語彙力って大切ですよね

どうもどうも。
すっかり秋めいてきたと思ったら急に真夏日みたいに暑い日があったりして相変わらず自律神経が追いつかない今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

さて、つい先日、本屋を意味なくぶらついておりましたら、新書かなんかのコーナーに、「大人のための語彙力」とか「語彙力が教養を決める」だとか、なんかそんな感じタイトルの本がやたら多く置かれてましたが、また最近はこういうのが流行ってるんでしょうかね?

まあ、確かに語彙力が教養というか知性の本質ってのは、一理あります。
「言葉」を知らないってのは、理解力、思考力の双方に響いてくる問題ではあるでしょう。

上記のような本で、どういうものを語彙力と言ってるのかはチラリとも立ち読みしなかったので判りませんが、例えば、「さっき言ってたこと、ちょい意味不明なんで、もっとぶっちゃけた感じでしゃべってよね」と言うのと、「先程の言説には、少々、論理的逸脱がみられるので、より明瞭な説明をお願いしたい」と言うのとでは、全然知的レベルが違って感じられますわな。
で、仮にほんとに最初の例のようにしか話せない人がいるとすれば、その人は口に出さない思考においても、そういう言語でしか思考していないってことになるわけです。
そうすると、他の誰かが物事をもうちょっと難解な言葉で説明してたりするのを聞いても、「池上さんの解説、めっちゃ判りやすいって聞いてたんすけど、俺にはさっぱりっす」とかって残念なことになるわけです。

じゃあ、こういうのはマズイ! 語彙力をつけよう! となっても一朝一夕にはいかないわけで。
やっぱり地道なインプットとアウトプットが必要なのですね。
つまり、日々の読書と、文章を書くことです。
読書は自分の知的関心が赴くままに新書なり専門書なりを読むのもいいでしょうし、娯楽的な小説でも、歴史小説なんかは語彙力を鍛えるのには向いてるかもしれません。もちろん、いわゆる「近代文学」は、その辺の新書なんかより、よっぽど「教養的」です。
で、同時にアウトプットが必要。
これはブログでもなんでもいいと思いますが、短くとも、定期的に何かしら文章を書く習慣があったほうがいいですよね。
読書によって「無意識」に摂取した語彙を、文章をイメージする中で、また「無意識」に使えるようにしていくこと。
これが、日常において語彙力を増やしていくキモだと思います。

で、実のところ、こうした「大人の語彙力」は、子どもの教育環境においても重要です。
というのも、特に中学生以下の子どもにとっては、家庭における言語環境というものが、本人の言語能力にけっこう関係してくるからなんですね。

例えば、多くの子どもたちは、いわゆる国語の読解問題における「説明文」「論説文」の問題が苦手です。
中学受験くらいの問題ですと、端的に内容がつまらんというのもありますが、やっぱり抽象語を多用した文が読みにくい、ということも関係あります。
中学生においても、半数くらいの子どもは、「論説文」に拒否反応を示しますね。

中学生も二年、三年となってくれば、自分自身で最低限インプットの努力をさせることもできるでしょう。
しかしながら、小学生に、いきなり難解な抽象語の多用された本を読め、というのは無理があります。

そこで大切になってくるのが、家庭における言語環境なんですね。
やっぱり家庭の中で、両親が比較的、抽象語を含む、色々な語彙を使って会話していたなら、その子どもは自然と、ある程度そうした言葉遣いに慣れていくものです。
何かやらかしてゴニョゴニョ言ってる子どもに、「何いうとんねん、ちゃんと言えや!」というのと、「もうちょっと論理的に説明しろよ!」と言うのとでは、やっぱり違ってくるのです。
子どもは、「論理」という言葉に「自然」に「無意識」に慣れていきますし、日常の中でわからない単語が出てくれば、「お父さん、今言った『概念』ってどういう意味?」と聞き返してきます。
こうした積み重ねが、抽象語が多用される文章への「抵抗感」を少なくし、「自然」にそういう文章へ親しんでいく契機にもなるというわけです。

まあ、もちろん、そんなことばかりを意識しながら日常会話はできません。
だからこそ、僕たち自身が「無意識」に、いろいろな語彙を使える人間に成長したいもんですよね。

さてさて、今日は短め。
さすがに10月ともなると、だいぶんレッスンも立て込んできて、なかなかブログを書く時間もありません。何とか「継続」したいと思いながらもランダムになりつつある。。。
ともあれ、今日はこの辺で。

それでは、それでは。