不登校と「差別」

「フリースクール? フリーやフリーや言うて何でもかんでも自由にさせて学校もええ加減に通うて良いもんですかいなあ? いや、最近も芸能活動があるから学校休ませてくれえ言うて連絡してきた保護者の方がいましてんけどな。ま、そら義務教育ではあるけれどもご家庭の方針には私らも口出せませんのでね。好きにしてもろたらええんちゃいます?」

いきなりの書き出し。パワーワード連発のセリフに何じゃこりゃ?とお思いでしょう。
これ、ウチの愚娘(誤用)が4月から一応通うことになってる中学校の副校長先生のお言葉です。
地元の公立小学校に通いつつ、私のやってるフリースクールにも参加している愚娘(あくまで誤用)。
中学校でも同じような通学生活リズムでやれないかって話を事前に学校側と詰めておこうかと、ふと思い立って今朝、我が家の奥方様がその中学校に電話したところ、上記のような応対が帰ってきたとのことです(なお大阪弁は演出です)。

奥様、激おこプンプン丸でござる(古い)

夫婦二人でムカついてラーメン食いにいっちまったよ(関係ない)。

しかし、久しぶりにひどい対応にあった。この世界には女性差別もあれば肌の色や国籍で差別する輩もいる。各種のハラスメントも存在する。
しかし、不登校的問題と芸能活動を一緒にされるとはなー。一瞬、昭和にタイムスリップしたのかと思っちゃったぜ!

もちろん、僕は商売柄、小学校にも中学校にも、いろんな教師がいることを知っている。
とんでもなく教師に向いてない教員資格保持者は時々だけれど実際にいる。
逆に公立小中学校でも「こんな素晴らしい人材が公教育にいていいのか?」と何だか倒錯気味に感じてしまうような良い先生だっていらっしゃる。
そして、そんな有能無能な教師たちがどう足掻こうと、学校システム自体にどうにもならないところがあることも知っている。

知ってるんだけどな。
でも、実際、こういう酷い対応受けちゃうと、けっこう改めて絶望しちゃうぜ!

上に女性差別や人種差別云々の話を書きましたけれども、「不登校」の問題には、少しだけ差別問題と通じる部分がある気がします。

差別問題ではよく、差別する側が被差別者の境遇に対してほとんど想像力を働かせることができないということが指摘されます。
あるいは、その想像力の無さが問題を矮小化して捉えさせます。
例えば、女性差別であれば、ホモソーシャルな組織の中にあって女性が男性側に過剰適応せざるをえないような心理的圧迫を、多くの男性は想像し難い。
ひどい場合は、「そんなの大した問題じゃないじゃん。仕事の人間関係なんて多かれ少なかれそんなもんだろ」ってな感じで済ましてしまいます。差別している意識すら生まれない。

もちろん、差別には種々の問題があり、こんな小さな記事で全てを語ることはできません。
上の例だって、それこそ「差別問題を矮小化してる!」などと叱られるかもしれません。それだけ政治的に根の深く射程の広い問題です。

ただ、僕が教育において問題にしたい「差別」についてだけ言えば、上の例は非常に適合的です。

例えば、「不登校」の問題を、ただ「怠けている」「楽をしようとしている」と見なすような見方。
いや、さすがにそれは「昭和」の昔だけでしょうと思いますが(思いたいですが)、今日の「副校長」のように芸能活動と並べて語られるところを見ると、少なくともそれが子どもたちにとっての深刻な内面の危機であるとの認識は、必ずしも共有されていないのかもしれません。

あるいは、不登校に陥った子どもたちが、ゲーム漬けになっている、YouTube漬けになっているといった言説。
皆が皆そうであるわけではありませんし、仮にそうであったとしても、状況は人ぞれぞれです。そうした「充電」が必要な場合もあれば、ゲームやツイッターが「社会」との唯一の窓口となっている子もいます。
さらに言えば、それらは学校に行っていようがいまいが、関係のない問題です。
にもかかわらず、「不登校」という状態と、「とある社会で否定的に捉えられがちな状況=言説」を結びつけて語ろうとする欲望が社会には確かに存在します。そしてそれは、ある種の「差別」なのだと思います。

ただ、一方で、「不登校」という状況に対して、過剰に「同情的」であることも、僕は何やら居心地の悪いものを感じます。
「学校に行けなくて、さぞ大変でしょうね!」「中学にいったら、また通えるようになるかもしれないよ!」
いや、もちろん善意からの言葉であることは判ります。
でも、ね。
学校に行けなくたって、別にそんなに「不幸」じゃないですよ。
別にそれを「ギフト」だとか「才能」だなどとカウンター的に持ち上げる必要もまったくありませんが、小中高校なんぞちっとばかし行かなくても、僕自身や同じく不登校経験のある友人その他の人生から考えても

オラ、めっちゃ幸福だったぞ!

と断言したって良いです。
学歴が欲しければ、高卒認定試験とれば大学にも行けます。その他、今は通信制の高校だって充実してますしね。道は無限にあります。
ちなみに大学は高校までのシステムとは全然違いますから、「不登校」経験があっても、大抵はちゃんと通えます。

もちろん、人と少し違う道を歩むのですから、それ相応に努力は必要かもしれません。
でも、それはおそらく、どんな人生を歩んでいたって同じことです。

いずれにせよ、不登校は「特別」なことではありません。
まして「差別」的言説など言語道断。

僕の耳には、毎日のように、知人から、友人から、親族から、「不登校」の問題に悩む親御さんの話が入ってきます。
そういう意味でも何ら「特別」な事象ではなくなっているのだと思います。
むしろ、それらは現行の学校制度がいよいよ「ダメ」になってきている証左のようにすら思えます。冒頭の「副校長」のようなタイプの「学校の先生」は、そちらを心配した方がいい(いや、ちょっと副校長出しすぎですけど、あくまでそういうタイプってことね。ほんとは良い人かもだし)。

いずれにしろ、遅くとも今の子どもたちが「親」になる未来には、「不登校」などという「特別な言葉」がなくなっていると良いなと思います。
皆が皆、それぞれの個性に合わせた教育のありようを選択するのが当たり前、そんな未来が実現していると良いなと思います。

それでは、それでは。

追伸
今日は2月の1日。
中学受験ほ本番が始まり、高校大学受験も佳境に入っている時期です。
僕は現在もヒルネットの活動以外に、個人レッスンで多くの子どもたちに勉強を教えています。もちろん今年、受験する子どもたちもたくさんいます
本当は、そんな子どもたちにの未来に向けて、明るいメッセージのこもった記事を書こうかとも思いました。残念ながら上の内容を優先してしまいましたが、最後に彼らに一言、書いておきたいと思います。

これまで、そして今日、君たちはとても頑張ったね。
その「今日」の頑張りは、目の前の「結果」のためのものだけじゃない。
少なくとも「結果」だけを求めた努力じゃなかった。
その頑張りは、努力は、必ず君たちに素晴らしい「明日」を作ってくれる。
「結果」の先にある、自分だけの輝ける「未来」を、今日君たちはその努力によって手に入れたんだ。