学校は全然アフターコロナとかじゃなかったって話

どうも、どうも。
今年もまた大嫌いな梅雨真っ最中、気圧変化のせいか僕は毎日体調がどんより優れぬウンザリな日々を送っておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。あー早く梅雨明けないかなー。。。

さてさて、このブログもすっかり月一連載みたいになってきております。
いや、まあ相変わらず言い訳するなら、忙しい。
ステイホームとかが終わってリアルにヒルネットや個人レッスンを再開したら、やっぱり忙しいんですよね、これが。
休日になかなかブログをアップしようって気になんない。
そうこうしてるウチに気がついたら一月経っちゃってたって感じなんですよね。いやマジで。

まあ、このブログを楽しみにしてくれている人がいるとしたら申し訳ないこってす(そんな人あんまりおらんでしょうが)。
今後もせめて月一連載のペースでは続けていこうと思うので何卒よろしく。。。

 

とまあ、さてさて本題。
ここ東京では、相変わらず実態的にも、経済的にも、心理的にも「コロナ禍」が梅雨の雨空のようにダラダラと続いておりますが、一方で皆ある程度ふつうに生活もしなきゃなんないということで、アフターコロナだとかニューノーマルだとか、いやさアフターコロニーだとか、いやそもそも宇宙世紀だとか、いろいろな言葉が女帝コイケ的にもてはやされておる日々です(もはや意味不明な文)。
と、そんな今日この頃の第三新東京市ですが、ここにちっとも新世紀になっていないものが一つある。

それが、学校。

いや、ね。
知ってましたよ。
前回の記事を見直してみたら、そんなこと自分でも匂わせていたような気もします。

それにしても、ね。
変わらんどころかヒドクなってるんじゃねーの?

いや、ほんと何でしょうか。
小学生に7時間授業とか。30分一コマにせよ1日8コマとか。
中学生なら土曜日なのに6時間。あと、めっちゃ多い宿題、課題。
私立公立関係なくひどい。

いやーしかしオンラインがどうとか9月入学がどうとか言ってて結局これかよ。
ふざけんなよ。
ちゃんと生きてる子どものこと見てんのかよ。数字だけでつじつま合わせよーとしてんじゃねーよ。

そう。
つじつま合わせ。
あるいは見えない「誰か」からのクレームへの「言い訳」としてやってるようにしか見えない。
事態に合わせて現状を変えることができない。
いや、もっと言えば、主観的には「中庸」な選択をしてるつもりで結局現状を追認し新たな解決策を何ら提案できない。
70年前と何も変わってねーじゃん。

いや、現場の先生たちは悪くないんすよ。ほんと。
いや、悪い先生も一部にはいるんでしょうが、それは現在の状況とはまた別の問題。
むしろ悪いのは、もっと上の奴。
学校長だったり教育委員会だったり。
そして、もちろんラスボスは文科省。文科省が結局、「ことなかれ」に走ったせいで、こうなった。

前回のブログでも書きました。
学校の本来の役割は「勉強」にあるわけではない、と。
そういう意味では美術や音楽も、あるいは小学校なんかでは必要かもしれない(ただし中学校、お前はダメだ)。
でも、一日7時間にして宿題増やしてまでやることじゃないよね。
それで子どもたちにヨユーなくなったら本末転倒だよね。
アホか。

(※余談ではあるが、コロナ禍への対応については、正直、お金をたくさんとってるだけ一部私立小中高の方が、対応は最悪であるとも言えた。
とある名門私立高校ではなぜか1対200のZoom授業を強行し生徒の顰蹙を買っていた。いや、大学じゃないんだからムリよね。誰が考えたんだか。
またオンライン授業はしないのに、大量の課題を出して、その日の夕方にネットで提出させるというブラック企業的小中学校も散見された。
こういう私立小中高は学費を返納すべきだとけっこう本気で思う。「学歴」のためだけに金出してると思っとりゃせんか?
いやまあ、それを言うなら大学。ヒドイ酷すぎる。通信制でしか授業もゼミもできない上、施設に立ち入り制限するなら通信制大学並みの学費にするのが筋でしょう確信犯的詐欺行為か?)

で、こんなアフターセンチュリー以上にヒドイ現在の学校生活に対して、今まで以上に「耐えられない」と思う子どもたちだってたくさん出てくる。そりゃ、そうだよねえ。。。

この一ヶ月でもう何件もの不登校の相談を受けました。
年齢もバラバラ。
深刻度もいろいろ違う。

コロナ禍で家にいる期間、子どもによっては、その状況にうまく対応出来ていた。
皆が「不登校」の状態ゆえに特に自分の置かれた状態を気にすることなく自分の行いたいことができていた。
「非常時」が「常時」になったが故の「安心」があった。

しかし、それに「終わり」がやってくる。
家にいる期間の「安心」があったが故に、休校あけの学校に対するストレスは、当然大きなものだったはずです。
しかも、その学校はかつて以上に「ヨユー」のないものになっていたりもする。。。

この記事を今、読んでいる皆さんの中にも、お子さんのことで様々なお悩みを抱えている方がおられることでしょう。
今書いた通り、コロナ休校明けから学校に行けなくなった。あるいは「行き渋り」がひどくなった。そこまで行かずともストレスからか家庭での言動が荒れている等々。。。。

そういう場合、まずは彼・彼女が「エネルギー」を回復するのをゆっくり見守りたいところです。

これは現時点でお子さんが「学校」を明確に「拒否」している場合はもちろんですが、そこまでいかずとも、むしろ「何とか学校に行こうとしているのだけど行けない」、「学校の何がイヤというわけじゃなくても行けない」といった感じの場合にこそ重要でしょう。

 

お子さんが急に「不登校」になれば、親として心配になるのは当たり前。
何とか「解決」できないかと焦ります。誰だってそうでしょう。

ですが、その「不安」は必ずお子さんにも伝染します。

すでに本人だって悩んでいるのです。
急に「ふつう」じゃなくなった自分。どうして学校に行けないのか? このまま学校に行けず自分の人生どうなってしまうんだろう。。。
少なくとも小学校高学年以上の子どもならば、大人と違って視野も狭い分、誰だって悩みます。大人以上に悩んでいます(そして不登校の「理由」は、ここでも繰り返し書いてきたように、自分ではなかなか言語化できないものなのです)。
そうした素振りを「大人」である僕たちに見せてくれなかったとしても、です。

そこに「親」の「不安」が重なってくる。
これは、辛い。
自分で「不安」に思っていることを、どうやら「大人」である親も不安に思っている。ということは、やはり自分の状態は「とんでもなく心配な状況」なのではないか。。。
そんなふうに考えてしまい、それを解決しようと自分なりに焦り、でもどうしようもなく自己嫌悪が深まるばかり。。。そういう悪循環に突入してしまいます。

ですから、まずはゆっくり見守りましょう。
焦って「解決」しようと思うのはやめましょう。

「どうってことないよ。
学校なんて行こうが行くまいが何とかなるさ。
学力の遅れなんて心配するな。
お前が本気になれば、そんな遅れすぐに取り戻せるさ。
大丈夫。
どんな道を進んだって、お前ならきっとうまくやっていけるとも」

嘘でもいい。
演技でもいい。
まずは、そういうメッセージを子どもに送ってあげましょう。
態度でも。そして言葉でも。

もしお子さんが、まだ小学校中学年ぐらいの年齢なら、「エネルギー」が再び充填されたときに、ふと学校に通うようになるかもしれません。
コロナ休校あけの「ショック」が原因なら、とりわけそういうことも多くあるかと思います。

あるいはお子さんが中学生以上なら。
それはもう、彼・彼女自身が自分の「人生」を、「自分なりの生き方」を悩みつつ選び始めたということなのかもしれません。少なくとも、そう受け取ってあげるべきでしょう。
それは「ふつう」の道ではないかもしれない。
しかし、おそらく彼・彼女なりの「ベスト」な人生を歩むための第一歩ではあるはずです。

学校はアフターコロナになっても結局、何も変わりませんでした。
ですが、せめて僕たち親は、少しずつでもその価値観を変えていってもよいのではないでしょうか。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

中高生と不登校

どうもどうも。
気がつけばすっかり春の陽気に花粉も飛んですっかり冬も終わりという雰囲気になってまいりましたが、皆さん如何おすごしでしょうか。

さてさて、全くもって月一回ペースとなりつつある、このブログ。
これじゃいかんと思いながらも、一週間の疲れが休みに残る今日この頃。怠け癖がついてしまっております。
そうはいっても3月末には、なんとかかんとかやってきたヒルネットの活動も一年。その感想記事なんかも書かんといかんよなあと思い、その前に溜まっている書くべきことを消化せねばなどととも思って、今日月曜(休み)も夕方になって思い腰を上げてパソコンの前に座ってみたわけです。
ちなみにさっきまでは読書のWSで読む短編小説と絵本を図書館に物色に行ってました。やっぱ忙しすぎるYO!!

 

ということで、最近受ける相談。
相変わらずシリアスなものから、そこまででもないものまで種々の教育相談を、特にヒルネットを始めてから受けておるわけですが、今日特に書きたいのは、中学生について。

不登校の現実は種々様々、以前書いたように、一見、「原因」らしきものが見当たらないものから、低学年のケースに顕著なように、むしろ学校やクラス・担任先生のキャパ不足から、実質的に不登校に「追いやられている」ように見えるケースまで、まあほんとにいろいろとあるわけなんですが、総体的に言えば、年齢が上がれば上がるほど自意識との葛藤は深まる傾向にあるわけです。
(逆に低学年のお子さんの場合は、本人にその意識がなくとも、直接的間接的「原因」が、心理的なトラウマを作っているケースがあります)

どういうことかというと、「学校にいけない自分」「いかない自分」を恥ずかしく思い、親や周りの人間が何も言わずとも「ふつうじゃない」「落伍者」といった自罰的な枠組みで責めるようになってしまうのです。

繰り返せば、問題は、親や周囲の大人が、少なくとも意識した言動としては、そうした態度を取ったり言葉を口にしたりせずとも、自分自身でそう思ってしまう。
十数年の間に染み込んでしまった「ふつう」という名の「枠組み」がそう思わせてしまうのです。

そして、無理して通学し続けるうちに、「エネルギー不足」の状態へと陥ってしまう。。。

 

「そんなにしんどいなら学校なんかいかなくてもいい」
「いじめられるような場所になぜ無理して通うのか?」
「人生には多様な生き方があっていいんだ」

僕たち大人は、こういうことを簡単に言います。
もちろん、僕も言います。
そして、少なくとも社会的にはそうしたメッセージを発し続ける必要があります。
それこそ、クソみたいな「ふつう」という「枠組み」を壊すためには。

しかし、それを直接聞かされる中学生の感想は、

「うるせーよ」
というものかもしれません。

 

当たり前ですが、口で「学校にいかずともいい」と言いながら、どこかに「ふつう」の幸福を親が望んでいるとしたならば、それを子どもは鋭く見抜きます。
「きれいごと」は通用しないのです。

しかし、心底、「学校なんていかなくてもいい」と思っていたとしても、そういう大人の言葉を子どもは素直に受け取ってくれないかもしれません。
例えば、十代の子どもたちの多くは、過剰に心配されたくありません。特に両親には。
大人と子どもの境目である彼・彼女らの自意識にとって、親の「保護」は、自分を「弱いもの」と見なす視線と同義に思えるものです。
したがって、「心配されている」という状態自体が、すでに彼・彼女らの自尊心を大きく傷つけてしまうのです。

 

では、どうすればいいのか。

もちろん、いつものことですが、一概に通用する答えはありません。ケースバイケース。
しかし、それでも、一つのざっくりとした答えは、すでに上に書いています。

そう、心配しないこと、です。

心配されるのが嫌なら、心配しなければいい。
「多様な生き方」を認めているのなら、学校に行こうが行くまいが、どっちだっていい。勝手にさせる。
無理に「学校にいかなくても道はある」なんて言わなくてもいいんです。
「学校以外の道」は彼・彼女が自分で見つけます。
まして「学校にはいかなくてもいい(けれど、◯◯にはなってほしい/◯◯になってほしくない)」なんて思ってはいけない。
どこにどんなふうに転んでいっても、それが彼・彼女の人生なのです。

 

学校に行かず昼まで寝てる息子や娘をみても、「ああ、今日は学校いかないのね」ぐらいに思っておく。
逆に学校に行ったら行ったで、何も言わない。
何だか日々をぼんやり過ごしているようでも、そういう時期もあるさぐらいで済ませておく。
逆に何かを始めたいと思っているようなら、そのとき初めて手助けする(できることなら)。
つまり、少なくとも、それらの日々を「特別」なことではなく、緩やかな「日常」の「出来事」として受け止めていく。

いやいや、そんな最初から「悟り」の境地に達せられたら苦労はせんわい、と思われるかもしれません。
実際、僕だって自分の子のことでは、いつも既に「煩悩」のなかにおります。。。
けれども、少なくとも「理念」としては、頭のなかに持ってはいたい。

そして、そんなふうに覚悟を決めてはじめて、「人生いろんな生き方があるよな!」という言葉に、「心配」ではなく、「信頼」のメッセージがこもるんだろうと僕自身は思います。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

「集団行動」って何?

どうもどうも。
いよいよ寒さも厳しくなり年の瀬も押しせまりつつある今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は疲労がチョーやばいです。めっちゃ寝ちゃいます。

いよいよ最近、このブログも月一連載みたいになってきましたが、決してサボっているわけではない。いや、サボっているのですが、ヒルネットの活動記録を書きながらブログも書いてチョー大量に押し寄せるメールの大群と格闘もしていると、なかなか更新の時間を取れないのでありますよ。

と、更新が少ない言い訳から始まるのもお約束になりつつある今日この頃。今回はちょっとおふざけ気味に行きたいと思います。
そんな今回のお題は、「集団行動」。

どうでしょうか、皆さん。集団行動、好きっすか?

ちなみに僕は嫌いです。大嫌いです。
思わず太文字になってしまうくらい嫌いなんですよ。

この四十数年間を、いかに集団行動を取らずに生き抜くことができるかを最大のテーマとして生きてきたと言っても過言でないくらい嫌いです(大袈裟ではない)。
バリバリの就職氷河期世代でロストなジェネレーションですが、最初から「就職なにそれオイシイの?」的学生だった僕には最初からロストするものなど何も存在しなかった。ある意味で無敵の人です。

ところが、そんな「集団行動」をめっちゃ金科玉条のごとく言ってきやがる場所がある。
それが、日本、の、「学校」。

今から数年前、僕の娘が何かやらかした案件で小学校に妻とともに参上した折のこと。
その際、担任の先生の口から繰り返し出た言葉が、これ。
「〜集団行動を考えると。。」「〜集団行動を守らせる上で。。」等々。

ギャーッヤメローヤメテケレーッ!
その言葉は俺を100年石化させた上で美女に接吻されても今度は醜男に生まれ変わらせてしまうような強力な呪いの言葉なんだ!!(意味不明)

いや、誤解なく言っておくと、その担任の先生はめっちゃいい先生で、その後も娘が十二分にお世話になった理解ある先生でした。
ただ、そんな先生からも、特に違和感を感じておられぬ様子で飛び出してくる、その言葉。

そんなに「集団行動」って、大事なんでしょうか?

まあ、この日本で普通に会社員になったり公務員になったり、もっと言えば普通に「社会人」になる上では、ある程度、必要でしょう。いや、必要だったのでしょう(僕はよう知らんけど)。

ですが、大昔から、そんな社会人的集団行動だって苦手だった人はいる。
いや、むしろそうした「集団」に馴染めなかったからこそ成功を収めた人だってたくさんいるわけです。

さらに言えば、現在の日本社会はもうすでに「集団」に合わせることがそれほど重要な社会ではなくなってきている。
少なくとも「横並び」に「みんなと同じ行動」をとっていれば安穏と人生を渡っていけるような社会ではなくなってきていることは衆目の一致するところなわけでしょう。
いや、よう知らんけど。

ところが、あかん感じの学校でだけは、相変わらず古臭い「集団行動」を是としておるわけです(「あかん感じ」じゃない学校もだんだん出来てきてますけどね)。

そもそも「集団行動」とは何じゃろか?

皆と同じように行動することが集団行動なのか?
皆と同じ時間にホウキ持ってホース持って「掃除の時間」を演じるのが集団行動?
皆と同じ時間に体育着に着替えて皆と同じ時間に指定の場所にいけるのが集団行動?
皆と同じスピードで給食を食べ終わるのが集団行動?
皆と同じように「空気を読んで」45分間「良い子」でいるのが集団行動?

ウソだろそんなの後100回生き返ったってやっぱり出来っっこないって感じだぜっ!!

。。。という僕の社会人失格的言動は別にしても、それってやっぱり本当の意味での「集団行動」ではない気がします。

本当に必要なこととは、自分とは大きく異なる他者とでも、会話し協力しお互いを気遣い一人の力では出来なかった何事かを成し遂げられるような力を養うことではないでしょうか?
つまり他者と「コミュニケート」し「コラボレート」する力の涵養。

「他者」とはただの「他人」とは違う、自分とは考えも知的文化的背景も全く異なる存在のこと。
日常的に言うなら、「空気の読み合い」なんてものが通じないような人のこと。

しかし、現実の「社会」では、そうした他者との間とでも協力関係を結べないことこそ問題であるはずです。
そして、そんな他者と関係する力を養うのが「集団」を模倣する力であるはずがない。「掃除の時間」のわけがない。

そうではなく、全く年齢や生育環境の異なる子ども同士が、一つの遊びや課題を一緒に行うことができるか? 必要な気遣いができるか? まったく共通の話題がない中でも会話し協力できるか?
折々にそうした「協力行動」の機会を設けることこそが、「みんなと同じ」ことよりもよほど大切なんじゃないかと思います。

そんでもって、そういう「コミュニケーション」「コラボレーション」をすることなら、「集団行動」が苦手な子どもにだってできないわけじゃない。
むしろ異個性・異年齢の子どもたちが「協力」して事にあたる姿を、ヒルネットやV-net焚き火会などで、たくさん見てきました。

そしてまた、そういうことなら少なくとも、「集団行動」には呪われてる子どもの頃の僕にだって出来たんじゃないの?とかって思わないでもないわけです。いや、どうかな。。

それでは、それでは。