不登校と「勉強」という「武器」

どうも、どうも。
明けましておめでとうございます、というには少しく遅くなってしまいましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもう一度正月気分に戻りたいです。

さてさて、今回の記事は本当は年末にでもアップしようと思っていたんですが、毎年のことながらのこの時期の忙しさ、ついつい怠けて年をまたいでしまったわけです。
で、そのテーマは、ずばりお勉強の意義について。

まあ昔からではあるんですが、とりわけ近年、僕たちの生徒はもうほんとに種々様々な「個性」を発露する生徒ばかりになってきておりまして、集団としてもう単純に「受験勉強」等々を教える「塾」という感じではなくなってきておるわけです。
まあ、そういう意味ではほんとに「教育相談所」という名称が実態に近い。

その「相談」も前回記事にしたような案件から、不登校あるいは「まだら登校」生徒の相談から思春期暴動型ゲーム中毒中学生の相談まで結構、幅広い。
実際、不登校ないし「まだら登校」に関する相談はプライベートでも広がってきておりまして、いっそ午前日中にそういう子どもたちのホームスクーリングを補助する的な教室でも開こうかと考えてしまうほどなんですな。

で、そうい子どもたちの相談を耳にするとき、ちょっとばかり僕が心配に思うのが、本日のお題、お勉強について。
多くのお母さんが、まあ当然かとも思うんですけれども、「子どもが学校に行かない」(あるいは最近は「行かせたくない」)という状況について考え悩んでいる反面、子どもの勉強については、「まあ勉強はとにかくとして」とか「別に勉強はそんなできなくともいいんだけど」的な感じの反応をお見せになる。

いや、実際、その子どもが中学生ぐらいで、完全に学校生活に疲弊しきって半ば鬱的状態に陥っての不登校、って状況だったら、その反応も当然です。
そういう子どもたちは、まずは休ませてあげなくてはならない。
勉強云々については、少し落ち着いてからのことになるでしょう。

でも、その子が小学生ぐらいで、しかも完全に学校その他に疲弊しきる以前の状態であったなら。
それこそ「まだら登校」の状態であったり、あるいは疲弊する前に親御さんが手を打てた状態なら。

その場合は、「勉強」というものについて、しっかり考えておくべきです。

なんとなれば、勉強いや「教養」と言いましょうか、あるいは「知識」というべきでしょうか、ともあれそれら幅広い「知性」というものこそが、まさにそうした子どもたちの人生にとって、もっとも簡単に手に入る「武器」となるからです。

これは何も勉強しておけば最終的に高卒認定を取ったり大学に行けたりするから、という世俗的な問題から言っているわけではありません(もちろん、そういう側面もありますが)。
実際、ここで僕が言っている「勉強」というのは、上で書いたように、どちらかというと幅広い「教養」を意味しています。

それは自身の知的関心にしたがって種々の本を読みこなす読書能力であり、また自身の考えや感性を表現しうる文章記述能力でもあります。
また、これまでの人類の歩んできた歴史から現在社会を読み解く能力であり、また自然的環境を生物的、物理的に読み解こうとする力でもあるでしょう。
はたまた、より広い世界に自分を飛翔せしめんとするための語学的関心かもしれません。
そして何より、これら勉強=教養というものは、その学びが一定のレベルに達すると、その関心・思考が以上のジャンルを横断して連関していることにも気づかせてくれるものです。

とはいえ、例えば小学生の子どもが、一足飛びに上記したような知的関心、知的能力を手に入れることは不可能です。
したがってまずは、満足に読み書き計算ができるようにならねばならないし、歴史や科学の基礎的知見を得ねばならない。英語の基礎的な単語や文法も知っておく必要がある。
その多くは、いわゆる「お勉強」と重なる部分もあるでしょう。
その「お勉強」の内容を、あくまで「教養」「知性」に高める基礎的土台と見て、学ぶ必要があるわけです。

「いやいや、ウチの子、そんなに賢くならんでもええんですわ。そこそこでえーんです。そこそこ平凡に、幸せに生きてくれたらええんです」
そんなふうに思ってはいけません。
いや、実際にはそう願っていたとしても、そんなふうに考えて「勉強」を処理しようとしてはいけません。
そうした態度は必ず子どもにも伝わります。そうすると、途端に「お勉強」はつまらない点取りゲームの一種みたいに思われてしまう。処世術の一種と堕してしまう。
だから、子どもに接する大人こそが、「勉強」を成長の土台として見る考えを持つことが肝要です。

逆にいえば、子どもたちが成長した際、そうした「教養」「知性」を手に入れていれば、自ずから自分の人生の可能性をいくらでもの広げることができます。
大学にいって専門的に学問を学ぶこともできます。起業して自分の可能性を試そうと思うかもしれない。あるいは日本以外の国に出て行って国際的に活動したいと思うこともあるでしょう。

ですが、そうした知的能力を養う過程が、もしなかったとしたら。
彼は、そもそも自分の人生に種々の選択があることにすら気づかないかもしれないのです。
なんとなれば、知的経験の積み重ねこそが、種々の可能性を「想像」する力を養うものだからです。

ちょっとした個人的な体験をここに書いておきましょう。
もう10年近く前になりますが、大学時代からの友人と久しぶりに再会した際のことです。
地方の大学に勤めている彼は、卒業生だといってある女性をその場に呼んでいました。
当時、20代半ばだったその女性は、実は一年前に仕事をやめて実家に引きこもってしまっているというのです。その原因は、前の職場で種々の酷い体験をしたせいでした。

まさしく会社勤めに疲弊しきっている彼女に、僕たちは、まだ若いんだから、大学で学び直すのはどうか、それとも半年か一年くらい海外に旅でもしてきたらどうか等と様々なアドバイスをしました。
しかし、彼女は決してそういう選択をしないのです。
「いえ、私はもう大人ですから、ちゃんと会社に勤めて働かなくてはいけないのです」などと、会社勤めを一度もしたことのないオッサン二人を前にして、頑として譲りません(友人も種々の人生遍歴を経験しているオッサンだったのです)。
そのくせ、彼女は会社の話、仕事の話になると、途端に挙動不審になり、手の震えを自分でも抑えられなくなっているのです。

本当にかわいそうだと思いました。

何がかわいそうだったか? それは彼女が以前の職場で酷い経験をしたからではありません。
そうではなく、彼女が「会社で働くことこそが真っ当な大人」という価値観から決して逃れられないことがわかったからです。

彼女は大学を出ていました。しかし、実は彼女の学歴は、それこそ「処世術」としての勉強により得られたものにすぎませんでした。
話しているうちに気づいたのですが、彼女は驚くほど、この社会に、この世界に対する「教養」が欠如していました。例えば、資本主義という言葉の内容さえ知らなかったのです。
日本が現在、どんな社会なのか。世界は現在、どのように動いているのか。
その中で私たち個人は、どう生きるべきなのか。
彼女は文字通り、何も知らなかったのです。

僕が、「教養」「知性」とは可能性を「想像」する力を養うものだと言うのは、以上のようなエピソードに出くわしたことも関係しています。

既存の価値観を疑わせてくれるもの。
自分自身の人生の価値観を、指針を定めてくれるもの。

これらは何もないところから生まれてくるものではありません。
まさしく、幅広い読書などの知的経験から生まれてくるものなのです。

だから、僕は何度でも繰り返したい。
例えば不登校になったとしても、最終的に「勉強」すること自体は絶対に必要です。
彼、彼女たちが拒否したのは「学校」というシステムであって、決して「勉強」ではない。そこを勘違いしてはいけません。
もちろん繰り返せば、彼、彼女が疲弊しきっているなら、まずは休ませてあげなければならない。しかし、それでもいずれその子どもたちが立ち上がった時、彼らが深い「教養」を得られるよう環境を整えておいてあげたい。

彼らが既存の価値観から脱するためにも、それは絶対に必要です。
既に「学校に行くのが真っ当な子ども」などという既存の価値観を壊して前に進もうとしている子どもたちにこそ、別の価値観を、別の可能性を教え想像させてくれる「知性」が必要なのです。
そして、それはもちろん今はまだ、そういう「真っ当」と思われている子どもたちにも、必要なものです。

さてさて、今日も書きすぎました。
新年のブログにしては随分重いものになってしまいましたね。
次回は何とか軽いものをテーマにしたいと思います。

それでは、それでは。