「夏休み」の終わりと不登校

どうもどうも。

想像を絶する暑さと言うのはきっと去年の夏だったんでしょうが、それでもやっぱり酷暑に死にそうなってる今日この頃、みなさん如何お過ごしでしょうか。僕は今日まで盆休みでした。

さてさて最近の記事、見直すと不登校不登校不登校となんか同じネタばかりが並んでるようで、さすがに今回は違う内容の記事にしようかと思ったんですが、朝、新聞を読んでいると、もうすぐ夏休みが終わるため「新学期の始まりは『学校に行きたくない』子どもたちの心理的負担が深刻に出やすい時期ですよー」系の記事がたくさん載ってたため、急遽、そういう感じの記事を書くことに。

というのも僕も明日から仕事。
久しぶりにとった長い休暇の後なので、「気が重い」というほどではないが(まあ僕の場合、「子どもに何か教えたりする」こと自体は別に「しんどく」ないので)、夏休みが終わらんとする子どもたちの気持ちは判らんでもないのです。
思い出せば小学校時代、夏休み最後の週に地球終了のお知らせとかニュースで流れないかなーなどと馬鹿なことを考えていたことを思い出します。

とはいえ、そんな呑気な妄想ですんでいるうちは大したことない。
学校がかなり「しんどく」なっている状態の子どもにとって、今くらいの時期の「気の重さ」はその比ではないでしょう。

上記のような記事の中には、よく親は子どもの「危機的なサイン」を見逃すな式の記事が散見されますが、これも実はなかなか難しい。
中学生くらいの子どもは完全に「プツンと糸が切れる」状態になるまで、親に学校生活の現状なんかを話そうとはしません。
思春期なんですもの、「イケテナイ自分」を他者に晒したくなんてないんです。
そして、思春期の子どもにとって「親に頼る」ことは「イケテナイ」ことの最たるものなんですよね。

そう。ここで重要なのは、子ども自身が「不登校」という状態を「イケテナイ」と認識してしまっていることなんですよね。
「そんなことないんだぜ! 俺は全然学校なんて行く必要ねえと思ってるんだぜ! そして学校行かなくても必ず夢を実現させてやるんだぜだぜ!」的な強いお子さんもいるでしょう。
でも、小学校高学年以上、特に中学生くらいの子どもにとって、ことはそう簡単じゃありません。

ふつうの少年・少女にとっては記憶にある「社会」とはイコール学校なわけです。
そこから「脱落」することはイコール社会から「脱落」するイメージに近い。
「いじめ」の問題なんかもそうだと思います。
命を断つくらいなら、どうして学校に行くのをやめなかったの?
そう問うのは簡単ですが、それは「命を断つくらいなら、どうして会社辞めなかったの?」と聞くのと同じだと思います。
我々大人が、仕事が「しんどい」からってその仕事を急に辞められないのと同じです。

ただ、前も書きましたが、「大人」は「経験」によって様々な対処法を知っています。
本当にその仕事が「しんどい」なら、知恵を絞って、その仕事以外に自分の生きる道、家族を養う道を探すでしょう。
「仕事を辞める」=「社会から脱落する」というわけではない、というくらいの視野の広さもあるでしょう。

でも、子どもには、まだそれがない。
というか、今まさにその「経験値」をためている最中なわけです。
だから急に、「よし。俺、学校辞めるわ」とはならない。
ギリギリまで踏ん張っちゃおうとしちゃうんですね。
そして踏ん張った分だけ、「糸」が切れた後に、そこから立ち上がるのに必要なエネルギーをも消耗してしまいます。

で、ここから更に重要。
以上のように「イケテナイ」自分と格闘しながら、それだけでも精一杯なところに、中学生くらいだと、場合によっては「学校に行けない」ことが「親に迷惑をかける」「家族のお荷物になる」といった意識まで生じてきてしまいます。
これは特に「よくできる子」「真面目な子」に多いパターンです。
例えば、本人が学校生活を「しんどい」と思っていても、勉強自体はよくできたりするため、周囲はむしろ模範的な子どもと見ていたりする場合。
そうした他者からの視線によって作られた「自己像」と、学校が既に「しんどくて」たまらなくなっている自分とのギャップに苦しみます。
不登校になることで、親はどう思うだろうか?
「ふつうの子ども」でなくなった自分のせいで心配をかけるのでは?

そんな心配しなくてもいい、と思うでしょうか?
ですが、僕たち親は、えてして子どもたちに「ふつう」であってほしいと無意識に願っているものです。
口では「自由に生きたらいい」などと言いながらも、心のどこかで「自分はともかく、この子は平凡でも幸せな人生を送ってほしい」と願ってしまうものでしょう。
それは悪いことでは、もちろんない。
僕だって、そう思います。自分はゆるふわに生きてるのに。

ですが、その意識的・無意識的な「思い」が、「平凡」でなくなった子どもたちを苦しめる場合もある、ということなのです。

さて、そこで冒頭の話。
もうすぐ学校が始まる。子どもによっては、それは「死刑執行まで残り数日」といった気分です(大げさではありません)。
もし、子どもたちが既に辛そうにしている、それこそ、その「サイン」に気づけたなら、「大人」の我々は「学校辛いんじゃないの?」と声をかけてあげるべきです。
しかも、真剣に。
それが決して「イケテナイ」ことなんかでないこと、「学校」以外にも「社会」は広く存在し、「不登校」もまた一つの「選択」なんだということをちゃんと説明してあげるべきでしょう。

そして、もし明瞭なサインがなかったとしても、少しでも自分の子どもが「学校システム」に向いていない、あるいはそこからはみ出す「個性」を持っている、と日ごろ考えていたならば。
少なくとも「学校に行かないなんて大したことではない」といった「思い」が子どもに伝わるようにすべきでしょう。
「平凡」じゃなくていい。
「ふつうの幸せ」以外の幸せが必ずある。
だから、どんな「選択」をしても親である私たちは、必ずその「選択」を尊重し支援するよ、というメッセージを、できれば明るく伝えてあげるべきでしょう。

 

そんな「メッセージ」に関係する話の一つとして。
昔、ある不登校だった生徒から聞いた話です。
地元の公立中学に通えなくなって数ヶ月。
朝、元気に通学する「元同級生」や「元先輩」たちの姿を窓越しに眺めながら、彼は自分の現状を嘆き将来に絶望していたそうです。
自分は本当にどうしようもない人間だ。一生こうやって窓の外を眺めながら家族のお荷物として生きていくんだ、と

そんなある日、母親が彼にこう伝えました。
お祖父ちゃんがあなたのことを褒めてたわよ、と。
彼には意味がわかりません。

彼の祖父は変わり者で有名な人物でした。
祖父の父、つまり彼の曽祖父がとある有名企業の創立メンバーの一人だったにもかかわらず、なぜか曽祖父の会社には入らず名も無い中小企業に就職。50歳を越えた後に自分で小さな会社を始めた人物でした。
そんな変わり者の、しかし独立独歩を貫いてきた祖父を、彼は尊敬していたそうです。

その祖父が自分のことを褒めている? どうして?
母は答えました。お祖父ちゃんはこう言ってたわ。
俺は親父の力に頼らず、自分で会社もおこした。オモロイなと思えることには何でもチャレンジした。せやけど、学校に行かんちゅうようなことは思いもつかんかったな。そんなこと思いつくだけで、あいつはオモロイやっちゃで。きっと大物になるわ。

祖父がどういうつもりでそんなことを母親に言ったのかはわかりません。
冗談のつもりだったのかもしれません。
しかし、それでも彼は、その言葉に大いに励まされたそうです。
そこから彼は、徐々に「不登校」という自分の状態を、前向きに、一つの「選択」だったのだと考えられるようになっていったということです。

現在、彼はもちろん、立派に社会人として暮らしています。

それでは、それでは。