「国語力」とは何か?

どうも、どうも。
最近は朝晩すっかり冷え込んで参りましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕はちっとも風邪が治りきりません。

さてさて、本日は「国語力」について。
僕は一応国語の先生なんで(なぜか最近、歴史とかを教えることがすごく多いですが)、基本的には「国語力」をあげたい、という生徒がレッスンにたくさんやってきます。
ですが、みなさん「国語力」って、いったい何なんでしょうか?

「そんなん決まっとるやんけ。うまい文章書けたり、難しい本スラスラ読めたりする力やないけ」と、こう思いますかね?
まあ確かに、そう言えます。めちゃめちゃ難解な文書を読み解ける。人を感動させるような美しい文章を書ける。
これらは大切な国語の力です。
でも、あえて言いたい。
「国語力」って、ほんとにそれだけ?

実はね。それだけではありません。
それらは「国語力」の一部分でしかないのです。
いや正確に言うと、そうした能力は、「国語力」のある人が結果的に身につけたテクニック、とでも言える力なんですね。

少なくとも僕は、あるいは僕のレッスンでは、「国語力」というものを、もっと大きくとらえたいと思っています。
では、その「国語力」とはどういうものでしょうか?

それは物事を論理的に思考し、また理解する力のことです。
つまり、思考力と理解力。
そして、この二つの力は実は一つのものなんですね。

どうして思考力と理解力が「国語」に関係するんでしょうか?
いや、実はそれは考えてみれば、当たり前の話なんです。
国語力とは、日本人にとっての日本語、つまるところ言語にかかわる力のことです。
そして、僕たちはいつだって、何か物事を考えたり、理解しようとするとき、言葉を使ってそれを行なっています。
意識的にも、無意識的にも、そうです。
言葉がなければ、僕たちは明日のスケジュールひとつ、考えることができないでしょう。
つまり、人間の「思考」や「理解」とは、言葉を用いることで初めて可能になるものなんですね。

ですから、言葉を巧みにあやつる力に秀でている人が、思考力や理解力に優れているのも、当然といえば当然なのです。
語彙が豊富で、わかりやすく文を構成できるような人と、そうでない人とであれば、考える力や理解する力に自然と差が出てくる。
「日本人がディスカッションを苦手とする原因は、読解力ばかりを重視して、表現力を伸ばすことをおろそかにしてきた、国語教育にこそあると思う」
と明快に説明できる人と、
「日本人はやね、アカンのんだよ。えーっと苦手なんよね、ほら話し合いとか、意見いうたり。なんでって教えられてないから。ほら読むばっかりでしょ。えっと国語の授業って。自分の考えとか、その話し方とか、ぜんぜん勉強してない。せやからアカンのんよ」と、こんなふうにしか説明できない人がいるとします。

後の例の人は、たぶん頭の中でも、同じような語彙で、同じように順序もバラバラにしか、思考できていないのではないでしょうか。
もちろん、口下手であるとか、性格もあるでしょうけどね。

ひるがえって、前者はどうでしょう?
こうした人は、頭の中でもきちんとした語句を用いて、筋道の通った考え方をしているに違いありません。
いやいや、たぶん逆で、普段から言葉を論理的に用いて思考しているからこそ、それを口に出しても、自然と筋道の通った話し方ができるんですね。

そして、同じことは〈理解力〉についても言えます。
さっきも言った通り、僕たちは物事を言葉を使ってしか理解することができません。当たり前ですよね。
僕たちは、何かを見たり聞いたりした際、それを無意識に、自分自身の言葉に直して整理し、意味をつかみ直そうとしています。
ですから、人の話を聞いて一発で理解できる人と、そうでない人がいるとすれば、後者は自分の言葉で内容を整理し直すことが苦手な人だと言えるでしょう。

何を見ても「かわいい! ちょーかわいい! めっちゃかわいい!」としか表現できない人がいたとしたら(そんな人いんのかって? まあ僕の学生時代にはいましたよ)、その人はたぶん実際にそれを「かわいい」という言葉でしか理解できていないんじゃないでしょうか。
そんでもって、そういう人が仮に政治とか経済とか法律なんかについての小難しい話を聞かされたとしたら、どうでしょう?
たぶん、なかなか内容を理解できないんじゃないかと思います。
それは内容を整理し翻訳するような自分自身の言葉、語彙を持っていないためなんですね。これは話題についての知識のあるなしとは、また別の次元の問題だと思います。
そして逆に、どんな内容であっても、難しい議論がすぐに理解できる、というような人は、その内容を整理する言葉をたくさん持っている、ということなのです。

ところで、さっき自分の言葉で整理し直す、と書きました。
実を言えば、それは言葉を論理的に用いる、ということの言い換えにほかなりません。
つまり、理解力が高い人、というのは、物事を自分の言葉で論理的に解釈できる人のことなのです。
思考力と理解力とが実は一つのものである、というのは、こういう意味だったんですね。

そこで、だいたいこんなふうに言えると思います。
「国語力」を高めるというのは、つまるところ物事を論理的に思考し、深く理解できる人間になろうとすることだ、と
そして、そういうヒトのことを、僕たちはふつう、頭のいいヒト、かしこいヒトと呼びます。
そう、要するに「国語力」とは、「頭の良さ」とでもいうべきものの、もっとも根本的な部分を形づくるものなんですね。

さてさて、今日は長々と真面目なことを書きすぎました。
でも、実はこれ、最近、僕がひそかに書き溜めている「国語ノート」の一部分の内容なんですよね。
そのうち、また別の「ノート」の内容をここに紹介したりすることがあるかもしれません。

それでは、それでは。