「学び」に必要なもの

夏ですね。ほんと信じられないくらい「熱い」夏です。毎年毎年、異常に暑いだなんのと言っておりますが、ほんとに今年の夏も「熱い」。。。

ヒルネットの活動も7月下旬から夏休みに突入。
「ヒルネットにも夏休みあるんですか?」なんて時々質問されますが、もちろんフリースクールにも夏休みはあります。というか、ヒルネットみたいに四六時中「お出かけ」してたり、教室活動の日でも「散歩」と称し30分以上歩いたりする集団にとって、夏休みはむしろ不可欠。こんな暑い中出歩いてたら熱中症になっちゃいます。

ということで、最近はもっぱら個人レッスンのみを行う日々。
今日はそんな日々のなかで感じたことを書きたいと思います。


そう。今回の記事のお題。それは、ずばり「学び」とは何か。

お、なんだ、前回に続き、いきなりのビッグテーマ。どうしたんだ。そんなデカいテーマで文章を書くのか。
自分で、今、書いてみて字面からくるテーマのデカさに驚いてしまいました。

いや、もちろん、そこまで大したことは書けない。書けないのは前提として、ちょっとした日々の覚書程度のものを書いておこう。つまり、これはここ最近、上記テーマについて僕が感じ考えたことを徒然なるままに(いや、ほんとは全然徒然ってないけど)書き殴ったものとお考えください。

さて。
何かを「学ぶ」と一言でいっても、そこには、まあ色々な種類というか、意味合いがあります。
いわゆる「勉強」だけが「学び」じゃない。

例えば、ヒルネットで大切にしている「学び」。
それはまず、様々なことを実際に「体験」するということです。

いわゆるフィールドワーク。
僕は「お出かけ探検活動」と呼んでますが、知らない街を歩いたり面白そうな博物館に出かけたり。山や川で遊んで直接自然を観察したり。
まあ、単に「お出かけ」して楽しいでも十分なんですが、一応、そこには体験を通じて子どもたちの関心の芽を育むという目的があったりなかったりします。

でも、ね、
以前の記事でも書きましたが、本当に大切なことは、実際に「外」に「お出かけ」すること自体だと思ってるんですよ。何か明確な「目的」がなくてもいい。

色々な場所に出かけるなかで、突然の雨に見舞われたり、それこそ昨今のような暑さに苦しんだり。その暑さが秋になって和らいだと思ったら、今度が冬の寒さに身を縮める。でも逆に、暑いなかで海や川の水に足を浸す気持ちよさや、冬の山を登る爽快さを感じることもできる。
こうした「体験」自体が大切なんじゃないか。
それこそが子どもたちの感受性を育むという意味で、「学び」なのではないか。

こうした「体験」は計画してできるもんじゃありません。いわば、「偶然」の体験です。
そして僕は、これまた以前書いたように、世界がまさしくこうした「偶然性」に満ちていることを、身をもって知ることこそが大切なんじゃないかなあと最近、考えています。

そして、それは実は別段どこかに出かけなくとも、本当は「体験」できることなのかもしれない。
教室に来ることで、年齢も個性も全然違う「誰か」と出会うこと。
その「誰か」と半日一緒に過ごし、ときにケンカしたり、仲直りしたり。気が合わないと思っていた「誰か」と、気がつけば一緒になって遊んでいたりすること。

こうした「日常」にも「偶然性」はそれこそ数限りなく存在します。それは実はスイッチを切ればおしまいとなるネットの世界にはない、「偶然」の「体験」です。
「日常」のなかのちょっとした「偶然」。人間関係のなかで起こる「偶然」。
そして、現実のさまざまな場所に出かけていくなかで起こる「偶然」。
これらの「偶然性」に身をさらしていくなかで、人間は意外な出会いをして、意外なことに関心を持ち、意外な自分の特性に気づくことで、それぞれを各々の形で成長させるのではないかと思います。

以上の「体験」による「学び」。
これは実はもともと公教育の現場においても目指されていたものなんではないかとも思います。
学校の種々の「行事」とは、その「成れの果て」なのかなとも思います。
そもそも異個性の子どもたちを一つ所に集めて教育を行う、というもともとの「理念」には、いま僕がここで書いたような「偶然性」を期待したところもあったでしょう。

ただ、残念ながら現在の学校は、種々の形式化=形骸化が進行し、集団的志向が幅をきかせ、「ちょびっと人より違ったところ」のある「個性」的人間を排除しがちなところがある。
結果、「偶然性」は抑圧され、排他的にプログラムを進行することだけを目的とした組織と成り果てている「学校」も散見されます。
※ただし、そうなってしまった原因は個々の先生にはありません。公教育の中にも驚くほど優秀な先生がいらっしゃいます(もちろん、ちょっと「残念」な先生がいらっしゃることも否定しませんが)。校長先生が代わるだけで素晴らしい環境へと生まれかわった学校も知っています。

話がそれました。
「学び」について続けましょう。
上記の「体験」による「学び」とは、ある意味で、根本の話というか、人間の「成長」を支える基底的な「学び」についての話と位置づけられます。
そこで、次はもうちょっと「勉強」寄りの「学び」についても考えてみましょう。

そもそも人間は、どうして何かを「学び」たいと考えるのか?

いや、「そんなん何も学びたいなんか思ったことないけど」とひょっとしたら10代の少年少女は答えるかもしれません。
でも、この記事を読んでいる多くの大人の皆さんは、そんなことはないのではないでしょうか?
実際には諸処の事情で始めることができなかったとしても、「〇〇を習ってみたい」と思ったり「〇〇語が話せるようになりたい」と思ったことがあるはずです。

卑近な例で恐縮ですが、私の義母は60代も半ばを超えてから英語を学び始め70歳にして英検準二級をとっていました。
私の父は社会人としては技術畑一本を歩いてきたにもかかわらず、定年後になぜか絵画を学び始めています。
こうした例は、皆さんに近しい人のなかでも、よく聞く話ではないでしょうか?

では、そうした新たな「知識」「技術」を学びたいという思いが湧き上がってくるのは、どうしてなんでしょう?(逆にいうと、多くの子どもたちから湧き上がってこないのは、なぜでしょう?)

これは僕の持論なんですが、本来、人間は「学びたい」という欲求を強く持つ生き物なんだと思います。

古来、人間は「我々人間が生きる、この世界はどういう仕組みで動いているのだろう?」「人間が作る社会とは何なのだろう?」「そもそも人間が生きる意味とは何なのだろう?」といったことを繰り返し問い、知ろうと努力してきました。二千年以上もの長きにわたってです。
どうして、そんなことを人間は考えるのでしょうか?
何かを考え、知ろうとすること。いまの自分にない知識や技術を獲得しようと努力すること。それはひょっとすると他の動物に比して圧倒的に非力な人間が、道具を作るなどの工夫をしながら生き延びてきた過程で身につけた「本能」なのかもしれません。
ともかくも、こうした「学び」を得ようとする営為は、人間の本来的な欲求に根ざしたものであるのです。

ところが、上でも記したように、実際に学校に通う年齢となった子どもたちに、「勉強」が好きかと聞けば、大抵の場合は「否」の答えが返ってきます。
これまた、どうしてなんでしょうか?

実は、「学校に通う年齢」以前の子どもに同じ質問をした場合は、必ずしも答えは同じじゃありません。
「僕ねえ、自分の名前、漢字で書けるんだよ!」「2足す2の答え知ってる? わたし知ってる! 4だよ!」
そんなふうに嬉しそうに話す、幼い子どもたちを見たことがきっとあるはずです。
少なくとも、僕は小学校に入りたての一年生の子どもたちから、何度もそんなふうに話かけられたことがあります。

ところが。
そうして無邪気に自分の「お勉強の成果」を自慢してくれていた彼や彼女が、いつの間にか、半年か一年もたつと、「僕、勉強きらいなんだ〜」と言い始めます。これは何でなのか?

答えは、ある意味、簡単。
それは、「強制」の有無です。

「大人」の僕たちは、今になると「学ぶ」ことが楽しく感じられるはずだという意味のことを上に書きました。
しかし、これが「仕事」に関係していたとしたら、どうでしょう。
「仕事」として「さして関心もない」、例えばPCのソフトか何かの使い方を、一定の期限内で覚えなければならないとします。
それが「義務」となった途端。やはり「学ぶ」楽しさは薄まってしまうと思いませんか?

子どもたちだって同じなんですね。
「義務」として、誰かに「やりなさい」と言われてやる「勉強」は楽しくない。
それは実は「学び」ではなくて、「労働」だからなのです。しかも、少なくともすぐに結果として目に見える「報酬」もない。

だから、ある意味で、「勉強」に「学び」の喜びを回復させることは簡単だとも言える。
「強制」をやめればいい。
学びを「強いて勉めさす」のではなく、自発的な欲求に任せればよい。
彼や彼女が自身の関心の赴くまま、最近の流行りの言葉を使えば、「探究」したいと思うことを「学ぼう」と思うとき。
その「学び」に費やされる知的エネルギーは、オッサンである僕なんかとは比べようもないくらいの力となるはずです。

とはいえ、残念ながら。
現在の「勉強」は、ある種の「資格」を得るための「手段」でもあります。
特定の学校に通ったり、そこを「卒業」するための「資格」を得る手段という意味です。
また、いわゆる義務教育期間、特に小学校低学年くらいの子どもたちに、その自主性に任せると言って、漢字も足し算もまったく出来ないって感じに育っちゃったらどうしようってな不安を覚えることもあるでしょう。

まあ、だからこそ本来、子どもたちに接する「教師」と呼ばれる人間は、少しでも「勉強」を「学び」に近づけるべく努力しなければならないんでしょう。
子どもたちが、その「知識」「技術」に関心を持てるように。
自発的な知的関心の芽がすくすく伸びるように。
教師だけでなく、子どもたちの周囲にいる「大人」が皆、なんとかそういう環境を整えてあげる。
そんな簡単なことじゃないって? もちろん、そうですね。僕だって日々、悩み努力を続ける毎日です。自分が関わる全ての子どもたちに対して。

ともあれ。
「学び」とは何か?
答えは特に出ていませんが、そこに必要なものは、ちょびっとだけくらいは書けたかな?
「体験」による現実世界の感受。
自発的な知的関心の涵養。

こうやって書いてみれば、実に当たり前のことです。
しかし、言うは易し行うは難し。
特に後者は難しい。
こちらは前回の記事にも書いた、「子どもたちの自主性」とも関わります。
子どもたちが「学びたい」と思うものを尊重すること。
そもそも、そうした知的関心を自発的に「育つ」のを待つこと。決して「強制」しないこと。

それはきっと、彼や彼女がどんな「人生」を選び歩むのか。それを「信頼」して見守ることと同義なのかもしれません。

それでは、それでは。

追伸です。
そうそう、実はちょっと思うところがあって、noteでも少しずつ記事をアップしていくことにしました。
と言っても、最初はここのブログ記事を改訂・編集したものが中心になりそうですが。
まあ、ただ、ここのはちょっと過去記事をなかなか検索できなかったりするので、過去の文章から今読んでも悪くなさそうなものを、ちょいちょいアップしていく予定です。
良ければ、こちらも覗いてやってください。
どうぞ宜しくお願いします。