理想の国語授業について

どうも、どうも。
一昨日ぐらいからめっちゃ暑くなって急に真夏日とか言われて熱風のなか息も絶え絶えで何もやる気が起きないって感じですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもう外に出たくありません。

さてさて、先日、かつて作文道場(現モノ書きくらす)において華麗なる作品を発表し続けた御大、笑うバカ太郎先生(現在、高3)と個人レッスンを行っておったところ、ふとしたきっかけで国語の理想的な授業について話すこととなりました。

きっかけというは、あれです。学期末テストです。
ちょうど今、中学生高校生諸君は、学期末テストの真っ最中なんですな。

そこで僕だったかバカ太郎先生だったか、どちらともなく話題にしたのが、優れた文学作品をしょうもないテストの題材に使ってくれるなということでした。
いや、もちろん、文学作品をテストの題材にするなということではないですよ。あくまで「しょうもないテスト」の、です。

だって、おかしいでしょう。「夢十夜」とか、テストにしたら。
「夢十夜」の登場人物の「気持ち」とか聞いてくるんですぜ? アホかと。
しかも、その答えは学校が用意した、教師が授業中に解説した、そういう答えと決まっている。
国語の学期テストというのは、ふつう、本当の国語力を聞いているというより、授業をきちんと復習したか否かを問うている感じになってしまっているので、自由な解答なんか書けるわけないんですな。

そういう種類のテストなのに、「メロスが激怒した理由は何か?」なんてアホみたいな問題をふつうに出してくる。
そんなもんに答えるための試験勉強なんかしてたら、多くの子どもが文学作品を嫌いになっちゃったって、仕方がないと思うわけです。

「せやから、オレ、もう国語の教科書にオレの好きな文学作品とか、載せてほしくないとすら思うんよな」
「せやけど、ほな載せるもんないやんけ」
「いや、評論でええやん評論で」
「それかて、あんた、オレの好きな丸山眞男を汚すなとか何とか、言いそうやで」
「……」
「だいたい、中学生がそんな評論ばっかりやったらしんどいやろ」
「……だったら、あれや! 試験廃止したらええねん!」
「まあ、それはええとして、学校の教科書には古今の文学作品を中高生に紹介するっちゅう意味合いもあるんやで。ワシ、夢十夜とかそれで知ったもん」
「せやから、しょうもなテストを廃止や! 全部、レポートとかで評価したらええんや!」
「……せやけど、あんた、予備校時代、40人くらいの小論文の添削、毎日やんのに気い狂いそうやったとかなんとか言っとらんかった?」
「……」

まあ、でもホントに、現代文の試験というのは、学期テストに限らす、レポートや論文で評価するのが筋だとは思ってるんですよね。
小学生なら作文。読解力も確認したいなら、物語の続きを想像させる作文なんかを書かせたり、物語の核をなすテーマについて書かせたりすればいい。
まあ、結局それは上にも書いた通り、今のところ採点に時間と労働力がかかりすぎるという理由でなかなか採用されないんでしょうけれども。

そして何より、国語の授業は、現在のように物語や作品の「解釈」を「教える」形のものではないほうが望ましい。
もちろん今も、教科書の内容をめぐって種々の解釈を参照したり生徒同士で話し合わせたりといったこともしてるんでしょうけれども、外から見ていると、何となく言い訳程度にちらっとやってる感じで、結局は一義的な解釈を生徒たちに「与える」形になってしまっている。
これは教師の問題だけではなくて、生徒の側も、僕がよく言っている「学校特有の文化」「空気」みたいなもののせいなのか、どうも受け身になっているように見える。

で、これはバカ太郎先生にも言ってたんですけど、僕の持論としては、国語の授業ってのは、ほんとはただ「読書」をするだけの時間であってもいい。
毎回のレッスンの最初に、ちょっとした共有すべきテーマを話しておいて、その後は、各自で読書。
全員で同じ本を読んでもいいし、別々の本を何人かのグループに分かれて読んでもいい。
そして読了後に作文やレポートを書いたり、ディスカッションをすればいい。

これだけで、本当はいいんじゃないだろうか?

もちろん、作文やレポートを書く力をつけるためのライティングの授業は別に用意する必要があります。
ともあれ、とりあえず子どもたちの読解力と文章力を鍛えることこそが国語の授業に求められているものなのだとすれば、こうした二つの授業スタイルが柱になるべきではないのかな、と思います。
後はプレゼン力とかかな?

実際、都内の某有名進学校の国語の授業では、こういう方式をとっているところもあります。
いわゆるリーディング・ワークショップ、ライティング・ワークショップという方式ですな。

いや、それは進学校だからできるわけで、種々の学生が集う公立中高ではなかなか難しいっすよ、という意見もわかります。
まして、小学生なら、そんな簡単に行くかよ、とも思いますよね。

でも、それならせめて、同じ本や小説を、教師の語り聞かせに合わせて、みんなで共有して読むって形にすればいいんじゃないでしょうか。
「夢十夜」や「羅生門」なんかを、ただ読んで、それをネタに話をする。それだけ。

いや、別に建設的な「話し合い」をする必要なんて、ないと思います。
例えば、映画を一緒に観たりして、その感想なんかを話すときに、いつもいつも「建設的な話し合い」なんかしませんよね?
馬鹿話の中に、たまに面白い意見が出たりする。そんなもんでしょう?
そして、そんな会話だからこそ、僕たちは同じ映画を観た相手と感想を述べ合ったりするのが楽しんじゃないでしょうか。

読書だって同じこと。
それを国語の授業として成立させてくれさえすれば、子どもたちに自然な形で読書への興味を持たせることができるでしょう。
そううまくいかなくても、少なくとも授業の中で色々な文章にふれ、読解力は身について行く。少なくとも、同じ小説の解釈を何日にもわたって解説されるような(しかも大した解釈ではない)つまらない授業よりはマシだと思います。

さて、ここまでお読みになった皆さんは、お、こいつ、微妙に自分の授業を宣伝しとるな、とお気づきでしょう。
そうです。
つまり、僕が今年度から始めた「読書のW・S」も、普通の、「国語の文章を読んで解答を考える」=「文章の一義的な解釈を求める」方式の国語授業以外の形で、子どもたちの国語力をアップさせたい、という気持ちから生まれてきたものなんですな。

実際、まだまだ試行錯誤ではありますが、それでも毎回、小説を読んだ子どもたちの中からは、いろいろな意見が出ていきます。
もちろん、7割くらいは「おバカ」な会話なんですが、それでいい、いや、それがいいんだと思います。
なぜなら、まさにそんなリラックスした雰囲気だからこそ、突然、こちらは本当にびっくりするような鋭い意見も飛び出してくるからです。

今後は徐々に、回を跨いで、中編の小説を読んだり、自宅である程度、読んできてもらう、という形に広げていく予定もあります。
ま、その辺は子どもたちの反応を見ながら、ですけどね。
とりあえず、7月は旧約聖書の子ども版みたいなやつを、高学年コースで回を跨いで読むつもりです。

ともあれ。
学校の国語授業が、僕の子どもの時と同じスタイルっちゅうのは、これだけ社会が変わっていることを思うと、さすがにひどいと思います。
今後は徐々にでも、変わっていって欲しいですし、また変わって行かざるを得ないでしょうな。
それでは、それでは。

新HPのお披露目と、音読の重要性について

どうもどうも。
ついに梅雨到来ということで毎日うっとうしい天気が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は気圧に応じて気分が沈みがちです。

さて、そんななか、ついに!
ついにこの数ヶ月の無駄な労力が報われ、国語グループレッスンのサイトが完成しました!
以下、URL。
https://www.kokugolab.com/

まあ、まだグーグルで検索かけてもヒットしません。これには、また1〜3ヶ月くらいかかるみたいっすね。よう知らんけど。

ともかくも。
今後は音読サイコロ道場や読書のWSなど、グループレッスンの予定なんかはこっちで確認してみてください。
もちろん、新規の参加も募集しております。

さて。
その、音読サイコロ道場。
現在、午前9時からのクラスと午後3時半からのクラスを土曜に二度開講しておるわけなんですが、実はこの春先から、生徒の皆さんには、なるべく午前のクラスにきてもらうようにお願いしております。午後は原則、定員制にしたりして。
どうしてこんなふうにしたかというと、やっぱり午後、たくさんの子どもたちが一斉に音読を始めちゃったりしますと、場は一瞬にして爆音と興奮の坩堝、他のレッスンが全くできない、という状況が生じるようになっちゃったからなんですね。

なんやかんやで、もうこの音読サイコロ道場も、10年近くやっております。
昔はそうはいっても人数も少なく、子どもたちの音読の声も、教室が活気付いてちょうどいいってな感じだったわけなんですが、最近はおかげさまで生徒も増え、教室を完全に爆音ハイジャックしちゃう状態になっておったわけです。
で、窮余の策として、上記のようなお願いをすることになった、と。

しかし、そうするとやっぱり皆さん、毎週通うのが難しいみたいなんですよね。。。
特にこの5月6月は運動会があったり学校公開が続いたりと、なかなか午前のみだと参加が大変だったみたい。

しかし、これまた難しいところなんですが、特に小さい、小学校低学年くらいのお子さんの場合、時間があんまり空きすぎちゃうと、なかなか一つひとつの文の音読を習熟させることが厳しい。
この辺、ピアノなんかの習い事に似ているかもしれません。
しっかり練習している場合はそうでもないんですが、そこは子どもちゃんのやること。
そうそう真面目に家で練習しませんわな。それを責められるものでもありませんし、そういう「うるさい」場所にもしたくない。

これが個人指導のレッスンですと、一人を綿密に見れますし、また時間もゆっくり取れますから、多少時間が空いても特に問題ではありません。
しかし、やはりグループレッスンの場合は、そうはいかない。
なるべくフォローはしているんですが、時間が空くと、やっぱり「忘れて」しまうんですよね。前にやってて出来てたことを。

でも、ね。
やっぱり大切なんですよね、古典音読。
これはもう、10年教えてきた、僕自身が実感します。

自分で言うのもなんですが、僕はもともと文章は十分書ける人間でした。
と言うより、小説書いたり研究やったりしてる人間で書けないとかありえないわけなんですが、それでも小説家はともかく研究者は必ずしも文章がうまいわけではない。
でも、その点でも、僕はそれなりに文章を書く訓練を受けてきたタイプの人間だったわけです。ま、だから国語教えとるんでっけど。

しかし、そんな僕でさえ、この10年でさらにワンランク文章力が上がったな、と実感できるんですよ。
それはつまり、文のリズムがよくなった。
つまり、上代中古から中世にかけての古文日本語のリズムが入っているおかげで、自然とリズムのよい文章が書けるようになったんですね。
これはもう、10年、音読を教えてきた効用にほかならないわけですよ。

子どもたちを見ていたって、そうです。
やっぱり、ちゃんと音読を踏まえて、作文のレッスンを受け、高学年になっている子の国語力は間違いなく高い。
あまり本を読んでいない子どもでも、そうなんです。

どういうふうに違うかというと、たとえば日本語の助詞。
助詞の用法というのは、たぶんに感覚的なところがあって、たとえば、
「その手紙を読んだら、私は眼から涙のこぼれたのを感じた」
という文と、
「その手紙を読んだ私は、自分の眼から涙がこぼれ落ちるのを感じた」
という文だったら、後の文の方が、まあキレイな文なわけですが、じゃあ前者がどうしておかしいのか、というのを、日本語のリズムの入っていない子どもに感覚的に教えるのは、けっこう難しい。
いや、もちろん「この部分で『〜だら』って使うのは変だよ」とか細かいところを指摘することはできます。
でも、「え、なんで?」と素朴に聞き返された場合、それを仮に論理的に「『〜だら』というのは仮定条件的な用法だが、この場合は事実を述べているのであって仮定しているのではないから」などと説明しても、子どもはますます「???」となるだけなのであります。

だから、まず日本語のリズムを一定程度、体得していることが、文章力を上達させる上での前提になるのですね。
もちろん、これは読書によって自然と養うことができるものでもあります。
ですが、本をあまり読まないお子さんであれば、これはもう絶対にやった方がいい。
さらには読書家であっても、それを意識的に向上させることには大きな意味があると思います。

しかも、本当は、1年、2年、子どものときにやるだけでなく、できれば気に入ったフレーズだけでも良いので、大人になるまでずっと、続けて欲しいと思っています。
繰り返せば、それが文章を実際に、いろいろ書いてる僕の実感です。
何より、高校生くらいになったときに、自分が昔読んだ古文の文章を忘れてるとか、もったいなさすぎます。

というわけで、音読サイコロ道場。
これ、なるべく間を空けずに通ってほしいのですが。。。。
それぞれスケジュールの問題もあるので難しいか。。。
やはり午後のクラスにある程度、振替られるようにした方がいいのか。。

悩みの尽きない、今日この頃です。
それでは、それでは。