人はなぜ「勉強してしまう」のか?

どうもどうも。
またしても、めっちゃ間が空いてしまいました当ブログ。いやー相変わらずホント忙しいんすよねえ。

平日の午前日中は僕が運営してるフリースクール「ヒルネット」の活動(4月新年度から金曜午前も活動することになりました! っていよいよ死ぬぞオレ)。
夕方からは各種学習の個人レッスン。そして土曜は「音読サイコロ道場」(は最近、若手に任せてサボり気味)や、「読書のワークショップ」(こちらは変わらずメイン担当)といった国語グループレッスンが目白押し。
そして。休みの日もヒルネットの活動記録をアップしたりとなんやかんやと雑事に追われ。。。

悠々自適の村上春樹的貴族生活を送るはずがどうしてこうなった?

それも全部自分で企画運営してるから全部自分のせいというね。。。。
だいたい、いつも「そうだ! こんなことをやってみよう! 思いついちゃったもんね俺天才やらずにはおれんさ!」ってテンションで決める時の僕は躁状態なんすよね。
で、数ヶ月後にはエネルギーを使い果たし鬱期がやってくるという。。。

。。。。いやいや、いつものことながら、またしても冒頭数行を意味不明な「愚痴」で消耗してしまっているぞ!
今日、俺が書きたいのは、こんなことじゃないんだ!

そう、今回のテーマはこれ! ズバリ「勉強」について。

普段、このブログでも、ある種普遍的な「学び」についてはよく触れていますが、今回はそうではなく、まさしく「勉め強いる」勉強なるものについて書こうと思います。
しかも、「どうして勉強しなくちゃいけないのか?」
ではない。
「どうして勉強してしてしまうのか」について書きます。この違いわかるー?

そんなことを書こうと思ったきっかけは、とある中2男子の一言でした。
イマンモせんせい、わしゃのう、勉強なんぞ何でせんとならんのんか、さっぱりわからんのんよ!」(広島弁風に)

上にも書いたように、僕は相変わらず国語中心に社会や英語や最近はちょこっと数学(算数)なんかも個人レッスンで各年代の子どもたちと「勉強」しています。
この中2男子も、小学生の頃からグループレッスンにずっと参加してくれていた子で、中一まで参加してくれていた「読書のワークショップ」では、オモロイ発言含め、小説のテーマなどについて活発に発言し議論を盛り上げてくれるような男の子でした。「読書WS」参加により、読書習慣が少し身についてきてもいたんですよ。
つまり、ちょっとした「学習」の楽しさには触れていた。
しかし、「勉め強いられる」ものには上記のような拒否感を現在進行中で抱いておるようなのです。

まあ、このブログでも何度か触れているように、「強制」されたものは、本来面白いはずがない。
逆にいえば、自分の興味関心に従って「学習」したものについては、他人から見れば「勉強」であったとしても、本人からずれば「遊び」の延長。楽器をマスターするように吸収できるものなのです。

ただし。
実際、この世界では、残念ながら学習を「勉め強いられる」ことは多い。
たとえ保護者が「強制」せずとも、学校が「強制」しなくとも、社会全体からのプレッシャーは、少なくとも今現在の日本では存在する。
つまり、学歴にしろ資格にしろ、何らかの「勉強」に基づく「試験」にパスすることが、多くの仕事で要求される。
学歴偏重志向なんて「バカバカしい」に違いないし結構な数の人間がそう考えているに違いないにも関わらず、やっぱり「そんなのバカバカしいぜ!」とブログなんかで言ったところで、何故だかその「現状」は急に変わるものでもない。
(そんな資格偏重な社会を「拒否」して生きることも、もちろん出来るが、それにはそれで別の「強さ」が必要な現状)

そんなわけで、仕方がないので、ここは発想の転換。
自由な関心に従って「学ぶ」ことが一番いい。
しかし、逆に「勉め強いる」勉強にも、それ相応の効用があるのではないか?
「勉強する」こと自体に面白さが隠れているんじゃないの?

そんなテーマについて、おそらく今現在は、少なくとも周囲から学習を「強制」されることが、まだ比較的少ないであろう(?)ヒルネットの中学生メンバーたちと、先日、リベラルアーツのWSの一環として議論してみました。
「でもなー、やっぱり嫌や嫌や思うて勉強するんはオモロないと思うで」
「せやな。大体そんなネガティブな気持ちでなんか勉強したって、何にも頭に入らんで」
「まー、なんか目標があれば違うんちゃう?」
「目的って、どんな?」
「例えば、こんな大学に入りたいーとか?」
「そういう根性はワシ好かんなー! じゃあ大学とか学歴とか興味なかったらせんでええことになるし」
「学歴以外にも、外国に行きたいとか、いろんな目標はあるんちゃうか?」
「それやったら結局、勉強は〈手段〉ってことになるで? 何かの目的を果たすために努力し苦痛に耐えて。。。って感じになってしまう」
「でも、たとえ自分がやりたいと思って始めた勉強でも、何かしらしんどいことはあると思うけどな」
「どんな?」
「だって、英語に興味持って始めたかて、やっぱり単語とか文法覚えたりするのは、ある程度、自分に努力を強いる部分はあるやん?」
「それはそうやな。勉強に限らん。楽器弾けるようになるんかって、けっこう練習せんと無理やしな」
「でも、それが好きやったら、やっぱそれは〈苦痛〉にはならんやろ」
「苦痛に感じるまではなくても、どこか〈勉めて強いる〉努力は必要になってくるやん?」

などなど。こんな感じの話が出ました(注 もちろんブログ用に脚色してますし僕の意見も入ってます。というかヒルネットのメンバーで大阪弁なのは僕だけですもちろん)。

で、ここに「勉強」することの「効用」というか、あえて言えば「快楽」のヒントが隠されていますね。
それは楽器。
何か楽器を弾く人なら判ると思うんですが、どんな楽器だって、いきなり弾ける人なんていません。結構、地道な練習を繰り返して弾けるようになる。
(ちなみに僕はベースを弾くんですが、最近新たに5弦ベースを購入しちゃいましてね。これが通常の4弦ベースと少し勝手が違って、上手に弾きこなすのに苦労してます)

じゃあ、何で楽器なんて練習するんでしょうか? 自分でやってるから判りますが、ほんと地味な練習も必要なんですよ。
それは、うまく弾けるようになった時の快感がすごいから。これに尽きる。
あるフレーズを弾けるようになった。ある曲を通して弾けるようになった。ある特殊なテクニックをものにした。
誰かの前で発表するわけでなくとも、その達成感は素晴らしい。まさしく快楽なのです。

僕はスポーツはやりませんが、ひょっとしたらこちらでも同じことが言えるかもしれない。
陸上競技で、例えばマラソンが趣味で、ある記録を破りたいと思う。正直言って、別に珍しい記録でも何でもない。記録を破れたって、特に意味もない。
ところが、実際にその記録を破れた時の達成感。そこまで地道に走り込んできたことを含めての快感。それはその人にとっては何ものにも変え難い「快楽」なのでしょう。
そういう「快楽」が、きっとスポーツにもあると思います。

じゃあ、「勉強」にもそんな「快楽」があるのか?
まさか単語2000個覚えてスゲーとかじゃないよね?

もちろん、違います。
「勉強」することで得る達成感。

それは、「世界」が今までと少し違って見えるようになる、ということです。

どんな「勉強」でも良いのです。もちろん「学問」のレベルに至る必要はない。
でも、例えば英語を本気で「勉強」すれば、単に英語が読み書き話せるようになるだけじゃない。英語話者が日本語話者とは違う観点で「世界」をみていることに気づけるはずです。
なぜ、英語は主語を省略しない・できないのか?(逆に日本語はなぜ省略しがちなのか?)
なぜ、英語ではbe動詞という「存在」を表す単語が大切なのか?
なぜ、英語は時制にこだわるのか?(逆に日本語では過去形と完了形とが一体になってしまったのはなぜ?)

こうした「疑問」から新たに「学問」に目覚めてもいい。
でも、そうならなくとも、「へー、英語ってこんなふうになっってるんだ」「イギリス人やアメリカ人はこんな言葉を使って世界を理解しているんだ」という素朴な「理解」が生まれたなら。
それらを「知る前の自分」と、「知った後の自分」とでは、ほんのちょっとだとしても「世界」が違って見えるようになっているはずです。
まして、物理や歴史、数学など、現今の自然世界や社会を成り立ちに関わる「勉強」や、思考の理論形式を学ぶ「勉強」であれば、「へー、そういうことか!」という「発見」も大きいでしょうし、「世界」を見る目も、わかりやすく変化するに違いありません。

もちろん、繰り返せば、自分の興味関心から、これらの「知」に出会えた方が望ましいでしょう。
ですが、「勉めて強いる」環境のなかから、こうした「新しい世界の見え方」に出会う。そこで「へー、そういうことだったのか!」という快感を得る。
その快感がきっかけとなって、今度はむしろ主体的に、自分の関心に従った「学究」が始まる可能性だってあるのです。

最後に。
今年の受験生で、僕と一緒に「勉強」していた男の子に、第二志望ながら国際キリスト教大学に合格・進学する子がいます。
彼は不登校だったこともあって(ーー彼もご家族も知らないと思いますが、実は彼の存在は、僕がヒルネットを作ろうと思ったきっかけの一つでもありました)、17歳ごろまではそれほど「勉強」はしていなかったそうです。
しかし、一念発起。
17歳の終盤から、大学受験のための「勉強」を懸命にやり始めました。
結果は、上記の通り。
先日、受験が終了した挨拶にやってきてくれた彼は、「最近どんな感じ?」という僕のたわいもない質問に、こんなふうに答えてくれました。
「なんでしょう。不思議なんですが、最近また〈勉強〉を始めてます。受験が終わったら、好きなことをやろうと思っていたんですが……。前から気になってた哲学なんかの本を読むだけならまだしも、ドイツ語の〈勉強〉まで始めちゃって」

おそらく彼は、「勉強」を始めたことで、その「快楽」をも知ったのだろうと思います。
そして僕は、彼だけでなく、受験を含めて様々なきっかけで今年「勉強」を行った、「生徒」たちみんなが、それぞれにその「知の経験」と出逢えていたなら嬉しく思います。

おめでとう、M君。
そして、ようこそ「学問の世界」へ。

それでは、それでは。