不登校とは何か

どうもどうも。
いよいよ梅雨が本格化、毎日ジメジメ雨が降ったり止んだり鬱陶しい天候が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はほんまに調子悪いです。北海道に行きたい。

さてさて、今日はまた「学校」についてのお話。
またかよ、と思われる方もおられるかと存じますが、お許しを。
なんとなれば、これはやっぱり最近の僕の一番の関心事なものですから。

最近、僕は色々な場所に顔を出していることもあって、不登校に関する、様々な、非常に深刻な相談を受けることが、ままあります。
ケースは本当に様々です。
ただ、共通しているのは、やはり当事者であるお母さんたちの、苦しみ、悩み、その悲嘆。
30年前の我が母もこうだったのだろうと密かに自らを責めます。

さて、そんな中、これも先日、ある会合に参加した折のことです。
同じ会に参加していたお母さんの話。詳しくは書きませんが、ちょうど最近始まった、ご子息の不登校・登校拒否に悩まれているお母さんでした。

色々な話が出て、また会合に参加されている他の参加者の方々からも多様なアドバイス、応援の言葉も出たのですが、個人的に印象に残ったのは、そのお母さんが最初に言ったことでした。
いわく、息子にはその日も昨日までと全く同じように接していた。つまらないケンカもしてしまったけれど、それもいつものことだった。なのに、その日から突然、息子は学校に行けなくなったのだ、と。
「大したきっかけもなく学校に全く行けなくなってしまったのは何故なのでしょうか?」

実は、これは難しい問題なのです。
「学校」に行けなくなる、行かなくなる理由。

もちろん、目に見える原因は様々で、いじめの問題であったり友人関係のトラブルであったりする場合もある。
しかし、実は当の本人含め、具体的な理由ははっきりとしない場合も多い。

学校が「いや」なわけではない。そういうケースさえあります。
いえ、正確には、おそらく心理的な深層においては「拒否」しているのでしょうが、何がいやなのかと他人に聞かれても、そして自問自答してみても、いやな理由が見当たらない。
実は30年前の僕自身もそうでした。
友人関係がうまく言っていないわけでもない。極端に辛いことがあるわけでもない。
でも、行けない。
前も書きましたが、今でも娘の用事で小学校に顔を出す度に、吐き気をもよおすほどの嫌悪感を感じます。

そして、僕が知る限り、これは結構よくあるケースなのかもしれないのです。

「いや」なこと、「辛い」ことが、そんなにあるわけではない。でも、学校にいけない。行かない。

ただ、こんなふうに考えることはできます。
例えば、彼・彼女が少しばかり繊細で、よくいえば他人の気持ちがよくわかる分、人の悪意にも敏感になりやすい人間だった場合。
あるいは逆に、とても感性豊かで強い自我を持っているけれど、そのぶん他人に意見を合わせたり人と同じように振舞ったりするのが苦手だったりした場合。
それとも、成長が他の子供よりちょっと遅れ気味だったり、少しばかり不器用だったり、端的に勉強が苦手だったり。
ともかく、彼・彼女が30人の教室にいて、少しばかり、そうほんの少しばかり「目立つ」ことのある子どもだった場合。本当に、本当にほんのちょっとだけ。

彼・彼女は学校の「集団行動」に合わせようと努力するでしょう。
でも、「学校」が「学ばせよう」とする「集団行動」には、ある種特殊なところがあります。
集団での一斉授業。朝礼のような集会、一斉の教室移動、班行動、etc….。

例えば、彼はちょっと不器用だったために、家庭科の時間、一緒に料理を作る班のメンバーの足を引っ張ってしまいます。
例えば、彼女は少しマイペースなためにいつも教室移動に遅れてしまいます。そのせいで図工の班行動が彼女の班だけなかなか開始できません。
どれも大したミスではありません。
しかし、それは当然、集団の「からかい」の対象となります。とはいえ、そんなのよくあること。もちろんその場は、彼・彼女も笑ってごまかします。

また、あるとき彼は国語の授業で他の人とは全く違う意見を言ってしまいました。
また別のある時、彼女は得意な算数で活発に発言を繰り返しました。
どちらも、教師から見れば、褒められる行動です。
ですが、場合によっては、それも「からかい」の対象となります。お前、なに調子乗ってんの?
このように「学校」という場での「集団行動」は、現在の日本では、ひとつ間違えば「個性」を殺す「同調圧力」としても働きます。

とはいえ、上記の一つ一つのことは、とっても小さなことです。
でも、それが3年続き、6年続き、そして中学生になっても続く。
子どもにとっての9年は、我々大人の20年くらいの感覚かもしれません。
そして、家に帰ると、親は親で色々うるさく言ってくる。
彼や彼女はだんだんと疲れていきます。人に合わせて笑うのに疲れていきます。

強いられた「集団行動」。
とてもとても、疲れる日々。

そして、ついにある日、彼は「切れて」しまう。
まさしく糸がプツンと切れるように。

もう、疲れた。
もう何もかもやめてしまおう。
何もかも考えるのをよそう。

 

なんだか、書いていて、本当に辛くなってきました。
こういう気分は、大人の僕たちにだって経験のあることですよね。
でも、僕たちには、まさしくそうした気分に陥った際、そこから自分を奮い立たせる「処方箋」を、それぞれの経験のなかに持っています。
子どもたちには、まだ、それがない。
というより、「学校に行かない」というのが、その処方箋なのです。

特別に「いや」なことがないのに「学校」に行けなくなる理由。
特別な事件があったわけでもないのに、突然、ある日行かなくなる理由。

それはきっと、大人であれば、「鬱病」と呼ばれるような状態なのかもしれません。
あるいは、その一歩手前の状態と言うべきか。

いえいえ、これはあくまで比喩です。
なんでもかんでも「病気」としてしまう現今の日本社会の状況を僕は強く批判します。
しかし、とにかくも、子どもたちが「学校」という特殊な「社会」に「疲れきってしまう」ことが、不登校という現象の一つの理由だとは思います。

とはいえ、僕は公教育を、学校に通うことを否定したいわけでは全くありません。
幸運にも、全く問題なく学校に通えている諸君は、どうか多少の辛いことがあったとしても、小学校、中学校時代の「ふつう」の思い出を重ねていってほしい。
僕自身、高校に行っていないので、そういう「ふつう」の少年時代、青春時代の貴重さが切実にわかるからです。

ただ、だからこそ、「疲れきってしまう」前に、週に2日ぐらい、学校を休みながら通ったっていい。
週に2、3回、学校とは違う場所で学んだっていい。
それこそオルタナティブ・スクールに通ってそこで友達を見つけたって全然問題ない。

実際、今の学校自体、多くの理解ある校長先生自体が、そういう学び方を奨励してさえくれています(これはヒルネットの活動を行ううちに気付かされたことでした。ヒルネットのような小さな活動でさえ、今の学校ではふつうに「出席」として認めてくれるようになっています)。

子どもたちが、それぞれの個性にあった多様な学び方ができるように1日でも早くなってほしい。そして少なくとも、そのせいでお母さんたちが涙を流すようなことが少しでも無くなってほしい。
そんなことを願わずにはいられない、今日この頃です。

それでは、それでは。