「成長」のための居場所

どうもどうも。
ちょっと肌寒い日もあることながら、桜もだいぶんと前に散っちゃって、いよいよ春本番(誤用)といったここ最近の日々ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。この書き出し久しぶりやね。

いつもいつも無駄にダラダラと文章を書き連ねておる当ブログですが、今月は少々短めの記事。ちょっと、ここ最近いろいろ疲れとんねん。

で、疲れておるにも関わらず、忙しいなか、何でこの月1ブログを今日書こうと思ったか、いや書かねばならぬと考えたのか。
それはちょいヒルネット(僕のやってるフリースクール)のことを書かねばならぬと思ったからなのでありました。

そう。
なんと、この4月で、ヒルネットも活動を開始してマルっと2年。
活動開始、2周年を迎えることとなったのであります!

おお。我ながら感慨深い。
。。。というほどでも実はないのだが、やはり節目にこういう記事を書いとくのも大事かな、と思いましてね。

でも、活動開始して1年を記念するとかならわかるけど、なんで2年?
そう思われる方もおられるでしょうが、ちょうど今から1年前は、いわゆる「緊急自体宣言」のさなか。バタバタしておって、落ち着いてヒルネットの記事をあげとる場合ではなかったんですな。
(おっと、そういう今も緊急事態宣言のさなかなわけですが、やはりガースーやコイケ女帝がいろいろ言っても一年前とは全然違っちゃうわけですよね)

ということで、コロナについては、今もおさまっておるわけではありませんが、2年経ったここいらで総括記事を少しく書いてみたいなと思ってみたりしたわけです。

いやー、いろいろあったよねー。
ま、そんな「いろいろ」をいちいち記事にしとったんでは、キリがないどころか永遠に終わらない。
でも、何よりこの2年間、僕が痛感したことは、


子どもたちに勝手な「教育」を押しつけてはいけない

ということでした。
まあ、これはフリースクールに限らないのかもしれませんが、とりわけ子どもたちの意思や自由を尊重した環境づくり、居場所作りに腐心してきた身としては、特に強く感じたことでした。

いや、ね。
ヒルネットを始める前は、こう見えても、いろいろ考えとったわけです。
こういう感じの教育を実践してみよう、こんなふうにすれば子どもの好奇心や探究心は芽生えて行くんじゃないのか云々。
それはブイネットの個人レッスンやグループレッスンで培ったメソッドも色々ありましたしね。

でも、違うんですよ。
ヒルネットを始めてみて、すぐに気づきました。

僕のところに、少なくともヒルネットに集ってくれた子どもたちが求めているのは、そんな「大人が理想とする教育」なんてもんじゃない。

ヒルネットを頼ってきてくれた子らは、皆、とても感性が豊かで、想像的で、物事の変化に鋭敏な子どもたちです。
でも、だからこそ既存の「学校教育」のなかで、何らかの形で傷をおわされてもいます。それゆえに僕みたいなひねくれたオッサンのところにわざわざ足を運んでくれたのです。

そんな彼・彼女らが求めているのは、大人が勝手に考えた「教育」なんてものじゃない。何かの枠組みじゃない。
そうではなく、もっと言葉にはしにくい、ある種の体験や学び、成長こそが大切なんじゃないか。

例えば、まずはそこが、その「場所」が、ちゃんと自分を受け入れてくれる居場所であるという実感。
そこで他の子どもたちと、ときにこすれ合いながらも、ともに過ごし成長していくという体験。
今までの自分が知らなかった場所が、世界が存在するという体験。
その世界の中で、自分の意思で、自由に何かに挑戦できるという実感。
上手く言葉にできない、そんな「実感」「体験」の方が大切なんじゃないか。

だから、最初頭にあった「僕の考えた最強の教育」的なものは、捨てました。
そうではなく、集ってくれた子どもたちの個性に合わせて、自在に形も方法も変えられるようにしよう。それこそ「ひるね」ができるような、子どもたちが気持ち的にのんびりできる場所となっていこう。

週一回のフィールドワークも、最初は「学習」に目線を合わせていましたが、今ではハイキングでも川遊びでも、ある意味で何でもありです。
教室でのWorkとしては、なぜか今では折り紙が流行っています。あるいは一日絵を描いている子だっています。
逆にお弁当を食べるために行っていた公園までの「散歩」は、1日の欠かせぬ「行事」になりました。

ところが。
そのような、まさしく「自由な学び場」であろうとするなかで、むしろ僕自身にも、子どもたちがある種の「学び」を得て、また「成長」しているのではという、それこそ「実感」が湧いてきたのです。まさに親ならぬ「教師無くとも子は育つ」状態。

では、それはどういう「学び」か。「成長」か。
これまた、簡単に言葉にするのは難しい。

例えば、いつも自分の気持ちが優先してしまってそれを注意されると塞ぎ込んでいた少年が、他人を労り他人に感謝し他人のためにできることをしようと思うようになった。
歳下の「子ども」が嫌いだった彼が、年長者として「ちびっ子」たちの世話をしてくれるようになった。
自分一人で電車に乗れず「お出かけ」先に興味もなかった彼や彼女が、東京のいろんな場所に興味を持つようになった。
ちょっと「散歩」に出るだけで疲れていた少女が、どんな山でも登れるようになった。

「言葉」にすると、それは本当に些細な変化に過ぎないかもしれません。
でも、僕は強く「実感」します。

その、言葉にすると些細な行動の内側に、とてもとても大きな「成長」があるのだと。
「勉強」とは違う、ささやかな「学び」が、彼・彼女の人生の大切な指針の一つになるのだと。

思えば、自分自身がそうだったではないか。
ろくすっぽ「勉強」などしなかった10代。大切だったのは、フリースクールや大検の予備校で知り合った知人友人と過ごした「時間」そのものだった。
何かを「学んだ」記憶も実は定かではないけれど、そこで彼らと、彼女らと、過ごすなかで起こった様々な出来事が、最悪なことも含めて、僕自身のココロの幹を少しずつ太くしていってくれた。
やがて、「勉強」とは違う「学問」を学びたいと思わせるココロを形作っていってくれた。自分がどんな人生を歩みたいかを「学ばせて」くれた。

今、ヒルネットという場所が、そこに通う彼や彼女にとって、そうしたココロの幹を太く強くできる居場所になっていてくれればと思います。それぞれの人生のカタチを学べる場であればとも思います。
そして、この2年間の経験は、そして子どもたちが見せてくれた「成長」は、そういう場所にヒルネットがきっと「成長」していけるに違いないと実感させてくれるものでした。

ヒルネットは、これからも水が自在に変化するように、子どもたちのあり方に合わせて形を変えながら活動をしていきます。
教室では自由に学び、遊びます。いろいろな場所や世界を探検します。

子どもはもちろん大人でも、「ひるね」するように、ちょっと休憩したいときは、いつでも立ち寄ってみてください。
それでは、それでは。



「暴」について

どうもどうも。
すっかり秋めいた涼しいというか肌寒い季節となってまいりましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は秋雨前線が大嫌いです。

そう秋雨前線、まじダルイっすよね。焚き火も山登りもなかなかでけへん。
ということで、最近疲れ気味のワタクシ。今日はちょい短めの記事にしときたいと思います(いや、いつもが無駄に長すぎるという説あり)。

ということで、早速、今月のお題。それは「暴」について。

「暴」? それって何って感じですよね。
実は先日、ヒルネットでこの「暴」にまつわるミーティングをメンバーと行いました。

「暴」とは、暴力の「暴」であり、暴言の「暴」であり、あるいは単に「暴れる」ことの「暴」でもある。

ヒルネットに限らず、僕も個人レッスンやグループレッスン、果ては大昔の予備校講師時代含めると、なんやかんやでもう20年近く在野で教師的な何かを仕事としてきました。
それこそ小学生のころ知り合って、今やすっかりオッサンになってしまった生徒だって何人もいます。

その中には、勿論いろんな子どもがいました。
そして今もやっぱり、いろんな子どもたちがいます。

そうした「いろんな」傾向の中に、「暴」言を吐いてしまったり「暴」力的になってしまったり、いろいろな意味で「暴」れてしまう子だっている。
また、逆に一緒に過ごしていて、そういう「暴」の空気を敏感に感じ取り、心をざらつかせてしまう子だっています。

ヒルネットという「居場所」は、別に皆が「仲良く」する必要はないけれども、誰もが安心して過ごせる場所ではあってほしいと僕は思っています。
そういう意味では「暴」力的な言動で傷ついてしまう人がいるならば、それはなるべく抑制してもらいたい。

だけど、ね。
これが難しいのは、誰だって好きで「暴」力をふるいたいわけじゃないってことです。

いや、大人だったり大人に近い年齢の子どもたちはそうじゃないかもしれない。
でも、まだ比較的、小さい子どもたちは、どうか。
いや「小さい」と形容するには歳を重ねているにせよ、十分に成熟しきっていない少年少女にとっては、どうか。

その「暴」は、彼・彼女の一種の「表現」であるかもしれないのです。
そう、「言葉」ではまだ十分に「表現」できないがゆえの何かしらの感情の。

極端に言って、それは「愛情」なのかもしれない。

例えば、ヒルネットのミーティングでは、一人の少年がこんなことを言っていました。
「僕は本当にMやNのことが大好きなんだ。でも、好きって気持ちが強くなっちゃうと、ついちょっと叩いたりしちゃうんだ」

とても印象に残る言葉でした。それはまた、彼自身が、自分でそう客観的に判っていながらも、なかなか留めることができない苦しさが滲む言葉でした。

他にも、大好きなスタッフにまとわりついて離れず、にもかかわらずずっと「悪言」を言いっぱなしの子どももいます。また、これは別の場ですが、好きな先生のいうことほど聞かず、また好きな子には意地悪ばかりしてしまう子もいました。

繰り返すなら、これは一種の「表現」なのです。
さらに難しくいうなら、それは自己の存在を他者から全的に承認されたいという欲求の裏返しでもあるのでしょう。
簡単に言えば、「甘えたい」のです。

ですから、こうした「暴」の抑制を個々に言葉で求めることはできても、「禁止」することはできません。いや言葉で「禁止」とは言えても、それを「排除」することは決してやってはいけません。

とはいえ、一方で、誰かのその「暴」により傷つく人間も確かに存在する。
いや、当事者はもちろん、そういう空気の「乱れ」を敏感に感じて、気分を落ち込ませる人だっている。

では、どうすればいいのか?

もちろん、いつものことながら、簡単な解決なんてありません。
でも、例えば、子どもたちからはこんな意見が出ました。

ーー誰かが暴れだしちゃったりケンカになっちゃたりしたとき、結局どうすればいいだろう?
「そのときは、スーッと別の場所に行っちゃおうかな」
「関係ないよって顔しとこう。だってそれは、その子とその子のモメ事だから、本当ならその子たち自身で解決しなくちゃいけない問題だから」
ーーでも、誰かが暴れていると、みんな嫌な気分になっちゃうことない?
「別に。僕は無関係だもん」
ーーでも、無関係だって思えない人だっているんじゃない?
「まあ余裕のあるときは、暴れちゃってる子に、『落ち着けよ』って声ぐらいかけてあげるかな」
「いま『暴走』しちゃってるよって肩をトントン叩いてもらえるといいかもね」
「肩トントンはいいね。それで『暴走』してるよって合図になる」
「それなら、『どうどう、落ち着けよ』って言ってあげた方がいいんじゃない」
「なんにせよ、声ぐらいはかけてあげていいかも。もっと余裕があれが、その場から引き離してあげられたらいいよね」
ーーでも、みんなにそういう余裕がないときはどうする?
「そんときはイマンモかレイセンが『イケニエ』になるしかないでしょ当たり前じゃん!」

実際、いつもいつも皆に「余裕」があるわけではないでしょう。
むしろ、そんなときは多くなく、僕やレイ分隊長が「イケニエ」になることの方が多いかもしれません。
でも、「暴」をふるってしまう子も、それが嫌な子も、一人ひとりが、それぞれの「解決」を考える。そのこと自体に意味があるんだろうとも思います。
そんなことを考えさせられた最近の活動でした。

それでは、それでは。