桜と新学期と不登校と

どうもどうも。
ようやっと四月らしい暖かさのなか桜もすっかり満開をすぎて花を散らしつつある今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕は花見客は嫌いですが葉桜は好きです。

さて、桜が満開をすぎるこの時期というのは、なんといっても新学期。
新しいクラス、新しい学年、あるいは新しい学校。
多くの子どもたちは期待に胸膨らませ、などということはあまりなく、担任の先生への不安や新しいクラスメイトへの不満なんかをいろんな場所でもらしていることでしょう。
僕も先週、何件も聞きました。それこそおそらく60年くらい前の団塊世代少年少女時代から変わらぬ風景であります。
まあ、それでも桜吹雪の美景と相まって、春は何やら心浮き立つ季節ではあるでしょう。

が、なかにはそうでない人もいる、子どもだっている。個人の資質と関係なく。

またしても恥ずかしげもなく自分語りを行うならば、30年前の僕がそうでした。
いや正確には15歳の春以後の、僕。
学校行ってないんで新年度なんて関係ないんっすよね。
新しいクラスも学年も学校もない。
変わりばえしない日常。陰鬱な日常。桜吹雪だけが舞っている。

だから、春が大嫌いでしたね。

なんだか、自分だけが「何か」に置いていかれるような。
かつての級友たちが確実に「人生」を前に進めて行っているだろうのに、自分はある「地点」から動いていない。
いや、きっと動いているんだろうけど、その変化は自分にも他人にも、はっきりとは目に見えない。
そういう不安を感じる季節でした。

昨日、ふと春の訪れに心浮き立たせている大人になった自分を発見して、そんな大昔の子どもの頃の心境を思い出しちまいましてね。
さらに言えば、今この瞬間にも、きっとかつての僕と同じように、舞い散る桜を見ながら寂寞とした気持ちを抱いている少年少女がいるだろうことを思いました。

こういう小さな小さな哀しみは、人には大抵気づかれないものです。
いや、本人だって気づいてないかもしれない。
僕自身、上のことを明瞭に、言語化できるほどに意識化したのは、実は「新学期」を久しぶりに手に入れた大学1年のことでした。その時、初めて自分が何を喪っていたのか知ったのです。

「不登校」という状況に陥った際、本人が心に受ける傷は、こうした小さい傷の積み重ねなんですね。
いや、そうじゃない。
むしろ、そういう小さい傷が累積した結果が、「学校に行けない・行かない」という状況として現出する、というべきでしょう。

だから、どうして学校に行かないのか? という問いかけに多くの場合、答えることができないのです。
何か、積極的に嫌なことがあったわけじゃない。
いじめられたりしたわけでもない。
ひょっとしたら、友達と小さなトラブルはあったかもしれない。でもそんなことで? と大人は思うのです。
でも、本当はそんなことじゃない。
言語化できない数限りない「喪失」が彼彼女にはあるのです。
彼らはそれを知らない。それを彼らが語る「言葉」を見つけるのは、きっともっと先なのです。

先日、このブログでも記事にしたヒルネットの活動をついに開始しました。
もちろん、まだ生徒は全然いないんですけど、一人参加してくれた少年と、善福寺公園まで、お昼を食べに散歩へと出かけました。

公園の桜は満開でした。
穏やかな陽射し。水面に映える桜。ときおり鴨が目の前を泳いでいきます。

僕たちはそんな景色を見ながら、公園のベンチに座って弁当を食べました。
とても穏やかな時間でした。
口数の少ない彼が、徐々にいろいろな話をしてくれるようになりました。
ゆっくりと時間をかけて公園を一周して帰りました。

一緒に見た、今年のあの桜が、彼にとって良い思い出となってくれることを願っています。
それでは、それでは。