発達「障がい」:変わるべきは彼なのか?

どうもどうも。

すっかり秋めいた日々、と思っていたら、急に短パンを履きたくなるような暑さが戻ってきたりと、よくわからん日々ですが。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。僕は最近忙しいのが嫌で山籠りがしたいです。

とはいえ嫌がってもいられない。
頑張りましょう(誰に言っとるのか)。

さて、今回のお題。
発達・学習「障がい」

うーん、やっぱり、この言葉、あんまり好きじゃない。障がいって一体なんなんだ。
いや、書きながら思ったんですが、文字にすると余計にキツイ。

そもそも今日のテーマに限らず、足が不自由だったり耳が不自由だったり、その色んなことを「障がい」と呼ぶ、そういう単語に括ってしまうのも何だかなあ。。じゃあ何て書き表わせばいいんだと言われると、またわからないんですが。。。

僕の妻は子どもの頃から関西で、とある先生について絵を学んでいたのですが、その先生は耳が不自由な方でした。
その先生や他の生徒と一緒にフランスへ旅行に行ったこともあるそうです。
僕はその先生と、結婚前に一度会っただけなんですが、その先生のことを話す妻や妻の家族は、先生のハンデのことなどまるでないかのように自然に話題にしておりましたよ。
その先生は、すでに鬼籍に入られております。
では、その先生の人生に「障がい」などあったのでしょうか?
何とも僕には言えませんが、でも「困難」はあったに違いないが、それは「障がい」ではなかったのでは? そして、「困難」は等しく誰の人生にも訪れるものです。

いや、わからない。
偉そうに書ける案件でない、ということだけしか、やはりわかりません。

閑話休題。
いずれにせよ、発達の「でこぼこ」具合もまた、通常の学校生活や、人や場合によっては社会生活上の「困難」ではあることでしょう。
特に学校にせよ職場にせよ、ある種の共同生活における集団性を強く要求される場であれば、彼・彼女が「生きづらさ」を感じるには十分です。

僕は過去、そして現在、いわゆるASD、ADHD、LD等と呼ばれる「個性」をもつ子どもたちと多く接してきました。
では、そういう子どもたちと学校とのマッチングはどうだったか。
その「でこぼこ」具合が深刻なほど、学校生活とは「客観的」には、あまりうまくいっていないように感じる子が多かったのですが、一方で、ある種「他人の意思や気分を読み取るのが苦手」なために、かえって「底抜けに明るく」過ごしている子どももおりました。
いや、まあ、総じて、そうしたマッチングも「運」であることが多いいようにも思います。

また、それぞれに深刻度もあります。
確かに、今、小学生の段階では、ある種の集団からはみ出がちなほど「落ち着きがない」様子だったり、「突拍子もない行動」に出たり、「終始喋りっぱなしで人の話をまるで聞かない」状況だったり、「自分のやり方に絶対的にこだわる」子どもだったり、「目の前の他人が何を考えてるかさっぱり判らない」様子だったりしたとしても。
成長とともに、良くも悪くも「落ち着いていく」「自分の個性を上手に扱えるようになる」子どももたくさんいます。
また逆に、ある種の外部のフォローがある程度、必要なお子さんも実際おられるでしょう。
僕たちのような学校外の「先生」含めて、そういうフォローがあったからこそ、「個性を上手に扱える」よう成長できたのだ、という見方もあるかもしれません。

いずれにせよ、この問題は、本当にケースバイケース、子どもそれぞれに対応が異なる。
いや、そもそも「不登校」の問題もそうであるように、一律な対応が可能な「教育」などあるはずがないのでしょう。

ともあれ。
では、そうした「でこぼこ」を抱えた彼や彼女が周囲の環境の中で「生きずらい」「しんどい」と感じたとき。
変える、変わるべきなのは、彼・彼女なのでしょうか?
それとも周囲・環境なのでしょうか?

こうしたことを書くのも、実は最近、とある相談を受けたからです。
詳しくは書きません。
が、とにかくも、やや感情のコントロールが苦手で「自分の方針」にこだわりを持つ僕の生徒。
彼が、どうやら学校に目をつけられている、という話です。
なんだかんだと親が呼び出され、「問題」を指摘され、婉曲的に手に負えないと言われる。
そして、「薬」をすすめられる。

確かに彼は変わっています。
ですが、「めちゃくちゃ変わってる」かというと、僕の実感では、そこまででもない。
もっと「めちゃくちゃ変わってる」子を知ってるからです。
また、一年半ほど見ているうちに、確かに随分成長した。
いろいろと我慢できるようになったし、意に沿わないことも、嫌々ながらするようになった。特に僕が怒ったりせずとも。つまり少しずつ少しずつですが、「個性」を自分なりに扱えるようになり始めていました。

にも関わらず、つい最近も、とある行事の際に、学校の先生は彼のプライドをひどく傷つけるようなことを言ったそうです。
その先生に「悪意」はなかったのかもしれない。それは、そうでしょう。
でも、その言葉は確かに、しばらくの間、彼を「荒れさせる」ほどにはキツイ言葉だったようです。

さて、もう一度聞きましょう。この場合。
変わるべきなのは、彼でしょうか?
それとも周囲の環境でしょうか?

つまり、彼が「薬」を飲んで、学校の先生方にとって「扱いやすい」子どもになるべきなのでしょうか?
それとも、逆でしょうか?

僕は逆だと思います。
順序が間違っていると思います。

僕は「薬」を飲むこと全てが悪いとは思いません。
何事も教育において原理的であることは、その原理的言動によって傷つくお母さんやお父さんがいると思うからです。
実際、極端に深刻なケースにおいて、一時的に薬を飲むことが効果を発揮するというケースもあると思いますし、実際に目にしたこともあります。

しかし、この場合は、どうか。
特に、少なくとも教育に携わる者が、簡単にそれを言うのか。
耳にした母親がどんな気持ちになるか、十分わかっているはずなのに。

繰り返せば、全てのケースに当てはまる解答はありません。

ですが、その子がまだ、まさに「発達」の途上にある場合。
その当人を周囲の環境に合わせて「変える」前に、周囲の環境をこそ「変える」べきなのでは、と僕はどうしても思ってしまいます。

いや、これは僕がヒルネットのようなフリースクールの活動を始めたから、そう思うのかもしれない。
実際、僕がヒルネットを始めたのは、そうした色々な「個性」を持つ子を受け入れられる「環境」を僕自身が作りたかったからです。
大人数を扱う「学校」に、環境の変化を求めるのは、そもそも難しいことなのかもしれません。

どうでしょう。
皆さんは、どう考えますか?
変わるべきなのは、「彼・彼女」なのか。「環境」なのか。

僕自身、また別の視点から、この問題を考えるため、来月にでも種々の「個性」からくる「困難」にぶち当たった子どもたちを教えている教室を見学に行く予定です。
そう。僕もまだまだ修行中なわけですね。

この問題については、また別の機会にも、「修行」の経過を書かせてもらおうとお思います。
それでは、それでは。

 

 

 

 

 

「無力」を自覚するということ

どうもどうも。
まだまだ暑いものの夕暮れ時も早くなり徐々に秋の訪れを感じないわけでもない今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

さて、本日のテーマ。
それは「無力」であるということについて。

これは最近、親として、また場合によっては「先生」などと呼ばれる立場にある人間として、つとに感じることなのです。
いろんなところに、そんなコメントを残したりしているので、知ってる人もいるかもしれませんが。

といっても、別段ネガティブな意味で言っているわけではありません。
むしろ、その自覚がなければ、親としても、「先生」としても、馬鹿な間違いをやってしまうのではないか。そんなふうに思っています。

それは、たとえばこういうことです。
子を持つ親で、自分の子どもの幸福を願わない人などいないでしょう。
もちろん、その「幸福」の形は様々なのですが。
そして、その子が小さいうちは、「私こそがこの子を守ってあげなくてはならない」、こう思うことでしょう。

これは当たり前の感情です。

しかし、その子がもう自分である程度、自分の面倒をみられる年齢になったならば。
本来ならば、徐々にその手を離していかなければならない。
しかし親というものは、自分の子に関しては、なぜだかいつまでも「頼りない」「心配だ」と思ってしまうもの。まあ、それ自体は良いのです。親心とはそういうものでしょう。

ですが、だからこそ冒頭に述べたように、その「無力さ」についても自覚的でなければならない。
つまり、心配することは当然であっても、もう僕たちは、彼や彼女の全てを「守ってあげる」ことなど出来ないのです。
ましてや、自分の思う「幸福」を子に押しつけたりしてはいけない。

「頼りないから」といって子のスケジュールを勝手に決めたりしてはいけない。
「心配だから」といって子の習い事や塾を勝手に決めてはいけない。
「まだまだ子どもだから」といって子どもが決めた進路や、そして人生の行く道に過剰に口出ししてはいけない。

いえ、口を出しても「無駄」なのです。
もはや、彼・彼女は僕たちが思うようには動いてくれません。
スケジュールは勝手にサボります。塾には行きません。
そしてもちろん、彼も、彼女も、自分自身の人生を生きはじめているのです。自分なりの「幸福」を見つけようと彼らなりの努力を始めているのです。

そして、これは「先生」という立場でも言えることなんだろうと最近、よく思います。

もちろん、「勉強」を教えること自体は、ある意味で簡単です。
受験その他のゴールがあって、そこに向かって努力する子どもに、「学力的」な補佐を行うことも、経験のある教師ならば難しいことではない。
あるいは「精神的」な補佐を行うことも、簡単ではないが、「伴走者」の役割を果たすことくらいはできるでしょう。
でも、これはあくまで「勉強」の問題です。僕が言いたいのは、そういうことではありません。

本来的に「教育」には様々な理念や目的があります。
主体的な判断のできる人間に育ってほしい。
好奇心豊かな、幅広い知見をもつ人になってほしい。
独創性に富む、柔軟な思考を身につけてほしい。

ですが、それらは、「教え」られません。

折々の機会に、たとえば何一つ自分から挑戦しようとしない子どもを見て、何らかの「説得」をすることはできるかもしれない。人生の先輩として、「言葉」で何かを伝える努力をすることも、完全に「無駄」ではないかもしれない。
ですが、その「説得」が功を奏するときがくるとすれば、やはり彼自身が何らかの「体験」を経て、自分自身の力でそれを学んでいったときなのです。
そういうときが訪れて、初めて、「ああ、あのとき先生が言っていたのは、こういうことだったのか」となるわけです。

じゃあ、「先生」なんていらないじゃないか。
「親」が無力であるなら、何もしなくて良いの?

もちろん、そんなことはない。
僕たち「親」も「先生」も、子どもたちの「体験」の一つであり、相関的な「環境」でもあるわけです。
そうであれば、僕たち自身が子どもたちにとって「刺激的」な「環境」であるべきでしょう。
子どもを守ろうとしたり、何かを無理にさせようとするのではなく、まずは自分が「幸福」であることを目指し、自分が「おもしろい」と思うことを探求すべきです。

手前味噌な話で恐縮ですが、僕がやっているヒルネットの、フィールドワーク等のテーマ学習では、僕自身がよく知っていることをテーマにすることは殆どありません。
もちろん、子どもたちと話し合って最終決定するわけですが、それでもなるべく僕自身がよく知らないこと、僕自身が知って「おもろいなあ」と思えることをテーマにします。

そうしないと僕が面白くないからです。
僕が面白くないことは、やる気も起きません。
そして「先生」が面白くないものを、子どもが面白いと思えるはずがありません。

だから、それは一見、無計画で無軌道な「学習」に見えるかもしれない。
しかし、計画的に一人の人間を「育てる」ことなどできるでしょうか?
ただ一人として同じ個性を持ってはいない子どもたちに、単一の「効果」を狙って、「主体性」を持たせたり、「好奇心豊かに」することなどできるでしょうか? できるはずがありません。

そうであれば、教師の役割は、より子どもたちが、刺激を受ける存在であろうとすること、自分自身が「おもしろい」と思える体験・環境に、子どもたちを巻き込んでいく存在であろうとすることのほかにはないと思います。
僕と対話し、僕とともに過ごし学んでいくその時間が、彼ら子どもたちにとって、より良き人生へとつながる「体験」となってくれるよう努めるしかありません。

僕が言う、教師や親が「無力」である、とはこういう意味です。
このことに無自覚であれば、己の「教育理念」に頑迷にしがみつく愚を犯しかねません。
子どもを「自己満足」のために「コントロール」しようとばかりしてしまうかもしれない。

いや、もちろん僕だって、特に「親」としては、まったく不完全な人間です。
ここに書いたように、子どもを「信頼」して接しているかと言われれば、反省すべき点ばかり見えてきます。
今日書いた記事は、だから自戒を込めたものでもあります。
ですが、だからこそ、今後も親として、そしてもちろん「先生」としても、自分の「無力」さを忘れずに、常に省みるようにしたいと思っています。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

「体験」が「学び」の種を作るということ

どうもどうも。
いよいよ夏休みが終わりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

前回のブログでも書きましたが、新学期の始まりというのは、どんな子どもにとっても憂鬱なものです。
子どもから何らかの「サイン」があったならば、「傷が浅い」うちにそれを受け止めてあげられると良いですね。まあ、なかなか難しいのですが。

さて、僕の活動としても、明日からヒルネットの活動再開です。
ところで、このヒルネットですが、そもそもこの活動を行おうと思ったきっかけは、実は「不登校」の問題だけではなかったんですよね。

いや、もちろん、数年前からそういう相談が増え、またプライベートでも何件か「不登校」「まだら登校」の悩みについて聞かされるようになっていたのは事実です。
だから、直接の動機がそこにあったのは間違いないんですが、ただそれだけでもない。

実は、ある意味でもっと別の問題として、ここ数年、ある疑問がずっと頭の中にあったわけなんですな。
それは、「どうして、子どもは学校に通いだすと、こんなに〈勉強〉を嫌いだすのだろう?」という疑問でした。

まあ正確にいうと、「学校に通いだすと〜」なのかどうかは判らないんですが。
しかし、とにかく自分の子ども含め、幼稚園や小学校1年生くらいの子どもは、むしろ〈勉強〉が好きとさえ見えるくらいなのに、中高学年くらいになると、ほぼ完全に「面倒なもの」になっている。

「3足す4はね、7なんだよすごいでしょ!」「僕ね、自分の名前漢字で書けるんだよ!」「夏休み旅行したこと作文に書いたんだよ読んでみて!」
まだ小さい子どもたちが、こんなことを先生に、あるいは両親その他の大人たちに告げている図を誰だってみたことがあるはずです。

実際、子どもというのは、本当は学ぶことが好きです。
特に自分が興味を持ったことを学ぶことは大好きです。しかも大人では太刀打ちできないくらい、吸収も早い。
そして、この点については年齢が上がっても同じかもしれません。自分が好きで、関心を持てたことについては、彼らは自分でそれを調べ、自分でそれを学びます。
それは、人によっては「恐竜」のことかもしれないし、人によっては「鉱石」についてかもしれない。あるいは「電車」のことかもしれません。

ところが。
これが学校の〈勉強〉となると、途端に「重荷」以外の何ものでもないみたいになってしまう。

これは一体何でなのか?

「強制」の有無、ということが一つの原因であることは間違いないでしょう。
毎日の「宿題」、「受け身」の授業、気分が乗らないときでも机に座り続け目の前の計算ドリルはこなさなきゃならない。そういう「作業」をこなす毎日。
こういう強制された「作業」を面倒に感じるのは、大人だって同じでしょう。

では、一切の強制がなければ、いいのか?
何も強制されぬまま育てられた子どもは、幼少期の、ある種無邪気な知的好奇心を保持し続けられるのでしょうか?

これはある部分ではイエスと言えるし、またある部分ではノーとも言えます。
なぜなら知的関心の持続的な涵養は、その子どもの置かれた環境、即ちその環境から与えられる連続した体験のあり方によるからです。

難しい言い方をしちゃいました。
簡単に言えば、たとえば周囲に自然環境が溢れ、種々の生物・動物と触れ合う機会が多く、またそれらの生物、たとえば花の美しさや薬草の効用、動物の生態についてよく話されるような環境にいたなら。
その子は自然と、成長とともに自然科学への好奇心を深めて行くことになるでしょう。
逆に、ゲームやテレビといった間接的体験ばかりの環境に囲まれたまま少年期を過ごした場合。その子の関心は当然「メディア」に特化したものとなるでしょう。

誤解なく言っておけば、僕は後者が悪いとは思っていません。その「メディア」に特化した体験から、むしろ天才プログラマーが生まれないとも限りません。
単純に、体験のあり方が、その子の知的な関心のあり方を決めるというだけです。

さらに言っておくと、10代半ばの思春期少年と、10歳未満の子どもでは、環境の受け取り方、つまり体験の質も変わるに違いありません。
たとえば、それこそ不登校になって昼夜逆転し四六時中グロテスクなホラー映画をみている環境が良いはずはありませんが、十代の一時期には必要な場合もあります(はい、すみません、これは15歳時分の僕です)。

話がずれました。
要は強制があろうとなかろうと、知的関心を刺激する経験がある程度与えられているかどうか。
また、その経験が次の経験を呼び込むような形で、連関する形で与えられているかどうか。そういう環境があるか。

そうした理想的な条件が整う中で、少年期の学ぶことへの情熱は持続するのだと思います。
いや、いま「理想的」と言いました。
実際、普通のご家庭で、そんな環境を常に持続させることは難しいでしょう。
自然環境に恵まれた体験がたくさんあっても、今度は歴史や社会的な事象にまるで好奇心を持たないということだってありえます。

ただ、僕はある程度、そういう形でも良いと思っています。
何でも、オールジャンルにできる必要はない。
ただ、関心があまりに狭められていない限り、種々の体験からの刺激により、一つの関心がまた別の関心へと扉を開く、そういうことはあると思います。
現に僕は30代まで、理数系の学問には何ら関心を持っていませんでしたが、中年になってから、それこそ仕事含め色々な体験の結果、強く興味を持つようになりました。

いずれにせよ、椅子に縛り付けられたまま黙々と計算ドリルを解くような「作業」から、数学的な好奇心が生まれるとは思えない。
歴史の年号をただ暗記するところから、現実の日本社会への関心など生まれない。

そうではなく、実際にかつての遺跡を見て、変わってしまった町を歩き、現実の体験からから様々な空想をめぐらすなかで、知的な関心というものは生まれるのではないか。
そしてまた、その過程で生まれた疑問や関心について調べる中で、知性というものは育まれるのではないか。

僕がヒルネットを始めようと思ったとき、一方にあったのはそういう思いでした。
果たして自分が思い描いた通りに物事が進んでいるかはわかりません。
いえいえ、はっきり言って「理想」通りにはいつだっていきません。それが「現実」の「体験」なのです。

それでも、しんどいながらも毎週フィールドワークに子どもたちを連れて行きます。
今年の秋には「お祭り」の屋台を出して、子どもたちに実際に「仕事」をしてもらおうとも思っています。
教室のなかだけでは味わえない「体験」をたくさんしてもらおうと考えています。

それらのうちの一つでも、彼らに「学び」の芽をつくってくれたならば、それだけでもやって良かったと思えます。

それでは、それでは。

追伸
最近、というかついさっき、インスタグラムも始めてみました。
と、言いつつ、実はよくわかってません。
https://www.instagram.com/?hl=ja
気が向いたらフォローしてみてください。