学校行かないのが「正解」だった

どうもどうも。
すっかり秋の気配すら漂ってきた今日この頃。皆さんいかがお過ごしでしょうか。ほんとに夏終わるん?ほんとにほんと?(でも秋雨と台風は嫌いなので今年は前線もろとも太平洋上で消滅してほしい)

さて、秋の気配が漂ってくるということは、そう。いよいよ夏休みも終わりの日が近づいてきました。いや、地域によっては、もう新学期が始まっている場所もあるでしょう。

これが憂鬱でない、少年・少女はおそらく、いない。たぶん。
比較的、学校が好きな、友達と会えることを楽しみにしているようなお子さんであったとしても、何となく気が重いなーってな気分になるのが、まあふつう。お盆休み明けに出社するのがイヤなのと一緒。

まして、学校が「嫌い」。
あるいは、「居心地が何となく悪い」と感じている子どもたちにとっては、死刑執行の行われる日を待つ囚人のごとき気分にちがいない。いや、ほんと大袈裟でなく、そんな気分なんですよ、場合によっては。

よくこの時期になると、「夏休み明けのSOSを見逃さないで」等々といった文言がネットその他に散見されるようになりますが、これも別段「煽っている」わけじゃありません。
宿題の自由研究がなぜだか全然手につかない。
何だか妙に不機嫌で話しかけても生返事。
頭痛や腹痛を訴えるけれども医者に行ったら健康体。

そりゃ、そうです。
1学期の間、ヘトヘトになりながら通学していたような子どもにとって、「休み」が終わる足音が聞こえてくるのは、もうほんとに辛い!
関係ありませんが、僕は昔、日曜にやってる「サザエさん」が大嫌いでした。それは当番組が「日曜という休み」が終わるチャイムのように感じていたからです。
まして長い夏休みの終わりを告げる足音というのは、まさしく地球滅亡のカウントダウン同然です。

一方で。
「2学期が始まったら、学校行ってみるよ」
「いや、俺はちょっとサボりたくなっただけ。もうしっかり休んだから、夏休みが終わったら、ちょっと学校がんばってみる」
既に1学期の段階から、学校を休みがちになっていたり、あるいは通わなくなっていたりする子どもが夏休み序盤でこんなことを言っていたら。
場合によっては、保護者の皆さんは「ああ、そうかもしれない。夏休みが終わったら、この子は以前のように学校に通うようになるかも」といった期待を抱かれるかもしれません。

が、この時期。夏休みの終わり。
その「期待」が子どもたちには重くのしかかる。
いや、そもそも上記のような「自分の言葉」自体がひどいプレッシャーになる。

彼・彼女は嘘を言ったわけではないんです。ただ、単にホッとしただけ。
皆が等しく学校なんかに通わなくなる「休み」が始まり、それ以前の「学校に行かねば」というプレッシャーがなくなったことから生まれた言葉なのです。
そうだ。俺はちょっとサボってただけ。
みんなと変わらない。休みが終わったら、きっと学校に行ける「はず」だ。
自分自身でも、そんなふうに考えた、正直な気持ちだった。

だからこそ、苦しい。
結果として、「嘘」になってしまうかもしれないことが、怖い。
自分で言った言葉だから。自分の本当の気持ちだったから。
学校に行かねばならない。
もし、それが「嘘」になってしまったなら。
母さんや父さんは、またどんなに心配しガッカリした顔をするだろう。。。。


一部の子どもたちは、まさしく今、そんな苦しみ、悩み、葛藤のまっただなかにいます。

もし、そんな苦しみを、お子さんが抱えていると思ったならば。
その際は、「無理して学校なんか行かんでもええんやで」という雰囲気を、ご家庭の中で作ってあげてください。
直接、言葉をかける必要はないかもしれません。
場合によっては、学校の話題すら出さない方が良いかもしれない。
しかし、どちらにせよ。
「学校なんか、行っても行かんでも、マジでどっちでも良い」って態度を親がまとう。言外に伝える。夫婦の、家族の会話の端々に、そうしたニュアンスを響かせる。
それだけでも子どもたちは楽になれるはずです。

それは判っている。だが、口でいうのは簡単だけれど、なかなか実行できない。
親としては、どうしても子どもが心配で、それを口にしてしまう。態度に表してしまう。
そんなふうに思われるかもしれません。
しかし、そもそも何が心配なのでしょうか?

学校に行かないと、自分の子どもが「落ちこぼれる」?
何から落ちこぼれるのでしょう?
勉強が心配なのでしょうか?
社会に適応できなくなると?
世間一般の「ふつう」じゃなくなるから?

現在、実に中学生の7人〜8人に一人は、いわゆる「不登校」と呼ばれる状態にあるとの調査もあります。
昔とちがい、「不登校」はもはや珍しいものではありません。良くも悪くも、「ふつう」のことです。
また、学校に通わずとも、勉強をする場所はたくさんあります。
もっと広い、人間関係やその他の体験を含む「学び」を深める場所も、十分な数ではないにしても、特に都会では相応に存在します。僕が運営するヒルネットも、そうした「居場所」「学び場」の一つになれれればと思い活動しています。

そういう現状は判っている。それでもなお、唯一人の「この自分の子」についての心配は消えない。
当然かもしれません。それを簡単に無くすことはできない。

ですが、「自分の子」ではないけれど、実際、「不登校」だったお子さんが、今、元気に過ごしている現状を知ったら?
それは所詮「他人の子」、まれなケースと思われるかもしれません。
でも、ちょっとだけ心が軽くなるかも。
そんなことを願いつつ、僕の知ってるケースを紹介しましょう。

S君は中学2年生。都内の進学校と言われる私立中学に通っていました。
きっかけは些細なこと。というか、周りから見れば、些細に見えたこと。
ちょっとした人間関係のトラブル。
ですが、本人にとっては結果的に、「些細なこと」ではなかった。
段々と学校に行くのが億劫になる。朝が起きられない。
夜になれば、明日は学校に行こうと思うのだけれど、翌日になると、どうしても家から出たくなくなる。

さあ、もちろん周囲は心配します。本人だって心配です。
「不登校」。
そんな「烙印」を押されたくない。「ふつう」がいい。そもそも自分が行きたくて入った中学じゃないか。

数年間、本人はもちろん、保護者の方も悩み苦しみ七転八倒。

しかし。やがて、少しずつ本人の中にエネルギーが満ちていきます。
「学校」はもう無理。じゃあ、どうしようか。
S君はまず、自転車で旅をしました。目的は? 別にない。行き先は? その辺りを、ぶらぶら。
ぶらぶらしたついでに、日本全国をほぼ一周しました。

そして帰ってきてから。
ゆっくり。徐々に。しかし、やがて猛然と。
S君は「勉強」を開始しました。それまでは参考書なんて1ページも開いたことはありません。数年間、ずっと。

しかし、鬱屈していた何かを吐き出すように、S君は勉強を続けました。
そんな感じで、高卒認定試験は楽々パス。
次、大学受験。
こちらは、やや苦労したものの、それでも今では、東京の有名と言って良い私大に通っています。
すっかり学問好きとなった彼は、自分の興味の赴くままに、今も猛然と「勉強」してます。

さて、もう一人。M君。
公立中学に通っていた一年の終わり。同級生からちょっとしたイジメにあった彼。
それがきっかけで、やはり学校に行けなくなります。

そこからは、ほとんど家にこもってスマホにゲーム三昧の日々。
そりゃあ、お父さんお母さんは心配します。当たり前ですよね。
うちの子はゲーム依存症じゃないのか?
このまま家から出ないまま成人してしまったら、どうしよう。。。
そんな不安を抱えながら、それでもご両親は静かに息子を見守ることにしました。

当人はどうかというと、実はこちらだって心配してるんです。
ほんとはちゃんと学校行くべきなのでは?
勉強だって、このままだとどんどん遅れていってしまう。
でも、机に向かえない。そのエネルギーがない。勉強することで、あの嫌な嫌な学校のでの嫌な嫌な出来事がフラッシュバックしてしまう。。。。
なので、どうしてもスマホを見てしまう。ゲームの中で全てを忘れたくなる。
そんな、なかなかのしんどい日々。

が、それでも明けない夜はない。いずれは嵐も過ぎ去るもの。

やがて、少しずつ人生を前向きに捉え始めたM君。勉強も数学だけでも、という感じでちょっとずつ始めます。
そして、高校。
自分にあった、自分のペースで勉強を進められる、かなり自由度の高い一条校を探し出す。
受験するため、勉強のピッチを上げる。けっこう緊張しながら試験を受ける。面接もあったそうですが、これも何とかクリア。
結果。見事、合格しました。今では、その学校に、友達もできて、けっこう楽しそうに通っています。

もちろん、M君の悩みは完全に晴れたわけではない。ゲームだってそこそこやる。
だけど、一方で友達と遊びに行ったり、自分なりの趣味を見出し、そのための小旅行に一人で出かけたり。
今後の長い人生で、たとえまた落ち込むようなことがあったとしても、そこから回復できる自分の力を信じられるようになったはずです。

これらは皆、個人レッスンで知り合ったり、親御さんから個人的に相談を受けて知った子どもたちの例です。
二人の例ですが、実は何人かの話を混ぜて「二人」の人間にしています。
つまり、上の「二人」の背後に、同じように大学に進学したり、高校に進学したりしている例がたくさんあるということです。

そして、手前味噌ながら、ヒルネットに通ってくれている、みんな。
特に小学校の時分から、もう4年も通ってくれている年長のメンバーたち。
彼らは、もう何も心配がない。
ってことは、まあ親御さん的にはないでしょうが、それでも僕から見ると、本当に「人間」として成長してる。

自分達だけで遊び含め色々なことを計画し、実行できる。
自分より年少のメンバーたちの世話をしてくれる。
自分自身で進路を考え、その先にある人生を考える。

昔は少し頼りなげだった彼・彼女らが、今ではすっかり「大人」です。
実際、「ふつうの中学」に通っている中学生たちより、大人に見えるし、しっかりしている。
なんて言うと、褒めすぎかな。
でも、本当に成長した。
だから、普段から接している僕からすると、そんな彼・彼女らにとっては、「学校に行かないことが〈正解〉だった」と思えるのです。
いや、ほんとに。心の底から。

さて、話を戻すと。
これらは確かに「他人の子」の話。
たった一人の「自分の子」の話じゃない。
でも、その「自分の子」だって、同じように悩み、苦しみつつも、やがて自分だけの道を見つけられるようになるかもしれない。

「学校に行かないことが〈正解〉」
今はまだ、そんなふうには考えられないかもしれない。
でも、いつかは心の底から、そう思える日が来るかもしれない。
だから、せめて。
今は子どもたちが「学校」のプレッシャーをなるべく感じずに済む雰囲気を作ってあげてほしい。「無理して学校なんか行かんでもええんや」という気持ちにさせてあげてほしい。
夏休みが終わり、新学期が始まる「カウントダウン」が鳴り響いている、今だけでも。

それでは、それでは。





フリースクール等にアクセスできる「不登校」の子ども達がとっても少数な件について

どうもどうも。
突然の猛暑が6月にもかかわらず訪れてしまって既に一年のスタミナのほとんどを使い果たしそうなイマンモです。こんにちは。地球温暖化待ったなしですな。

さて、今日は言い訳なしで、いきなりテーマに行きたいと思います。
実は先日、練馬区の行政と民間フリースクールの連携について考える、区の主催による会議に出席してきました。

年々増え続ける、いわゆる「不登校」の問題に対して、行政側も手をこまねいているわけではなく、いやこまねいてはいるのだがこねくり回すぐらいはしてみたいと思っていたりして、いや、こねくり回してみても仕方がないのでやっぱり手をこまねいているわけです(何が言いたい?)。

まあ実際、国のレベルでは、今のところ、そもそも教育行政自体どうなんだと思う感じなわけですが、規模の小さい区や市のレベルのスタッフの中には、やはり真摯に現在の教育問題に取り組みたいと思っている人もいるんですな。
そんな行政のスタッフ側と、我々民間のフリースクールで、いろいろ協力できること、連携できることはないのかということで、こういう会議も区によっては開かれているわけです。

ということで、わたくしイマンモも6月初旬の某日、颯爽と我がヒルネットを代表して会議に参加してきたわけです。
そして、会場。
参加者の顔ぶれ。

めっちゃでかい法人ばっかりやんけ!

なんかN学とかトライとか来てるし。
それ以外でも、ちょーでかい古参フリースクールがほとんど。
なんや、わいらみたいな少人数フリースクールの来る場所ちゃうかったんやろか。。。。

・・・などと一瞬、緊張してしまいましたが、それもほんとに最初だけ。
いざ、会議が始まると。。。

誰よりも無駄に喋りまくるイマンモの姿がそこにあった(主観)

なんでしょう。何かの呪いにかかってるんでしょうか。
そういう場所にいると、どうしても話をせずにはいられなくなってしまう。なんなら自分とあんまり関係ない話にも、いっちょかみで話に割り込んでいく。
しかも、なぜかちょいちょい笑いのネタを仕込んでいく。

いや、実際には僕以外の人もいろいろ話してましたし僕と同じくらい話しまくってた人もいた気がするし、あくまでこれは僕の主観であって、そんなに悪目立ちしてたとは思わない。思いたくない。
それでもまあ、いろいろ会議のテーマに添いつつ種々の意見を言わせてもらったことは事実です(そしてネタを仕込んでいったのも事実)。

まあ、ともかく、そんな感じで種々のフリースクールの事務の人やら現場スタッフやらと行政の人たちが2時間ほど会議をしたわけなんですが、最終的には、ある一つの大きいテーマが僕的には浮かび上がったなあと思いました。
では、どんなテーマが話題となったか。
そのことが今日、この記事でも書きたいことでもあるんですが、それはいわゆる「不登校」と呼ばれる状態にある子どもたちの、実は数パーセントしかフリースクールにアクセスできていない問題

そう。
実際、地方にいけば、フリースクールやオルタナティブスクールのような「場所」が、なかなか近くに存在しないようなケースもあるでしょう。
しかし、大都市圏、具体的には東京や大阪、名古屋周辺には、本当はたくさんのフリースクールが存在します。
それこそスクールの個性も多種多様で、大きいところもあれば、ウチみたいに少人数をうたっているところもある。教育方針だって様々です。だから、あるスクールに合わなくとも、別のスクールに行けば上手くいくというケースも多くある。

にもかかわらず、「不登校」等呼称される状態の子どもたちのほとんどが、フリースクールに通わない。通えていない事実。
これはいったい何でなんでしょうか?

会議でも様々な原因が語られました。
そこで以下、会議でも話され、僕も大きな理由だろうなと考える理由を、いくつか挙げてみようと思います。

1. フリースクールを知らない

まず、第一の理由が、これ。
そもそもフリースクール等の存在自体を、けっこう一般の人が知らない。
「そんなことないんじゃない?」とこの記事をお読みの方は思われるかもしれません。実際、僕もヒルネットを始めてみるまで、僕自身が大昔にフリースクールに通っていたこともあり、感覚的に誰でも知ってるような気がしていました。

ところが、ヒルネットを始めてから、種々の「不登校」に関わる相談を受ける中、特にプライベートでそうした相談を受けた際に、当の相談者が、フリースクール等の存在を全然知らないということが、結構多いことに気づいたのです。

しかし、考えてみれば、当たり前なのかもしれません。

我々もSNSなど通じて、なるべく自分たちの活動なんかを世に知らせようと努力はしているんですが、所詮はネット世界の片隅のかたすみ。
いわゆるマスに向けた広告なんかを出したりしている法人は、寡聞にしてあまり聞きません(といって、僕はテレビをまったく見ないので、断言はできないんですが)。
それこそN学さんやトライさんぐらいじゃないでしょうか。
そう考えると、そもそも通信制の高校の在り方だって、N学さんが大規模な広告をうってくるまで、あまり知られてなかったんじゃないでしょうか。
同じ理由で、高卒認定試験なんかのことも、意外と知らない人が多い印象です。

その理由は、いわゆる民間フリースクールの多くが小規模経営なため、そんな大きな広告を出せる資本がないということが大きいでしょう。あるいは資本があったとしても、あまり商業的なイメージをスクールにつけたくないということもあるかもしれません。

いずれにせよ、特に小学生・中学生くらいの年齢の子どもの選択肢として、フリースクールがそもそも認知されていない。
これがまず、第一の関門です。

2.学校等の公共機関との連携不足

皆さん、ご存じかどうか判りませんが、現在、フリースクールへの参加は、地元在籍校では校長判断で出席扱いになります。そういう文科省からのお達しがあるんですね。
もちろん、地元在籍校と保護者との関係や、その校長先生の考え方なんかによって、たまに出席扱いにならない場合もあるんですが、出席扱いになる場合がほとんどです。
で、学校に話を通せば、スクールに通うための通学定期も買えます。

こんな具合に、公立学校との連携・協力は徐々に進んできているのですが、一方で真の意味での協力関係というか、信頼関係を結べているかと言えば、いささか心もとない。

例えば、クラスで、学年で、「不登校」となったお子さんを、地元にある民間のスクールに学校側から紹介するようなことがあるかといえば、そういうケースは少ないでしょう。
幸いなことに、ヒルネットは西荻窪の公立中学から信頼していただけているようで、時折、中学校の方から紹介されたという形で、僕たちに問い合わせてくださる方もいます。
これは本当にありがたいことです。
というのも、繰り返せば、やはりこうしたケースは決して多くはないようだからです。

と言っても、これは学校等の公共教育機関が悪いわけではありません。
むしろ、民間のフリースクール等の方に「信用」がないことが原因です。

先ほど書いたように、フリースクールやオルタナティブスクールの教育方針は様々です。
それゆえ、逆にいうと、外部からはどんな教育が行われているのか見えにくい。
そのため、学校側としては軽々に「〇〇のフリースクールに行ってみればどうでしょう」と保護者の方々に推薦しにくいわけなんですね。

こうした、ある種の「不安」を取り除いて、学校等機関と真の協力関係を結ぶためには、自分たちの地域の学校をはじめ、公立教育機関に民間フリースクールの側から自分たちの活動をプレゼンテーションしていくような機会を多く持っていく必要があるかもしれませんね。

3.経済的な問題

実のところ、この問題は非常に大きい。
フリースクールやオルタナティブスクールの会費も、ピンからキリまでありますが、少人数・小規模ゆえに経営がギリギリだったり都心の教室家賃が高すぎたりといった理由で、そんな無茶苦茶に安くはできない。少なくとも公立校のように「無料」にすることはできない。
ヒルネット含めて、多くのフリースクールが寄付を募っていますが、継続的に支援を続けてくれるような人間や機関は、当然ながらそんなに居ません。

そうすると、どうしてもスクールに通う費用を捻出できないご家庭だって出てきてしまうわけです。

これが本当に僕たちフリースクール経営者にとっては悩ましい。
実際、上記の会議でも最も熱を帯びて議論されました。

目の前に、「不登校」に苦しんでいる子どもがいる。保護者も本人も、ウチに通いたいと思っている。
にもかかわらず、スクールに通う費用が捻出できないからと断念してしまう。。。

こうした事態を、指を加えたまま見ているのは、本当に断腸の思いです。

会議では、都や国レベルの行政府の方から助成金等の支援の話はないのか、あるいは各家庭に支援する形は取れないのか等、議論されました。

難しいのは、都や国が助成金等の形で、フリースクール等を支援することになってしまうと、おそらく間違いなく、一定の要件等を満たしているかなど、ある種の「縛り」ができてしまうだろうことです。そのルールに従って「認可 / 不認可」などの区別も生まれてしまうかもしれない。
そうすると、多様な学び、多様な教育方針をとることを一つのモットーとしているフリースクール等の民間の教育機関は、その存在意義が疑われる事態へと陥ってしまう。

だから、できれば各ご家庭に支援が行われる形が望ましいのでしょうが、これまた「不登校」のお子さんを抱えるご家庭にだけ、そうした支援を行うことは不平等だなんだという「不満」の声が世間から出てきそうな気もします。

ともあれ、目下、この経済的問題は、非常に切実な問題です。
しかし、ある意味では、知恵を絞れば、なんとかできそうな問題でもある。
我々フリースクール関係者はもちろん、行政府の方でも何か良い方策を思案・検討してもらいたいなと思っています。

4.そもそも当の子どもたちが「乗り気」じゃない

以上が、いわば外在的な理由となるでしょう。
最後に、内在的理由。つまり、実際にフリースクールに通ってもいい状況にあるにもかかわらず、そうしない少年・少女の内面的な理由について書いておこうと思います。

そして、実はこれが結構大きいのではないか? と僕自身は少し思っていたりもします。

それは、つまり当の彼・彼女自体がフリースクールなるものに通いたくないと思っているということです。

どういうことでしょうか。
理由は二つあります。

一つは「フリースクールに通うことを検討する」=「自分は世間一般に言う〈不登校児〉なのだと現状を自分で認めることになる」=「つまり、やはり自分は〈ふつう〉ではないのか?という思いに苦しむ」といった思考経路からくる葛藤が生まれることです。

僕自身も大昔に経験したことですが、「学校に行けなくなること」の理由は自分でもはっきりしたものではない。
そうした理由もあり、1週間、1ヶ月、半年と欠席が続いても、実は自分が「不登校」と世間で言われる状況に陥っていると、当の子ども本人が思いたくないという心理が生まれてしまうのです。
いや、正確に言うと(それが難しいのですが)、頭のどこかでは自分が「不登校」の状態にあると判ってはいるのですが、一方でそれを認めたくない。あるいは、自分の状況を客観的に考えさせまいとする心理的防御が働く状態になる。

ところが、フリースクールに通ってしまうと、その現状を完全に自分で「認める」ことになってしまう。あるいは、その選択肢を考えることで、現状を直視せざるをえなくなる。
つまり、「ふつうでない自分」を認めることになる。
これが、特に10代の少年少女にとっては辛いわけなんですよね。

この「ふつうでない自分」を認めて、「俺は世間一般の奴らとは違うんだ!」という開き直りが生まれてくると強いんですが、当たり前ですが、皆が皆、そんな強さを一朝一夕に身につけられるわけがない。
あるいは、いずれにしろ現状の自分の在り方のようなものを直視できる頃には、精神的にも成熟し、もはやフリースクール等を必要としない年齢になっていたりするわけです。

こうした心理状況が、彼・彼女らにフリースクールへ通うという選択肢を取らせにくくしている一つの内的理由です。

そして、もう一つ。
これは本当に、ある意味で当たり前のことなんですが、自分が知らない初めての「場所」=スクールを訪れるのが、怖い、不安だ、と思う心理があります。

大人だって、全く知らない「場所」に出かけていくときは多少は緊張するものですよね。
まして、社会経験の少ない少年・少女。
しかも、彼・彼女らはすでに学校生活のなかで、他者の集団に疲れ、ときに傷ついてきた経験を持っているのです。また、家にいる時間が長かった場合は、そもそも他者に慣れていない状態。
いずれにせよ、精神的に弱っている状態なわけです。

そんな状態のなか、「初めての場所」「初めて遭う同世代の他者」に対して不安を感じないはずがない。「怖い」と思うのが当然です。
えいやっと飛び込んでしまえば、後は楽になるかもしれませんが、そもそもそうやって飛び込むだけのエネルギーが、まだ不足している。

こうした心理状態が、例えば親御さんからの「こんなフリースクールがあるけど、どう?」といった提案に対して否とと答えさせてしまうのですよね。

したがって、以上の心理的・内的な原因については、わかりやすい「解決策」はない。
彼・彼女のなかでエネルギーが十分蓄えられ、自分からもう一度他者と向かい合い付き合っていきたいという思いが湧いてくるのを待つほかありません。
だから、この理由4については、僕たちができることは、親御さんたちの相談を聞き、また協力して子どもたちの中にエネルギーが満ちてきやすい環境を整えてあげることでしょう。

以上が、どうして「不登校」と呼ばれる状況にある子どもたちが、なかなかフリースクールにアクセスできないのか、という課題に対する僕なりの考えになります。
繰り返せば、四つ目に挙げた理由への簡単な「解決策」はなかなか無いかも。
でも、他の三つは僕ら民間の教育機関や行政、公教育機関がちゃんと協力できれば、解決できるような気もします。

なんとか多くの子どもたちが、既存の「学校」には通えずとも、仲間と楽しく笑い合いながら、様々なことを学べる環境、場所に出会えれば良いなと思います。

それでは、それでは。


フリースクールにだって簡単にゃ行けんさ

どうも、どうも。
東京は今日も雨。めっちゃ雨。いよいよ僕の天敵たる梅雨の季節がやってきた模様です。っていつもより早くない?早すぎない?
いやー雨は大嫌いなんですよ。濡れるのが嫌い。見るのも嫌い。思春期のころ雨が降ると天パの髪が湿気のせいですぐフニャフニャになってムカついたトラウマのせいなんでしょうか。農家の人には悪いが梅雨ほど嫌いなものはない。そうだ、北海度に移住しよう。

などと、雨が嫌いとうことだけで、すでに一定の文量を消費してしまっている駄目ブログですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

さて、本日のテーマ。
それは「別にフリースクールに無理に通わせようとせんでもええ」。

お、なんだ、この自己否定的なテーマは。
先日の記事で書いた通り、せっかく自分でフリースクールを始めて2年が経ったっちゅうのに、なんでそんなこと書くんや?
というか、「フリー」なスクールなんやから通わなくていいのは自明でないのん?

おっしゃる通り、「フリースクール」は当たり前ですが、通っても通わなくてもいい場所です。
まさしく、そこは「自由」な学校のはず。

ところが、最近、公私ともに相談ないし質問等受けるものに、以下のような話があります。要約すると、
「息子or娘が中学校に行かなくなった。それはもう仕方がないが、せめてフリースクールに行けばどうかとすすめるのだが、これを息子or娘が断固として拒否する」
ってな話です。

これ、親として、気持ちすごくわかる。
僕自身、自分が不登校だった経験から、あまり学校制度自体には重きをおいていませんが、自分の娘&息子が平日の昼間っからちゅどーんと家に居られると、「ヘイYOU! お前さんの少年少女的ニチジョーはマジそんな感じでダイジョーブなのかYO! せめて太陽の光サンサンと浴びてセロトニン出す生活してみたらどうだってばYO!」って口走りたくなります。

だから、とりあえず我が子の「不登校」という現実を受け止めた親御さんたちは(こうなるにも相当の修行が必要ですよね)、「学校以外の通う場所」を見つけてあげたくなります。
いや、別に家に子がいてくれてもいいんですが、特に都市部に暮らしている人間としては、せっかく学校以外に色々な「学び場」があるのだから、そういう場所を利用した方がこの子の人生の可能性が広がるんじゃないの? そう考えてしまいます。いや、「しまいます」と書きましたが、それが至極フツーでしょう。

また、他者と関わらない少年時代を送ることで、大人になったとき一定程度必要な、社会性が身につかないのではないか、という心配もあるかと思います。

ただ、ね。
上の要約文に、あえて「中学生」と書きました。
というのも、やはり中学生以上の年齢の子にとって、場合によっては「フリースクール」に類するものは結構ハードルが高い。
なぜか。
これは以前、記事にした記憶もあるのですが、中学生ぐらいの年齢の子どもたちは、ただでさえ自意識がめっちゃ発達している。というか、大人から見るとヘンテコに発達している。
「え? そんなこと気にするの? 君の寝グセなんか誰もみてないよ?」と言っても寝グセひとつで世界の全体が自分を嘲笑しているかの錯覚に陥るのが14歳の少年少女。エヴァンゲリオンに乗れる子どもたちの条件なのです。ATフィールドは心の壁なのです(すみません)。

だから、彼・彼女らは、できれば「ふつう」でいたい。
大人である親以上に「ふつう」からはみ出すのが「怖い」のです。

いや、もちろん、そんなふうには決めつけられない。そうじゃない成長期のお子さんだっているでしょう。
あくまで、これは相対的な話です。
ただ、少なくとも、「俺はフツーなんて大嫌いだぜ! 変人呼ばわりけっこう! 俺はそこらのフツーの大衆とは違う生き方をするんだぜ!」などとシャウトできるのは大人の中二病患者だけです(僕とか)。
まあ、多くの場合、少なくとも高校生以上ぐらいの年齢にならないと難しい。

ともあれ、仮に「ふつう」からはみ出すことを恐れる自意識に苦しんでいる中学生くらいの少年少女がいたとして、彼らがいわゆる「不登校」の状態に陥っていた場合。
学校には行けない。でも、そんな「ふつうじゃない」自分がイヤだ。じゃあ、どうすればいい? やっぱり学校に行こうか。でも朝起きると、やはり学校に行くことは「不可能」になる。でも、それはきっと「ふつうじゃない」……。
この堂々巡り。
この、どうしようもない心理的隘路から抜け出すのにすら、子どもによってはかなりの時間がかかるものです。

そこに。
「もう学校行きたくないんなら、行かなくていいよ。それより、〇〇っていうフリースクールがあるから、ここに通ってみること考えてみない?」
という親からの提案。
それは、まだ心の整理のついていない彼・彼女からすると、「いやいや待ってくれYO! まだ俺その段階じゃないから!」ってなっちゃいますよね。


つまり、「フリースクールに行く」という選択は、「不登校の自分」=「ふつうじゃない自分」を認めることになりかねない選択なのです。それを受け入れるには、まだ準備が足らない。
そして、場合によっては、そのような提案をしてくる親は、自分のことを「ふつうじゃない」と見ているんだと思い、傷つき反発します。

いや、保護者は悪いんじゃない。
お父さん、お母さんだって悩んだ末に、子の「不登校」を受け入れ、そういう提案に至ったはずです。ただ、大人である僕たちと、子どもたちとでは、心の時間の流れ方も違えば、色々なことを整理するやり方だって違うというだけです。
(ついでに言うと、「保護者が悪いわけじゃない」ということ。これは何度も言っておきたい。
子どもが「不登校」になると、特にお母さんたちは、「私の〇〇が悪かったのでは?」「あのとき、こうしておけば良かったのでは」と自分を責めます。その心理も痛いほどわかります。
でも、「素晴らしい子育て」なんて、みんなできるわけがない。
誰にとったって「親」になることは初めての体験なのです。
そして、子が「不登校」になったことは、貴女の「失敗」などでは断じてない。それは、その子にとって、必要な「成長のプロセス」なのです)

さて、ではどうすれば良いのか?
もちろん、それは一人ひとりの子どもによって違います。ケースバイケース。
ただ、それでも大まかに言って、いくつかのモデルケースはあるかと思います。

まず、大前提として、その子ども自身がある程度、「動き出す」兆候をちょっぴりでも見せてくれるのを待つ必要があります。
繰り返せば、まだ上記のような心理的悪循環の中にいる状態、言葉を変えれば、「エネルギー不足」の状況で、親がいろいろ提案をしたって、「シャッター」を下されてしまうのは、目に見えています。
あくまで、彼・彼女が自分のココロと折り合いをつけるのを、ある程度待たなければいけない。

その上で、彼や彼女が、少し前向きに、「外」に出ても良いかな、といった素振りを見せてくれたなら。
例えば、高校受験をどうするか、なんて話を子どもの方から、ふと振ってくることがあったなら。そんなことを考えられるだけの「エネルギー」が満ちてきたなら。

そのとき、初めて色々な選択肢があるという話をしてあげれば、良いと思います。
高校には必ずしも行かなくとも高卒認定試験などの制度があること。
通信制の高校だってたくさんあること。
そして、もし今、人と交わっていく気持ちが少しでも芽生えてきたのなら、フリースクールのようなところに通うことだってできること。

何も目的は高校なんかじゃなくてもいい。
僕の知っている子は、ただ何となく何も勉強していないと不安だから、と塾に通い始めた子もいます。
好きだった絵なら、習いに行ったっていいと言って画塾に通うようになった女の子もいます。
それどころか、なぜだか突然、旅行がしたいと言って、自転車で全国をめぐるようになった少年もいます。

フリースクールは一つの「手段」にすぎません。
どんな形になるかはその子次第です。が、必ず子どもたちは、自分に合った、「外」の世界との向き合い方を見つけていくはずです。

もちろん、この話は中学生だけのことではありません。
早熟な小学生高学年くらいの子であれば、中学生と同じように、自意識からくる苦しみを感じている可能性が高い。
特に近年は不登校の低年齢化が進んでいます。
とはいえ、やはり小学校の低学年、中学年くらいの子であれば、まだフリースクールや、その他のオルタナティブ教育に、親がすすめるままに乗ってきてくれることも多いでしょう(もちろん、これだってケースバイケースです)。
そして、そんなふうに自意識がまだ育ちきっていないからこそ、学校以外の場所であっても「他者」と触れあうことの効用は大きいと言えるでしょう。

逆に言えば、中学生くらいまで「学校」の中で「他者」に囲まれ自意識をすり減らしてきた経験のある子どもが、たとえ「不登校」となり数年間「孤独」に過ごす経験をしたとしても、再び「外」の世界に出ていった時に社会性を取り戻すのに、そんなに時間はかかりません。子どものころ自転車に乗れたなら、数年乗らずともすぐ感覚を取り戻すのと同じです。

ですから、まずは「待つ」ことです。
いろいろと子どものためにしてあげたい。提案したい。問題を解決してあげたい。
わかります。その気持ちは、痛いほど。
しかし、その「解決」は、ひょっとしたら、子どもの「不安」を解決してあげるためのものではなく、自分の「不安」を「解決」しようとするための手段なのかもしれない。

「待つ」ことは本当に辛い時間です。
ですが、子どもを信じてあげてほしいと思います。
何もせず、ボケっとゲームばかりやっている息子の少し大きくなった背中を見ながら。一日ソファから動こうともしない娘のソファの端からはみ出た足を見ながら。
でも、彼も彼女も、本当はボーッとしているわけではないのです。
心の中で、さまざまな声と戦いながら、時に怯え逃げながら。少しずつ少しずつ、心の幹を育てているのです。
それは大人から見れば、とてもゆっくりな足取りでしょう。
それでも、確実に、彼も、彼女も、半歩ずつでも、足を前に進めようとしているのです。
自分の人生を歩む「力」を蓄え続けているのです。

それでは、それでは。