「発達のでこぼこ」具合と「不登校」と『サーミの血』

どうもどうも。
ついに梅雨が開けたと思ったら昼食に使う長ネギを買いに出かけただけで熱中症になりそうなほどのクソ暑さに見舞われている東京ですけれども皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもう何もしたくありません。

さてさて、先日の記事ではちょっと不登校について、改めて色々考えてみたわけですけれども、そもそも日常の学校生活に「疲れる」って言うけれども全然そんなことない、めっさ楽しく学校生活送った記憶しかないわいって方もおられるかと思います。いや、今の小学生、中学生にだって当然います。

例えば、御歳73歳となる我が父もそうでした。今から60数年前(すごいな)の我が父は運動会の徒競走でダントツビリを走りながらも笑顔でゴールインするような超ポジティブ小学生だったそうです(なお、その遺伝子は我が甥子に受け継がれている模様)。
ところが、そんなポジティブ学校生活を送った人の息子が突然、不登校になる。なんか理由もはっきりしない。
はっ?なんでやねんそれ?となるのも当然ですよね。

じゃあ、例えば「登校」を「拒否」しちゃいたくなちゃった子は、そもそもどうして「疲れる」のか?
いや、別に「不登校」にならなくてもいい。
学校生活が「しんどい」と感じるのは何故なのか?

そりゃ、もちろん原因はホントに様々です。
が、前の記事でも少し触れたように、その一つに、いわゆる「発達のでこぼこ」具合ってやつが少からず関係してることもあるでしょう。

と言ったって、僕は最近の、ウィスクの結果がどうだとかグレーゾーンが何だとかADHDがどうこうだとかって言説傾向は、あんまり信用してません。いや、それぞれにフォローが必要だとしても、過剰に深刻な形では捉えません。これは昔の記事にも書きました。

というより、僕が特殊なだけかもしれませんが、僕の実感では、生徒はもちろん、自分の子やその周囲の友だちとか皆んな引っくるめて、少なくとも小中学生の6割くらいの子は、何かしら「発達」が「でこぼこ」してます。
そして生徒に関して言うと、多くの場合、良くも悪くも、高校生くらいになると、なんか「ふつう」になっちゃいます。いや、ほんとに良くも悪くも、ね。

だから、前もって言っておくと、僕はこの「発達なんちゃら」とかって呼ばれるようになった子どもの「でこぼこ」具合は、ある種の「個性」の発露だと考えるようにしています。
そうした「個性」は、短所として目立ってしまうこともあれば、長所として捉えられることもある。
単純作業が嫌いな代わりに好きなことならずっと集中してられる、とかって具合に。

 

ところが。
この「個性」が長所よりも、どうしても短所として目立ってしまう場所がある。
それが「学校」をもその一部とする、「近代の規律・訓練型の社会制度」なんですね。おっと、ちょっと難しい言い方だな。

わかりやすく言えば、「一週ぴったり7日間の1日24時間中、毎朝何時に起きて何時の電車やバスに乗って何時に仕事や学校行って、似たような課題をこなしたら夜もだいたい決まった時間に帰宅して、これを5日間続けて土日はふつう休息日」みたいに、毎日の生活が一定のルールやリズムのもとに規律正しく行われ、しかもそれを自発的に行えちゃう社会のあり方。
これがいわゆる「近代の規律・訓練型の社会」と、政治哲学で言われるものです。

ところが、この近代社会の「一定のルールやリズム」ってやつは、大昔から存在してたわけじゃない。
長い世界史の中で見れば、「つい最近」習慣化されたものにすぎません。
近代の中で徐々に形成され、全面化したのは、世の中の人間の多くが「工場」、そして「会社」で働くようになってからのことなんです。
日本で言えば、大正時代、つまりたったの百年前です。
少なくとも、例えば日本人は、百年前までそんなふうには生きていなかった。

このことに関して、ある映画を紹介したいと思います。
その映画は、『サーミの血』。
2017年公開のスウェーデンを舞台とした映画なんですが、とっても良い映画です。

ネタバレしない程度に簡単にあらすじを書いておくと、北欧でトナカイ狩猟を生業とするサーミ人の少女が、「差別」に抗して、スウェーデンの「街」での自由な生活を求めようとする、ってな感じの話。
で、物語の表面的なテーマは、やはりサーミ人とその「差別」についてなんだと思うんですが、隠れた裏テーマとしては、そうした狩猟民族から見た「近現代社会」の異様さなんじゃないかと僕は思いました。

その点については、象徴的なシーンがあります。
サーミ人の少女が初めて「街」の学校の授業に出ようとするシーンがあるんですが、その授業の内容が体育。
そして、その体育の最初に、生徒全員がメトロノームのリズムに合わせて変てこな体操(準備体操?)をするんです。
で、そんなのやったことない主人公は、当然、周りについていけない。

でも、このシーン、異様に見えるのは、体操についていけない主人公ではなくて、むしろ周囲の「ふつう」の生徒たちなんですね。
カチッカチッというメトロノームの規則的なリズムに合わせて、皆が皆、教師含めて完璧に、一糸乱れず同じ動きをする。
なんとも言えない不気味さを感じさせるシーンです。

この場面には、「毎日同じ時間に起きて同じ電車に乗って同じような仕事をする」近現代社会に対する明確な批判が込められていると思います。
もちろん、他の場面、ストーリーのなかでも「街」の「気持ち悪さ」は強調されます。
それに対して、サーミ人たちが暮らす自然の雄大さの美しいこと。

つまるところ、ある種の「個性」をもつ子どもたちが学校生活に「疲れる」のは、そうした「一定のリズム、ルール」のなかで活動することに対する「しんどさ」があるからではないでしょうか?
「メトロノーム」のリズムに合わせて、他の人と同じ「動き=課題」をするのが「しんどい」のでは。
少なくとも、僕は今でも「しんどい」と感じてしまいます。

おいおいちょっと待て。だけど「学校」というものは、多少の特殊性はあったとしても、まさしくここで述べている「近現代社会」の雛形ではないのか?
多少「しんどく」とも、そこに合わせることが、実際の「社会」で生きていくためには必要では?
そうした疑問もあるかと思います。

おっしゃる通り。「学校」はまさしく、そういう意味ではある種の「社会」の雛形だと思います。
例えば、大きな企業に就職したり、そうでなくとも一定の組織のなかで安定的な職業に就こうと思うなら、「学校」は簡単に「拒否」していいものではないのかもしれない。
実際、上に書いた僕の父親は、いわゆる「大企業」に40数年勤めておりました。
それに対して、息子の僕は、40過ぎても、ゆるゆるフワフワ生きてます。

たけど、当たり前ですが、僕はこんなふうにも思います。

別にゆるフワ生きるのが良いとは全く言わないけれど(いや、ホントに。それはそれでしんどい)、一方で必ずしも「大きな組織」の中で生きるのが絶対に幸せだとも限らない。
「街」で「ふつう」に生きるのが苦手なら、自然のなかでトナカイを追う生活をしたって良いじゃないか。

いえいえ。これはもちろん、価値観の問題です。
その子、その人が、どんな生き方をしたいかの問題です。

ただ、少なくとも僕は、彼や彼女のもつ「個性」を、単に「短所」としては絶対に捉えたくない。
それを「短所」としてしか見られない場所に彼女を置いておきたくない。

計算ドリルをこなすのに2時間かかってしまうけれども、彼女の描く絵はとても美しい。
他人の気持ちを上手く察せないかもかもしれないが、彼の意見はいつだって正直なものだ。
気の向かない作文は全然書けないけれども、電車のことだったら誰よりも詳しく書ける。
反復作業は大嫌いだけど、一つのアイデアに夢中になったらいつまでだって考えられる。

これら子どもたちの「個性」は間違いなく「長所」です。

「大きな街」で「メトロノーム」に合わせて動くのは苦手かもしれない。
だけど、それなら大自然のなかでトナカイを追う暮らしを望んだっていい。少なくとも、僕はそう思います。

そして、その暮らしはきっと、やはり映画のあるシーンで描かれるように、明るく優しい陽光に満ちたものとなるはずです。

それでは、それでは。

 

不登校とは何か

どうもどうも。
いよいよ梅雨が本格化、毎日ジメジメ雨が降ったり止んだり鬱陶しい天候が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はほんまに調子悪いです。北海道に行きたい。

さてさて、今日はまた「学校」についてのお話。
またかよ、と思われる方もおられるかと存じますが、お許しを。
なんとなれば、これはやっぱり最近の僕の一番の関心事なものですから。

最近、僕は色々な場所に顔を出していることもあって、不登校に関する、様々な、非常に深刻な相談を受けることが、ままあります。
ケースは本当に様々です。
ただ、共通しているのは、やはり当事者であるお母さんたちの、苦しみ、悩み、その悲嘆。
30年前の我が母もこうだったのだろうと密かに自らを責めます。

さて、そんな中、これも先日、ある会合に参加した折のことです。
同じ会に参加していたお母さんの話。詳しくは書きませんが、ちょうど最近始まった、ご子息の不登校・登校拒否に悩まれているお母さんでした。

色々な話が出て、また会合に参加されている他の参加者の方々からも多様なアドバイス、応援の言葉も出たのですが、個人的に印象に残ったのは、そのお母さんが最初に言ったことでした。
いわく、息子にはその日も昨日までと全く同じように接していた。つまらないケンカもしてしまったけれど、それもいつものことだった。なのに、その日から突然、息子は学校に行けなくなったのだ、と。
「大したきっかけもなく学校に全く行けなくなってしまったのは何故なのでしょうか?」

実は、これは難しい問題なのです。
「学校」に行けなくなる、行かなくなる理由。

もちろん、目に見える原因は様々で、いじめの問題であったり友人関係のトラブルであったりする場合もある。
しかし、実は当の本人含め、具体的な理由ははっきりとしない場合も多い。

学校が「いや」なわけではない。そういうケースさえあります。
いえ、正確には、おそらく心理的な深層においては「拒否」しているのでしょうが、何がいやなのかと他人に聞かれても、そして自問自答してみても、いやな理由が見当たらない。
実は30年前の僕自身もそうでした。
友人関係がうまく言っていないわけでもない。極端に辛いことがあるわけでもない。
でも、行けない。
前も書きましたが、今でも娘の用事で小学校に顔を出す度に、吐き気をもよおすほどの嫌悪感を感じます。

そして、僕が知る限り、これは結構よくあるケースなのかもしれないのです。

「いや」なこと、「辛い」ことが、そんなにあるわけではない。でも、学校にいけない。行かない。

ただ、こんなふうに考えることはできます。
例えば、彼・彼女が少しばかり繊細で、よくいえば他人の気持ちがよくわかる分、人の悪意にも敏感になりやすい人間だった場合。
あるいは逆に、とても感性豊かで強い自我を持っているけれど、そのぶん他人に意見を合わせたり人と同じように振舞ったりするのが苦手だったりした場合。
それとも、成長が他の子供よりちょっと遅れ気味だったり、少しばかり不器用だったり、端的に勉強が苦手だったり。
ともかく、彼・彼女が30人の教室にいて、少しばかり、そうほんの少しばかり「目立つ」ことのある子どもだった場合。本当に、本当にほんのちょっとだけ。

彼・彼女は学校の「集団行動」に合わせようと努力するでしょう。
でも、「学校」が「学ばせよう」とする「集団行動」には、ある種特殊なところがあります。
集団での一斉授業。朝礼のような集会、一斉の教室移動、班行動、etc….。

例えば、彼はちょっと不器用だったために、家庭科の時間、一緒に料理を作る班のメンバーの足を引っ張ってしまいます。
例えば、彼女は少しマイペースなためにいつも教室移動に遅れてしまいます。そのせいで図工の班行動が彼女の班だけなかなか開始できません。
どれも大したミスではありません。
しかし、それは当然、集団の「からかい」の対象となります。とはいえ、そんなのよくあること。もちろんその場は、彼・彼女も笑ってごまかします。

また、あるとき彼は国語の授業で他の人とは全く違う意見を言ってしまいました。
また別のある時、彼女は得意な算数で活発に発言を繰り返しました。
どちらも、教師から見れば、褒められる行動です。
ですが、場合によっては、それも「からかい」の対象となります。お前、なに調子乗ってんの?
このように「学校」という場での「集団行動」は、現在の日本では、ひとつ間違えば「個性」を殺す「同調圧力」としても働きます。

とはいえ、上記の一つ一つのことは、とっても小さなことです。
でも、それが3年続き、6年続き、そして中学生になっても続く。
子どもにとっての9年は、我々大人の20年くらいの感覚かもしれません。
そして、家に帰ると、親は親で色々うるさく言ってくる。
彼や彼女はだんだんと疲れていきます。人に合わせて笑うのに疲れていきます。

強いられた「集団行動」。
とてもとても、疲れる日々。

そして、ついにある日、彼は「切れて」しまう。
まさしく糸がプツンと切れるように。

もう、疲れた。
もう何もかもやめてしまおう。
何もかも考えるのをよそう。

 

なんだか、書いていて、本当に辛くなってきました。
こういう気分は、大人の僕たちにだって経験のあることですよね。
でも、僕たちには、まさしくそうした気分に陥った際、そこから自分を奮い立たせる「処方箋」を、それぞれの経験のなかに持っています。
子どもたちには、まだ、それがない。
というより、「学校に行かない」というのが、その処方箋なのです。

特別に「いや」なことがないのに「学校」に行けなくなる理由。
特別な事件があったわけでもないのに、突然、ある日行かなくなる理由。

それはきっと、大人であれば、「鬱病」と呼ばれるような状態なのかもしれません。
あるいは、その一歩手前の状態と言うべきか。

いえいえ、これはあくまで比喩です。
なんでもかんでも「病気」としてしまう現今の日本社会の状況を僕は強く批判します。
しかし、とにかくも、子どもたちが「学校」という特殊な「社会」に「疲れきってしまう」ことが、不登校という現象の一つの理由だとは思います。

とはいえ、僕は公教育を、学校に通うことを否定したいわけでは全くありません。
幸運にも、全く問題なく学校に通えている諸君は、どうか多少の辛いことがあったとしても、小学校、中学校時代の「ふつう」の思い出を重ねていってほしい。
僕自身、高校に行っていないので、そういう「ふつう」の少年時代、青春時代の貴重さが切実にわかるからです。

ただ、だからこそ、「疲れきってしまう」前に、週に2日ぐらい、学校を休みながら通ったっていい。
週に2、3回、学校とは違う場所で学んだっていい。
それこそオルタナティブ・スクールに通ってそこで友達を見つけたって全然問題ない。

実際、今の学校自体、多くの理解ある校長先生自体が、そういう学び方を奨励してさえくれています(これはヒルネットの活動を行ううちに気付かされたことでした。ヒルネットのような小さな活動でさえ、今の学校ではふつうに「出席」として認めてくれるようになっています)。

子どもたちが、それぞれの個性にあった多様な学び方ができるように1日でも早くなってほしい。そして少なくとも、そのせいでお母さんたちが涙を流すようなことが少しでも無くなってほしい。
そんなことを願わずにはいられない、今日この頃です。

それでは、それでは。

 

 

 

 

子どもを信頼するということ その2

どうもどうも。
こないだまで32度の真夏日で街歩きしてると熱中症になるんちゃうかいという感じだったのに、今日は一転して体感気温10数度くらいの肌寒さという摩訶不思議な世界で暮らしております今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもうずっと体調が悪いです。

さてさて、今日も引き続き「信頼」ということの難しさについて。
そうそう、前回の記事で、知人の先生が「子どもを100パーセント信頼する」と簡単に言うのは「欺瞞」ではないかとを仰っていた、と書きましたが、これにはちょっと僕の思い込みがあったようです。その先生としては、本当は「100パーセント信頼」したいけれども少なくとも現時点の自分にはまだ難しい、という自戒を込めて語ったつもりの言葉だったそうです。
ご本人からご連絡いただいたので、訂正しておきますね。どうも、すみませんでした。

確かに実際に「100パーセント信頼」しようと努力しておられる先生方もたくさんおられるわけですからね。
ですが、同時に僕の知人の先生がいみじくも自戒を込めて仰られているように、それは決して簡単なことではありません。

実際、子どもを「信頼」する、と簡単に言ったって、それぞれの局面や立場によっても色々あるわけです。
子どもの言葉、つまり発言に対する信頼。その行動に対する信頼。
そして、前回記事にしたような、もっと全人格的な信頼。

当事者性の問題もあります。
教師として接するのと親として接するのとでは、やはり違います。
教師としてだって、何十人もの生徒を毎日一人でみる学校の教師と、子ども数人から数十人を「ほぼ毎日」みる教育スペースの教師と、あるいは週一回程度会う塾などの先生と。
そしてもちろん、良くも悪くも、最も当事者性が高いのは親、子どもの保護者でしょう。

いま、「良くも悪くも」と書いたのは、親、保護者の立場は、他の立場とは違って、やはり客観性を持ちにくいからです。
誰だって自分の子どもは愛しているし、誰よりも信頼したいと思っているに決まっています。
しかし、「愛している」からこそ、信頼しにくいという逆説もあるのです。

その子が赤ん坊の頃から、彼・彼女がまだ自分で食事はおろか歩けない時分から、親はその子の世話をし育ててきた存在です。
手を引いて道を歩かなければ、彼は車の行き交う道路にきっと走り出してしまう。
夜、寝る前にトイレに行きなと声をかけなければ、遊びに夢中な彼女はおねしょをしてしまうだろう。
池で泳ぐ鯉を眺めるその小さな背を支えてあげなければ、水の中に落ちてしまうに違いない。

幼稚園や保育園に入る前。まだ赤子のように見える彼女が、本当にきちんと通えるようになるのだろうか。友達ができるんだろうか。
小学校の入学前は前で、こんな頼りない彼が本当に学校生活を送れるようになるんだろうかと心配します。いじめにあったりしないだろうか。

心配です。いつだって。今も。いま、この瞬間だって。

それは当然のことです。親というのは、そういうものです。
だけど、心配でも、彼・彼女を愛しているからこそ、手を離さなければいけないこともある。

なぜなら、その愛情が、そこから生まれる心配が、やがては彼・彼女の選択を信頼しない心性を生んでしまう可能性があるからです。

たとえば、なぜ彼は、彼女は、「勉強をしなければならない」のか?
それが、彼や彼女が自分から学びたいと考えた、そういう選択の結果なら、もちろん素晴らしいことでしょう。
ですが、なかには本人たちの意思とは無関係に、文字通り「勉強」に勉めることを強いられているようなケースだってある。しかも、場合によっては、けっこう過剰に。
スパルタな進学塾に行かされ無理な宿題に追われている場合がある。

その子の親も、また「愛情」があるがゆえに「心配」なのです。
この日本社会が学歴社会であることは、やはり事実だと思います。
そうであれば、その子に様々な可能性があるかもしれないとはいえ、まずは「最低限の学歴」を身につけさせてあげたい。「ある程度は」良い学校に入れるようにしてあげたい。そうすることで、この子が大人になった時に好きなこと、好きな仕事ができるという「将来の選択肢」を親である自分が守ってあげなくてはならない。
かつてこの子の手を引いて道路を渡った時のように。

それも、いいでしょう。
僕はそれが間違ってるなんて言えません。
ですが、もし彼が、やはり勉強などしたくない、と言い出したら?
いや、そもそも学校になんか行きたくない、と言い出したら?

その時は手を離さなければ、ならない。
彼が、彼女が気ままに走り出すのを止めてはいけない。

子どもたちが自分で何かを選び、自分の価値観を学び、自分の人生を生きるのを止めてはいけない。
「勉強なんてもうしたくない」「学校になんて行きたくない」
それは、おそらくは幼い彼ら自身が、幼いなりに選び取る、人生の最初の可能性の一つかもしれないのですから。

いいえ、いいえ。

実は僕は、一方でそう単純に考えているわけでもありません。
教師の立場で言うのは簡単です。
アドバイスを送るだけの立場の人間は、常に冷静で客観的で「正しい」。ですが、彼は所詮は他人なのです。
彼は、その子が私の手を離した途端にトラックに轢かれそうになった瞬間を見ていない。
いま、我が子が学校に行かず勉強もせずにゲームを一日中している様子を目の当たりにしていない。
当事者性の問題、とはそういうことです。

保護者の方々から、種々の相談を受けるとき、僕は自分が「正しい」と信じるアドバイスをします。それが僕の仕事だからです。
一方で、僕は二人の子どもを育てる親でもあります。
そのときの僕は、やはりいつだって「正しい」ことをしているとは言えないでしょう。
常にすでに葛藤のなかにいます。

こんなことがありました。
上に書いたことなんかに比べてば、些細なことです。

娘が長く続けている習い事を辞めたいと言い出しました。
理由を聞いてもはっきりしません。なんだか気乗りがしないのだと。
でも、親の目からは、娘はその習い事をいつも楽しんでやっているように見えるし、実際、長くやっているぶん、他の子どもと比べても、その分野に関しては「優秀」なように見える。
正直、辞めさせたくない。
しかも、気乗りがしないだって?
それはいっときの気の迷いなんじゃないか?
そんな気の迷いで、辞めさせてしまうのは、それこそ「将来の彼女の選択肢」を奪うことになるんじゃないだろうか?

彼女の選択を「信頼」して辞めさせるのが「正解」でしょうか?
それとも、辞めさせない方が、「将来」にとってはいいのでしょうか?

さしあたりは、彼女を「説得」するかもしれません。僕の得意技です。
親として僕が考えること、そしてこれまで44年間生きてきた「人生の先輩」としての僕なりの価値観などを伝えるでしょう。
でも、それすらも正解なのか? 彼女を「信頼」した行動なのか?

葛藤はつきません。
しかし、きっとそういう「迷い」や「悩み」を抱えながら、彼女と、彼と、真剣に向き合っていくことこそが、子どもを育てるということ、つまりは教育なのかもしれません。

「信頼」とは、やはりその先にあるものなのかもしれませんね。

それでは、それでは。