「学校になんか行きなくない!」って子どもが言い出した時

どうもどうも。
10月も半ばになってようやく秋っぽい季節感が感じられるようになってきた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は珍しく風邪もひかずに頑張っとります。

さて本日は、タイトル通り不登校の問題について。
知っての通り、って知らないかもしれませんが、このブログでは何度かこうしたテーマに触れた記事を書いとります。
というのも、僕自身が大昔も大昔、もうおよそ30年も前に実際、不登校を経験した中学生だったから、というのと同時に、これまた不思議な縁で、今も含めて、数々の不登校生徒を相手にレッスンを行っておるからなわけです。

最近の傾向、というわけではないんですが、少し教室のなかで目立つようになってきたのは、周りがアホでやってられなくなったのか、はたまた不条理な教育システムに無言の抗議を行うためなのか、傍目から見てすんごい成績優秀な学生が、ふいと学校に行かなくなるって案件ですね。
自分の子が優秀だったらそれなりの将来を期待してしまうのが親というもの、それが不意に既存のレールから外れてしまう感じになると、そりゃ親としてはショックですしめっちゃ心配ですよね。

だけど、考えてみれば、不登校になるような子というのは、やはり人一倍感性が豊かであったり頭脳明晰であるような子が多いんだと思いますよ。いや、昔の僕は別にしてもね。
そういう豊かな感性や思考力を持った子が、思春期特有の自意識に苛まれる中で、周囲と安易に同調できなくなっていく。

また、感性の鋭い子であれば、思春期であるか否かにかかわらず、学校特有の「集団行動」ってやつが苦痛でたまらない。
周りで多くの人間がわちゃわちゃやってるのが鬱陶しくて死にそうになる。
そういう場合は、もう小学校の中学年あたりから、ただ学校に存在するだけでストレスになるもんです。
そのストレスが蓄積されて、中学生ぐらいで我慢の限界ってなケースもあるでしょう。

感性豊かであったかどうかはともかく、ちょっと変わった子であったらしい僕の場合は、まさにそれでした。
今もそうですが、みんなと一緒に何かやるってのが、ほんとに嫌なんです。
だから、小学校なんかの班行動とか、ほんとにサイテーの気分でやってましたよ。
学校からの帰宅時は、一刻も早く独りになりたくてダッシュで誰とも喋らず帰ってました。

そうしたストレスが、学校に対してどれほどのトラウマを作るかというと、これはひどいもんです
僕なんか、40代になった今でも、娘の関係で学校に行くと、とてつもなく嫌な気分に襲われます。
あの、何でしょうか、学校特有の匂いみたいなものがあるんですね。
それを感じると、じわーっとネガティヴな気分が心の底から湧いてくるんですよ。
これはもう、意志の力ではどうすることもできないのです。

しかし親となって、あるいは少なからず教育に関わる身となった今は、「そーやんなー学校とかってクソやんなー無理して行かんでええんちゃう?」とかって無責任に言うこともできません。

いや、まず前提として、学校は無理していく必要はないと思います。
「行きたくない!」と毎日のように泣く子を学校に引きづっていく、なんてのは、絶対やってはいけないことです。
現在は、オルタナティヴスクール含め、いくらでも代わりの選択肢があるわけですから、既存の学校にこだわる必要はそれほどありません。

言うまでもありませんが、子どもが「学校に行きたくない」と言い出したら、まずはその気持ちをしっかり受け止め、寄り添ってあげることが大切です。
その「気持ち」は必ずしも言語化できるものではありませんし、本人にもはっきりわかっていないことの方が多い。
ですから、その理由如何にかかわらず、どうしても子が学校に行きたくないと言うのなら、「ズル休み」でも何でもアリだと思って、しばらく状況・様子を見守ることが肝要でしょう。

……というのは、でも、まあキレイ事なんですよね。
もちろん、大切なことではあるんですが。

しかし、「大切なこと」ってのは、何でもそうですが、言うは易し行うは難しなんですよね。
だいたい、これくらいのことはネットで検索すれば、どこにでも出てることなんですから、よっぽど「意識低い」親御さんじゃない限り、悩めば誰でも思いつくことです。
(まあ、世の中にはそう言う「意識低い系」の人も教師含めまだまだいっぱいいますので、そういう「キレイ事」による「啓蒙活動」が必要な局面もあるんでしょうが)

どうして「行うは難し」なのかと言いますと、まあ僕もいろいろなお母さんたちから、それこそプライベート含め、種々の話をうかがいますけれども、例えば、その「行きたくない」の度合いが難しい。

例を挙げるなら、子どもが学校に行きたくないと言い出して、まず最初に、そうは言っても理由を聞きますよね、親は。言語化できないだろうと知っていたとしても。
で、その理由として子どもの口をついて出た言葉が、「プールが嫌だから」とか、「学習発表会が嫌だから」とか、「○○君が嫌だから」とかだったら、どうします?(一部実話を交えて書いております)
ひょっとしたら、「〜が嫌だから」の背後には、言葉にできないいろいろなストレスがあるのかもしれない。
でも、ひょっとしたら、ほんとにプールが嫌なだけかもしれない。
どちらなのかは、言葉はもちろん態度からでも判別できない。
じゃあ、そういうとき、仮にほんとに学習発表会が嫌なだけだった場合、安易に休ませてしまうのはどうなんだろうか?
ズルズルと嫌なことから逃げる子になってしまわないだろうか?
誰だって、こんなふうに悩んでしまうと思います。

いや、あるいは理由はなんだっていい、嫌なもんは無理していく必要ない、と強く思える場合もあるでしょう。
先にも書いたように、無理して既存の学校になんか行かずとも、オルタナティブスクールだってある。
でも、親がそう決め考えても、必ずしも子どももそう考えるとは限らないのが難しいところなのです。
人生経験の少ない彼・彼女らの価値観は、そう簡単には変わりません。
昨日まで当然のこととして学校に行っていたのを、急に行かなくてもいいんだ、というふうには、簡単には割り切れないのです。
学校に行けない俺は「ふつう」ではない、という意識に苛まれます。
そんな「ふつう」は下らないと大人が言ったところで、すぐにはそういう意識を振り払えない。それが「子ども」の子どもたる所以なのです。

あるいは、そんな悩みを持つ前に、学校に行きなくないなら、すぐにオルタナティブスクールへ入れてしまえばいい、という考えもあるでしょう。
ただ、場合によっては、ここでもまた迷いが生じます。
そんなふうに親が子どもの生き方を、先回りして決めてしまっていいもんなんだろうか?
最初から、既存のルートとは違う道だってあるんだよ、と示すことは正しいのか?
「自由」や「選択」ってのは、子ども自身が悩みながら主体的に学んでいくものなんじゃないのか?
やっぱり、いろいろ考えてしまいます。

もっと現実的な悩みもあります。
仮に子どもが不登校になった場合、お母さんが働いているご家庭だったら、どうするのか? もしその子が小学生だった場合、家に独りにしておくのか。
いや、中学生以上だったとしても、今度はゲーム中毒みたいになってしまわないだろうか?
じゃあ、オルタナティブスクールに行かせよう、といったって、東京や大阪ならともかく、地方に行けば、そんなものがないところだってたくさんあります。

……と、こんなふうに、今、少し考えただけでも、現実的には「学校なんか行かなくていいよ!」と」カジュアルには言えない状況が、ご家庭ごとに様々あるわけです。

じゃあ、どうすればいいのか。

はっきり言って、万人に通用する答えなどありません。当たり前ですが。
ご家庭ごと、子どもごとに様々なケースがあり、処方箋は一人ひとり異なるものだと思います。
ただ、僕自身は一つだけ、何とか絶対に守りたい、守っていこうと思うことがあります。

それは、自分の子どもをどこまでも、完全に信頼する、ということです。

これとて、キレイ事、行うは難きことであるのはわかっています。
でも、子どもが一定の年齢になったら、学校に行かなくてもゲームばっかりしていてもソファで一日中寝転んでいても、最終的にはその子のありようを信頼する。
この子は絶対に大丈夫、と信用する。
そりゃ小言は言いますしゲームばっかしてるとアホになるよとも言いますが、心の軸の部分に「不安」を持たない。

やっぱり、この「不安」ってやつが、まずいんですよね。
それがあるから、100パーセント子どもの「気持ち」に寄り添うことができない。
「逃げてるんじゃないか」「将来やばいんじゃないか」「ゲーム中毒になるんじゃないか」
これらは全部、「不安」なわけで、そういう気持ちをなるべく持たないようにする。

何度も言いますが、それって難しいことです。
僕だって、はっきり言って、自分自身にそういう覚悟を持てよ、と言い聞かせながら、今、書いてます。

不安にならない。子どもを信頼する。

でも、やっぱりそうすることが、「学校に行きたくない!」と子どもが言い出した時、最初に僕たちが覚悟することなんじゃないでしょうか。
その覚悟が心の軸にあれば、やがて必ず、それぞれの答えが自ずと見つかっていくのだと思います。

それでは、それでは。

教科書が読めない子どもたちはやっぱり大問題ですよね。

どうも、どうも。
先日の台風、皆さんは大丈夫だったでしょうか? 我が家では玄関先のオリーブの木が根元から倒れてしまっておりました。台風、舐めてたらマジやばいっすね。

さてさて本日は国語の話。とりわけ、読解力について。
最近、中三受験生を教えていて遅まきながら気づいた問題があったので、これを記事にしようと思うわけなのですが、その問題というのが、以下。

名付けて「けっこう小説とかはたくさん読んでる子どもが論説文になると意外に読めない問題」。

つまり、小学校時代から、エンタメ小説なんかはけっこう読んでて、周囲からもそこそこの読書家だと評価されていたにも関わらず、ちょっと難しい論説文を読ませてみると、これがてんで読めない。そういう感じの中三生が散見されるわけです。

実はこれと類似した問題として、「そこそこ小説が好きな中学受験生女子が説明文を異常に嫌がる問題」というのもあります。
ただ小六ぐらいだと「説明文」の内容も大して難しくないし、「読めない」から嫌がるのか、単に「読みたくない」から嫌なのか、判別が難しいところもあります。
だから、中断受験生と問題が同根であるかは定かでない。

これに対しし、中三受験生の「問題」は、はっきりしてるわけです。
こちらは、本当に「読めない」のです。
難解な文章が。例えば、抽象語がたくさん出てくる「面倒くさげ」な文章が。

ここで面白いのは、必ずしも「問題が解けない」ということとイコールではないことです。
模試の成績も悪くないし、問題自体はスコスコ解く。

でも、問題文を読んでいるときに、ちょっと立ち止まって、その部分が何を言っているのか説明させようとすると、途端に黙り込んでしまう。
よくよく聞いてみると、問題文の5、6割くらいしか理解できていないとわかる。

実のところ、「国語選択肢クイズ」は、問題形式に慣れている子であれば、はっきり言ってテクニックで解けます。
だから、上記のような「読めない」子でも、志望校に入ること自体は問題ないかもしれない。

でも、やっぱり問題なわけです。もちろん。
彼・彼女たちの人生を考えるなら。

「面倒くさげ」な文章につまづくということは、それはつまりマニュアルが読めない、契約書が読めない、企画書が読めない、そして法文書が読めない、ということです。
何らかの資格などを取るなどして自分を成長させようと思い一念発起しても、その勉強に必要な肝心のテキストが読めない。読みこなせない。
これは、かなり困ってしまう事態でしょう。

そこで、ふと思い出したのが、ちょっと前に流行っていた本、というか研究のことです。
例のアレ、「AI vs 教科書が読めない子どもたち」とかって本。

この本あるいは研究、タイトルだけみると、「ああ、いつものように何か不安を煽ってくるタイプの本ね」って感じがするんですけど、別にAIに仕事が取られる云々の話ではなくて、むしろ「小学生に英語とかプログラミング教えてるヒマがあったら、最低限、教科書ぐらい読めるだけの国語力つけたれよ」っという至極まっとうな意見を言っているだけのものなのですね(なお本書全体の評価とは別)。

その研究の中で、リーディングスキルテストというのをやっているんですが、簡単にいうと教科書に載ってるような文章の係り受けなんかを正確に理解できるか、あるいは文章を正確に読んだ上で内容を推量できるか、といったことを確かめるテストなんですね。
興味がある方は、こちらのサイトに研究のレジュメが載っているので参考にしてみてください。

で、多くの中学生がこのテストを間違っちまったというのが、例の「教科書を読めない」云々の言説に繋がっていったというわけです。
僕も一応、問題例だけですが、いくつかのサイトで試してみました。
結果としては、はっきり言って何が難しいのかさっぱりわかりませんでした。チョー簡単です。当たり前ですが。

でも、僕がチョー簡単だやったーなどと言っていてもしゃーないわけです。
現実に、これらの問題を間違える子どもたちがいる。

で、何人かの生徒にも同じように問題例をやってみてもらいました。
結果は幸いなことに、みんな間違えるようなことは、ほぼありませんでしたよ。ほぼ、ですが。
ただ、これらの問題例は、教科書的な文章の短文を抜き取ってを集めたものになっています。
じゃあ、こうした文章が、多量に続いていく、実際の教科書や、それに類する文章だったらどうか?
やっぱり「面倒くさげ」な文章として、何となく読んでしまい、結果、5、6割しか理解できていない、なんてことにならないだろうか?

繰り返すなら、それはやっぱり問題です。大問題です。

じゃあ、どうすれば良いのでしょう?
その一つの解決策が、「精読」だと思います。

この記事の最初に、「たくさん本を読んでいるのに論説文が読めない」という形で、問題を描出しました。

そう、「問題」は、「たくさん本を読んでいる」読書家であるにもかかわらず、「読めない」ことなのです。
なぜ、彼らは本をたくさん読んでいるのに、「面倒くさげ」な文になると詰まってしまうんでしょう?

それはおそらく彼・彼女らに、読書に際し一つ一つの文章や段落に立ち止まって、そこに書かれている内容を吟味したり、自己の読解の正確性を確認したりといったことをしながら、じっくり本を読み進めた経験が少ないからです。

いや、彼らの読む本の多くは、趣味で読む娯楽の本なのだから、それは当然だと思います。
しかも、それは読解力の基礎を養う経験ではありますし、文章リズムの体得という意味では記述力の土台をも養います。
いつも僕自身言っているように、少なくとも小学生までは、特に日常においてはそうした経験により国語力を養うことが大切でしょう。

ですが、もう一段、上の読解力を身につけるためには、それだけでは足らない。
上に書いたような、一個の文章をしっかり吟味し正確に理解していくような「精読」が必要なのです。

では、どうすれば、そうした「精読」の経験を養えるか?
正直言って、これはなかなか子どもたちが日常の中で養うのは難しいかもしれません。
というのも、精読というのは、リーダブルな読書体験の中では養うことのできないものだからです。
その子どもの年齢に応じた、しかしながら読み進めるのには相応の苦労が伴うような読み物でなければいけない。
そういう文章でなければ、わざわざ一つ一つの文章の正確な読解にこだわるはずがないからです。

しかし、すぐにわかるように、そういう「面倒くさげ」な文章を、子どもが自分から読みたいと思うことはマレですよね。
もちろん、なかにはオタク的に、あるジャンルについてはどんな本でも読みたい、という子どもだっているでしょう。
そういう子には、どうどん、その関心のあるジャンルの本を、大人向けのやつであれなんであれ、その子にとって背伸びが必要な文書を与えていくべきでしょう。

ですが、やっぱりそんなケースはめったにない。
じゃあ、どうすれば良いかと言えば、やはりそういう教育機会を日常以外の場で与えていってあげるしかないのかな、と今のところは思います。
僕自身も、そうした精読を一つの目的とした集団のレッスンなんかもできないかなと思案中です。

もちろん、以上は「解決策」のうちの一つでしかありません。
今後、試行錯誤するなかで、もっと取り組みやすい方法を思いつくかもしれない。
あるいは、すでにそういう方法が他にあるのかもしれない。

ともあれ、実際、英語やプログラミングも重要でしょうが、日本語の読解力がなければ、その他のスキルも無用の長物になりまっせと、上記研究と同じく月並みな感想を抱く今日この頃です。

それでは、それでは。