中高生と不登校

どうもどうも。
気がつけばすっかり春の陽気に花粉も飛んですっかり冬も終わりという雰囲気になってまいりましたが、皆さん如何おすごしでしょうか。

さてさて、全くもって月一回ペースとなりつつある、このブログ。
これじゃいかんと思いながらも、一週間の疲れが休みに残る今日この頃。怠け癖がついてしまっております。
そうはいっても3月末には、なんとかかんとかやってきたヒルネットの活動も一年。その感想記事なんかも書かんといかんよなあと思い、その前に溜まっている書くべきことを消化せねばなどととも思って、今日月曜(休み)も夕方になって思い腰を上げてパソコンの前に座ってみたわけです。
ちなみにさっきまでは読書のWSで読む短編小説と絵本を図書館に物色に行ってました。やっぱ忙しすぎるYO!!

 

ということで、最近受ける相談。
相変わらずシリアスなものから、そこまででもないものまで種々の教育相談を、特にヒルネットを始めてから受けておるわけですが、今日特に書きたいのは、中学生について。

不登校の現実は種々様々、以前書いたように、一見、「原因」らしきものが見当たらないものから、低学年のケースに顕著なように、むしろ学校やクラス・担任先生のキャパ不足から、実質的に不登校に「追いやられている」ように見えるケースまで、まあほんとにいろいろとあるわけなんですが、総体的に言えば、年齢が上がれば上がるほど自意識との葛藤は深まる傾向にあるわけです。
(逆に低学年のお子さんの場合は、本人にその意識がなくとも、直接的間接的「原因」が、心理的なトラウマを作っているケースがあります)

どういうことかというと、「学校にいけない自分」「いかない自分」を恥ずかしく思い、親や周りの人間が何も言わずとも「ふつうじゃない」「落伍者」といった自罰的な枠組みで責めるようになってしまうのです。

繰り返せば、問題は、親や周囲の大人が、少なくとも意識した言動としては、そうした態度を取ったり言葉を口にしたりせずとも、自分自身でそう思ってしまう。
十数年の間に染み込んでしまった「ふつう」という名の「枠組み」がそう思わせてしまうのです。

そして、無理して通学し続けるうちに、「エネルギー不足」の状態へと陥ってしまう。。。

 

「そんなにしんどいなら学校なんかいかなくてもいい」
「いじめられるような場所になぜ無理して通うのか?」
「人生には多様な生き方があっていいんだ」

僕たち大人は、こういうことを簡単に言います。
もちろん、僕も言います。
そして、少なくとも社会的にはそうしたメッセージを発し続ける必要があります。
それこそ、クソみたいな「ふつう」という「枠組み」を壊すためには。

しかし、それを直接聞かされる中学生の感想は、

「うるせーよ」
というものかもしれません。

 

当たり前ですが、口で「学校にいかずともいい」と言いながら、どこかに「ふつう」の幸福を親が望んでいるとしたならば、それを子どもは鋭く見抜きます。
「きれいごと」は通用しないのです。

しかし、心底、「学校なんていかなくてもいい」と思っていたとしても、そういう大人の言葉を子どもは素直に受け取ってくれないかもしれません。
例えば、十代の子どもたちの多くは、過剰に心配されたくありません。特に両親には。
大人と子どもの境目である彼・彼女らの自意識にとって、親の「保護」は、自分を「弱いもの」と見なす視線と同義に思えるものです。
したがって、「心配されている」という状態自体が、すでに彼・彼女らの自尊心を大きく傷つけてしまうのです。

 

では、どうすればいいのか。

もちろん、いつものことですが、一概に通用する答えはありません。ケースバイケース。
しかし、それでも、一つのざっくりとした答えは、すでに上に書いています。

そう、心配しないこと、です。

心配されるのが嫌なら、心配しなければいい。
「多様な生き方」を認めているのなら、学校に行こうが行くまいが、どっちだっていい。勝手にさせる。
無理に「学校にいかなくても道はある」なんて言わなくてもいいんです。
「学校以外の道」は彼・彼女が自分で見つけます。
まして「学校にはいかなくてもいい(けれど、◯◯にはなってほしい/◯◯になってほしくない)」なんて思ってはいけない。
どこにどんなふうに転んでいっても、それが彼・彼女の人生なのです。

 

学校に行かず昼まで寝てる息子や娘をみても、「ああ、今日は学校いかないのね」ぐらいに思っておく。
逆に学校に行ったら行ったで、何も言わない。
何だか日々をぼんやり過ごしているようでも、そういう時期もあるさぐらいで済ませておく。
逆に何かを始めたいと思っているようなら、そのとき初めて手助けする(できることなら)。
つまり、少なくとも、それらの日々を「特別」なことではなく、緩やかな「日常」の「出来事」として受け止めていく。

いやいや、そんな最初から「悟り」の境地に達せられたら苦労はせんわい、と思われるかもしれません。
実際、僕だって自分の子のことでは、いつも既に「煩悩」のなかにおります。。。
けれども、少なくとも「理念」としては、頭のなかに持ってはいたい。

そして、そんなふうに覚悟を決めてはじめて、「人生いろんな生き方があるよな!」という言葉に、「心配」ではなく、「信頼」のメッセージがこもるんだろうと僕自身は思います。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

ぼーっとする時間を大切に

どうもどうも。
皆さん、明けましておめでとうございます。ってもう全然正月気分も遠くなってるわけですが、そんな遅ればせながら的なことを書くのも、このブログの毎年恒例ということで。

さてさて、というわけで本年初めのブログ記事。本来なら今年の抱負とか何かを書くべきかもしれないんですが、残念ながらというか別に残念でもなんでもないんですが、特にそうしたものはパッとは浮かばない。
というか、そんなこと考えて一年の初めを迎えたことなんて、これまで一度もなかったんですが、ふつうはやっぱり多少なりともそんなことを考えながら年を越したり迎えたりするもんなんですかね? いや、でもほんとにほんと?

でも、まあ他の人のブログとかネットの記事とか見てると、そんな内容のものがちらほら目に入ってきて、そうか、じゃあせっかくなので俺だってなんか抱負的なものを述べたいなあなんてことを思って思って考えながら、結局、今日に至る。
昨年の反省を生かしつつ、抱負とまではいかずとも今年一年少し大切にしたいなあというようなものはないもんだろうか。
で、昨日あたり、思いついたのが、これ。今年の抱負。というか、まあ少し大切にしたいこと。

それは、ほんの少し「ぼーっとする時間」を今年はつくる。
ゆっくりする。休む時間をつくる。

 

いやいや世間一般の皆さん、とりわけ比較的ブラックな環境で働いている方々なんかと比べれば、僕なんか全然働いてないですし、むしろもっと働けよ的なプレッシャーを日々我が家の勘定奉行兼総理大臣でもある奥さんからかけられておるわけなんですが、それでも主観的には昨年ずうっと忙しかった。
というわけで、今年は少し怠けたい。
っという本音は別にして、僕が言いたいのは物理的に休日を増やすとか仕事をセーブするとか、そういうことではないんですね(ただ繰り返せば、本音では怠けたい)。

実際、ヒルネットの活動を今年はますます頑張ろうとか、そのためにまた各所に見学研究に出かけようとか、読書WS等の土曜グループレッスンも盛り上げていこうとか、仕事への意欲は変わらず旺盛でありたい(が、しつこく言えば、もう少し怠けたい)。

 

ただ、一方で、頭の中に、どこか無駄なスペースというか、何も働いていない部分というか、意識的にボーッとするゆとりを持っていきたい。
次から次に何かに追われまくるのではなく、というか追われまくる部分もあっていいんですけれど、そういう中でも、一部はしっかりと休んでいる、頭の、あるいは心のゆとりみたいな部分を持っていないとダメなんじゃないかなあと思うわけなんですな。

ぼーっとする時間。

これ、実はけっこう大切な時間だと思うんですよね。
いつだったか昨年、ネットの記事で、おおたとしまささんという教育ジャーナリストの方が、子どもにたくさん習い事をさせるのもいいけれど、実は子どもの才能や能力、その創造性を花開かせるためには、子どもにぼーっとしている時間、休憩している時間を持たせてあげることが大切だ、というような記事を書いておられました(この方は松永先生の知人でもあるので、時折ご著書など拝見させていただいているんですな)。

これは実際、大人も子どもも等しく当てはまることなんじゃないかなと思います。
何もすることがない時間。
いや、実際には「何か」やらなくてはいけないとしても、日常の中でふと、目の前の現実から離れて、どうでもいいようなことに「アタマ」を向ける時間。

電車の中でスマホなんか見ずにぼーっと車外の風景を眺める時間。
お風呂で湯につかりながら、そこはかとなく取り留めのないことを考える時間。
仕事帰りの夜道に何となく星もない空を見上げる時間。

こういう時間を大切にしたい。
なぜなら、実はこういう時間にこそ、様々なアイデアや、物事への好奇心や、何かを作ろうという想像力が生まれてくるからです。本当に。

自由な発想や好奇心、そして創造力が、目の前の現実に追われまくっていて生まれるわけがない。
目の前の現実に対処するのにいっぱいいっぱいの脳ミソに、そんなことを「思いつく」ゆとりはない。
だから、たとえどんなに忙しくても、想像力や好奇心を大切にしたいならば、あるときそうした「現実」を括弧にくくって、全然違うところに脳ミソを持っていく必要があるんだと思います。

そういう意味での、「ぼーっとする時間」を、忙しい中でも大切にしていきたいと思うわけです。

 

そして、繰り返すなら、これは子どもたちを取り巻く環境についても言えることだと思います。
しかも、子どもたちに関して言えば、この「ぼーっとする時間」はもっと長くてもいい。
日常のふとした時間なんてものじゃなく、一年とか、二年とか、そんな長いスパンでの「ぼーっとする時間」があってもいい。

たとえば一年間、勉強に、あるいは習い事やスポーツに一生懸命だった年があったなら、そのぶん別の一年は、「ぼーっとする」一年であったっていいじゃないか。僕は最近、そう思います。

その一年は、はたから見れば「何もやってない」一年に見えるかもしれません。
しかし、子どもたちにとって、その時間は、自分の人生を生き抜いていくためのエネルギーを貯める大切な期間なのかもしれない。
新しいチャレンジに必要な養分を吸収し、新しい想像力をはばたかせるのに必要な一年なのかもしれない。

もちろん一年でなくともいい。人によっては、その「休憩」が3年、4年と必要なのかもしれない。
学校で、塾で、勉強で、あるいは人間関係で疲れた少年少女のアタマや心に、新たに感受し想像する力が宿るためには、人によってはそれぐらいの時間が必要かもしれません。
実際、恥ずかしながら僕なんて、十代のほとんどを「ボーッとして」過ごしておりましたから。

 

ともかくも。
今年一年は、こうした「ぼーっとする時間」、現実とは違う何かに目を向ける時間の重要性を考えていきたいですね。いや本当に。

それでは、それでは。

 

 

 

「集団行動」って何?

どうもどうも。
いよいよ寒さも厳しくなり年の瀬も押しせまりつつある今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は疲労がチョーやばいです。めっちゃ寝ちゃいます。

いよいよ最近、このブログも月一連載みたいになってきましたが、決してサボっているわけではない。いや、サボっているのですが、ヒルネットの活動記録を書きながらブログも書いてチョー大量に押し寄せるメールの大群と格闘もしていると、なかなか更新の時間を取れないのでありますよ。

と、更新が少ない言い訳から始まるのもお約束になりつつある今日この頃。今回はちょっとおふざけ気味に行きたいと思います。
そんな今回のお題は、「集団行動」。

どうでしょうか、皆さん。集団行動、好きっすか?

ちなみに僕は嫌いです。大嫌いです。
思わず太文字になってしまうくらい嫌いなんですよ。

この四十数年間を、いかに集団行動を取らずに生き抜くことができるかを最大のテーマとして生きてきたと言っても過言でないくらい嫌いです(大袈裟ではない)。
バリバリの就職氷河期世代でロストなジェネレーションですが、最初から「就職なにそれオイシイの?」的学生だった僕には最初からロストするものなど何も存在しなかった。ある意味で無敵の人です。

ところが、そんな「集団行動」をめっちゃ金科玉条のごとく言ってきやがる場所がある。
それが、日本、の、「学校」。

今から数年前、僕の娘が何かやらかした案件で小学校に妻とともに参上した折のこと。
その際、担任の先生の口から繰り返し出た言葉が、これ。
「〜集団行動を考えると。。」「〜集団行動を守らせる上で。。」等々。

ギャーッヤメローヤメテケレーッ!
その言葉は俺を100年石化させた上で美女に接吻されても今度は醜男に生まれ変わらせてしまうような強力な呪いの言葉なんだ!!(意味不明)

いや、誤解なく言っておくと、その担任の先生はめっちゃいい先生で、その後も娘が十二分にお世話になった理解ある先生でした。
ただ、そんな先生からも、特に違和感を感じておられぬ様子で飛び出してくる、その言葉。

そんなに「集団行動」って、大事なんでしょうか?

まあ、この日本で普通に会社員になったり公務員になったり、もっと言えば普通に「社会人」になる上では、ある程度、必要でしょう。いや、必要だったのでしょう(僕はよう知らんけど)。

ですが、大昔から、そんな社会人的集団行動だって苦手だった人はいる。
いや、むしろそうした「集団」に馴染めなかったからこそ成功を収めた人だってたくさんいるわけです。

さらに言えば、現在の日本社会はもうすでに「集団」に合わせることがそれほど重要な社会ではなくなってきている。
少なくとも「横並び」に「みんなと同じ行動」をとっていれば安穏と人生を渡っていけるような社会ではなくなってきていることは衆目の一致するところなわけでしょう。
いや、よう知らんけど。

ところが、あかん感じの学校でだけは、相変わらず古臭い「集団行動」を是としておるわけです(「あかん感じ」じゃない学校もだんだん出来てきてますけどね)。

そもそも「集団行動」とは何じゃろか?

皆と同じように行動することが集団行動なのか?
皆と同じ時間にホウキ持ってホース持って「掃除の時間」を演じるのが集団行動?
皆と同じ時間に体育着に着替えて皆と同じ時間に指定の場所にいけるのが集団行動?
皆と同じスピードで給食を食べ終わるのが集団行動?
皆と同じように「空気を読んで」45分間「良い子」でいるのが集団行動?

ウソだろそんなの後100回生き返ったってやっぱり出来っっこないって感じだぜっ!!

。。。という僕の社会人失格的言動は別にしても、それってやっぱり本当の意味での「集団行動」ではない気がします。

本当に必要なこととは、自分とは大きく異なる他者とでも、会話し協力しお互いを気遣い一人の力では出来なかった何事かを成し遂げられるような力を養うことではないでしょうか?
つまり他者と「コミュニケート」し「コラボレート」する力の涵養。

「他者」とはただの「他人」とは違う、自分とは考えも知的文化的背景も全く異なる存在のこと。
日常的に言うなら、「空気の読み合い」なんてものが通じないような人のこと。

しかし、現実の「社会」では、そうした他者との間とでも協力関係を結べないことこそ問題であるはずです。
そして、そんな他者と関係する力を養うのが「集団」を模倣する力であるはずがない。「掃除の時間」のわけがない。

そうではなく、全く年齢や生育環境の異なる子ども同士が、一つの遊びや課題を一緒に行うことができるか? 必要な気遣いができるか? まったく共通の話題がない中でも会話し協力できるか?
折々にそうした「協力行動」の機会を設けることこそが、「みんなと同じ」ことよりもよほど大切なんじゃないかと思います。

そんでもって、そういう「コミュニケーション」「コラボレーション」をすることなら、「集団行動」が苦手な子どもにだってできないわけじゃない。
むしろ異個性・異年齢の子どもたちが「協力」して事にあたる姿を、ヒルネットやV-net焚き火会などで、たくさん見てきました。

そしてまた、そういうことなら少なくとも、「集団行動」には呪われてる子どもの頃の僕にだって出来たんじゃないの?とかって思わないでもないわけです。いや、どうかな。。

それでは、それでは。