「不登校」の具体的な処方箋① 小学生編

どうも、どうも。
気がつけばすっかり寒くなっちゃって完全に冬って感じの毎日ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

さてさて、前回、不登校なんて全然大丈夫ってな感じのブログを書いたわけなんですが、その翌日夕刻、娘が帰宅するなり暗い怒った顔で「もう学校行かない……」と呟くではありませんか!
ゲッ! ブログがめっちゃ前フリなっとるやんけ! と夫婦揃ってびっくりしちゃったんですけれど、何のことはない、なんか友だちと女子特有なケンカというかトラブルになっちゃって落ち込みヘソを曲げてるだけでありました。
結局、一日休んだだけでその友だちとも仲直りし、再び、まあイヤイヤながらではありますが、何とか通学しております。

まあ、でもそんなこともあったんで再びより具体的に考えて見たんですよ。
実際に子どもが不登校になったら、どうすっか。

もちろん、僕はこの問題の専門家ではありませんし、自分および生徒たちの話を聞いた感じで考えられる現段階での処方箋に過ぎないんですが、それでもまあ娘を持つ一人の親、一個人の考え程度の聞いてくれれば幸いです。

まず、小学校の中学年くらいの段階で不登校になっちゃった場合、どうするか。
おそらく、最初に考えるのが、オルタナティブ・スクールの存在でしょうね。
すでにご紹介したように、僕の、というかV-netの生徒には、こうしたオルタナティブ・スクール出身の生徒がたくさんいます。
そのまま、高卒認定なんかをとって独自の道を歩む生徒もいますし、中学以後、国立私立の進学校に進んだ生徒もいます。
このことからも、わかるようにオルタナティブ・スクールは、昔のいわゆるフリースクールとは、ちょっとばかり違います。
文科省認定下の公立私立学校とは、ちょっと異なる独自のメソッドの下に教育を行うスクールのことで、不登校云々関係なく、通うことができます。
信頼できる教師がいる、と感じたなら、そういうスクールを検討してみるのは、良いアイデアでしょう。

とはいえ。
そういうオルタナティブ・スクールは、大都市圏にはあるでしょうが、地方にはそんなにない。
しかも、それなりに予算がかかる。子どもを私立小中高に通わせられる程度の経済力がなければ、ちょっとしんどいかもしれない。
そもそも第一、子どもが再び集団に入っていくのを嫌がるかもしれない。

では、どうするか。
その場合は、ズバリ、腹をくくってホームスクーリングでいきます。
ホームスクーリングとは、つまるところ、家庭で学習を行うことです。

これはあくまで僕の考えですが、最悪、小学校自体には通わなくてもいい。
でも、小学校で習う程度の学習範囲が、全然わからないまま成長しちゃうと、後々えらい苦労することになります。
なので、仮に子どもが小学校中学年以下の段階で学校に行きたくないと言い出したとしたら、少なくとも学習だけは何とか続けさせる状態を作った方がいいでしょう。

で、仮にオルタナティブ・スクールがダメだった場合は、ホームスクーリンで学習を続けるしかない。
いや、続けるしかない、なんて書き方すると、なんか否定的な響きがありますが、全然そんなことはない。
実際、僕は仮に娘が学校に行きなくないと言い出したら、そうするつもりでいます。というか、先々週、娘がそんなこと言い出したときは、けっこう真剣に考えてみました。

で、これはイケる、と。
親が腹をくくりさせすれば、何とかできる、と考えました。

いやいや、アンタはまがりなりにも人に教える商売しとるからそんなこというんやろけど、こちとらシロウトやで、そんなもんできまっかいな。
こんなふうに思われるかもしれません。

でも、ね。
そうは言っても、小学校の国算理社です。
本気で、腹をくくって自分も勉強し直して、それで教えられない内容ではありません。
いや、だいたい僕だって、算数教科はさっぱりなので、仮に娘に教える場合は、自分自身もかなり勉強し直す必要があるでしょう。
しかも、自分の子どもと人様の子どもに教えるのは全く別。今でも、なかなか娘は僕の言うことを聞いてなんてくれません。
それでも、そうなったら、腹をくくるしかない。
その上で、僕は自分が頑張れば、何とかイケる、と思いました。

もちろん、学習は家庭でだけ行うわけではありません。
塾その他の教育期間を並行して使ってもいいでしょう。
僕の場合だったら、V-netの先生方の協力を仰ぐことになるに違いありません。

で、そういうふうに考えると、実は、これって多くの家庭がもう行なってることなんじゃないでしょうか?
だって、仮に公立私立小学校に通っていたとしても、皆さん、早い場合は低学年から塾やなんかに通わせてるじゃないですか。
特に中高学年くらいからは、家庭学習やそうした民間の教育機関が、学習の中心を担っている現実があります。
つまるところ、既存の学校に通っていようと、「学習」に関しては、実は最初から学校をあてにしてない。
いや、それは実際に学校自体が認めちゃってます。何人の親御さんから、子どもを塾に通わせてくださいと学校に言われた、という相談を聞いたことか。

つまり、「学習」の面に関しては、最初から学校以外の民間教育機関で、代替可能というわけです。もちろん、家庭での学習とセットになって、ではありますが(でも、それは「学校」に行っていても同じです)。

ただ、学校という場所は、様々な「他者」と触れる場所でもあります。
だからこそ、トラブルもあるわけですが(特に学校は過剰な同質性を求めるので)、ホームスクーリングを行う場合も、こうした「他者」との出会いの場は、折に触れて設ける必要があるでしょう。
種々の習い事や子ども参加のイベントなどには、よっぽど子どもが嫌がらない限り、積極的に参加させるべきでしょう。
V-netでいえば、折々の「焚き火の会」や「 マエスク」に参加させたりする。

こうしたホームスクーリングに、ほんとに現実性があるのか? と未だにお疑いかもしれません。
でも、実際に僕は、このホームスクーリングを実行し、子どもを育てていらっしゃるお母さんたちを直接的にも、間接的にも知っています。
皆さん、それぞれに工夫して、立派にお子さんを育てていらっしゃいます。

で、これはほんと、繰り返し言いたいことなんですが、オルタナティブ・スクールを選ぶにせよ、ホームスクーリングに切り替えるにせよ、それは決して否定的な選択ではないってことなんですね。ほんとに。

前回のブログでも書きましたように、いわゆる「ふつうの学校」に通っていない生徒たちの皆が、それぞれに個性的に、しかし主体的に人生を見つめ、「学問」を行なっている。
また、つい先日「焚き火の会」がありまして、いつものように家族で参加させてもらったんですが、その際、「学校の男子」をあれほど嫌がっている娘が、仲良くV-net男子諸君と戯れているではないか!(その折の様子は松永先生のブログで読めます。登場する「体格の良い女の子」がウチの娘)

彼らがいきいきと「学問」し、彼女が楽しく戯れることができたのは、過剰な同質性を要求されないから。
自身の「個性」を異端視されないからに、ほかなりません。
であれば、集団生活のならいとはいえ、同質性を要求し異端を「村八分」にしがちな「昔ながらの共同体」に通わせ続け、変なコンプレックスを子どもに抱えさせてしまうのは、本当に「ふつう」のことなのか?
ホームスクーリングもオルタナティブスクールも決して否定的な選択ではない、というのは、そういう考えがあるからです。
むしろ、「不登校」とは子どもにとって、その親にとって、肯定的な選択ではなかろうか。

さてさて、本当はこのまま小学校6年生くらいから中学生以後の「不登校」の具体的処方箋を書こうと思っていたんですが、上記だけでずいぶん紙幅を費やしてしまいました。
しかも、思春期の不登校は、まだ幼い子どもたちと違い、思春期特有の自意識や心の葛藤があるので、同列には論じられません。
ということで、こちらについては別に書こうと思います。
って、いよいよ12月、休みもなくなってきてブログもしばらくお休みかなあ、なんて思っていたのに、宿題を残しちまったぜ!
……ですが、この問題はやっぱり続きも書いた方がいいと思うので、忙しい中、少し先になるかもしれませんが、何とか年内には書こうと思います。

それでは、それでは。

不登校でも問題ない

どうもどうも。
気がついてみれば、もう11月も半ば。あと1ヶ月半もすれば、2017年も終わっちまいます。驚くべき、はやさ! 2017という数字に愛着を感じる間も無く過ぎ去っていくぞこの一年! ほんと、はやすぎる。

さてさて、そんな2017年11月。
実はこの11日と12日、今年度第2回目の高卒認定試験が実施されました。
僕の生徒も一人が受験。結果はまだわかりませんが、文系科目は概ね大丈夫そう。理系科目は数学がちょっとミスったか、といった手応えみたいです。

この生徒については、以前のブログでもちょっと紹介してますが、なんといっても賢い。
いや、理系教科についてはよくわからないんですが、文系教科については呑み込みが早く、興味のあることについては、自分でも調べてどんどん知識を吸収していってくれます。
先日のレッスンで戦後日本史を解説中、「下山事件」のトピックが出てきたんですが、それを踏まえて「戦後史の闇」的な部分をちょっとばかり話したところ、興味を持ってくれて、早速、自分でも調べてくれてたみたいです。
この高卒認定を機に、その能力を十分発揮できるよう、人生の次のステップに徐々にでも進んでいってくれれば、と願っています。

この彼を含め、現在、僕はいわゆる通常の中学高校に通わずに勉強している生徒を4人ほど教えています。
不登校やオルタナティブスクール出身であったりなど、そういう人生を歩むきっかけは様々なれど、それぞれ個性的かつ優秀な生徒たちです。

そうそう、そのうちの一人はすでに8月の高卒認定試験を見事、全教科一発でパスして、今は大学受験に向けて勉強中です。
V-net以外の場所には今、特にどこにも通わず勉強している、そういうスタイルが面白いのか、なんかNHKがその生徒を取材しているみたいです。

前記の生徒が、いわばオタク的に知識を吸収するタイプだとすれば、この生徒はめっちゃ活動的。
政治がおかしい!と思えば、知らんうちにデモに出かけてるし、名古屋って街がおもろい!と思えば、すぐに名古屋に旅行にいきます。
知識を現場で「体感」して得ていくんですね。

こうした個性的な生徒たちを見ていると、なんでしょうか、教えているはずの僕の方が、けっこう元気づけられることも多い。

例えば、僕は教師ですが、一方、個人としては小3娘と4歳息子の父でもあります。
で、下の子はともかく、上の子は小学生、やっぱり学校関係では心配事も多いわけです。
一つの学期に一回は、なんらかのトラブルが持ち上がる。
あるいはトラブルがなくとも、たまに学校公開なんかで観にいくと、「あー。これは先生大変だなあ。。一人で20人以上を見るのはやっぱし無理やわあ。。。」という気分になるわけです。
いえ、何も娘の学校自体に文句があるわけではないのです。
ただ単純に、現代のように価値観が多様化したした時代にあって、20〜30人もの子どもに、「集団性」「同調性」を求めるシステムに無理があるなあ、と感じてしまうわけです。

で、そんななかでも結構、個性的、というか親の僕から見ても変人な娘。
そのうち「もう学校なんか行かねえよバカヤロー!」っと、特に思春期なんかになっちゃった時に言いだすんじゃなかろうか、と時々、妻と二人で少々不安に思ったりもしていたりしていなかったりもしていたりして(回りくどい)。
いや、ほんと、どの面下げて言うとんねんってことではあるんですよ。
なんつっても、僕が不登校だったんですから。
でもね。やっぱり親は親、娘は娘ですから、僕がOKだったことが娘も大丈夫とは限らない、いやいや中学ならともかくせめて小学校くらいは出て欲しいよね云々等々、なんだかんだと理由をつけて、「願わくは娘は俺より少しはマトモに」などとアホな願いと心配をしていたわけなんです。

それが。
最近のことなんですが、上記のような四人のたくましい生徒たちを教えているうちに、なんというか、心の底から、まあ別にほんとに子どもが学校行かなくなったとしても何とかなるわな、という気持ちになってきたわけです。
繰り返せば、僕自身が不登校。
ただ、その「個人としての体験」が、より「普遍的な経験」に裏打ちされてきた、というか。あるいは「親目線」でも心配なくなったというか。

そう僕に思わせるような、「人間的な信頼感」が、個性は違えど、彼らにはある。
つまり同世代の他の生徒よりも、大人に甘えるところ少なく、一人の人間として「個」を確立している。
そして、何より、それぞれが自分の長所を存分に伸ばしている。歴史研究であったり創作であったり政治思想であったりと、「知性」についても充実している。
彼らを見ていると、むしろ「娘も、あるいは息子も、こういうふうに育てたほうが良いのではなかろうか」とお世辞でも何でもなく、思うのです。
実際、彼らはみんな、本人にいく気さえあれば大学にだっていけるでしょうし、その後の人生も自分たちなりに切り開いていけるでしょう。

きっと今、このブログを書いてる最中も、あるいはこのブログの読者の中にだって、息子や娘が不登校になって心配し苦しんでいる親御さんがおられるでしょう。
あるいは、不登校になってしまうかもしれないと、子どもの状態を見て悩んでおられるご両親も。
上に書いたように、その心配はわかります。
でもね。
たとえ実際、学校に行かなくなっても、いくらでも道はあります大丈夫。
高卒認定もあれば通信制高校もある。青少年期の逸脱なんて、いくらでも挽回できるんです。
前も書きましたが、「ふつう」であって欲しいみたいな価値観さえ脱ぎ捨てられれば、子どもはかえってたくましく成長してくれることさえあるんです。
僕はそのことを、改めて自分の四人の生徒から学ばせてもらいました。

それでは、それでは。

「国語力」とは何か?

どうも、どうも。
最近は朝晩すっかり冷え込んで参りましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕はちっとも風邪が治りきりません。

さてさて、本日は「国語力」について。
僕は一応国語の先生なんで(なぜか最近、歴史とかを教えることがすごく多いですが)、基本的には「国語力」をあげたい、という生徒がレッスンにたくさんやってきます。
ですが、みなさん「国語力」って、いったい何なんでしょうか?

「そんなん決まっとるやんけ。うまい文章書けたり、難しい本スラスラ読めたりする力やないけ」と、こう思いますかね?
まあ確かに、そう言えます。めちゃめちゃ難解な文書を読み解ける。人を感動させるような美しい文章を書ける。
これらは大切な国語の力です。
でも、あえて言いたい。
「国語力」って、ほんとにそれだけ?

実はね。それだけではありません。
それらは「国語力」の一部分でしかないのです。
いや正確に言うと、そうした能力は、「国語力」のある人が結果的に身につけたテクニック、とでも言える力なんですね。

少なくとも僕は、あるいは僕のレッスンでは、「国語力」というものを、もっと大きくとらえたいと思っています。
では、その「国語力」とはどういうものでしょうか?

それは物事を論理的に思考し、また理解する力のことです。
つまり、思考力と理解力。
そして、この二つの力は実は一つのものなんですね。

どうして思考力と理解力が「国語」に関係するんでしょうか?
いや、実はそれは考えてみれば、当たり前の話なんです。
国語力とは、日本人にとっての日本語、つまるところ言語にかかわる力のことです。
そして、僕たちはいつだって、何か物事を考えたり、理解しようとするとき、言葉を使ってそれを行なっています。
意識的にも、無意識的にも、そうです。
言葉がなければ、僕たちは明日のスケジュールひとつ、考えることができないでしょう。
つまり、人間の「思考」や「理解」とは、言葉を用いることで初めて可能になるものなんですね。

ですから、言葉を巧みにあやつる力に秀でている人が、思考力や理解力に優れているのも、当然といえば当然なのです。
語彙が豊富で、わかりやすく文を構成できるような人と、そうでない人とであれば、考える力や理解する力に自然と差が出てくる。
「日本人がディスカッションを苦手とする原因は、読解力ばかりを重視して、表現力を伸ばすことをおろそかにしてきた、国語教育にこそあると思う」
と明快に説明できる人と、
「日本人はやね、アカンのんだよ。えーっと苦手なんよね、ほら話し合いとか、意見いうたり。なんでって教えられてないから。ほら読むばっかりでしょ。えっと国語の授業って。自分の考えとか、その話し方とか、ぜんぜん勉強してない。せやからアカンのんよ」と、こんなふうにしか説明できない人がいるとします。

後の例の人は、たぶん頭の中でも、同じような語彙で、同じように順序もバラバラにしか、思考できていないのではないでしょうか。
もちろん、口下手であるとか、性格もあるでしょうけどね。

ひるがえって、前者はどうでしょう?
こうした人は、頭の中でもきちんとした語句を用いて、筋道の通った考え方をしているに違いありません。
いやいや、たぶん逆で、普段から言葉を論理的に用いて思考しているからこそ、それを口に出しても、自然と筋道の通った話し方ができるんですね。

そして、同じことは〈理解力〉についても言えます。
さっきも言った通り、僕たちは物事を言葉を使ってしか理解することができません。当たり前ですよね。
僕たちは、何かを見たり聞いたりした際、それを無意識に、自分自身の言葉に直して整理し、意味をつかみ直そうとしています。
ですから、人の話を聞いて一発で理解できる人と、そうでない人がいるとすれば、後者は自分の言葉で内容を整理し直すことが苦手な人だと言えるでしょう。

何を見ても「かわいい! ちょーかわいい! めっちゃかわいい!」としか表現できない人がいたとしたら(そんな人いんのかって? まあ僕の学生時代にはいましたよ)、その人はたぶん実際にそれを「かわいい」という言葉でしか理解できていないんじゃないでしょうか。
そんでもって、そういう人が仮に政治とか経済とか法律なんかについての小難しい話を聞かされたとしたら、どうでしょう?
たぶん、なかなか内容を理解できないんじゃないかと思います。
それは内容を整理し翻訳するような自分自身の言葉、語彙を持っていないためなんですね。これは話題についての知識のあるなしとは、また別の次元の問題だと思います。
そして逆に、どんな内容であっても、難しい議論がすぐに理解できる、というような人は、その内容を整理する言葉をたくさん持っている、ということなのです。

ところで、さっき自分の言葉で整理し直す、と書きました。
実を言えば、それは言葉を論理的に用いる、ということの言い換えにほかなりません。
つまり、理解力が高い人、というのは、物事を自分の言葉で論理的に解釈できる人のことなのです。
思考力と理解力とが実は一つのものである、というのは、こういう意味だったんですね。

そこで、だいたいこんなふうに言えると思います。
「国語力」を高めるというのは、つまるところ物事を論理的に思考し、深く理解できる人間になろうとすることだ、と
そして、そういうヒトのことを、僕たちはふつう、頭のいいヒト、かしこいヒトと呼びます。
そう、要するに「国語力」とは、「頭の良さ」とでもいうべきものの、もっとも根本的な部分を形づくるものなんですね。

さてさて、今日は長々と真面目なことを書きすぎました。
でも、実はこれ、最近、僕がひそかに書き溜めている「国語ノート」の一部分の内容なんですよね。
そのうち、また別の「ノート」の内容をここに紹介したりすることがあるかもしれません。

それでは、それでは。

いろんな生徒がいる話

どうもどうも。
前の記事からけっこう時間が空いちゃいましたね。毎年のことながら、やっぱり受験シーズンが近づいてくると、けっこう忙しくなってきちゃって、なかなかブログを更新できません。

いや、今、受験シーズンが近づいてくると、と書きましたが、実のところ最近はそれこそ十年くらい前と比べると、生徒の感じもいろいろ変わってきていて、単純に中高大学受験のためだけにレッスンを受講する生徒以外にも、国語や社会あるいはそれこそ勉強全般を深く学びたいって感じの生徒が増えています。いや、もちろん受験生もたくさんいるんですが、それ以外の生徒もけっこういる。実にバラエティ豊かなんですな。

例えば昨日は4コマのレッスンをやったんですが、朝一番の1コマ目は通信制高校に通う元不登校の生徒。この生徒とは普段は英語学習をやってるんですが、月一回だけお楽しみ&国語学習をかねてリベラルアーツ的学習をやっております。
先月は『隷属なき道』(ルトガー・ブレグマン著)という著作の一部を読んで、ベーシック・インカムについての解説を行い彼と議論いたしました。
で、昨日は過日に選挙もあったとうことで、ルソーの『社会契約論』の一部分を読んで、社会契約論の概念的説明を行ったのち、ルソーのいう「一般意志」についての僕なりの解釈解説を行いました。
こうやって書いてみると、なかなかすごいことやってるみたいですけど、あくまでこれは「お楽しみ」を兼ねてやっていること。ちゃんと生徒の関心に合わせてレッスンすれば、面白がって聞いてくれるし議論もできるものです。まあ上のような内容が「関心にあう」ってこと自体、大したもんですけどね。

その後、お昼を挟んでの午後一番のレッスンは、これまた高卒認定試験を再来週に控えた男子生徒。
再来週に試験ということで、国語の古文漢文の復習を過去問使ってちょこっとやったのち、日本史の近代史のレッスン。
過去問使ってちょこっと、と書きましたが、この生徒が古文に触れるようになったのは、この一年ほど前からのこと。漢文にいたっては、せいぜい2、3ヶ月前です。
にもかかわらず、この生徒は非常に頭が良くのみこみが早いのか、高卒認定試験の問題とはいえ、ほとんど間違えることがありません。
もちろん、古文に関しては一年とはいえ、けっこうやってました。と言っても文法がどうこうといったレッスンではなく、ただひたすら平家物語を読むというもの。
平家物語は内容が面白いのと読解も平安期のものに比すれば、やや易しいので読んでいたんですが、これがけっこう利いているのか、一、二回ざっと文章を読めば、よほど難しいものでない限り、内容が一応了解できるみたいです。
この生徒は日本史や世界史への関心もけっこう高い上に、英語もかなりできるので、再来週の試験の結果が個人的に楽しみです。

さて午後二発目。大学受験の生徒です。
彼女とは実は小学校からの付き合いです。なんと「音読サイコロ道場」を始めた頃に通っていた生徒。いやー時間がたつのは早い早い。
滑り止め的志望校の過去問を現代文、古文とこなしたんですが、先週同じ学校の問題にちと苦労したので警戒していたものの、今週はなんなくクリア。
ただ少々、癖のある問題が多いようなので、今後も受験用の「戦術」を立てていく必要がありそうです。
ただ、むしろ彼女の課題は現代文、というより難解抽象語が並んでいるような、法政治学や経済学等に関する論説文。
もっとも、こういう「難解論説文」を苦手にするのは、彼女だけの問題ではありません。小学校、中学校と国語が得意だったはずの子が、高校生くらいでこうした学問的文章に出会って苦労し始める、というのはよくある話なんですね。文学少女や少年でも、こういう文章、学問に関心がないと苦労している模様です。
一番良いのは、もっと早い、中学生くらいの段階から、種々の学問分野に関心をもって、やや難解と思われるような本にも触れて慣れていくことなんですが、まあ、なかなか個人の努力では難しい。それこそ周囲にそういう環境がないと本を手に取る機会もないかもしれませんね。
処方箋は個人によって様々ですが、まずは文章内の対立概念や、肯定的言説と批判的言説に留意しながら、全体の構造を文を読みながら頭の中で整理できるようになる必要があります。

さてさて、昨日の最後のレッスン。
こちらは小六女の子です。
実は彼女は去年、中学受験を指導した女の子の紹介でやってきた子。真面目で健気なとても良いお子さんです。
いえ、真面目で健気でいい子すぎるかも。。
というのは、女の子の場合は、「真面目」というのが、意外と能力を伸び悩ませるネックになる場合があるからです。
どういうことでしょうか。
前田先生だったかが、去年のブログで、ある算数が苦手だと思い込んでいる女子生徒の「呪い」を解くのが自分の仕事だった、というようなことを書いていました。
そうです。女子生徒は、特に小・中学生くらいの女子生徒は、この「呪い」に実にかかりやすい。
「真面目」なので、テストの成績や塾の先生等、周りの大人のいうことを真に受けて落ち込みやすいんですね。
もちろん、一回のテストなんかでそうはならないでしょうが、例えば塾に入って受験勉強を始めた頃に、何度かテストで悪い点を取って、しかも周囲から「国語がイマイチだね」的なことを言われたりすると、「真面目」な子ほどそれを真に受け「そうなのか。。私は読書も好きで国語も嫌いじゃなかったけれど、本当は国語ができない人間だったのか。。。。」などと悪い意味で暗示にかかってしまいます。その後、むしろその自己暗示のせいもあって悪循環にはまることもしばしばあります。
ですが、入試国語はある種のテクニックがないと、解けるものではないし、また受験勉強を始めた頃の子どもは、時間制限のある中で国語問題を解いたことのない子がほとんどです。ですから、要領のいい子でない限り、最初から点が取れないのは当たり前なんですね。
しかし、「真面目」な子はそう考えない。自分の努力が足りないから、能力が足りないから、成績が悪かったんだと思ってしまう。
ほんとはある種の「要領」が足りなかっただけなのに。
これが「不真面目」な男子であれば、「オレはまだ本気出してないだけ」とか「いや周りもこんなもんだったって母ちゃん怒りすぎ」とか「受験までには何とかなる」とかって考えて、良くも悪くも真剣にはとらえないんですけどね。
で、昨日の彼女も、まさに「真面目」であるがゆえに「呪い」にかかっております。
小説が好きな読書家なうえ、会話の受け答えもしっかりしている。話をきく理解力だって高い方。
レッスンが終わって彼女が帰った後、教室で別に授業をしていた松永先生が、思わず「彼女、頭いい子だねえ」っと感心していたほどです。
本来、国語ができない要素はない。
なのに、本人は「わたし国語できないんですよ」と、すぐ口にする。半ば謙遜だとしても、やっぱり自己暗示も結構ありそう。
彼女については、あと数ヶ月、国語のレッスンを通して、国語のみならず学習全般においてもかかってるかもしれない「呪い」を解くのが仕事になりそうです。

さてさて。本当は今日は、「国語ができないっていっても、いろんな種類の出来ないがあるんだぜ」って話を書こうと思ってたんですがね。
話の枕を書いてるうちに、それが本題になって、生徒紹介みたいになっちまいました。上記テーマについては、また今度。なんせ忙しいので、今日はこの辺りで、すみません。

それでは、それでは。