どうもどうも。
相変わらず夏みたいに暑い日が続いたかと思うと急に涼しくというか肌寒くなったりして、何とも自律神経の追いつかない日々が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕のところは家族が風邪です。
さてさて、先日の読書のW・Sでは、ブラッドベリの「青い壜」という短編を取り上げました。
ブラッドベリは50年代〜60年代に活躍したSF作家ですが、その高い叙情性、主題の深さなどから文学的な評価も高い作家です。
『華氏451』や『火星年代記』といった小説が代表作と言えるでしょう。未読の方も、タイトルぐらいはどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。
今回、取り上げた「青い壜」という作品も、文庫本で20頁くらいの短編なのですが、非常に叙情的で、大人が読んでも十分に面白い小説だと思います。
舞台は文明が崩壊した火星。
その荒廃した大地を主人公の二人が、望みを何でも叶えると言われる伝説の青い壜を探して旅をする、というお話です。
ネタバレになってはいけないので、詳しい説明は避けますが、大人が読めば、色々と自分の人生含め、人間にとって生きるとはどういうことか幸福とは何なのか、といったことを考えずにはいられないだろうと思います。そういう深い小説なんですね。
ですが、そういう深いテーマをもつがゆえに、果たして子どもたちは理解してくれるだろうか?という心配もありました。
が、結果的には杞憂でしたね。
もちろん大人が理解するように理解しているわけではないんでしょうが、おぼろげながらも小説が伝えようとしていることを、イメージしてくれていたようです。
ある程度、小説を読み進める中で、私が「ガイド読み」をしていたこともあるでしょうが、どうして主人公たちが青い壜を求めざるをえないのか、そうした男たちの人生は幸福なのか否か、といった内容について考えてくれていたように思います。
読了後の議論では、こんな会話が飛び交っておりました(ここから、ちょっとだけネタバレがあります)。
「このベックってやつ、アホちゃう? 何で意味なく壜探し回っとんねん?」
「え、せやけど、クレイグの方がどうなん? こいつ、なんにも人生に目的ないねんで」
「でも人生そんなもんちゃいまっか?」
「いやいや。そんなん主体性なさすぎやろ。このクレイグとか、自分の意思ないやん? ただただ食っちゃ寝の生活しとるだけやで」
「でも、ベックの人生も虚しいもんやで。こいつかて自分のほんまの願いとかわかっとらんやん。ただ意味なく生きがいが欲しいだけやで」
「まあ人生そんなもんちゃいまっか?」
「先生、どない思わはるん?」
僕「わし? わしはどっちも嫌やけど、強いていうならベックみたいな方がええかなあ。意味なくても生きがいあった方がええやん? ねえK先生(学生の女性の先生)?」
K先生「私は人生に安楽だけが欲しいです」
僕「……」
もちろん、これはデフォルメしてる上、実際はもっと話は脱線してますが、まあ、だいたいこんな感じの議論がなされたわけです。
で、レッスンではこの後、こうした話し合いもをとに各自作文を書いていったわけですが、こういう議論をすること、話が「愉快」な方に脱線しようと何をしようと、色々とそれぞれがくだらないこと含めて、「意見」を言えるって、僕はほんとに大事だと思ってるんですよね。
作文にして自分の意見を文章化することも大事なんですが、同時にアドリブ的に自由に意見が言えないとダメ。
っというのも、皆さんよくご存知の通り、日本人はほんとに意見が言えない。
質問ができない。
これは昔、大学などで非常勤講師をしていた経験からも、はっきり言えることです。
授業の終了後に質問を受け付けても、誰も手をあげない。
これは実は大人でもそうで、昔、放送大学というところで非常勤講師をしていたことがあるんですが(放送大学の学生は単位の認定上、一定の頻度で「リアル」の授業も受けないといけないんですね)、やはり折々の機会に発言を求めてもほとんど手が上がることがない。あるいは発言する人は決まった「常連」の人になってしまう。
まあ、こういう傾向は日本人の国民性というか、出る杭は打たれる社会のせいというか、「恥」の文化が染み付いているせいでもあるのでしょうが、特に子どもや学生に関していうと、やはり学校文化が大きいように思います。
学校で何か目立った行動をする。
目立った発言をする。
すると、すぐ悪目立ちしてしまう。あるいは周りからつまらんチャチャを入れられる。
こういう経験が繰り返されるなかで、
「知らないことをみんなの前で質問するのは恥ずかしい」
「変な意見を言って、変な奴だと思われたくない」
こういう心理的傾向が、意識的・無意識的に醸成されていってしまうんでしょうね。
これは先生のせいとかではありません。
ある種の、「日本の学校文化」のように思います。
だからこそ、変えるのが個人の努力では難しい。
まあ、しかし、その原因が何であれ、読書のW・Sに限らず、僕のレッスンでは今後も、どんなことでも自由に発言できる「場」を作っていきたいと思いますね。
どんなにつまらん質問でも、変てこな発言でも、しっかり汲み取ってあげられる空間を目指したいと思います。
そうすることが、将来、子どもたちを、周りの意見に何となく合わせるのではなく、主体的に自分で考え、自分の「言葉」を持てる人間へと成長させるものと信じています。
では、今日はここらへんで。
それでは、それでは。