子どもを信頼するということ

どうもどうも。
なんかようやっと春らしくなってきたなと思ったら今度は急に夏というか真夏やんけという暑さに見舞われておる今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。今年も夏は酷暑なんでしょうか死にそうです。

さて、実は先日、とあるサドベリー教育を実践しておられるフリースクールへと見学に行ってまいりました。
これはヒルネットの活動の参考にさせてもらいたいというのはもちろんですが、同時にそういう小さなフリースクールの「輪」をつくることで、何か協力しあえることが将来あるかもしれないと、漠然と考えているからでもあります。

まあ、それはさておき、そのスクールの理念や活動は実に参考になるものだったのですけれども、とりわけ印象に残ったのがスタッフの先生の言葉。

それは僕が、子どもたちの学習その他に対する自主性をどこまで信頼すべきなのか、どこまで大人の「お節介」的介入があったほうが良いのか、そのバランスに苦慮することがある、という話をしたときのことでした。その先生は、こう答えました。

「僕は子どもたちをなるべく信頼したいと思っている。だけど、100パーセント完全に信用しているかといえば、それは嘘だと思う。もっといえば、『子どもたちを100パーセント信頼しましょう!』と標語的に唱える人たちは、実のところ欺瞞的であるか、あるいは実際に子どもと関わっていないかのどちらかだと思う」
「繰り返すなら、僕はいつだって子どもたちを信頼しようと努力している。だけど、どうしたって完全には信頼しきれないと感じてしまうときだってある。結局は、そのせめぎ合いのなかにしか、答えはないんじゃないかな」

僕はこの言葉を、教育者として非常に正直な、そして大切な考え方を表している言葉だと思いました。
というのも、サドベリー教育というのは、まさに子どもたちの自主性をラディカルに追求した教育のあり方だからです。
だから、ふつうなら「100パーセント信頼すべきです」と、それこそ標語的に答えたっておかしくはない。でも、その先生のおっしゃる通り、それはどこか欺瞞的ですよね。

じゃあ、その先生がスクールに在籍している子どもたちを信頼してないかというと、全くそんなことはありません。
それは、むしろ子どもたちがその先生を信頼し友人のように接している態度からはっきり理解できるものでした。
つまるところ、その先生は「せめぎ合い」を感じながらも、子どもたちの将来を、その人間性を、確実に「信頼」しているのです。

以上のことを、僕なりに理解すると、こうなります。

子どもたちが「今」「目の前」で行なっている表面的なふるまいや、いくつかの判断を「完全」に信用することはできない。
たとえば極端な話、軽微でも犯罪に関係するような所作を「信頼」できるわけがない。
そこまでいかずとも、では子どもが毎日毎日、何十時間もゲームをやり続けていたりyoutubeを見続けていたりしたら、どうか?
あるいはそれに類似する、大人の「常識」から見て、心配な状態にあったら?

いきなりそれらを強権的に「禁止」するのは、(それも一つの方法であるにせよ)少なくとも「民主的」なやり方ではない。
じゃあ、放っておけば良いのか?
「せめぎ合い」が生まれるのは、そういうときでしょう。
いや、日々、子どもたちと接していれば、もっと些細なことでも、そうした「せめぎ合い」に直面します。

上述の例であれば、僕なら少なくとも「説得」は行うでしょうね。
あくまで「僕の考え」「僕の価値観」」であることを前提としながら、それでも少なくとも44年間は生きてきた人間の考えとして、もっと彼・彼女の可能性を伸ばすことのできる「暇つぶし」があるんじゃないかと「説得」はします。しかも結構、繰り返すかもな。

それは正解じゃないのかもしれません。少なくとも「子どもを100パーセント完全に信頼する」態度じゃありません。
余計なお世話ですもんね。「子たち達自身の選択」を歪ませる行為かもしれない。

それでも、僕はそうすると思います。
それが本当に良いことなのかと常に自問しながら。

その一方で、僕は自分と関わることになった子どもたちのことは、ヒルネットの子どもたちも、V-net(最近勝手にヨルネットと呼称中)の子どもたちも、ある意味で「100パーセント信頼」しています。
それは上述のスクールの先生と同じです。

どういうことか。
それは「今」「目の前」の行為や判断に疑問を感じてしまうことはあっても、彼・彼女たちの可能性、人間性を「完全に信頼」しているということです

この点について、少し、昔話をさせてください。
しかも、恥ずかしながら、これまた自分の家族のお話です。
30年前の僕が不登校少年だったことは、このブログでも何度も触れてきたことですが、実は不登校だったのは、私の家では僕だけでなく、なんと弟もでした。
いや、ほんとにひどい兄弟ですね。
母の苦労を考えると今でも胸が痛いです、いや、ほんとに。

しかも実は弟の方がこじらせてる期間はけっこう長く、10代後半はほんと実家にはいつも沈鬱な空気が流れてましたよ。
当時の「不登校」の問題は今なんかとはだいぶ環境が違う。
まあ、僕が住んでいたのが関西の田舎の、共同体意識の強い場所だったせいもあるかとは思うんですが、ほんと犯罪者か何かみたいな扱いでしたよね、いや自意識的には。

そんな兄弟をもつ母の心中はいかばかりだったか。
いや、ほんとに胸が苦しくて心臓が止まりそうです。

で、そんな兄弟をもつ母、当然、当時のものながら子育てカウンセリングなんかにも通ってたらしいんですね。
まあ後年聞いた話で、当時の僕たちはよく知らなかったんですが。ほんとタイムマシンに乗って戻って100発殴った上で5時間説教すべきですね。

それで、あるとき、これは僕の記憶では、僕というより弟の案件でカウンセリングの先生に相談したそうなんですよ。
その頃、弟はほんとにかなりやばくて、兄の自分の目から見ても、アレこいつチョットひょっこり死んじゃうんじゃないかな、とかって感じがする時期だったんですね。

カウンセラーと対面した母は、おそらくは涙ながらに、自分の子育てが間違っていたのか、息子に何をどうしてやれば良いのか、と相談したそうです。
そんな母に、当時のカウンセラーの先生はこう言いました。

「お母さん、息子さんを愛していますか?」
「もちろんです」
「彼が小さい頃、たくさんたくさん、彼を愛してあげましたか?」
「そうしてきたつもりです。彼がどう思ってるかは判らないけど……」
「大丈夫です」
その人ははっきり言ったそうです。
お母さん、彼はきっと帰ってきますよ。彼を信じてあげてください。信頼してあげてください。お母さんが彼を愛し信頼する限り、彼はきっと家族のもとに帰ってきます

弟は本当に帰ってきました。
大検を取り大学に進学、京都大学の博士課程まで行きました。
結婚をして息子二人に恵まれ、今ではもう立派なおっさんです。
そして、僕がもっとも信頼する男の一人です。

どうでしょう。
僕が言いたいのはこういうことです。
子どもを「完全に信頼」する、というのは、「今」「目の前」の彼・彼女らの幼いふるまいや判断を、ただ単に受け入れることを意味するのではない。
「今」「目の前」でどんなに馬鹿げた行いをしていたとしても、そんな彼・彼女らが、いつか必ず素晴らしい人間になる、立派にそれぞれの道を歩んでいくようになる、そのことを「信頼」してあげることなのだと。
そして、これはきっと、「不登校」とか「発達障害」とか、それらある種「特別」な話に限ったことではなく、子どもたちと接する大人たち、皆が持っているべき態度なのだと思います。

今日はちょっと途中で話があっちこっちに行っちゃいましたね。
まあ、それも良いでしょう。
それでは、それでは。