発達「障害」って言うな!

どうもどうも。
すっかり冷え込んできて、ようやく完全に冬って感じになってきた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は朝晩の咳が止まりません。あと手のカサつきやべー。

さてさて、このブログは基本的に僕自身がつれづれなるままに、というか全然つれづれじゃないんですけど、とにかく日々感じたことを記事にしていくスタイルを取っているわけです。
この前の漢字の一件も自分の娘きっかけだったわけですしね。
で、最近とくによく耳にする話、二大テーマが、いわゆる「発達障害」的お話と、「不登校」のお話なわけです。
しかも、この二つのお話はだいたいリンクしている場合も多い。

こういう話をよく聞くというのは、もちろん職業柄ということもあるんでしょう。が、実のところ生徒関連からのみならず、完全プライベートの関係からもよく耳にします。
曰く、何なに君のお兄ちゃんが学校で困っていて云々。あるいは何なにちゃんのお姉ちゃんがウィスクのテストを受けたら云々。

まあ職業柄とはいえ、プライベートでもこれだけ耳に入ってくるということは、やっぱりこの二大テーマに悩んでいるお母さん、あるいはお父さんがめっちゃ多いということなんでしょうね。
この記事を読みながら、いやウチはそんな悩み全然ないなあと思ってらっしゃる方がおられれば、それはむしろ「ラッキー」というべきかもしれませんよ。

で、「発達障害」のお話に関していえば、これは昔記事にもしましたが、多くの場合はそれほど心配いりません。
皆さん、そりゃ「自分の子」しか知らないわけですから、その「自分の子」が学校で奇矯な行動を取っているのを学校公開なんかの場で目の当たりにして、「何やこの子、毎日、学校でこんな公開処刑的恥さらし行動取っとるんかいな!」と思って心配するのは仕方がないと思います(「自分の子」で経験済み)。
が、確かにその「自分の子」は「変わった子」なのかもしれませんが、決して「障害」なんかを持ってるわけではない。

いわゆる「グレーゾーン」とかってグループ分けされちゃう子どもの多くが、これは僕は確信を持って言いますが、全く問題ありません
これは多くの、そういう「変わった子ども」たちを見てきた経験から、自信を持って断言できます。

最近、ネットでも何でも「ADHD」の子どもに関する記事であるとか、いわゆる「アスペルガー」(この語は最近やや差別的に用いられているように思うのであまり使いたくないのですが)に関する記事が多く見られますが、僕はこれらのほとんどが製薬会社の「陰謀」かなんかだと思ってます。
数年前、「うつ病」に関する記事や広告がたくさん出ていたのと一緒です。
「陰謀」でなければ、ビューを稼ぐため流行にのってるだけです。

というのも、こういう記事を読めば、当然、我が子のことを省みて、心配になるに決まってるからです。
で、最悪の場合、まだ幼い子どもたちを医者に見せて薬を飲ませたりすることになりかねない。

もちろん、本当に苦しんでいる子どももいるでしょうし、実際、適切なフォローを受けることで救われている事例も知っています。
また僕個人の経験でいっても、「変わった子」ではなく「かなりめっちゃ変わった子」を受け持ったこともあります(でも、その子は世間でいう「一流大学」に入って立派に社会人になってますよ!)

つまるところ、「ちょっと変わった子」から「かなりめっさ変わった子」まで濃淡というか、グラデーションがあるわけですが、その濃淡の度合いも幼いうちはあんまりわかりません。
「あれ、ウチの子やっぱりけっこう変わっとるなあ」ってのがはっきりわかってくるのは、早くても小学校の高学年くらいになってからだと思いますよ。
それまでは「発達」にでこぼこがあるのは当たり前なんです。

で、要するに何が言いたいかというと、「自分の子」が「ちょっと変わった子」であっても、「めっさ変わった子」であっても、まず第一に、親としては我が子を信じてデーンと構えていたい。
過剰に心配はしない。

そう、我が子が「変わった子」であるのは、「障害」なんかじゃない、それが「個性」なんです

その子が、他の子と取り替えることのできない、特別な、たった一人の「自分の子」であることの証拠なのです

まずはそういう心構えでいたい。
その上で、種々のフォローをしてあげればいい。

黒板の字を写しとるのが苦手であれば、そういう訓練を丁寧に行ってあげてもいいでしょう。
漢字がどうしても書けないのであれば、学校に掛け合って一人iPadを使って勉強することを認めさせてもいい(そういう生徒が過去におりました)。

これら種々のフォローは、これも声を大にして言いますが、「過保護」などと言われようと全く問題ありません
なんとなれば、その子が自分の「変わっている」部分を自身でコンプレックスに思うような事態に陥ることはなるべく避けたいからです。

何度でも繰り返しますが、「変わっている」というのは「個性」です。
そして、そうした「個性」こそが、その子が自分の人生を送っていく際の「武器」になるのです。
人と違っているからこそ、人には思いつかないことを思いつける。
その「個性」のおかげで、その子は起業するかもしれないし、作家になるかもしれないし、ひょっとしたら冒険家になるかもしれない。
「変わってること」は、その子が、その子だけの人生を送るための、大切な「武器」なのです。

ところが、です。
この日本の横並び社会、出る杭は打たれるムラビト的社会では、そのせっかくの「個性」がコンプレックスの側に追いやられてしまう可能性がある。
そう、世のお母さん、そしてお父さんの「心配」の種も、実は大人になって云々なのではなく、こういうムラビト的社会で我が子がうまくやっていけるだろうか、ということだと思います。
特に「学校」という場のムラビト社会で。

だからこそ、「個性」をコンプレックスにしないためのフォローはやっちゃって全然問題ない。
こんなことまでして「過保護」なんじゃないかなんて思はなくていい。

極端にいえば、学校というシステム自体が「変わり者」を許さないのであれば、それをやめちゃうという選択をしてもいい。
もちろん、以前のブログでも書いたように、その「選択」自体は簡単なものではないのですが、たとえば子どもが嫌がっているのを無理に行かせる必要はない。
マダラ登校になったって問題ないでしょう。
(実際、そういう「選択」が増えてきているために、冒頭で書いたように、この記事のようなテーマと「不登校」のテーマとは、リンクしてしまうわけです)

だから、我が子にこの種のフォローを行う上で気をつけるべきは、それが「過保護」であるかどうかではなくて、それが親の過剰な心配に端を発したものでないかという点だと思います。
子どもがまだ困ってもいないようなことまで、親が先回りして何かしようとしてはいないか。

とはいえ、それをお母さん自身が判断するのは難しいですよね、なかなか。
僕自身も一人の親としては、いつも判断に迷います。
でも、だからこそお母さん一人で抱え込んだりしないで、よく夫婦で話しあったり、場合によっては第三者の意見を聞いて見るのが良いでしょうね(別に僕らのとこに相談においでって言ってるわけじゃないっすよ!)。

さてさて、今日は本当は、その先、たとえば、その「変わった子」と「不登校」がリンクしてしまった場合の話を書こうとしていたのでした。
具体的には「不登校」とお勉強の話を書こうとしてたんだけどな。
うっかりまた、前置きの段階で記事を埋め尽くしちまいました。
上のテーマについては、また今度。

それでは、それでは。