学びは「体験」と「仕事」から

どうもどうも。
ようやっと秋が訪れるのか?という半信半疑な気分で過ごす10月第2週目の現在、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はちょっと多忙すぎですどうしましょう(って知るかですよねハハハハハ……)。

さて、今日のお題は久しぶりに単純に「学ぶこと」について。

ところで、突然、宣伝ですが、僕が昼間にやっているヒルネットという「スクール」では、いわゆる「勉強」は強制しません。
かといってサドベリースクール的に、完全に「自由」というわけでもなく、いわば僕が「巻き込む」ような形で、色々な体験をしたり種々の物事を考えてもらったりはしてもらってます。
フィールドワークに行くことや、特定のテーマについて対話すること、「散歩」すること、そしてまた場合によっては「ヘイ!Kクン! 今日は日本の地理について学んでみようYO!」ってな感じで誘って「勉強」することもあります。

でも、やりたくない子はやらなくていい。
今日はちょっと気分が乗らないって日は、自分の好きなことをしていてもいい。
各自がその日のプログラムを自分で決めるのが「原則」です。

こういう形になっているのは、そりゃ古典最新の教育書を読んだり種々の施設を見学させてもらったりと色々準備段階で考えていたことも反映されてますが、結局は通ってくれている子どもたちの「個性」に合わせてつくりあげられていってる部分が大きい。
「アタマ」で考えていた通りにならないのが「人間」を相手にする教育ってもんなんですよね。良くも悪くも。

閑話休題。
でも、まあそういう「自由」な状況から、主体的な「学ぶ」姿勢、力みたいなものが生まれていくには、当然、時間がかかるわけです。
小・中学生ぐらいの年齢なら特にそう。

でも、実はこれって「ふつうの学校」に行っていたり、あるいはヨルネット(V-net個人レッスン)に通ってくれている子だって同じことなんですよね。
一日学校で教室に座っていたって、やる気のない授業、教科については、アタマの中で宇宙旅行に出かけていれば、何も入っていません。
「真面目」な子は、それでもテストや宿題を頑張るかもしれないけれど、そうでもない子は何にも「学んで」などいません。
酷い場合は、ただ「情報」を「苦痛」とともに受け取っているだけです。いや、情報すら入っていないケースが多いかも。。。。

個人レッスンの場合にだって、学ぶ気持ちゼロみたいなお子さんの場合は、大変タイヘン工夫が必要です。
そりゃ、学校やスクールと違って、一応「勉強」することを「目的」に通ってくれているわけだから、最初から「やる気ゼロ」みたいな子も珍しいわけですけど、それでも基本、小・中学生は親に言われてきてるわけです。場合によっては仕方なく。
だから、そんなに「主体的」なわけではやっぱり、ない。

そういう意味では、環境が「自由」であろうと、「強制」されていようと、主体的な「学ぶ力」みたいなものを養うのは、どうであれ難しいことに変わりはないわけなんですな。

だから、当然、子どもたち一人ひとりに合わせた工夫が必要なわけなんですが、そのケースバイケースを全部ここに書ききれるもんじゃない。
ただ、そのなかでもやっぱり核になるような大切なものがあるとは思います。

その一つが、やっぱり「体験」です。
例えば、地理や歴史はさっぱり覚えていないのに、植物や動物、果ては恐竜、古生物のことについては大人よりはるかにたくさんのことを知っている。
あるいは逆に、算数の計算は大っ嫌いだけど、歴史に関することを話すと目をキラキラさせて話に聞き入る子どももいる。

そうした子どもは、自然環境豊かなところで育ったのか。幼稚園のころ、たくさんお散歩に出かけたのか。昔、遊びにいった動物園がとっても楽しかったのか。
それとも歴史に関するマンガを読んで、実際、お城を見に出かけたのか。田舎のお祖父ちゃんの古い家に興味を持ったか。それとも、古い軍刀や日本刀を見たことがあったのかもしれない。

何がトリガーになっているのかは、はっきりはわかりません。
ひょっとすると、それは上記のような判りやすいものではなく、親も気づかないような些細なものかもしれない。
子ども同士の「遊び」のなかにあった小さな出来事かもしれない。

しかし、そうした幼少期、少年期の「遊び」の「体験」がきっかけとなって、またそれに関する書物等により「体験」が「追体験」される歓びを知ることによって、子どもたちはいつの間にか、ある特定に興味関心についての「博士」になっていくのだと思います。

主体的な「学び」とは、そういうものではないでしょうか。

そして、そういう「学び」を得た子どもたちは、長ずるにしたがい、「苦手」なジャンルのなかにも、関心の芽を育てる「力」を身につけていきます。
少なくとも、この二十年ほどの間、僕から見て「優秀」だと思える、今や立派な青年となった子どもたちは、皆そうでした。これは断言できることです。

そして、もう一つ。大切なこと。
それは「仕事」です。

「仕事」といっても、強制される「作業」じゃない。
だから、それは僕たち大人が(人によっては?)イメージする「仕事」とは別のものです。
例えば、英語の「Work」という言葉は、もちろん「作業する」という意味もありますが、もう少し広い意味で使われることも多い単語ですよね。
「作品」とか「研究」とか、「取り組み」みたいなニュアンスでも使います。

例えば、文章を書く練習をするのに、ただ「作文を書きましょう」と言ったって、やる気が起きるわけがない。
なぜって、そこには目的がないから。文章の先の読み手もいない。誰かを楽しませようという動機もない。
そんな文章、誰が書きます?

でも、そうじゃなくて、「小説」を書くのなら? ブログを更新するのなら?

このブログだってそうですが、どこかの誰かが読んでくれている、という確信があるから書いているわけです。休み潰して。
そんなに読者は多くなくとも、月に1000人くらいは読み手がいる。そう思うから書いています。

子どもだって同じでしょう。
誰かのための、不特定多数の読者のためのブログなら、書く気も起きるかもしれない。
小説は?
じゃあ、それをきちんとどこかの賞に応募するのが良いかもしれない。
今の時代なら、そういうサイトに投稿するのもいいかもしれない。

実は最近、ヒルネットでは、子どもたち、そして僕らスタッフ含めて、「坊ちゃん文学賞」というショートショートの文学賞に応募しました。
これも子どもたちと相談して決めたことですが、どうせ書くなら、確実に読んでもらえる文章を書こう。その点、賞なら下読みの人含めて、必ず誰かに読んでもらえるわけです。

しかも、これはほんとに「仕事」なんです。
この賞の賞金は大賞で50万円! これを獲ろう。獲って賞金で沖縄にみんなでフィールドワークに行こうじゃないか!というのが最初の企画でした。
もちろん、みんな本気で賞金が取れると思ってるわけじゃない(と思いますが。。)。
でも、そういう、なんというか明確な「ゴール」というか「目標」があるのが、「仕事」において重要な要素だと思います。

実際、これはヨルネットで教えている高校生の話ですが、彼は昨年、中学三年の折に、学校課題で出した松本清張の感想文が、なんと松本清張記念館主催の賞を受賞、賞金図書券3万円をゲットした上に家族博多旅行交通費を手に入れることになりました。
そのおかげで、今年の夏にはやはり松本清張の感想文を、今度は課題とは関係なく仕上げ、さらに別にショートショートの小説二本を、これまた学校の「強制」とは無関係に書き上げ応募しています。
この彼は、小学校時代、都立中高受験の作文が苦手だったために習いにきた生徒でした。
その彼が今では、まさに「主体的」に文章を書くまでになったのです。
それは、彼が文章を書くことを、作業ではなく「仕事Work」=「作品」に取り組むことだと理解してくれたからなのです。

また「仕事」には、個人ではなく、集団で行うものもあります。
これまたヒルネットの話で恐縮ですが、僕たちは、この10月の20日、杉並区が主催する「杉並舞祭り」というお祭りにキャロムを中心としたゲームとアクセサリー販売の屋台を出店する予定になっています。
これの企画、内容も皆である程度話し合って決めた(というか決めている途中)なのですが、やはり例えば、アクセサリーを作るのが苦手な子もいれば、そういう場所で赤の他人(しかも相手も子どもだったりする)と話し販売するのが苦手な子だっている。
でも、そんな子たちも、それが皆で決めた「仕事Work」=「務め、取り組み」ならば、なんとか自分なりに何か作ろうとするし実際、みな販売参加するのを楽しみにしています。
手前味噌な話ではありますが、家庭科の時間の裁縫のような強制された「作業」とは違う、「仕事」の喜び、協働することの「学び」が確かにここにはあると思います。

このように、目的のない強制された「勉強」とは違い、自分から何かしらの目的、目標を定めて行う「仕事」には、やはり何かしら主体性の芽を育む力がある。
それは文章を書くような、直接的な「勉強」にかかわるケースもあれば、お祭り出店のように、勉強というよりは、社会的な協働性のような、間接的な「学び」を得るものもあるでしょう。また「手作業」をすることによる創意工夫の「学び」でもあるでしょう。
しかし、そのいずれもが、現実にこの社会に出て生きていくために必要な「学び」だと思います。

そのような「学び」を主体性をともなった形で得られるようにする、その一つのフレームが、この「仕事」という、これまた一つの「体験」なわけなんですね。

どうでしょうかね。
まあ、前回も書きましたが、私だってまだまだ修行中の身です。
今回は、「体験」と「仕事」という二つのフレームから書きましたが、もちろんこれら以外にも、子どもたちの主体的な「学び」を引き出す工夫はたくさんあると思います。
このブログでも、それこそ僕自身の「体験」のなかで、そういうものに気づいていけたなら、またご紹介しようと思います。

それでは、それでは。