どうも、どうも。
相変わらず花粉症がひどい、というほどでも僕はないんですが、それでも鼻がいつも既にムズムズしている今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。ウチではマスク嫌いのはずの奥さんが口鼻被覆の完全武装を始めました。
珍しくも頻繁に記事をアップしている。
のは、暇だからでは決してなくて、近ごろ教育について考えざるをえない案件が色々と身の回りで起こりまくっておるからなんですね。どちらかというと、プライベートで。
それにしても、近年の自分の記事をあらためて見返して見ると、不登校の話や公教育のあり方なんかについての話、あるいはADHD傾向等の話ってのがほんとに多いですね。
他にネタないんかいって感じもしますが、このブログは自分自身がレッスンで感じたことや、プライベートで考えたことなんかを直接のきっかけにして記事にしてるわけで、そういうネタが多いというのは、つまるところ自分の身の回りにそういう案件が非常に多いということの結果なわけです。
実際、公教育のあり方がいろいろと曲がり角にきていることは、間違いないでしょう。
っと言いつつ、そんなことは僕が小学校の頃、つまりはかれこれ30年は前から言われていたことで、イジメの問題なり不登校の問題なり詰め込み教育の弊害なりは叫ばれておりました。だいたい僕が不登校児でした。
にも関わらず変わらない。
いや、実は僕が見るかぎり、結構、細かいところでは変わっているんですが、大きなシステムとして変わらない。
それは前回の記事で書いた小学生たちの意見に見る通りです。
でも、僕が娘の学校のカリキュラムなんかをみる限り、いいこともやってるんですよ。ウチだけかもしれませんが。
ウチは東京の田舎なんで、自然環境もけっこうあって、そういうところに学外体験学習として、よく出向いて行ったりもしています。
で、そのことを作文に書かせたりする。
これだけみると、悪く無いように見えますよね。
ところが、この作文をみな嫌がる。のはまだ判るにしても、体験学習すらいやがる子どももいる。めんどーがる。
これはいったい何でなんでしょうか?
その一つの原因は、おそらく「こうしなさい」「ああしましょう」という有言無言の〈上からの指導=強制〉や、「みんなと一緒にやりましょう」という〈集団行動の押しつけ〉があるからではないでしょうか。
たとえば、体験学習に行きたくなかった子どもが、「おもしろくなかった」とは作文に書けないわけです。学校では、なかなか。
ましてや欠席するわけにもいかない。
で、本当は行きたくもなかった体験学習の「感想」を、おためごかし満載で書かなきゃならない。
いや、作文に「本当のこと」なんて、そもそも書くことは難しいにしても、「いやだった」ことを「楽しかった」とか書くのは、やっぱり苦痛ですよね。
こうして、そもそもの「作文」自体も嫌いになっていくわけです。
もちろん、これは例にすぎません。
子どもだって千差万別、楽しく作文書く子だっているし、どんなに周囲がお膳立てしたって「メンドクセー」が口癖になっちゃってる子どもだっているでしょう(それはそれで非常に問題ですが)。
そもそも、そうは言っても、大抵の子どもは体験学習が好きです。
ただ少年時代、遠足も嫌いだったし運動会も大嫌い修学旅行が死ぬほど憂鬱だった非社会的引きこもり少年だった僕から言わせてもらうと、それでも「強制」されること、「集団」であることを強いられることは、けっこうストレスを子どもに与えるものだと思います。
そして、これは「勉強」一般に言えることですよね。
これまた極端な例をあげると、子どもに「勉強しろ!」とあんまりにも口うるさく注意し説教するってのは、はっきり言ってその子どもに「勉強するな」と言ってるのと同じことだと思います。
まあ、そうは言ったって口うるさくしちゃう時もあるでしょうし、実際、言わなきゃいけないケースだってあるでしょうけど、ただ少なくとも、それはやりようによってはちっとも効果的ではない。
なぜなら、やっぱりこれも「強制」だからです。
そして「強制」により「勉強させられる」ことは、その内容を単なる「やらなきゃいけない作業」に変えてしまうからです。場合によっては、非常に苦痛に満ちた。
もちろん、人生には「苦痛に満ちた作業」をやり遂げなくてはならない局面だってあるでしょうし、そういう訓練なんだと割り切ることもできるかもしれない。
でも、少なくともそれは「教育」ではないと思います。そんなことは他の場でも学べます。
また、「作業」することに慣れた子どもが、本当の意味で「アタマのいい大人」に成長するとも思えません。
ちなみに自分のことを語らせてもらうと、僕は少なくとも十代終盤よりこっち、「勉強」がしんどいと思ったことは一度もありません。
いや、端的に言えば、「勉強」は常に楽しみであったし、今もそうです。
ただし、その「勉強」の内容は、自分が興味を持ったこと、自発的に「勉強」しようと思った対象に関すること、だけですが。
そして、幸か不幸か、不登校で高校中退者の僕は、大して周囲や社会から「強制」される「勉強」をしてくることがありませんでした。
結果的に、今でもなぜか「正義とは何か」といったことを考え読書し、他方で承久の乱当時の武士の生活なんかを調べて喜んでいます。英語力が少しでもあがると嬉しいし、子どもに算数教えようと勉強するのも楽しいです。
これは今や、僕の「趣味」なわけです。
いや、自分のことを話しすぎました。お恥ずかしい。
でも、言いたいことは、つまり「自分から行う」勉強はちっとも苦ではないということです。
そして実は、そうした自発的な「勉強」こそが、本当の意味での「学び」であるということです。
先ほどの体験学習の例に戻りましょう。
もし、この体験学習が、単なる授業の中での「行事」ではなくて、子どもたちが自発的に何かを調べたい、と考えた結果として行われたものだったなら、どうでしょう。
あるいはもっと素朴に、野原のなかでいろんなことところを散策したい、という欲求から生まれたものだったら。
そのきっかけは教師が与えたものだったとしても、それは少なくとも「つまらなかった」という無気力な感想を生むものにはならないでしょう。
だって、それは自分たちで考えたことなんですから。自分たちがやりたいと思ってやったことなんですから。
だからもちろん、行きたくない子は行かなくていい。「皆が同じこと」をやる必要はない。
その子はまた、別の自分の興味にしたがったことを、「学ぼう」とすれば良いわけです。
それぞれが、自分の「個性」に応じた「学び」を好奇心に応じて獲得していく。
これこそが本来の、「教育」というものの一つのあり方ではないかと思います。
それでは偏った知識しか身につかないのではないか?
いえいえ、本当に好奇心をもって種々のことを探求できたならば、それは理系文系かかわりなく広がっていくものだと思います。
(だいたい知識に偏りのない「大人」なんているでしょうか?)
いやいや、それは理想論だよ?
そうかもしれません。
でも、皆がそう思ううちは、結局、この国の教育のあり方は、この後30年経っても変わらないと思います。
僕としては一歩一歩でも、こうした「理想」を自分の限られた範囲の中でも実現していきたいなあと思う今日この頃です。
それでは、それでは。