子どもを信頼するということ その2

どうもどうも。
こないだまで32度の真夏日で街歩きしてると熱中症になるんちゃうかいという感じだったのに、今日は一転して体感気温10数度くらいの肌寒さという摩訶不思議な世界で暮らしております今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもうずっと体調が悪いです。

さてさて、今日も引き続き「信頼」ということの難しさについて。
そうそう、前回の記事で、知人の先生が「子どもを100パーセント信頼する」と簡単に言うのは「欺瞞」ではないかとを仰っていた、と書きましたが、これにはちょっと僕の思い込みがあったようです。その先生としては、本当は「100パーセント信頼」したいけれども少なくとも現時点の自分にはまだ難しい、という自戒を込めて語ったつもりの言葉だったそうです。
ご本人からご連絡いただいたので、訂正しておきますね。どうも、すみませんでした。

確かに実際に「100パーセント信頼」しようと努力しておられる先生方もたくさんおられるわけですからね。
ですが、同時に僕の知人の先生がいみじくも自戒を込めて仰られているように、それは決して簡単なことではありません。

実際、子どもを「信頼」する、と簡単に言ったって、それぞれの局面や立場によっても色々あるわけです。
子どもの言葉、つまり発言に対する信頼。その行動に対する信頼。
そして、前回記事にしたような、もっと全人格的な信頼。

当事者性の問題もあります。
教師として接するのと親として接するのとでは、やはり違います。
教師としてだって、何十人もの生徒を毎日一人でみる学校の教師と、子ども数人から数十人を「ほぼ毎日」みる教育スペースの教師と、あるいは週一回程度会う塾などの先生と。
そしてもちろん、良くも悪くも、最も当事者性が高いのは親、子どもの保護者でしょう。

いま、「良くも悪くも」と書いたのは、親、保護者の立場は、他の立場とは違って、やはり客観性を持ちにくいからです。
誰だって自分の子どもは愛しているし、誰よりも信頼したいと思っているに決まっています。
しかし、「愛している」からこそ、信頼しにくいという逆説もあるのです。

その子が赤ん坊の頃から、彼・彼女がまだ自分で食事はおろか歩けない時分から、親はその子の世話をし育ててきた存在です。
手を引いて道を歩かなければ、彼は車の行き交う道路にきっと走り出してしまう。
夜、寝る前にトイレに行きなと声をかけなければ、遊びに夢中な彼女はおねしょをしてしまうだろう。
池で泳ぐ鯉を眺めるその小さな背を支えてあげなければ、水の中に落ちてしまうに違いない。

幼稚園や保育園に入る前。まだ赤子のように見える彼女が、本当にきちんと通えるようになるのだろうか。友達ができるんだろうか。
小学校の入学前は前で、こんな頼りない彼が本当に学校生活を送れるようになるんだろうかと心配します。いじめにあったりしないだろうか。

心配です。いつだって。今も。いま、この瞬間だって。

それは当然のことです。親というのは、そういうものです。
だけど、心配でも、彼・彼女を愛しているからこそ、手を離さなければいけないこともある。

なぜなら、その愛情が、そこから生まれる心配が、やがては彼・彼女の選択を信頼しない心性を生んでしまう可能性があるからです。

たとえば、なぜ彼は、彼女は、「勉強をしなければならない」のか?
それが、彼や彼女が自分から学びたいと考えた、そういう選択の結果なら、もちろん素晴らしいことでしょう。
ですが、なかには本人たちの意思とは無関係に、文字通り「勉強」に勉めることを強いられているようなケースだってある。しかも、場合によっては、けっこう過剰に。
スパルタな進学塾に行かされ無理な宿題に追われている場合がある。

その子の親も、また「愛情」があるがゆえに「心配」なのです。
この日本社会が学歴社会であることは、やはり事実だと思います。
そうであれば、その子に様々な可能性があるかもしれないとはいえ、まずは「最低限の学歴」を身につけさせてあげたい。「ある程度は」良い学校に入れるようにしてあげたい。そうすることで、この子が大人になった時に好きなこと、好きな仕事ができるという「将来の選択肢」を親である自分が守ってあげなくてはならない。
かつてこの子の手を引いて道路を渡った時のように。

それも、いいでしょう。
僕はそれが間違ってるなんて言えません。
ですが、もし彼が、やはり勉強などしたくない、と言い出したら?
いや、そもそも学校になんか行きたくない、と言い出したら?

その時は手を離さなければ、ならない。
彼が、彼女が気ままに走り出すのを止めてはいけない。

子どもたちが自分で何かを選び、自分の価値観を学び、自分の人生を生きるのを止めてはいけない。
「勉強なんてもうしたくない」「学校になんて行きたくない」
それは、おそらくは幼い彼ら自身が、幼いなりに選び取る、人生の最初の可能性の一つかもしれないのですから。

いいえ、いいえ。

実は僕は、一方でそう単純に考えているわけでもありません。
教師の立場で言うのは簡単です。
アドバイスを送るだけの立場の人間は、常に冷静で客観的で「正しい」。ですが、彼は所詮は他人なのです。
彼は、その子が私の手を離した途端にトラックに轢かれそうになった瞬間を見ていない。
いま、我が子が学校に行かず勉強もせずにゲームを一日中している様子を目の当たりにしていない。
当事者性の問題、とはそういうことです。

保護者の方々から、種々の相談を受けるとき、僕は自分が「正しい」と信じるアドバイスをします。それが僕の仕事だからです。
一方で、僕は二人の子どもを育てる親でもあります。
そのときの僕は、やはりいつだって「正しい」ことをしているとは言えないでしょう。
常にすでに葛藤のなかにいます。

こんなことがありました。
上に書いたことなんかに比べてば、些細なことです。

娘が長く続けている習い事を辞めたいと言い出しました。
理由を聞いてもはっきりしません。なんだか気乗りがしないのだと。
でも、親の目からは、娘はその習い事をいつも楽しんでやっているように見えるし、実際、長くやっているぶん、他の子どもと比べても、その分野に関しては「優秀」なように見える。
正直、辞めさせたくない。
しかも、気乗りがしないだって?
それはいっときの気の迷いなんじゃないか?
そんな気の迷いで、辞めさせてしまうのは、それこそ「将来の彼女の選択肢」を奪うことになるんじゃないだろうか?

彼女の選択を「信頼」して辞めさせるのが「正解」でしょうか?
それとも、辞めさせない方が、「将来」にとってはいいのでしょうか?

さしあたりは、彼女を「説得」するかもしれません。僕の得意技です。
親として僕が考えること、そしてこれまで44年間生きてきた「人生の先輩」としての僕なりの価値観などを伝えるでしょう。
でも、それすらも正解なのか? 彼女を「信頼」した行動なのか?

葛藤はつきません。
しかし、きっとそういう「迷い」や「悩み」を抱えながら、彼女と、彼と、真剣に向き合っていくことこそが、子どもを育てるということ、つまりは教育なのかもしれません。

「信頼」とは、やはりその先にあるものなのかもしれませんね。

それでは、それでは。