フリースクールにだって簡単にゃ行けんさ

どうも、どうも。
東京は今日も雨。めっちゃ雨。いよいよ僕の天敵たる梅雨の季節がやってきた模様です。っていつもより早くない?早すぎない?
いやー雨は大嫌いなんですよ。濡れるのが嫌い。見るのも嫌い。思春期のころ雨が降ると天パの髪が湿気のせいですぐフニャフニャになってムカついたトラウマのせいなんでしょうか。農家の人には悪いが梅雨ほど嫌いなものはない。そうだ、北海度に移住しよう。

などと、雨が嫌いとうことだけで、すでに一定の文量を消費してしまっている駄目ブログですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

さて、本日のテーマ。
それは「別にフリースクールに無理に通わせようとせんでもええ」。

お、なんだ、この自己否定的なテーマは。
先日の記事で書いた通り、せっかく自分でフリースクールを始めて2年が経ったっちゅうのに、なんでそんなこと書くんや?
というか、「フリー」なスクールなんやから通わなくていいのは自明でないのん?

おっしゃる通り、「フリースクール」は当たり前ですが、通っても通わなくてもいい場所です。
まさしく、そこは「自由」な学校のはず。

ところが、最近、公私ともに相談ないし質問等受けるものに、以下のような話があります。要約すると、
「息子or娘が中学校に行かなくなった。それはもう仕方がないが、せめてフリースクールに行けばどうかとすすめるのだが、これを息子or娘が断固として拒否する」
ってな話です。

これ、親として、気持ちすごくわかる。
僕自身、自分が不登校だった経験から、あまり学校制度自体には重きをおいていませんが、自分の娘&息子が平日の昼間っからちゅどーんと家に居られると、「ヘイYOU! お前さんの少年少女的ニチジョーはマジそんな感じでダイジョーブなのかYO! せめて太陽の光サンサンと浴びてセロトニン出す生活してみたらどうだってばYO!」って口走りたくなります。

だから、とりあえず我が子の「不登校」という現実を受け止めた親御さんたちは(こうなるにも相当の修行が必要ですよね)、「学校以外の通う場所」を見つけてあげたくなります。
いや、別に家に子がいてくれてもいいんですが、特に都市部に暮らしている人間としては、せっかく学校以外に色々な「学び場」があるのだから、そういう場所を利用した方がこの子の人生の可能性が広がるんじゃないの? そう考えてしまいます。いや、「しまいます」と書きましたが、それが至極フツーでしょう。

また、他者と関わらない少年時代を送ることで、大人になったとき一定程度必要な、社会性が身につかないのではないか、という心配もあるかと思います。

ただ、ね。
上の要約文に、あえて「中学生」と書きました。
というのも、やはり中学生以上の年齢の子にとって、場合によっては「フリースクール」に類するものは結構ハードルが高い。
なぜか。
これは以前、記事にした記憶もあるのですが、中学生ぐらいの年齢の子どもたちは、ただでさえ自意識がめっちゃ発達している。というか、大人から見るとヘンテコに発達している。
「え? そんなこと気にするの? 君の寝グセなんか誰もみてないよ?」と言っても寝グセひとつで世界の全体が自分を嘲笑しているかの錯覚に陥るのが14歳の少年少女。エヴァンゲリオンに乗れる子どもたちの条件なのです。ATフィールドは心の壁なのです(すみません)。

だから、彼・彼女らは、できれば「ふつう」でいたい。
大人である親以上に「ふつう」からはみ出すのが「怖い」のです。

いや、もちろん、そんなふうには決めつけられない。そうじゃない成長期のお子さんだっているでしょう。
あくまで、これは相対的な話です。
ただ、少なくとも、「俺はフツーなんて大嫌いだぜ! 変人呼ばわりけっこう! 俺はそこらのフツーの大衆とは違う生き方をするんだぜ!」などとシャウトできるのは大人の中二病患者だけです(僕とか)。
まあ、多くの場合、少なくとも高校生以上ぐらいの年齢にならないと難しい。

ともあれ、仮に「ふつう」からはみ出すことを恐れる自意識に苦しんでいる中学生くらいの少年少女がいたとして、彼らがいわゆる「不登校」の状態に陥っていた場合。
学校には行けない。でも、そんな「ふつうじゃない」自分がイヤだ。じゃあ、どうすればいい? やっぱり学校に行こうか。でも朝起きると、やはり学校に行くことは「不可能」になる。でも、それはきっと「ふつうじゃない」……。
この堂々巡り。
この、どうしようもない心理的隘路から抜け出すのにすら、子どもによってはかなりの時間がかかるものです。

そこに。
「もう学校行きたくないんなら、行かなくていいよ。それより、〇〇っていうフリースクールがあるから、ここに通ってみること考えてみない?」
という親からの提案。
それは、まだ心の整理のついていない彼・彼女からすると、「いやいや待ってくれYO! まだ俺その段階じゃないから!」ってなっちゃいますよね。


つまり、「フリースクールに行く」という選択は、「不登校の自分」=「ふつうじゃない自分」を認めることになりかねない選択なのです。それを受け入れるには、まだ準備が足らない。
そして、場合によっては、そのような提案をしてくる親は、自分のことを「ふつうじゃない」と見ているんだと思い、傷つき反発します。

いや、保護者は悪いんじゃない。
お父さん、お母さんだって悩んだ末に、子の「不登校」を受け入れ、そういう提案に至ったはずです。ただ、大人である僕たちと、子どもたちとでは、心の時間の流れ方も違えば、色々なことを整理するやり方だって違うというだけです。
(ついでに言うと、「保護者が悪いわけじゃない」ということ。これは何度も言っておきたい。
子どもが「不登校」になると、特にお母さんたちは、「私の〇〇が悪かったのでは?」「あのとき、こうしておけば良かったのでは」と自分を責めます。その心理も痛いほどわかります。
でも、「素晴らしい子育て」なんて、みんなできるわけがない。
誰にとったって「親」になることは初めての体験なのです。
そして、子が「不登校」になったことは、貴女の「失敗」などでは断じてない。それは、その子にとって、必要な「成長のプロセス」なのです)

さて、ではどうすれば良いのか?
もちろん、それは一人ひとりの子どもによって違います。ケースバイケース。
ただ、それでも大まかに言って、いくつかのモデルケースはあるかと思います。

まず、大前提として、その子ども自身がある程度、「動き出す」兆候をちょっぴりでも見せてくれるのを待つ必要があります。
繰り返せば、まだ上記のような心理的悪循環の中にいる状態、言葉を変えれば、「エネルギー不足」の状況で、親がいろいろ提案をしたって、「シャッター」を下されてしまうのは、目に見えています。
あくまで、彼・彼女が自分のココロと折り合いをつけるのを、ある程度待たなければいけない。

その上で、彼や彼女が、少し前向きに、「外」に出ても良いかな、といった素振りを見せてくれたなら。
例えば、高校受験をどうするか、なんて話を子どもの方から、ふと振ってくることがあったなら。そんなことを考えられるだけの「エネルギー」が満ちてきたなら。

そのとき、初めて色々な選択肢があるという話をしてあげれば、良いと思います。
高校には必ずしも行かなくとも高卒認定試験などの制度があること。
通信制の高校だってたくさんあること。
そして、もし今、人と交わっていく気持ちが少しでも芽生えてきたのなら、フリースクールのようなところに通うことだってできること。

何も目的は高校なんかじゃなくてもいい。
僕の知っている子は、ただ何となく何も勉強していないと不安だから、と塾に通い始めた子もいます。
好きだった絵なら、習いに行ったっていいと言って画塾に通うようになった女の子もいます。
それどころか、なぜだか突然、旅行がしたいと言って、自転車で全国をめぐるようになった少年もいます。

フリースクールは一つの「手段」にすぎません。
どんな形になるかはその子次第です。が、必ず子どもたちは、自分に合った、「外」の世界との向き合い方を見つけていくはずです。

もちろん、この話は中学生だけのことではありません。
早熟な小学生高学年くらいの子であれば、中学生と同じように、自意識からくる苦しみを感じている可能性が高い。
特に近年は不登校の低年齢化が進んでいます。
とはいえ、やはり小学校の低学年、中学年くらいの子であれば、まだフリースクールや、その他のオルタナティブ教育に、親がすすめるままに乗ってきてくれることも多いでしょう(もちろん、これだってケースバイケースです)。
そして、そんなふうに自意識がまだ育ちきっていないからこそ、学校以外の場所であっても「他者」と触れあうことの効用は大きいと言えるでしょう。

逆に言えば、中学生くらいまで「学校」の中で「他者」に囲まれ自意識をすり減らしてきた経験のある子どもが、たとえ「不登校」となり数年間「孤独」に過ごす経験をしたとしても、再び「外」の世界に出ていった時に社会性を取り戻すのに、そんなに時間はかかりません。子どものころ自転車に乗れたなら、数年乗らずともすぐ感覚を取り戻すのと同じです。

ですから、まずは「待つ」ことです。
いろいろと子どものためにしてあげたい。提案したい。問題を解決してあげたい。
わかります。その気持ちは、痛いほど。
しかし、その「解決」は、ひょっとしたら、子どもの「不安」を解決してあげるためのものではなく、自分の「不安」を「解決」しようとするための手段なのかもしれない。

「待つ」ことは本当に辛い時間です。
ですが、子どもを信じてあげてほしいと思います。
何もせず、ボケっとゲームばかりやっている息子の少し大きくなった背中を見ながら。一日ソファから動こうともしない娘のソファの端からはみ出た足を見ながら。
でも、彼も彼女も、本当はボーッとしているわけではないのです。
心の中で、さまざまな声と戦いながら、時に怯え逃げながら。少しずつ少しずつ、心の幹を育てているのです。
それは大人から見れば、とてもゆっくりな足取りでしょう。
それでも、確実に、彼も、彼女も、半歩ずつでも、足を前に進めようとしているのです。
自分の人生を歩む「力」を蓄え続けているのです。

それでは、それでは。