わらずこういう「組織人」的な頑張りが評価されているのかもしれませんし、実際にそういう能力が必要な局面も多いでしょう。
ですが、少なくとも社会的風潮としては違う。
むしろ、「個人」として組織に頼らずともやっていけるスキルや発想力など、「個人」の能力、価値を高めることが重要視されている。
組織の中においてさえ、そういう力が求められているのではないでしょうか。

そうなってくると、「部活」における長時間の拘束や上下関係、激しい練習などが、かつてのように日本企業人になるための通過儀礼とは見なされなくなるのも当然でしょう。
むしろ、長時間労働とパワハラに根性で耐える「ブラック企業人」になるための通過儀礼のように思えてくる。
これが「昔はもっと大変だったけど良かった」式の議論が、現状とは噛み合わない理由です。

ま、いずれにしても、ですよ。
やっぱり学問含むその他の経験、可能性を子ども達から奪っているかもしれないとするなら(まあ僕個人はそう見えるケースと多く出会っているんですが)、やっぱり現今の部活動のあり方はいろいろ改善していくべきなんだと思います。
その練習量や練習時間はもちろん、「空気」感も含めて、ね。
例えば週2、3日、一回二時間の練習。やりたい人だけやる。とか。
それ以上にやりたい人は、学校外でやればいい。ただ、そうする場合も、他の「学び」の可能性がなくならないよう、ブレーキをかけながら、それこそ親子で話し合ったりしながらにした方が賢明でしょう。
なんにせよ、こんなに多くの子ども達が「スポーツづけ」になる必要はないんじゃない? とチョー文化系の僕なんかは思っちゃうんですが、やっぱりこれってフェアな見方じゃあないんですかね。

それでは、それでは。

ゲームや汝をいかにせん

どうも、どうも。
秋っぽくなってきたかなあと思っていたら陽射しに関しては再び夏を思わせる暑さが帰ってきた今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。私は日曜、アスレチックに行ったら熱中症になりそうでした。

さてさて、今日はゲームの話。
といって、大して新しい話はできないんですが。
ウチの娘は小学三年なんですが、最近、その友人知人の保護者の方々から時たま聞こえてくるのが、このゲームの悩み。
まあ、多くの皆さんは正直、やらしたくない、やらしたくないんだけれども周りのお友達がやっていたりすると子ども特に男の子は「ウチもゲーム買って!」「僕もゲームやりたい!」の声を徐々に大きくしてゆき、ついに根負け、「制限」付きで買ってやらしてしまうのだとか。
しかも大抵、悩んでるのはお母さん。お父さんはと言うと、団塊ジュニアくらいの年代の方だと結構な割合でゲーム好き。「だーいじょうぶだよー! 俺も子どもんときからやってるし、でもちゃんと大人になってるじゃん! ハッハ!」てな感じでむしろ子どもとグルになって時間などの「制限」を破ってしまう始末。

ちなみにウチは僕自身がまったくゲームをやらずに育ったこともあり、また女の子はまだ男子ほどにはゲーム好きでないのもあって、今のところこの種の悩みを抱えておりませんが、その下の息子のときにはどうなるか。。。
(しかしウチの場合は僕が映画好きのせいで時代からすると周回遅れ的に「テレビ(というかジブリとかディズニーとか)」との付き合い方に悩んでおります)

このゲーム。
まあ、たいていの人は確かに大丈夫なのかもしれませんが、やっぱり「危険」の大きいものであることも本当です。
V-netには様々な相談が寄せられますが、そのうちの一つがこれ。ゲームのやりすぎ。

ゲームにハマりすぎて成績がだだ落ちとかっていうのは可愛いもの。
一日10時間やりっぱなしであるとか禁止されて怒って暴力沙汰だとか。せっかく入った私立中学をやめちゃっただとか。
ここまでいくと、やっぱり「ちょっと心配」程度じゃ済まないわけです。

こうなる理由はゲームに中毒性があるからです。
いわゆるギャンブル依存症とかと似てますね。

とはいえ、もちろん、みんながそうなるわけじゃない。
また、たいてい原因は複合的で、その問題の表出の仕方がたまたまゲームだったという場合も多いでしょう。

とはいえ。
やはり、そういうリスクがある、ひどいケースもあるってことは知った上で付き合う必要があります。
また、教育ってもんは、ここでも繰り返し書いてるように、「みんな」を基準には考えられないものです。
統計的な平均値が「この子ども」に当てはまるとは限らない。
ので、それぞれのご家庭が、自分の子どもの特性や家庭の環境を考えながら、付き合って行く必要があります。

たとえば、そもそも一つのことをやり出すと他が目に入らなくなるタイプの子どもじゃないだろうか。これは長所でもありますが、その対象がゲームになってしまわないかを考える必要があります。
あるいは夫婦共稼ぎで日中はおばあちゃんが面倒を見ている。この場合、ゲームを時間などで制限したとしても、それを簡単に破ることにならないだろうか。
等々。各家庭の条件を慎重に考えてから、「導入」すべきでしょうね。

もちろん、これはゲームをやむなく「導入」しちゃった場合の話です。
本当なら、やっぱりわざわざ買い与える必要はありません。ゲームなんてやらなくても友達はできるし、別に公園でゲームばっかりやってる友達なんていらんわいと言うことだって出来ます。

だけど、それでも買っちゃったら、どうするか。
その時は、お父さんお母さん含めて、子どもとも徹底的に話し合うべきです

上記に挙げたような「危険」について話すのはもちろん、どうしてそれをやりたいのか、やりたいとするならそのリスクとお前はどうやって向き合って行くのか。制限をかける必要があると親である私は思うがお前はリスクを避けるためにそれに賛成するか、するとしたらどういう制限をかけるべきと自分では考えるか。その他諸々。

仮にそうした話し合いで決められたことが守られなければ、再度の「家族会議」です。
これらの「会議」はなるべく「大ごと」であると、子どもには印象付けた方が効果は大きいでしょうね。

でも、きっと子どもは面倒臭がるでしょう。
ですが、この程度の面倒を避けようとするなら、「決め事」は簡単に破られてしまうと考えた方がいい。
また、この種の話し合いが出来ない年齢のうちは、やはり「導入」しない方が賢明かと思います。
「そんな話し合い、うちの子にはムリムリ!」と感じるならば、そういうタイプのお子さんには、いよいよ慎重になるべきです。

いずれにせよ、子ども自身が納得して、ゲームに「自主規制」をかけていけるようにしたい。できるだけ。
子ども自身が、ゲームを含む快楽的誘惑と主体的に向き合っていけるきっかけにしたいところです。

もちろん、これは「理想論」かもしれません。
しかし、「理想論」を参照項にすることで、各家庭の環境に合わせた方針を立てることが出来たら、とも思います。

そうだ。書いていて気づきました。
他人のご家庭を心配している場合ではない。
そう、我が家でも早速、子どもたちと「テレビ」の扱いについて「家族会議」を開催しようではないか! 今晩にでも!
いや、やっぱり明日にでも。
まった、明日は僕が遅い時間になるから来週にでも。。。

それでは、それでは。

漢字を覚える方法

どうも、どうも。
夏休みが終わるとともに急に涼しくなってきちゃって秋の気配もただよい始めた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。涼しいのは最高ですよね。雨を除けば。

さてさて。今日は漢字のお話。
最近、というかここ数年、僕だけがそう思ってるのかもしれませんが何だか漢字をあんまり書けない覚えない子が一昔前、そう十年くらい前に比べると、増えてきているような気がします。いや、ほんとに気がするだけなのかもしれませんが。

もちろん、中には漢字大好き!って少年少女もいないわけではなくて「習ってないけど、これって漢字でどう書くの?」と無邪気に聞いてきてくれる子だったけっこういます。
が、その一方で小学校の中高学年になっても作文書かせると平仮名だらけ、って子もけっこういるんですね。
これがまあ高校生ぐらいだと、「スマホ、パソコンやりすぎで漢字忘れてきちゃってんじゃないのー?」っとまだ笑いのネタにもできるんですが、小学生だと、ほんとここでちゃんと漢字が入ってないとけっこうずっと苦手なままだよ、という危機感も湧いてきちゃうわけなのです。

まあ。実際、僕なんかも国語の先生でございってな顔してるわりに漢字を書くのは苦手な方です。
商売柄、今ではまあその辺の大人よりは漢字書ける方になりましたけれど、この仕事始めたばかりの若い頃は、けっこうひどいもんで黒板の前で恥かいた経験もけっこうありましたよ。
それというのも、僕は子どもの頃から文章書くのは好きな子供だったんですけど、字が汚いのがいやで、それこそ小学校中学年くらいから生意気にもワープロで文章書いてたんですね。物好きな祖父が与えてくれましてね。
おかげで学校の宿題以外で漢字を手書きで書く習慣があまりなく、思春期以後はご存知の通り不登校になり落ちこぼれ。いわゆる学校的勉強からも遠ざかり、ますます漢字と縁遠くなってしまったというわけなんです。何の因果か国語の教師になるまでは。

じゃあ、こんな僕の経験含め、やっぱりパソコンだスマホだ何だと世の中が手書き文化から離れる一方なのが、子どもの漢字離れ?の原因なのでしょうか(いや繰り返せば僕の思い込みで離れてないのかもしれませんが)。
まあ多少は関係ありそうにも思いますが、でも、いくらなんでも小学校の低学年や中学年からスマホいじり倒しみたいな子どもは少ないでしょうし、それだけが原因ではないでしょうね。

正直、よくわかりませんね、原因は。今のところ。

ただ原因が判ろうが判るまいが、やっぱりこの国で生きる上で、漢字は重要です。

何より漢字を知らないというのは、この国においては難解な思考に耐えられない、ということにほかなりません。
いわゆる論理的思考に欠かせない抽象語。
今書いた「難解」「論理」「抽象」。これ全部、2字からなる漢字熟語でできています。
「概念」「相対」「形而」「帰納」。こういう抽象語=漢字熟語を使用して僕たちは思考し論理化し記述しているわけなのですから、その漢字を知らず言葉の意味もちんプンカンプンでは、その記述されたものを読んでもチンプンカンプンとなるわけです。もちろん自分で同様の思考を組み立てることだってできません。

それに実は日本語は漢字を輸入するなかで語彙を充実させてきたという歴史故に同音意義語がめっちゃある。
「そうたい」「そうたい」「そうたい」=「相対」「総体」「早退」。全部、意味全然違うわけです。戦後直後、GHQ占領下で日本語を全部ローマ字にしようなんて議論が行われたことがあるんですが、実際には不可能だったでしょうね。

とどのつまり、この国で生きていくいく上で、漢字は絶対的に必要です。
最低限の漢字や熟語は知ってなきゃいけないし読めなきゃいけない。
漢字が苦手だった僕も、読むことだけは得意でした。まあ、そういう人は多いと思いますが。

で、せっかく読めるのなら書けた方がいい。偉そうには言えんが。

しかし、じゃあどうやって覚えるのか。
よく学校でやらせるのは、習った漢字を10回も20回も書かせるやつ。悪評高いやつですね。
まあ、あんまりにも悪評ばかりなので、最近の学校ではやらせないところもあるのかも知れませんが、うちの娘なんか見てると、やっぱり何が楽しいのか5、6回くらいは「書き写し」てますね。「写経」と僕らは呼んでるんですが。
で、これはやっぱり、よほど意識的に行わないと意味ないわけです。
単に「機械的」にやってたって「自動化された作業」でしかなく記憶には残りません、あんまり。

じゃあ、どうすればいいか。
そのやり方については、正直なところ、僕もまだまだ模索中です。
とはいえ、今のところ一番効果的と思われるのは以下の方法です。

それは、「口で説明させること」。
いきなり書くんじゃなくて、漢字の部首、つくり、その他の組み合わせを口で説明できるくらいしっかりイメージできるようにし、その後に何度か書いてみる。

まず手本を見てその漢字の部首、つくり等々の組み合わせがどうなっているかを理解します。
次に目を閉じてその「字」がどう組み合わ去っていたか、しっかりイメージできるか試します。
その上で、その組み合わせを口で説明できるか試します。
最後にちゃんと書けるかどうか、二、三度実際に紙に書いてみます。

また、その部首やつくりの組み合わせを理解しイメージする時、同時にその漢字の「解字」も知っておくといいでしょう。つまり、その漢字の成り立ちです、
「親」という字は「木」の上に「立」って「見」る存在から成り立っている、なんて話はよく聞きますよね。こういう「解字」みたいなものを知っていると、「字」の組み合わせも理解し覚えやすい。

いやいや、そんな毎回調べられんよ、という声が聞こえてきそうですが、心配無用です。
別にほんとの「解字」じゃなくてもいい。その場のでっち上げでもいいんです。
別に漢字博士になろうってんじゃないんですから、本当の解字よりも、子どもにとってインパクトのある、面白いものをでっち上げて説明してあげれば良いと思います。
だいたい、さっき上で例にあげた「親」という漢字の成り立ち。人口に膾炙しておりますが、ほんとはこういう形で成り立った漢字じゃありません。でも、さしあたり子どもに教える上ではいいんじゃないでしょうか。

でも、子どもが覚える為でなくとも、漢字の解字ってのは、なかなか面白いですよ。
「秋」という字は、なぜ「のぎへん」に「火」なのだろう、とかね?(いろんな説がありますので、よかったら調べてみてくださいね)

さてさて、こんなふうに漢字を一度覚えたとします。
とはいえ、これは使わなければ、一旦覚えてもすぐに忘れてしまいます。
「よっしゃ! じゃあ毎週漢字テストだ!」とスパルタ式に頑張る方法もありますが、なんせ小学生が一年で覚える漢字はすごく多い。熟語の組み合わせを考えれば、単にテストするだけで覚えられる量ではない。だいたいしんどいですしね。

じゃあ、どうするか。
やっぱり、積極的に使うことなんですね。どこで? もちろん文章を書く中で。

つまり、作文を書く中で、なるべく積極的に漢字を使うことを奨励したい。
もちろん、作文はあくまで文章を「作る」ことが主目的です。せっかく集中して書いているところを口うるさくいうことはよくありません。また出来上がったものは平仮名だらけでも必ず褒めてあげましょう。
でも、書いている途中、ちょっと手が止まってしまった時などに直せる範囲で指摘してあげる。
また原稿を推敲している時、漢字に直せるところは直した方がかっこいいよとアドバイスする。
そういうことを繰り返すことで、「文章中で漢字を使う」習慣を少しづつつけていきたいところです。

上で書いたように、僕自身は生意気にもワープロなんぞを使っていたせいで、漢字が苦手になってしまいました。
それはいうなれば、漢字の「知識」だけがあって、「実践」の中で役立てなかった結果だと言えます。
逆にいうと、漢字テストの時にどんなに漢字が覚えられなくても、実際に文章を書く「実践」の中で漢字を役立てて行ければ、最低限、必要な漢字は書けるようになっていくでしょう(上に書いたように、それとは別に難解抽象語を少なくとも「読める」ようになる必要はありますが)。

さてさて。今日も気がつけば、えらく長く書いてしまいました。
どうも筆が滑って仕方がない。
本当は漢字の「解字」の不思議な例など色々書きたかったのですが、もうしんどい。
今日はこの辺にしときましょう。

それでは、それでは。