「危険」の体験

どうもどうも。
すっかり秋の気配が漂う良い感じの季節になってきましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。ただし秋雨前線、お前は別だ。

最近、noteってSNSをはじめましてね。って既に若干飽き始めている感じで変わらずダメダメな僕なんですが、そちらにここの過去記事の中から、自分でも書いて良かったなと思えたものを選んで少し編集した後再掲してます。
つまりnoteの方は、時間が経過しても読むに耐える文章を掲載するイメージ。そういう使い方が正しいのかは知らんが。
で、いよいよこのブログは教育とかに関係ないことも含めて、日々の雑観というか、何かふと疑問に思ったことや考えたことなんかを書き残しておくものにしていく予定。
いや、あくまで予定なんで、どうなるかわかりませんが。

ま、そんな位置付けは皆さんには関係ありませんよね。
何でも言葉にして整理しないと気が済まない性格なんですよ。すみません。

ということで、今日のテーマ。
それは、「危険」の体験。
こほほ。何じゃそりゃ。

いや、実は数日前、ヒルネットの活動で高尾山に登ってきました。
あ、そうです。9月になってヒルネットも元気に活動を再開しております。なんだかんだで少しばかり人数も増え、賑やかに賑やかすぎるぐらいにうるさい感じで楽しく活動を始めてます。

で、何の話だっけ? あ、そう、高尾山。
高尾山に登ってきたんですよ。雨の中。

何でよりによって雨の中? 当たり前ですが、狙ったわけじゃございません。
秋雨前線め。お前が全部悪い。

ヒルネットはいつも木曜日に「お出かけ探検活動」と称して教室から外に出て、山に登ったり川で遊んだり博物館行ったり知らん町の知らん神社に行ったりするんですが、その行き先を決めるのが、だいたい火曜日。
で、火曜日の段階では、曇り程度で雨の降る予報はなかった。さらに水曜日中も小雨ぱらつく程度やないのって感じだったんですが、夜になって、おいおい意外と大雨なるんちゃうん?みたいな予報に変わって、でも今更行き先変えられんしどうすんねん?みたいな状態になっちゃったわけなんですよ。

で、実際に当日、現地に着いてみるとそこまでの雨ではなかったので、まあ参加したメンバーは楽しくのんびり山を登れたわけなんですが、そこで色々と考えさせられました。

当日はやっぱり雨のせいでお休みも多かったんですが、当たり前のことながら、その中で雨の登山はちょっと危険なのではないかというご意見も少しくいただきました。
高尾山、特に1号路は山登りとしては安全な方だとは思いますが、ふつうに自然は舐めたらアカンし、自分の子を自分で見るならともかく人に預けて行かせるわけなんですから、こうした心配は当然です。

で、そんな心配は当然なんですが、関連するあれやこれやを子どもたちや保護者の方々と色々やりとりしていた中で、僕自身、ふと気付かされたことがあったんですな。

それが、「危険」を体験すること。

僕はこのブログや、それこそnoteや、いろんなところで「体験」の大切さを語ってきました。
何事であれ、ナマで、直に「体験」すること。これが大事。
オンラインで色々なことができるようになってきた昨今は、特にその重要性を言っているように思います。

そして、なぜ「体験」が大切なのかというと、そこには、いつも既に「偶然性」がついてまわるからだとも述べてきました。
オンラインのネット空間やましてゲームの中では起こり得ない、「偶然」の出来事。思いがけない何か。出会い。トラブル。おもろいこと。
そんな「偶然」に世界が満ちていると知ること。「偶然性」に満ちた世界と向き合い、時にそれを楽しみ、時にそれから身を守る術を知ることが大切だと考えてきたわけです。

そして、「自然」はそんな偶然性をもっとも感じさせる存在です。

究極的に「自分の思い通りにならない」存在。コントロールができない現象。それが自然環境です。ほんと、いきなり雨降ったりするしね。

そしてまた、自然は「思うようにならない」ものだからこそ、「怖い」。
自然の「偶然性」は、ときに人の命を奪うような「危険性」へと転じるものでもあるのです。

夏の川遊びは楽しい。海で泳ぐ開放感はたまらない。秋や冬の山の自然や澄んだ空気の素晴らしさ。
どれも子ども時代はもちろん、大人になってからも毎年「体験」味わい楽しみたいものです。

ですが、そこには当然、「危険」もある。
毎年、夏になると川での痛ましい水難事故のニュースが流れます。海も安全ではなく溺れるおそれは常にある。山登りにだって滑落等の事故がないわけじゃない。

だからこそ、備えあれば憂いなし。
川で遊ぶならラフジャケットを着用すべき。海に行くならせめて浮き輪を用意しよう。登山初心者が道なき道みたいな登山道を行くべきじゃない。

とはいえ。
それでも「危険」は完全には無くならない。
それは「偶然」起こるものでもあるからです。
どんなに「備え」ていたとしても、予想外のことは起こる。
繰り返せば、「思うようにならない」のが自然環境。完全にコントロールできるものではないのです。

では、「危険」が少しでもあるからといって、川遊びはしないほうがいい?
海には行かないほうが良いだろうか?
山になんか金輪際近づかないべき?

そんなはずありませんよね。

そんなふうに「偶然」起こりうる「危険」なことを織り込んだ上で、僕たちは自然環境を楽しんでいる。いや楽しみ「体験」すべきなのです。
とりわけ、子どもと呼ばれる時分に。

なぜなら、「偶然的」な「危険」は、実は現実世界にもたくさん存在するから。
少し大袈裟にいえば、「人生」にはそんな「偶然」による「危険」も溢れているからです。

子どもたちを現実の「危険」から、常に先回りして守ろうとすべきでしょうか? あらゆるリスクに先んじて大人が対処すべきでしょうか?
そんなふうにして育てられた子どもが、成長し、もはや誰の手も借りられない年齢になったとき、人生で直面した「危険」に対して自分の身を自分だけで守れるとは思えません。
現実の様々なリスクに対して、対処する能力を身につけられているとも思えません。

山を登ったことのない人間に、山の本当の「こわさ」は判らないでしょう。
川で遊んだことのない人は、流れに足を取られる「恐怖」を知りません。
それらを判ったつもり、知ったつもりになるだけです。
そして、「情報」としてしかそれらを知らない人間は、自分が現実世界のなかで「溺れてしまう」まで危険を察知することができません。

自然は、ある意味で、よく教師にも喩えられます。
それは自然が、ある部分での「おそろしさ」を子どもたちに体験させ、危機に対処する術を教えてくれるものでもあるからでしょう。
「思い通りにならない」もの、楽しくもあるが時に「危険」でもあるもの。
そんな自然環境を繰り返し体験することで、子どもたちは「現実」の様々な危険を察知し対応する術を学び、まさしく「思い通りにならないもの」である人生に向かい合う準備をしていくのだと思います。

とはいえ、繰り返せば「備え」はいつも必要です。
「危険」かもしれないものに、何の準備もなく突っ込んでいくのは、単に「無謀」というものです。
また子どもを連れていくなら目を離すべきではないでしょう。人に預けるなら心配するのも当然です。

ですから、いつも既に自然を正しく「怖れる」=「畏れる」態度は必要です。

でも、時々。
自然への「畏れ」は胸に抱いたまま。
自然への「恐れ」を手放すことも大切なのです。

それでは、それでは。