コロナ禍と「学校」

どうもどうも。
皆さんチョーお久しぶりですが如何お過ごしでしょうか。僕は中学生以来三十年ぶりの引きこもり生活が快適すぎてヤバイです(いや半分ウソです。焚き火やハイキングはしたいです)。

さてさて、どうしてこんなに更新が空いたのか。忙しかったのか? いやコロナでそんなはずない。じゃ、何してたの?
なんと空気も読まず一心不乱にヒルネットのHPを新しく作り変えてました
ゲームやってる中学生と変わらん。。。
まあ、もし興味があったら、こちら覗いてみてください。って無いかな?

いや、実際はそんなに暇なわけでもなかったんですけれどね。
この間、ヒルネットの活動はへこたれずにオンラインで頑張る(その様子はこんな感じ)。
個人レッスンもオンラインで継続。5月からはグループレッスンも始めました。
まあ、PCスキル人並みな僕が、そういう環境、状況に慣れたり慣れなかったりしているうちにあっという間に時間が過ぎたということもないわけではなかったかな、と(などと言いながら溜めてた映画を見まくる時間はあったという謎)。

しかも、実は、この間一本は記事を書いていたのですよ。
しかし、結構ふざけて書いてたら、たまたま下書き内容をもれ聞いた奥様から絶賛炎上案件になるからやめときという中止の勧告を受けましてね。。。
え? 何を書いたんだって? もちろんフツーの内容です。

また、さらに書こうと思って途中でやめてしまった記事も何本か。
オンラインの教育の問題点だとか9月新学期制の是非だとか。
そんなテーマの記事をいくつか書こうとしてました。
でも、途中でどうも気分が乗らなくなっちゃったんですよね。

なぜか。
一つは僕自身が、新小6と新小1の子どもを持つ親だから。当事者性が高すぎて、あまり客観的に意見を書けない。
いや、客観的な意見なんかこのブログでは一度も書いてきたことないやんけという真っ当な批判はともかく、これらの問題は「対象となる子どもの年齢」によって大きく考えが変わってしまうもんだと思ったんですよね。

中高生にオンライン授業は可能でも(可能じゃない子もたくさんいるけど)、低学年男子にはちょっと難しい。
いや、例えば小1男子の親である僕なんかが求めてるのは、正直そんなもんじゃなくて(つまり勉強なんかじゃなくて)、友達とたくさん遊ばせてあげたいとか進級進学したという心理的プロセスを経験させてあげたいとか、まさしく「体験」による学びの部分が大きいわけです。
その部分にオンラインはあまり役に立たない(まあ、ゼロじゃないですけどね)。

9月新学期制の議論はもっとややこしい。
正直、グローバル化がどうとか言ってる奴にはアホかという言葉以外ないんですが、これも今、公立小学校に通わせてる親の感覚と、中高生や大学生、未就学児を抱える親とでは、見える世界が全然違う。
僕個人のFacebookに流れてくる知人友人の母親たちの意見も、全然違うんですよ。
そういう色んな視点を考えているうちに、まあ書く気を失ったという感じでした。

でも、実は。
実は、2番目の理由の方が大きい。

その理由というのは、そもそもオンライン学習にせよ9月新学期制にせよ、その他諸々のコロナによる現今の問題を、既存の学校制度を前提として考えることが空しいということ
これが、1番の理由です。

ヒルネットの活動はもちろん、個人レッスンなどでも、種々様々な個性、異年齢の子どもたちに接していると、同じ年に生まれたからって成長の度合いも個性も違う子どもたちに同内容の授業を一斉に行うってことが、いかにナンセンスかってことがわかってきます。
半年や一年の学習の遅れなんてナンボもんじゃいって感じです。自分から学ぼうと思いさえすれば、そんなの「遅れ」のうちに入りません。
オンラインで学べる子は、学校なんかなくても、いやそもそも授業なんてなくても、自分でどんどん学びます。

そう。
実際、今回のコロナ禍で一番気づかされたことは、おそらく多くの人に自明だった「学校」という場所の役割が、本来どういうものであるかということだったんじゃないでしょうか。

学校は「勉強」をする場所。
今でもそう考えている人もいるかもしれない。学校がなくて「勉強の遅れが〜」と心配する人はそうでしょう。
でも、オンライン教育で十分なら、別にわざわざ学校行かなくてもよくない?
ましてZoom等により双方向で行うならまだしも、配信授業や課題提出型のオンライン授業なんてyoutubeと一緒やん。いっそ教師もAIでええやん。

ウソです。
それで十分なんて子どもはそんなに多くはありません。
多くの子どもは「退屈」な授業なんて黙って聞いてはいられません。それこそ昭和の昔から。
また、そのうちの何割かの子は「ツマラン」ことには耐えられないし集中できない。別の「オモロイ」ことを次々思いついちゃう「個性」を持ってる。
普段、教室でなら、「ツマラン」授業に耐えかねて外に出て行ってしまったり、友達と悪ふざけをしたり、あるいは脳内の自分の小部屋で「想像」に興じたりしてしまう。
そんな子たちに、配信型のオンライン授業が、「オモロイ」と思ってもらえるでしょうか? いや双方向型でも、40人とかの授業で「画面」の前に座ってられる?

さて、さて、じゃあそんな彼らにこそ学校は必要なのか?
ところが当の学校は、今ではそういう子どもたちの「居場所」としては機能しなくなっている。
最悪の場合、「追い出す」ようなことまでやっている。
この点については、当ブログでも詳細を書いてきた通りです。

実は学校は「勉強」を教えるところではない。
というのが言い過ぎにしても、とりわけ高学年においては、その機能を少なからず失っていることは、ずいぶん前から言われてきたことです。
そうでなければ、学習塾などの教育産業の隆盛はありえない。

じゃあ、ふつうの親は、あるいは子どもたちは、そもそも学校に何を期待していたか?
はからずも上で僕が息子に関することで書いている通りです。

それは学校という場所を通じて、友だちと遊んだり、その友だちとこすれあい、嫌なこと含めて種々の体験をすることです。
体験を通じて成長のための「学び」を得ることだと思います。

ところが。
今では、そうした「居場所」としての機能も、学校は失い始めている。少なくとも、そう感じる子どもが増えている。

これは、この30年間、子どもたちのありようにあわせて、そのシステムをアップデートしてこれなかったことのツケがまわってきているためだと言っていいでしょう。
四十人の詰め込み学級や規律重視の集団行動、そこからくる同調圧力を生みやすい共同体性。
オンライン教育の不備だとか色々言われますが、その根本には、こうした学校制度の古い古い体質があるように思われてなりません。

つまるところ。
このコロナ禍であらわになったのは、既存の学校制度の存在する意義が薄らいでいるという事態だと思います。
なにゆえに「つまらない」学校に通わねばならないのか?

そうは言っても、この休校期間が終われば、多くの子どもたちは、学校に戻るのでしょう。
もちろん、そこで楽しく少年時代を過ごす子どもたちもたくさんいるでしょう。

しかし、確実に、それに疑問をもつ子どもも増えていく。
おかしいと思う親たちも増えていく。
学校が自分にとって、自分の子どもたちにとって「楽しい居場所」でないのなら。
そこでの体験がそれぞれにとって素晴らしい学びにつながらないなら。かえってそれがネガティブな体験になってしまうのなら。

そうであれば、学校以外の「居場所」を見つけたっていい。

フリースクールやオルタナティブスクールなど、日本には学校以外の「居場所」が、たくさんあります。
このコロナ禍を一つの契機として、徐々に徐々に、そういうオルタナティブな「居場所」を主体的に選んでいく子どもやその親御さんが増えていくかもしれません。

ともあれ。
今般の情勢では、来週いっぱいで休校期間は終わり、再び学校が再開しそうです。
再開を喜び、楽しく学校に通い始める子どもも、もちろんたくさんいるでしょう。
ですが、その一方で、長い「休暇」の反動から、今まで以上に学校という「場所」を窮屈で不快なところと感じてしまう子も出てくるでしょう。
そして、そうした子どもたちは、無条件に学校に通うことを、今まで以上に疑問に感じるに違いありません。

もし、そんな兆候をお子さんが見せたなら。
どうか、学校とは違う居場所を見つけてあげてほしい。
「エネルギー切れ」の状態になる前に、彼彼女がのびのびと「学び」を体験できる場所を探してあげてほしい。
そう願わずにはおれません。

それでは、それでは。