対話する力について

どうもどうも。
すっかり梅雨っぽい感じで毎日グズグズとうっとおしい天気が続いておりますが、みなさんいかがお過ごしですか。雨が嫌いな僕は梅雨ももちろん大嫌いです。頭痛くなるし。

ということで、今日の話題。
しばらく、ちょっと重めの話が続いていたので今日は軽めの内容で。

とはいえ、軽めの話題といっても不真面目な内容というわけじゃない。
テーマはずばり、対話する力について。

いつもながら手前味噌な話で恐縮なんですが、僕の授業、というか、日中やってる「ヒルネット」の活動だったり、土曜のグループレッスン「読書のWS」だったりで、特に意識して子どもたちに取り組んでもらってるのが、この対話。
つまり、議論する力なんですな。

例えば、ヒルネットで「自由とルール」「『法』と『礼』」の関係について議論したり、読書WSで「DV男とそれを殺した殺人犯、どちらが悪か?」なんてことを話し合ったり。
もちろん、まだ小学校高学年くらいの子どもたちですから、冗談みたいな話も絡めながら和やかに話し合うわけですけど、ときにはこちらがびっくりするような鋭い発言だってある。
そういうとき、僕が大切にしてるのは、「答え」を決して言わないこと。
というより、上のようなテーマに、簡単な答えなんて、誰だって普通は用意できません。
僕はあくまで、子どもたちの発言を引き出すコーディネート役に徹しているわけです。

僕がこういうことに力を入れているのは、もちろん僕自身が色々な学問的?テーマを考えることが好きだから、ということもありますが、同時に子どもたち自身にも、ふつうに生きていると思いつかないような「疑問」に出逢ってほしいから。
そして、そうした疑問について、自分とは全く違う考え方、感じ方をする人間が、大人を含めているのだということを知ってほしいからです。

さて、こうした対話力。議論する力、とでも言いましょうか。
まあ昔っから言われることですが、日本人はこういう力がなかなかない。つまり議論が下手で意見が言えない、とよく言われるわけです。
僕の実感としても、6割くらいはほんとのことかな、と思います。

必ずしも議論が下手だったり嫌いだったりするわけじゃないとも思います。が、一方でそういう作法を幼少の頃から教わっていないことも事実。
例えば、僕が教えているインターナショナルスクールに通う生徒なんかに聞くと、向こうの学校では必ずディスカッションの授業があるそうです。
指名された生徒に議論させ、他の観客生徒がどちらの意見に説得させたか、その数で勝敗を決めるという、なかなかにシビアな授業なんです。
これ、なかなか日本の学校では成り立ちにくそうですよね。

さらにいうと、僕は、多くの日本人は議論自体が苦手、というよりも「知らない他人の前で自分の意見を言うこと」が苦手のように思います。
つまり、仲間同士やある程度、気心の知れている人間同士の間では、色々な話し合いはできる。意見だっていう。
けれども、自分がよく知らない場所や、専門外の知識を要する会合では、できればつまらないことを言って恥をかきたくないと思ってしまう。

まあ正直、僕も狭い日本社会に育ってきた人間なわけでは、こうした実感がほんとかどうかは判りません。
外国人だってそうだよ、と言われれば、そんな気もするし。

それでもやっぱり、あくまで僕の実感、体験としては、日本人は意見を言わないなあ、と感じたことは結構あります。
昔、放送大学というところで政治学のスクーリング授業を非常勤講師として担当していたことがあるんですが、そのおり、だいたい講義が終わりに近づいたころに、僕は毎回「今日の内容で何か質問はありますか?」と投げかけることにしていました。
が、そういう場合に質問が返ってくるのはほんとに稀。たいていシーンとしちゃうんですよね。
相手が二十代の学生諸君なら、まだわかる。
ですが、放送大学のスクーリングに通っているのは、ほぼ大人、だいたい40代〜70代ぐらいの経験を積んだ大人な訳です。
それでも、ほとんどの人は手を挙げない。ああ、日本人って、ほんとに質問したり意見をいったりするのがキライなんだなあ、と感じました。

いや、繰り返しますが、これはあくまで僕の実感。
大したことない少ない経験からの実感です。ほんまはそんなことあらへんのとちゃう?と言う異論反論は当然受け付けます。

それはともかく、僕はやっぱり意見を言わない、言えない。さらに言えば、誰かに反対する意見、それこそ異論や反論を口にできない体質、というのは、大変もったいないことだと思います。
それは江戸期以降の日本人の文化的体質かもしれませんが、一方で、もしそれが日本の教育上の慣性のなかでも養われているとするなら、すぐにでも改めていくべき案件でしょう。

というのも、人間の「思考」というものは、実は一人だけでできるものではないからです。
昔、僕の学問上の師匠とも言える先生が、あるゼミの折にこんなことを言っていました。

「君たちは自分が何かを考えていると思っているだろう? しかし、それは嘘だ。まず、思考は表現されなければならない。口に出されねばならない。でなければ、それはただの形を取らないもやもやとした妄想だよ。
そして次に、その君たちの意見、考えが本当に君たち自身で考えたものであるのか、自分に問いかけてほしい。きっとそうじゃないとわかるだろう。
例えば、ある物事、ある社会的問題について、君たちが先ほど口にしたことは本当に君自身の意見だったろうか? それはひょっとして昨日読んだ本の意見をそのまま自分の考えと錯覚して口にしたものだったのではないか? それとも昨晩みたテレビのコメンテーターがちょっと口にしたことを知らぬうちに君の意見だと考えてしまっているのでは?
いいかな諸君。もしそうなら、君たちはまず君たちが思わず納得してしまった論者の意見に、あえて反論することから始めることだ。
そして何よりも、今、君が正しいと感じている意見に反対してくれる人と対話すべきだ」

この先生は僕が知っている人間のなかでは圧倒的な教養と知的アイデアを持っている方でしたが、一方で超がつくほどの変人でした。しかもすっごく怒りっぽい。
その上、彼はアメリカの大学でも教鞭をとっていた経験からか、日本人が発言しないことを非常に嫌っていました。
ですから、ゼミは常に緊張につぐ緊張の連続。
先生が質問はないか?という具合に沈黙した際、ゼミ生からの発言がなかったりすると烈火のごとく怒り出すのです。
怒り出した挙句、返ってしまったこともあるそうです(僕は幸運なことに現場にいませんでした)。

今でもゼミ初日の日の緊張を思い出すくらい怖い先生でしたが、おかげで僕はどんな場所に言っても何かしら「意見を言う」(ほとんど強迫神経に近い)癖がつくようにまりました。
そして、後々の人生の経験からも、それは本当に大切なことだと感じるようになりました。

弁証法、という哲学の思考法があるように、人間の思考というものは、一人でただ考えていても、やがて壁にぶつかるか、あるいは勝手に「自分(だけ)が正しい」という独我論に陥るだけです。
自分の考えを他者に話し、他者から批判され、そしてその批判を受け入れて新たな思考に至る。
あるいは逆に他者の考えを聞き、それに反論するうちに、新たに自分の思考がまとまることもあるでしょう。

社会的動物としての人間は、これまでも、これからもそのようにして、文化を、文明を築くものなのだと思います。

そう。
だから、まず最初に意見を言わなければならない。
他人の反論を恐れてはいけない。誤りを指摘されて恥じる必要もない。
意見を異にする他者は別の思考に目を開かせてくれるはず。
誤りの指摘は、さらに知的な関心を深めさせてくれるはず。

だから、最初に発言をしよう。質問をしよう。

そう、子どもたちに繰り返し伝えていきたいと思う今日この頃です。

それでは、それでは。

 

子どもを信頼するということ その2

どうもどうも。
こないだまで32度の真夏日で街歩きしてると熱中症になるんちゃうかいという感じだったのに、今日は一転して体感気温10数度くらいの肌寒さという摩訶不思議な世界で暮らしております今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもうずっと体調が悪いです。

さてさて、今日も引き続き「信頼」ということの難しさについて。
そうそう、前回の記事で、知人の先生が「子どもを100パーセント信頼する」と簡単に言うのは「欺瞞」ではないかとを仰っていた、と書きましたが、これにはちょっと僕の思い込みがあったようです。その先生としては、本当は「100パーセント信頼」したいけれども少なくとも現時点の自分にはまだ難しい、という自戒を込めて語ったつもりの言葉だったそうです。
ご本人からご連絡いただいたので、訂正しておきますね。どうも、すみませんでした。

確かに実際に「100パーセント信頼」しようと努力しておられる先生方もたくさんおられるわけですからね。
ですが、同時に僕の知人の先生がいみじくも自戒を込めて仰られているように、それは決して簡単なことではありません。

実際、子どもを「信頼」する、と簡単に言ったって、それぞれの局面や立場によっても色々あるわけです。
子どもの言葉、つまり発言に対する信頼。その行動に対する信頼。
そして、前回記事にしたような、もっと全人格的な信頼。

当事者性の問題もあります。
教師として接するのと親として接するのとでは、やはり違います。
教師としてだって、何十人もの生徒を毎日一人でみる学校の教師と、子ども数人から数十人を「ほぼ毎日」みる教育スペースの教師と、あるいは週一回程度会う塾などの先生と。
そしてもちろん、良くも悪くも、最も当事者性が高いのは親、子どもの保護者でしょう。

いま、「良くも悪くも」と書いたのは、親、保護者の立場は、他の立場とは違って、やはり客観性を持ちにくいからです。
誰だって自分の子どもは愛しているし、誰よりも信頼したいと思っているに決まっています。
しかし、「愛している」からこそ、信頼しにくいという逆説もあるのです。

その子が赤ん坊の頃から、彼・彼女がまだ自分で食事はおろか歩けない時分から、親はその子の世話をし育ててきた存在です。
手を引いて道を歩かなければ、彼は車の行き交う道路にきっと走り出してしまう。
夜、寝る前にトイレに行きなと声をかけなければ、遊びに夢中な彼女はおねしょをしてしまうだろう。
池で泳ぐ鯉を眺めるその小さな背を支えてあげなければ、水の中に落ちてしまうに違いない。

幼稚園や保育園に入る前。まだ赤子のように見える彼女が、本当にきちんと通えるようになるのだろうか。友達ができるんだろうか。
小学校の入学前は前で、こんな頼りない彼が本当に学校生活を送れるようになるんだろうかと心配します。いじめにあったりしないだろうか。

心配です。いつだって。今も。いま、この瞬間だって。

それは当然のことです。親というのは、そういうものです。
だけど、心配でも、彼・彼女を愛しているからこそ、手を離さなければいけないこともある。

なぜなら、その愛情が、そこから生まれる心配が、やがては彼・彼女の選択を信頼しない心性を生んでしまう可能性があるからです。

たとえば、なぜ彼は、彼女は、「勉強をしなければならない」のか?
それが、彼や彼女が自分から学びたいと考えた、そういう選択の結果なら、もちろん素晴らしいことでしょう。
ですが、なかには本人たちの意思とは無関係に、文字通り「勉強」に勉めることを強いられているようなケースだってある。しかも、場合によっては、けっこう過剰に。
スパルタな進学塾に行かされ無理な宿題に追われている場合がある。

その子の親も、また「愛情」があるがゆえに「心配」なのです。
この日本社会が学歴社会であることは、やはり事実だと思います。
そうであれば、その子に様々な可能性があるかもしれないとはいえ、まずは「最低限の学歴」を身につけさせてあげたい。「ある程度は」良い学校に入れるようにしてあげたい。そうすることで、この子が大人になった時に好きなこと、好きな仕事ができるという「将来の選択肢」を親である自分が守ってあげなくてはならない。
かつてこの子の手を引いて道路を渡った時のように。

それも、いいでしょう。
僕はそれが間違ってるなんて言えません。
ですが、もし彼が、やはり勉強などしたくない、と言い出したら?
いや、そもそも学校になんか行きたくない、と言い出したら?

その時は手を離さなければ、ならない。
彼が、彼女が気ままに走り出すのを止めてはいけない。

子どもたちが自分で何かを選び、自分の価値観を学び、自分の人生を生きるのを止めてはいけない。
「勉強なんてもうしたくない」「学校になんて行きたくない」
それは、おそらくは幼い彼ら自身が、幼いなりに選び取る、人生の最初の可能性の一つかもしれないのですから。

いいえ、いいえ。

実は僕は、一方でそう単純に考えているわけでもありません。
教師の立場で言うのは簡単です。
アドバイスを送るだけの立場の人間は、常に冷静で客観的で「正しい」。ですが、彼は所詮は他人なのです。
彼は、その子が私の手を離した途端にトラックに轢かれそうになった瞬間を見ていない。
いま、我が子が学校に行かず勉強もせずにゲームを一日中している様子を目の当たりにしていない。
当事者性の問題、とはそういうことです。

保護者の方々から、種々の相談を受けるとき、僕は自分が「正しい」と信じるアドバイスをします。それが僕の仕事だからです。
一方で、僕は二人の子どもを育てる親でもあります。
そのときの僕は、やはりいつだって「正しい」ことをしているとは言えないでしょう。
常にすでに葛藤のなかにいます。

こんなことがありました。
上に書いたことなんかに比べてば、些細なことです。

娘が長く続けている習い事を辞めたいと言い出しました。
理由を聞いてもはっきりしません。なんだか気乗りがしないのだと。
でも、親の目からは、娘はその習い事をいつも楽しんでやっているように見えるし、実際、長くやっているぶん、他の子どもと比べても、その分野に関しては「優秀」なように見える。
正直、辞めさせたくない。
しかも、気乗りがしないだって?
それはいっときの気の迷いなんじゃないか?
そんな気の迷いで、辞めさせてしまうのは、それこそ「将来の彼女の選択肢」を奪うことになるんじゃないだろうか?

彼女の選択を「信頼」して辞めさせるのが「正解」でしょうか?
それとも、辞めさせない方が、「将来」にとってはいいのでしょうか?

さしあたりは、彼女を「説得」するかもしれません。僕の得意技です。
親として僕が考えること、そしてこれまで44年間生きてきた「人生の先輩」としての僕なりの価値観などを伝えるでしょう。
でも、それすらも正解なのか? 彼女を「信頼」した行動なのか?

葛藤はつきません。
しかし、きっとそういう「迷い」や「悩み」を抱えながら、彼女と、彼と、真剣に向き合っていくことこそが、子どもを育てるということ、つまりは教育なのかもしれません。

「信頼」とは、やはりその先にあるものなのかもしれませんね。

それでは、それでは。