自分の人生のカタチ

どうもどうも。
あれ、三月も半ばになるけどブログの更新ないし、イマンモのオッサン、いよいよ記事書くの疲れ果てたんかなーなどと思っていたかもしれない皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
いや、わたくし記事をアップするのをサボろうと思ってサボっていたわけではございません。いや、結果、サボることになっていたんだけれども、少なくともワザとじゃない。

確定申告まじ辛かったでござる

そう、2月の終わりから日曜月曜の休みは、この作業に追われておったのでござるよ。。。
何でだろーなー1年前も同じことしてるはずなんだけどなー全く記憶に残ってないんだよなー
っと、中間期末テストのときだけ勉強して受験時にその記憶がどこにいったのか脳みそにフルリサーチかけるも情報が完全に断片化していることを知って絶望の淵に立たされる学生の気分でごわした(無駄に長い比喩)
オレの頭のデリートキーを何とかしてけれー

さてさて、ふざけている場合じゃない。いや、いつもふざけているけれども。
こんな完全にその場のノリでのみ書き散らかしているブログでも、何かしらの心の慰めにしてくれているという声も聞こえてくる昨今。何か書かねばならないのである。
(あ、関係ないけど、最近、悩んでるんすよねー。このブログ、無料版ワードプレスで作ってるんですけど、やっぱもうちょいメジャーなブログ媒体で書いた方が良いのか。いっそnoteとかで書くのもありなのか。。。広告とか出てくるのもウザイし、どういう形がいいんだろ? 詳しい人教えてください)

と、また関係ないことを書き垂れ流しておる。。。

で、今日は何を書こうか。
実は書く余裕のない時に限って、色々書きたいネタってもんは出てくるもの。おいらはフリースクールをやってるけれども、公教育もやっぱり頑張ってもらわないかんわなーとか、いろいろシステムや選択肢はあっても教育ってヤツは結局「人」だよなーとか、この間、いろいろ考えておりました。

そんでもって、結局、今日のテーマ。
それが今日のタイトル。「自分の人生のカタチ」を見つけること

さらに言えば、そこには修飾句を足して「楽しく生きるための自分の人生のカタチ」、でも良いかもしんない。

お、なんかカッコええこと言うとるやないかい、っとお思いでしょうか?
いや、そんな難しいことを言いたいわけじゃないんです。

要するに「自分に合った人生ってどんなものだろうか?」「自分はどんなふうに、どんな場所で生きると良いんだろうか」ってなことを漠然と意識するってことです。
これは「夢」を持つ、とか、有意義な人生とは何ぞや、とかっていう「高尚」な話とは別のことです。具体的な職業とも違う。

例えば、極度に人見知りで他人とコミュニケートを取るのが非常に不得意な少年がいたとして。
その少年にとって、大学に進学して会社員か何かになって、大規模な組織の中でいろいろと人間関係のストレスを溜め込みながら生きていくのって、幸せな人生でしょうか?
いや、大多数はそんなの我慢して「大人」として生きてるんだよってのは判りますが、判った上で、あえていうと決して幸せじゃないですよね?
ましてや、その子が人見知りどころか、「皆と一緒」的な共同性や同調性に従うのが極端に苦手だった場合。
「フツーの会社員」になるのが幸せだとは思えない。
でも、じゃあ彼にとって「幸せな人生のカタチ」はどんなものなんだろうか?

そういう「どういうふうに生きるのが自分に向いているか」「どんな人生を送ると自分はけっこう幸せか」って問いと向き合うことって、10代の少年少女にとって、いやそれどころか30歳くらいまで、人間にとって大切なんじゃないでしょうか。
そして、そうした問いに気づける「経験」が必要なんじゃあないかな?

またまたホントに恥ずかしながら、個人的な話をします。あくまで一例として。
ここで何度も書いている通り、僕は中学2年以後、不登校に陥り、一般の高校生活を送ったことがありません。
では、もし僕が不登校という状況を経験しなかったら、どうなっていただろうか?
こんな「 if 」ははっきり言って無意味ですが、時折、想像することがあります。

現在の僕は、おそらく知人の皆さんから見れば、比較的快活で人付き合いもよく、何よりよくしゃべるオッサンという印象でしょう(え、そんなことないって?)
まあ相変わらず「鬱気味」の時は人に会うのも嫌な性格ではありますが(「ゾンビモード」と呼んでます)、少なくとも比較的「明るい」、イマドキの子の言葉で言えば「リア充」です。ま、そうじゃないと、教師なんかできませんしね。

でも、少なくとも少年時代の僕は、全くそんな性格ではありませんでした。
先の言葉で言えば、常に「ゾンビモード」全開でした。

人見知りが激しく、何事をするにも自信が持てず、他人に嗤われることを恐れてかえって「笑われる」キャラを演じるようなタイプの子どもだったのです。

そんな僕がもし「不登校」に陥らなかったなら。
今と同じような人格になっていたでしょうか?

おそらく、なっていなかったのではないかと思います。

「不登校」に陥って以来、しばらくの「冬眠」を経てから、「外の世界」に出た後の僕は、自分と合わないような人間とは一切、付き合ってきませんでした。自分と波長のあう、価値観のあう少人数の仲間とだけ青春を過ごしました。仲間は「変わり者」と言われる連中ばかりでした。
そもそも「大規模」な集団に属したことはありません。大学や大学院には長々と通いましたが、ご存知の通り、大学は集団生活を行う場ではありません。それぞれが個別に学び過ごす場です。

「自己肯定感」という言葉があります。
これを養うには養育環境その他の要因があるでしょうが、僕の場合は、これら10代の仲間と過ごした経験も大きいように思う。
僕は、それら小規模な集団、「変わり者」たちと過ごすなかで、「こんな自分でも良いのだ」と感じることができるようになりました。
学校に通っていた頃、翌朝を迎えるのが嫌で眠れなかった僕が、初めて「明日はこんなことをしよう! 彼と、彼女と、こんなことをして遊ぼう!」と翌日を待ち遠しく思えるようになりました。

そして、漠然とながら学んだことがあります。いや、少なくとも、後日了解できたことがありました。
僕が自分に自信がなかったのは、「学校」という共同性を強く求める大規模集団に属していたからなのだ、と。
他人にうまく合わせることができない、(おそらく多動的だったために)人の話を最後までちゃんと聞けず、他の子どもたちと同じ行動が取れない。そんな子どもだった僕にとって、学校生活は自信を失う出来事の連続だったわけです。

そういう場所から身を離すことで、僕は自分がどんな人間で、どんな人生を生きるべきか、次第に学んでいったわけです。
自己を肯定する心を養うとともに、自分にどんなことが向いているか、どんな場所で生きていくべきか、徐々に徐々に、人生の「カタチ」を見出していったのだと思います。

もちろん、これは僕のケースです。
「不登校」という経験が特別に必要だと言いたいわけでもありません。人によっては、一見「平凡」に見えるかもしれない学生生活を楽しく過ごすのも良いでしょう。
ただ、どんな青少年時代を送るにせよ、その中で、自分がどんな場所で、どんなふうに生きていくのかを見つけていくことは大切でしょう。

それは「夢」を持つこととは、全く別のことです。
そうではなく、自分にあった人生を模索することです。


お、なんかビミョーに当たり前なことを書いている気がするな。
誰だって人生模索しとるわい、って感じもする、、、

でも、ね。
実はこんなことを書いたのは、やっぱり今、自分を「平凡」だと見なせない子どもたち、ある種の「挫折」を感じているかもしれない子どもたちとその親御さんのことを考えているからなんです。
僕の耳には、本当に、本当に、毎日のようにそうした「悩み」の声が届きます。

いま、実際に「不登校」を経験している子どもたち。
子どもの「発達」に関して、なんらかの心配を抱えていらっしゃる親御さんたち。

彼・彼女たちはひょっとすると、お父さんやお母さんと似た人生を送ることはないかもしれない。就職はしないかもしれない。大学にも行かないかもしれない。
しかし、彼・彼女は、その現在の境遇に悩みもがく中で、自分の人生の「カタチ」を見つけようとしているのかもしれません。
自分自身と向き合う中で、人生を生きるための「チカラ」を養っているのかもしれません。
そして、そうした誰の人生とも似ていない「自分の人生を生きる」ことができたなら、それは彼・彼女にとって幸福なことに違いありません。


今でも、僕は「小規模な気の合う仲間」としか、仕事をしていません。
V-netが、そうです。
そして、ヒルネットという、かつての自分と同じかもしれないような子どもたちが集える場所も作りました。

そしてヒルネットの子どもたちが、「こんな自分でもいいんだ」と思えた上で成長していってくれれば良いなと思っています。

それでは、それでは。