教科書が読めない子どもたちはやっぱり大問題ですよね。

どうも、どうも。
先日の台風、皆さんは大丈夫だったでしょうか? 我が家では玄関先のオリーブの木が根元から倒れてしまっておりました。台風、舐めてたらマジやばいっすね。

さてさて本日は国語の話。とりわけ、読解力について。
最近、中三受験生を教えていて遅まきながら気づいた問題があったので、これを記事にしようと思うわけなのですが、その問題というのが、以下。

名付けて「けっこう小説とかはたくさん読んでる子どもが論説文になると意外に読めない問題」。

つまり、小学校時代から、エンタメ小説なんかはけっこう読んでて、周囲からもそこそこの読書家だと評価されていたにも関わらず、ちょっと難しい論説文を読ませてみると、これがてんで読めない。そういう感じの中三生が散見されるわけです。

実はこれと類似した問題として、「そこそこ小説が好きな中学受験生女子が説明文を異常に嫌がる問題」というのもあります。
ただ小六ぐらいだと「説明文」の内容も大して難しくないし、「読めない」から嫌がるのか、単に「読みたくない」から嫌なのか、判別が難しいところもあります。
だから、中断受験生と問題が同根であるかは定かでない。

これに対しし、中三受験生の「問題」は、はっきりしてるわけです。
こちらは、本当に「読めない」のです。
難解な文章が。例えば、抽象語がたくさん出てくる「面倒くさげ」な文章が。

ここで面白いのは、必ずしも「問題が解けない」ということとイコールではないことです。
模試の成績も悪くないし、問題自体はスコスコ解く。

でも、問題文を読んでいるときに、ちょっと立ち止まって、その部分が何を言っているのか説明させようとすると、途端に黙り込んでしまう。
よくよく聞いてみると、問題文の5、6割くらいしか理解できていないとわかる。

実のところ、「国語選択肢クイズ」は、問題形式に慣れている子であれば、はっきり言ってテクニックで解けます。
だから、上記のような「読めない」子でも、志望校に入ること自体は問題ないかもしれない。

でも、やっぱり問題なわけです。もちろん。
彼・彼女たちの人生を考えるなら。

「面倒くさげ」な文章につまづくということは、それはつまりマニュアルが読めない、契約書が読めない、企画書が読めない、そして法文書が読めない、ということです。
何らかの資格などを取るなどして自分を成長させようと思い一念発起しても、その勉強に必要な肝心のテキストが読めない。読みこなせない。
これは、かなり困ってしまう事態でしょう。

そこで、ふと思い出したのが、ちょっと前に流行っていた本、というか研究のことです。
例のアレ、「AI vs 教科書が読めない子どもたち」とかって本。

この本あるいは研究、タイトルだけみると、「ああ、いつものように何か不安を煽ってくるタイプの本ね」って感じがするんですけど、別にAIに仕事が取られる云々の話ではなくて、むしろ「小学生に英語とかプログラミング教えてるヒマがあったら、最低限、教科書ぐらい読めるだけの国語力つけたれよ」っという至極まっとうな意見を言っているだけのものなのですね(なお本書全体の評価とは別)。

その研究の中で、リーディングスキルテストというのをやっているんですが、簡単にいうと教科書に載ってるような文章の係り受けなんかを正確に理解できるか、あるいは文章を正確に読んだ上で内容を推量できるか、といったことを確かめるテストなんですね。
興味がある方は、こちらのサイトに研究のレジュメが載っているので参考にしてみてください。

で、多くの中学生がこのテストを間違っちまったというのが、例の「教科書を読めない」云々の言説に繋がっていったというわけです。
僕も一応、問題例だけですが、いくつかのサイトで試してみました。
結果としては、はっきり言って何が難しいのかさっぱりわかりませんでした。チョー簡単です。当たり前ですが。

でも、僕がチョー簡単だやったーなどと言っていてもしゃーないわけです。
現実に、これらの問題を間違える子どもたちがいる。

で、何人かの生徒にも同じように問題例をやってみてもらいました。
結果は幸いなことに、みんな間違えるようなことは、ほぼありませんでしたよ。ほぼ、ですが。
ただ、これらの問題例は、教科書的な文章の短文を抜き取ってを集めたものになっています。
じゃあ、こうした文章が、多量に続いていく、実際の教科書や、それに類する文章だったらどうか?
やっぱり「面倒くさげ」な文章として、何となく読んでしまい、結果、5、6割しか理解できていない、なんてことにならないだろうか?

繰り返すなら、それはやっぱり問題です。大問題です。

じゃあ、どうすれば良いのでしょう?
その一つの解決策が、「精読」だと思います。

この記事の最初に、「たくさん本を読んでいるのに論説文が読めない」という形で、問題を描出しました。

そう、「問題」は、「たくさん本を読んでいる」読書家であるにもかかわらず、「読めない」ことなのです。
なぜ、彼らは本をたくさん読んでいるのに、「面倒くさげ」な文になると詰まってしまうんでしょう?

それはおそらく彼・彼女らに、読書に際し一つ一つの文章や段落に立ち止まって、そこに書かれている内容を吟味したり、自己の読解の正確性を確認したりといったことをしながら、じっくり本を読み進めた経験が少ないからです。

いや、彼らの読む本の多くは、趣味で読む娯楽の本なのだから、それは当然だと思います。
しかも、それは読解力の基礎を養う経験ではありますし、文章リズムの体得という意味では記述力の土台をも養います。
いつも僕自身言っているように、少なくとも小学生までは、特に日常においてはそうした経験により国語力を養うことが大切でしょう。

ですが、もう一段、上の読解力を身につけるためには、それだけでは足らない。
上に書いたような、一個の文章をしっかり吟味し正確に理解していくような「精読」が必要なのです。

では、どうすれば、そうした「精読」の経験を養えるか?
正直言って、これはなかなか子どもたちが日常の中で養うのは難しいかもしれません。
というのも、精読というのは、リーダブルな読書体験の中では養うことのできないものだからです。
その子どもの年齢に応じた、しかしながら読み進めるのには相応の苦労が伴うような読み物でなければいけない。
そういう文章でなければ、わざわざ一つ一つの文章の正確な読解にこだわるはずがないからです。

しかし、すぐにわかるように、そういう「面倒くさげ」な文章を、子どもが自分から読みたいと思うことはマレですよね。
もちろん、なかにはオタク的に、あるジャンルについてはどんな本でも読みたい、という子どもだっているでしょう。
そういう子には、どうどん、その関心のあるジャンルの本を、大人向けのやつであれなんであれ、その子にとって背伸びが必要な文書を与えていくべきでしょう。

ですが、やっぱりそんなケースはめったにない。
じゃあ、どうすれば良いかと言えば、やはりそういう教育機会を日常以外の場で与えていってあげるしかないのかな、と今のところは思います。
僕自身も、そうした精読を一つの目的とした集団のレッスンなんかもできないかなと思案中です。

もちろん、以上は「解決策」のうちの一つでしかありません。
今後、試行錯誤するなかで、もっと取り組みやすい方法を思いつくかもしれない。
あるいは、すでにそういう方法が他にあるのかもしれない。

ともあれ、実際、英語やプログラミングも重要でしょうが、日本語の読解力がなければ、その他のスキルも無用の長物になりまっせと、上記研究と同じく月並みな感想を抱く今日この頃です。

それでは、それでは。