中高生と不登校

どうもどうも。
気がつけばすっかり春の陽気に花粉も飛んですっかり冬も終わりという雰囲気になってまいりましたが、皆さん如何おすごしでしょうか。

さてさて、全くもって月一回ペースとなりつつある、このブログ。
これじゃいかんと思いながらも、一週間の疲れが休みに残る今日この頃。怠け癖がついてしまっております。
そうはいっても3月末には、なんとかかんとかやってきたヒルネットの活動も一年。その感想記事なんかも書かんといかんよなあと思い、その前に溜まっている書くべきことを消化せねばなどととも思って、今日月曜(休み)も夕方になって思い腰を上げてパソコンの前に座ってみたわけです。
ちなみにさっきまでは読書のWSで読む短編小説と絵本を図書館に物色に行ってました。やっぱ忙しすぎるYO!!

 

ということで、最近受ける相談。
相変わらずシリアスなものから、そこまででもないものまで種々の教育相談を、特にヒルネットを始めてから受けておるわけですが、今日特に書きたいのは、中学生について。

不登校の現実は種々様々、以前書いたように、一見、「原因」らしきものが見当たらないものから、低学年のケースに顕著なように、むしろ学校やクラス・担任先生のキャパ不足から、実質的に不登校に「追いやられている」ように見えるケースまで、まあほんとにいろいろとあるわけなんですが、総体的に言えば、年齢が上がれば上がるほど自意識との葛藤は深まる傾向にあるわけです。
(逆に低学年のお子さんの場合は、本人にその意識がなくとも、直接的間接的「原因」が、心理的なトラウマを作っているケースがあります)

どういうことかというと、「学校にいけない自分」「いかない自分」を恥ずかしく思い、親や周りの人間が何も言わずとも「ふつうじゃない」「落伍者」といった自罰的な枠組みで責めるようになってしまうのです。

繰り返せば、問題は、親や周囲の大人が、少なくとも意識した言動としては、そうした態度を取ったり言葉を口にしたりせずとも、自分自身でそう思ってしまう。
十数年の間に染み込んでしまった「ふつう」という名の「枠組み」がそう思わせてしまうのです。

そして、無理して通学し続けるうちに、「エネルギー不足」の状態へと陥ってしまう。。。

 

「そんなにしんどいなら学校なんかいかなくてもいい」
「いじめられるような場所になぜ無理して通うのか?」
「人生には多様な生き方があっていいんだ」

僕たち大人は、こういうことを簡単に言います。
もちろん、僕も言います。
そして、少なくとも社会的にはそうしたメッセージを発し続ける必要があります。
それこそ、クソみたいな「ふつう」という「枠組み」を壊すためには。

しかし、それを直接聞かされる中学生の感想は、

「うるせーよ」
というものかもしれません。

 

当たり前ですが、口で「学校にいかずともいい」と言いながら、どこかに「ふつう」の幸福を親が望んでいるとしたならば、それを子どもは鋭く見抜きます。
「きれいごと」は通用しないのです。

しかし、心底、「学校なんていかなくてもいい」と思っていたとしても、そういう大人の言葉を子どもは素直に受け取ってくれないかもしれません。
例えば、十代の子どもたちの多くは、過剰に心配されたくありません。特に両親には。
大人と子どもの境目である彼・彼女らの自意識にとって、親の「保護」は、自分を「弱いもの」と見なす視線と同義に思えるものです。
したがって、「心配されている」という状態自体が、すでに彼・彼女らの自尊心を大きく傷つけてしまうのです。

 

では、どうすればいいのか。

もちろん、いつものことですが、一概に通用する答えはありません。ケースバイケース。
しかし、それでも、一つのざっくりとした答えは、すでに上に書いています。

そう、心配しないこと、です。

心配されるのが嫌なら、心配しなければいい。
「多様な生き方」を認めているのなら、学校に行こうが行くまいが、どっちだっていい。勝手にさせる。
無理に「学校にいかなくても道はある」なんて言わなくてもいいんです。
「学校以外の道」は彼・彼女が自分で見つけます。
まして「学校にはいかなくてもいい(けれど、◯◯にはなってほしい/◯◯になってほしくない)」なんて思ってはいけない。
どこにどんなふうに転んでいっても、それが彼・彼女の人生なのです。

 

学校に行かず昼まで寝てる息子や娘をみても、「ああ、今日は学校いかないのね」ぐらいに思っておく。
逆に学校に行ったら行ったで、何も言わない。
何だか日々をぼんやり過ごしているようでも、そういう時期もあるさぐらいで済ませておく。
逆に何かを始めたいと思っているようなら、そのとき初めて手助けする(できることなら)。
つまり、少なくとも、それらの日々を「特別」なことではなく、緩やかな「日常」の「出来事」として受け止めていく。

いやいや、そんな最初から「悟り」の境地に達せられたら苦労はせんわい、と思われるかもしれません。
実際、僕だって自分の子のことでは、いつも既に「煩悩」のなかにおります。。。
けれども、少なくとも「理念」としては、頭のなかに持ってはいたい。

そして、そんなふうに覚悟を決めてはじめて、「人生いろんな生き方があるよな!」という言葉に、「心配」ではなく、「信頼」のメッセージがこもるんだろうと僕自身は思います。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

「集団行動」って何?

どうもどうも。
いよいよ寒さも厳しくなり年の瀬も押しせまりつつある今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は疲労がチョーやばいです。めっちゃ寝ちゃいます。

いよいよ最近、このブログも月一連載みたいになってきましたが、決してサボっているわけではない。いや、サボっているのですが、ヒルネットの活動記録を書きながらブログも書いてチョー大量に押し寄せるメールの大群と格闘もしていると、なかなか更新の時間を取れないのでありますよ。

と、更新が少ない言い訳から始まるのもお約束になりつつある今日この頃。今回はちょっとおふざけ気味に行きたいと思います。
そんな今回のお題は、「集団行動」。

どうでしょうか、皆さん。集団行動、好きっすか?

ちなみに僕は嫌いです。大嫌いです。
思わず太文字になってしまうくらい嫌いなんですよ。

この四十数年間を、いかに集団行動を取らずに生き抜くことができるかを最大のテーマとして生きてきたと言っても過言でないくらい嫌いです(大袈裟ではない)。
バリバリの就職氷河期世代でロストなジェネレーションですが、最初から「就職なにそれオイシイの?」的学生だった僕には最初からロストするものなど何も存在しなかった。ある意味で無敵の人です。

ところが、そんな「集団行動」をめっちゃ金科玉条のごとく言ってきやがる場所がある。
それが、日本、の、「学校」。

今から数年前、僕の娘が何かやらかした案件で小学校に妻とともに参上した折のこと。
その際、担任の先生の口から繰り返し出た言葉が、これ。
「〜集団行動を考えると。。」「〜集団行動を守らせる上で。。」等々。

ギャーッヤメローヤメテケレーッ!
その言葉は俺を100年石化させた上で美女に接吻されても今度は醜男に生まれ変わらせてしまうような強力な呪いの言葉なんだ!!(意味不明)

いや、誤解なく言っておくと、その担任の先生はめっちゃいい先生で、その後も娘が十二分にお世話になった理解ある先生でした。
ただ、そんな先生からも、特に違和感を感じておられぬ様子で飛び出してくる、その言葉。

そんなに「集団行動」って、大事なんでしょうか?

まあ、この日本で普通に会社員になったり公務員になったり、もっと言えば普通に「社会人」になる上では、ある程度、必要でしょう。いや、必要だったのでしょう(僕はよう知らんけど)。

ですが、大昔から、そんな社会人的集団行動だって苦手だった人はいる。
いや、むしろそうした「集団」に馴染めなかったからこそ成功を収めた人だってたくさんいるわけです。

さらに言えば、現在の日本社会はもうすでに「集団」に合わせることがそれほど重要な社会ではなくなってきている。
少なくとも「横並び」に「みんなと同じ行動」をとっていれば安穏と人生を渡っていけるような社会ではなくなってきていることは衆目の一致するところなわけでしょう。
いや、よう知らんけど。

ところが、あかん感じの学校でだけは、相変わらず古臭い「集団行動」を是としておるわけです(「あかん感じ」じゃない学校もだんだん出来てきてますけどね)。

そもそも「集団行動」とは何じゃろか?

皆と同じように行動することが集団行動なのか?
皆と同じ時間にホウキ持ってホース持って「掃除の時間」を演じるのが集団行動?
皆と同じ時間に体育着に着替えて皆と同じ時間に指定の場所にいけるのが集団行動?
皆と同じスピードで給食を食べ終わるのが集団行動?
皆と同じように「空気を読んで」45分間「良い子」でいるのが集団行動?

ウソだろそんなの後100回生き返ったってやっぱり出来っっこないって感じだぜっ!!

。。。という僕の社会人失格的言動は別にしても、それってやっぱり本当の意味での「集団行動」ではない気がします。

本当に必要なこととは、自分とは大きく異なる他者とでも、会話し協力しお互いを気遣い一人の力では出来なかった何事かを成し遂げられるような力を養うことではないでしょうか?
つまり他者と「コミュニケート」し「コラボレート」する力の涵養。

「他者」とはただの「他人」とは違う、自分とは考えも知的文化的背景も全く異なる存在のこと。
日常的に言うなら、「空気の読み合い」なんてものが通じないような人のこと。

しかし、現実の「社会」では、そうした他者との間とでも協力関係を結べないことこそ問題であるはずです。
そして、そんな他者と関係する力を養うのが「集団」を模倣する力であるはずがない。「掃除の時間」のわけがない。

そうではなく、全く年齢や生育環境の異なる子ども同士が、一つの遊びや課題を一緒に行うことができるか? 必要な気遣いができるか? まったく共通の話題がない中でも会話し協力できるか?
折々にそうした「協力行動」の機会を設けることこそが、「みんなと同じ」ことよりもよほど大切なんじゃないかと思います。

そんでもって、そういう「コミュニケーション」「コラボレーション」をすることなら、「集団行動」が苦手な子どもにだってできないわけじゃない。
むしろ異個性・異年齢の子どもたちが「協力」して事にあたる姿を、ヒルネットやV-net焚き火会などで、たくさん見てきました。

そしてまた、そういうことなら少なくとも、「集団行動」には呪われてる子どもの頃の僕にだって出来たんじゃないの?とかって思わないでもないわけです。いや、どうかな。。

それでは、それでは。

 

 

 

当たり前だが「義務教育」は子どもの「義務」ではないんだぜ。

どうもどうも。
完全に夜になるともう寒くってコートとか必要だなあなんて思うことも多くなった今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は忙しくて死にそうです。

そう、マジで忙しすぎです。
ヒルネット朝からやって夜は夜でヨルネット(V-net)の個人レッスンで遅くまでレッスン。
なんとか週休二日は確保してるもののそのうちに1日はたまったメールを処理したりヒルネットの活動記録書いたりしてるうちに1日が終わる。
誰がこんな忙しくしたんだ!
自分です。
そう、全部自分が決めたこと。
なので、ブログぐらいサボろうってなことで暫く間が空いちゃった訳ですね。

ということで、以上、ブログ全然更新してへんけど死んでたんちゃうんか説に対する言い訳でした。
でもほんとマジでしんどいYO!

 

さて、うって変わって今回のお題。
シリアスなテーマ。
改行挟んで、突然、深刻な話題に行きます。

 

さてさて、これはつい最近、妻から聞いた話。
妻の息子幼稚園保護者友人から聞いた話。

ある朝、妻の友人が子どもを学校に送り出し、玄関前でなんやかんや用事をしていた所。
学校への登校時間がすぎた頃なのに、ランドセルを背負った小学生の女の子が、母親に連れられてマンションの廊下をとぼとぼと歩いていたそうです。

とぼとぼ、というのは印象論ではない。
実際、その足取りは遅く、顔は終始、俯き加減。
お母さんにせっつかれるように歩いていたということです。

やがて、エレベーターに消える親子。
数分後、母親だけが再びエレベーターから姿を表します。
おそらくマンションのエントランスまで娘を見送りに行ったものと思われます。

が。そのまた数分後。
なんと女の子の方がランドセルを背負ったまま、再びエレベーターから出てきてしまいました。
そのまま自宅の方まで戻って行ってしまいます。

ああ、もう余程、学校には行きたくないんだろう。
妻友人は思ったそうです。
そこまで行きたくないなら、1日くらいは休ませてあげたらいい。

ところが。
再び数分後。
先の少女が今度は母親に強く手を引かれながら、引きずられるようにして、歩いてくる姿が見えたそうです。
少女はずっと俯いたまま。
母親は決死の表情で娘を引きずってエレベーターへと姿を消しました。
その後、戻って来る様子はなかったそうです。学校までそのまま娘を引きずっていったのだろうか。。

どうでしょうか。この話。
話を聞いた際、僕は未だにそんな現実が、しかも東京であることに、正直、びっくりしました。
「不登校」については、そうは言っても、比較的「啓蒙」が進んでいるとばかり思っていたもので。

もちろん、これは知人からの又聞きです。
また、その親子に本当はどんな「現実」があったのかも、皆目わかりません。
あるいは、僕はびっくりしましたが、そうではない受け取り方もあるでしょう。

ただ、いずれにせよ、東京で、大阪で、あるいは多くの地方の町々で、きっと似たような出来事が毎朝起こっているのでしょう。
それは僕個人の経験と併せて言えば、30年前から今日まで変わらぬ光景なのかもしれません。

さて、それとは別のエピソードです。
これはいくつかの話を混ぜ合わせた話です。

その少年は確かに少し変わった少年です。
教室に45分間、なかなかじっとしていられない。
頭は悪くない。いや、むしろ賢い方だ。
だからこそ、自分が知っていることを教師が長々解説しているのに耐えられない。

それよりグランドで走り回ってる方が楽しいじゃないか。
草花に止まる昆虫を観察してる方がためになるじゃないか。
図書館で本を読んでる方がずっとマシな時間になる。

そう思ったら、もう彼は止まりません。
教室を勝手に出て行ってしまいます。

当然、教師は問題視する。
集団行動に反することだと言い、彼を叱責する。

いや、そこまでは良いんです。
いや、良いかどうかはともかく、「昭和の昔」からよくあることではありました。

ところが、彼の場合はそれで終わりませんでした。
まず、親が呼び出される。
呼び出された上、こう告げられる。

お子さんはウィスクのテストは受けられましたか?
発達に障がいがあると告げられませんでしたか?
お薬は飲ませていますか?
すみませんが、お母さん、毎日お子さんの様子を見にきてくれますか?
それができないなら、今度の催しに、ご子息を参加させるのはご遠慮願えませんか?

上に書いたように、これは個人のエピソードではありません。
いくつもの、僕が直接相談を受けた方の話を混ぜ合わせています。

ですが、逆に言えば、同じようなケースが、まさに「いくつも」存在しているということです。

どうでしょうか。
こちらの話も、そんなことには縁遠い保護者の皆さんはびっくりするかもしれません。
実際、全ての小学校がこんな状態ではない。
しっかりとした教育理念をもつ校長先生がいらっしゃる学校では、こんなことは起こりません。
ただ、こうしたエピソードもまた、現在に日本の教育現場では、今日も明日も「いくつも」起こっている出来事なのです。

 

さて、ところで今回、この二つの対照的な話を紹介したのには、わけがあります。
一つ目の話は、「学校に行きたくないのに無理に行かせられる子ども」のお話。
そして、もう一つは「学校の側が子どもを排除しようとしている」お話です。

一見、対照的な二つの話。
ですが、双方に実は共通点があります。
それは、子どもの心を大人がなんの躊躇もなく土足で踏みにじっているという点です。

そう、実は僕は猛烈に怒っています

さっきは嘘を書きました。
どんな事情や現実があろうがそんなこと知るか。
どうしても学校に行けない子どもを引きずって学校に連れて行くのは「親」の「仕事」ではない。しつけでもない。暴力だ。
ただ、その子どもの心に暴力的な「傷」を追わせるだけの行為だ。

教室にじっとしていられない子どもを簡単に「障がい」扱いするな。
「ちょっと変わってる」からって、それを排除するな。見放すな。
そしてあからさまに「見放してる」と親に告げるな。そのことで涙を流す母親の気持ちがどんなものか想像できるか。
たった一人の、愛する我が子を「邪魔者」扱いされたときの親の気持ちがあんたらにわかるか。

 

「義務教育」という言葉があります。
これは教育基本法第四条の「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う」との条項をもととします。
さらに、この教育基本法第四条は、憲法第二十六条「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という内容に基づいています。

ここからもわかる通り、たまに勘違いしてる人がいますが、「義務教育」とは「子どもの権利」を保証したものです。
子どもには適切な教育を受ける権利がある。
そして、保護者にはその権利を保護する「義務」がある、というわけです。

こうした規定ができた理由は、近代以前の「子ども」というのが安い「労働力」であったためです。
特に貧困層の子どもに教育を受けさせず、労働を強いる大人、環境が存在したためにできたのが「義務教育」の理念だったのです。

だから、当たり前ですが、子どもを無理に学校に行かせるのが親の「義務」なのではありません。
そうではなく、子どもがちゃんと「能力に応じて、教育を受けられる」環境を整えてあげることこそが親の「義務」なのです。
それには学校以外の場所だってたくさんあります。

ましてや、子どもを「見放す」のは、「義務教育」を司る機関としては、決してやってはいけないことです。
いや、それは本来、子どもたちと関わるあらゆる「大人」の「構え」としてあってはならないことのはずなのです。

にもかかわらず、どうしてこんな事態が三十年経って今なお続いているのか?
どうしてこんな「排除」がまかり通るようになってしまったのか?
まして、後者は近年になって明瞭に現れてきた事態と言えるでしょう。
それが「原因」となって不登校に「させられた」子どもたちすら存在する。

頭が痛い、悩ましい、などと呟いているだけでは変わらない「現実」がここにあります。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

発達「障がい」:変わるべきは彼なのか?

どうもどうも。

すっかり秋めいた日々、と思っていたら、急に短パンを履きたくなるような暑さが戻ってきたりと、よくわからん日々ですが。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。僕は最近忙しいのが嫌で山籠りがしたいです。

とはいえ嫌がってもいられない。
頑張りましょう(誰に言っとるのか)。

さて、今回のお題。
発達・学習「障がい」

うーん、やっぱり、この言葉、あんまり好きじゃない。障がいって一体なんなんだ。
いや、書きながら思ったんですが、文字にすると余計にキツイ。

そもそも今日のテーマに限らず、足が不自由だったり耳が不自由だったり、その色んなことを「障がい」と呼ぶ、そういう単語に括ってしまうのも何だかなあ。。じゃあ何て書き表わせばいいんだと言われると、またわからないんですが。。。

僕の妻は子どもの頃から関西で、とある先生について絵を学んでいたのですが、その先生は耳が不自由な方でした。
その先生や他の生徒と一緒にフランスへ旅行に行ったこともあるそうです。
僕はその先生と、結婚前に一度会っただけなんですが、その先生のことを話す妻や妻の家族は、先生のハンデのことなどまるでないかのように自然に話題にしておりましたよ。
その先生は、すでに鬼籍に入られております。
では、その先生の人生に「障がい」などあったのでしょうか?
何とも僕には言えませんが、でも「困難」はあったに違いないが、それは「障がい」ではなかったのでは? そして、「困難」は等しく誰の人生にも訪れるものです。

いや、わからない。
偉そうに書ける案件でない、ということだけしか、やはりわかりません。

閑話休題。
いずれにせよ、発達の「でこぼこ」具合もまた、通常の学校生活や、人や場合によっては社会生活上の「困難」ではあることでしょう。
特に学校にせよ職場にせよ、ある種の共同生活における集団性を強く要求される場であれば、彼・彼女が「生きづらさ」を感じるには十分です。

僕は過去、そして現在、いわゆるASD、ADHD、LD等と呼ばれる「個性」をもつ子どもたちと多く接してきました。
では、そういう子どもたちと学校とのマッチングはどうだったか。
その「でこぼこ」具合が深刻なほど、学校生活とは「客観的」には、あまりうまくいっていないように感じる子が多かったのですが、一方で、ある種「他人の意思や気分を読み取るのが苦手」なために、かえって「底抜けに明るく」過ごしている子どももおりました。
いや、まあ、総じて、そうしたマッチングも「運」であることが多いいようにも思います。

また、それぞれに深刻度もあります。
確かに、今、小学生の段階では、ある種の集団からはみ出がちなほど「落ち着きがない」様子だったり、「突拍子もない行動」に出たり、「終始喋りっぱなしで人の話をまるで聞かない」状況だったり、「自分のやり方に絶対的にこだわる」子どもだったり、「目の前の他人が何を考えてるかさっぱり判らない」様子だったりしたとしても。
成長とともに、良くも悪くも「落ち着いていく」「自分の個性を上手に扱えるようになる」子どももたくさんいます。
また逆に、ある種の外部のフォローがある程度、必要なお子さんも実際おられるでしょう。
僕たちのような学校外の「先生」含めて、そういうフォローがあったからこそ、「個性を上手に扱える」よう成長できたのだ、という見方もあるかもしれません。

いずれにせよ、この問題は、本当にケースバイケース、子どもそれぞれに対応が異なる。
いや、そもそも「不登校」の問題もそうであるように、一律な対応が可能な「教育」などあるはずがないのでしょう。

ともあれ。
では、そうした「でこぼこ」を抱えた彼や彼女が周囲の環境の中で「生きずらい」「しんどい」と感じたとき。
変える、変わるべきなのは、彼・彼女なのでしょうか?
それとも周囲・環境なのでしょうか?

こうしたことを書くのも、実は最近、とある相談を受けたからです。
詳しくは書きません。
が、とにかくも、やや感情のコントロールが苦手で「自分の方針」にこだわりを持つ僕の生徒。
彼が、どうやら学校に目をつけられている、という話です。
なんだかんだと親が呼び出され、「問題」を指摘され、婉曲的に手に負えないと言われる。
そして、「薬」をすすめられる。

確かに彼は変わっています。
ですが、「めちゃくちゃ変わってる」かというと、僕の実感では、そこまででもない。
もっと「めちゃくちゃ変わってる」子を知ってるからです。
また、一年半ほど見ているうちに、確かに随分成長した。
いろいろと我慢できるようになったし、意に沿わないことも、嫌々ながらするようになった。特に僕が怒ったりせずとも。つまり少しずつ少しずつですが、「個性」を自分なりに扱えるようになり始めていました。

にも関わらず、つい最近も、とある行事の際に、学校の先生は彼のプライドをひどく傷つけるようなことを言ったそうです。
その先生に「悪意」はなかったのかもしれない。それは、そうでしょう。
でも、その言葉は確かに、しばらくの間、彼を「荒れさせる」ほどにはキツイ言葉だったようです。

さて、もう一度聞きましょう。この場合。
変わるべきなのは、彼でしょうか?
それとも周囲の環境でしょうか?

つまり、彼が「薬」を飲んで、学校の先生方にとって「扱いやすい」子どもになるべきなのでしょうか?
それとも、逆でしょうか?

僕は逆だと思います。
順序が間違っていると思います。

僕は「薬」を飲むこと全てが悪いとは思いません。
何事も教育において原理的であることは、その原理的言動によって傷つくお母さんやお父さんがいると思うからです。
実際、極端に深刻なケースにおいて、一時的に薬を飲むことが効果を発揮するというケースもあると思いますし、実際に目にしたこともあります。

しかし、この場合は、どうか。
特に、少なくとも教育に携わる者が、簡単にそれを言うのか。
耳にした母親がどんな気持ちになるか、十分わかっているはずなのに。

繰り返せば、全てのケースに当てはまる解答はありません。

ですが、その子がまだ、まさに「発達」の途上にある場合。
その当人を周囲の環境に合わせて「変える」前に、周囲の環境をこそ「変える」べきなのでは、と僕はどうしても思ってしまいます。

いや、これは僕がヒルネットのようなフリースクールの活動を始めたから、そう思うのかもしれない。
実際、僕がヒルネットを始めたのは、そうした色々な「個性」を持つ子を受け入れられる「環境」を僕自身が作りたかったからです。
大人数を扱う「学校」に、環境の変化を求めるのは、そもそも難しいことなのかもしれません。

どうでしょう。
皆さんは、どう考えますか?
変わるべきなのは、「彼・彼女」なのか。「環境」なのか。

僕自身、また別の視点から、この問題を考えるため、来月にでも種々の「個性」からくる「困難」にぶち当たった子どもたちを教えている教室を見学に行く予定です。
そう。僕もまだまだ修行中なわけですね。

この問題については、また別の機会にも、「修行」の経過を書かせてもらおうとお思います。
それでは、それでは。

 

 

 

 

 

「体験」が「学び」の種を作るということ

どうもどうも。
いよいよ夏休みが終わりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

前回のブログでも書きましたが、新学期の始まりというのは、どんな子どもにとっても憂鬱なものです。
子どもから何らかの「サイン」があったならば、「傷が浅い」うちにそれを受け止めてあげられると良いですね。まあ、なかなか難しいのですが。

さて、僕の活動としても、明日からヒルネットの活動再開です。
ところで、このヒルネットですが、そもそもこの活動を行おうと思ったきっかけは、実は「不登校」の問題だけではなかったんですよね。

いや、もちろん、数年前からそういう相談が増え、またプライベートでも何件か「不登校」「まだら登校」の悩みについて聞かされるようになっていたのは事実です。
だから、直接の動機がそこにあったのは間違いないんですが、ただそれだけでもない。

実は、ある意味でもっと別の問題として、ここ数年、ある疑問がずっと頭の中にあったわけなんですな。
それは、「どうして、子どもは学校に通いだすと、こんなに〈勉強〉を嫌いだすのだろう?」という疑問でした。

まあ正確にいうと、「学校に通いだすと〜」なのかどうかは判らないんですが。
しかし、とにかく自分の子ども含め、幼稚園や小学校1年生くらいの子どもは、むしろ〈勉強〉が好きとさえ見えるくらいなのに、中高学年くらいになると、ほぼ完全に「面倒なもの」になっている。

「3足す4はね、7なんだよすごいでしょ!」「僕ね、自分の名前漢字で書けるんだよ!」「夏休み旅行したこと作文に書いたんだよ読んでみて!」
まだ小さい子どもたちが、こんなことを先生に、あるいは両親その他の大人たちに告げている図を誰だってみたことがあるはずです。

実際、子どもというのは、本当は学ぶことが好きです。
特に自分が興味を持ったことを学ぶことは大好きです。しかも大人では太刀打ちできないくらい、吸収も早い。
そして、この点については年齢が上がっても同じかもしれません。自分が好きで、関心を持てたことについては、彼らは自分でそれを調べ、自分でそれを学びます。
それは、人によっては「恐竜」のことかもしれないし、人によっては「鉱石」についてかもしれない。あるいは「電車」のことかもしれません。

ところが。
これが学校の〈勉強〉となると、途端に「重荷」以外の何ものでもないみたいになってしまう。

これは一体何でなのか?

「強制」の有無、ということが一つの原因であることは間違いないでしょう。
毎日の「宿題」、「受け身」の授業、気分が乗らないときでも机に座り続け目の前の計算ドリルはこなさなきゃならない。そういう「作業」をこなす毎日。
こういう強制された「作業」を面倒に感じるのは、大人だって同じでしょう。

では、一切の強制がなければ、いいのか?
何も強制されぬまま育てられた子どもは、幼少期の、ある種無邪気な知的好奇心を保持し続けられるのでしょうか?

これはある部分ではイエスと言えるし、またある部分ではノーとも言えます。
なぜなら知的関心の持続的な涵養は、その子どもの置かれた環境、即ちその環境から与えられる連続した体験のあり方によるからです。

難しい言い方をしちゃいました。
簡単に言えば、たとえば周囲に自然環境が溢れ、種々の生物・動物と触れ合う機会が多く、またそれらの生物、たとえば花の美しさや薬草の効用、動物の生態についてよく話されるような環境にいたなら。
その子は自然と、成長とともに自然科学への好奇心を深めて行くことになるでしょう。
逆に、ゲームやテレビといった間接的体験ばかりの環境に囲まれたまま少年期を過ごした場合。その子の関心は当然「メディア」に特化したものとなるでしょう。

誤解なく言っておけば、僕は後者が悪いとは思っていません。その「メディア」に特化した体験から、むしろ天才プログラマーが生まれないとも限りません。
単純に、体験のあり方が、その子の知的な関心のあり方を決めるというだけです。

さらに言っておくと、10代半ばの思春期少年と、10歳未満の子どもでは、環境の受け取り方、つまり体験の質も変わるに違いありません。
たとえば、それこそ不登校になって昼夜逆転し四六時中グロテスクなホラー映画をみている環境が良いはずはありませんが、十代の一時期には必要な場合もあります(はい、すみません、これは15歳時分の僕です)。

話がずれました。
要は強制があろうとなかろうと、知的関心を刺激する経験がある程度与えられているかどうか。
また、その経験が次の経験を呼び込むような形で、連関する形で与えられているかどうか。そういう環境があるか。

そうした理想的な条件が整う中で、少年期の学ぶことへの情熱は持続するのだと思います。
いや、いま「理想的」と言いました。
実際、普通のご家庭で、そんな環境を常に持続させることは難しいでしょう。
自然環境に恵まれた体験がたくさんあっても、今度は歴史や社会的な事象にまるで好奇心を持たないということだってありえます。

ただ、僕はある程度、そういう形でも良いと思っています。
何でも、オールジャンルにできる必要はない。
ただ、関心があまりに狭められていない限り、種々の体験からの刺激により、一つの関心がまた別の関心へと扉を開く、そういうことはあると思います。
現に僕は30代まで、理数系の学問には何ら関心を持っていませんでしたが、中年になってから、それこそ仕事含め色々な体験の結果、強く興味を持つようになりました。

いずれにせよ、椅子に縛り付けられたまま黙々と計算ドリルを解くような「作業」から、数学的な好奇心が生まれるとは思えない。
歴史の年号をただ暗記するところから、現実の日本社会への関心など生まれない。

そうではなく、実際にかつての遺跡を見て、変わってしまった町を歩き、現実の体験からから様々な空想をめぐらすなかで、知的な関心というものは生まれるのではないか。
そしてまた、その過程で生まれた疑問や関心について調べる中で、知性というものは育まれるのではないか。

僕がヒルネットを始めようと思ったとき、一方にあったのはそういう思いでした。
果たして自分が思い描いた通りに物事が進んでいるかはわかりません。
いえいえ、はっきり言って「理想」通りにはいつだっていきません。それが「現実」の「体験」なのです。

それでも、しんどいながらも毎週フィールドワークに子どもたちを連れて行きます。
今年の秋には「お祭り」の屋台を出して、子どもたちに実際に「仕事」をしてもらおうとも思っています。
教室のなかだけでは味わえない「体験」をたくさんしてもらおうと考えています。

それらのうちの一つでも、彼らに「学び」の芽をつくってくれたならば、それだけでもやって良かったと思えます。

それでは、それでは。

追伸
最近、というかついさっき、インスタグラムも始めてみました。
と、言いつつ、実はよくわかってません。
https://www.instagram.com/?hl=ja
気が向いたらフォローしてみてください。

 

 

 

「夏休み」の終わりと不登校

どうもどうも。

想像を絶する暑さと言うのはきっと去年の夏だったんでしょうが、それでもやっぱり酷暑に死にそうなってる今日この頃、みなさん如何お過ごしでしょうか。僕は今日まで盆休みでした。

さてさて最近の記事、見直すと不登校不登校不登校となんか同じネタばかりが並んでるようで、さすがに今回は違う内容の記事にしようかと思ったんですが、朝、新聞を読んでいると、もうすぐ夏休みが終わるため「新学期の始まりは『学校に行きたくない』子どもたちの心理的負担が深刻に出やすい時期ですよー」系の記事がたくさん載ってたため、急遽、そういう感じの記事を書くことに。

というのも僕も明日から仕事。
久しぶりにとった長い休暇の後なので、「気が重い」というほどではないが(まあ僕の場合、「子どもに何か教えたりする」こと自体は別に「しんどく」ないので)、夏休みが終わらんとする子どもたちの気持ちは判らんでもないのです。
思い出せば小学校時代、夏休み最後の週に地球終了のお知らせとかニュースで流れないかなーなどと馬鹿なことを考えていたことを思い出します。

とはいえ、そんな呑気な妄想ですんでいるうちは大したことない。
学校がかなり「しんどく」なっている状態の子どもにとって、今くらいの時期の「気の重さ」はその比ではないでしょう。

上記のような記事の中には、よく親は子どもの「危機的なサイン」を見逃すな式の記事が散見されますが、これも実はなかなか難しい。
中学生くらいの子どもは完全に「プツンと糸が切れる」状態になるまで、親に学校生活の現状なんかを話そうとはしません。
思春期なんですもの、「イケテナイ自分」を他者に晒したくなんてないんです。
そして、思春期の子どもにとって「親に頼る」ことは「イケテナイ」ことの最たるものなんですよね。

そう。ここで重要なのは、子ども自身が「不登校」という状態を「イケテナイ」と認識してしまっていることなんですよね。
「そんなことないんだぜ! 俺は全然学校なんて行く必要ねえと思ってるんだぜ! そして学校行かなくても必ず夢を実現させてやるんだぜだぜ!」的な強いお子さんもいるでしょう。
でも、小学校高学年以上、特に中学生くらいの子どもにとって、ことはそう簡単じゃありません。

ふつうの少年・少女にとっては記憶にある「社会」とはイコール学校なわけです。
そこから「脱落」することはイコール社会から「脱落」するイメージに近い。
「いじめ」の問題なんかもそうだと思います。
命を断つくらいなら、どうして学校に行くのをやめなかったの?
そう問うのは簡単ですが、それは「命を断つくらいなら、どうして会社辞めなかったの?」と聞くのと同じだと思います。
我々大人が、仕事が「しんどい」からってその仕事を急に辞められないのと同じです。

ただ、前も書きましたが、「大人」は「経験」によって様々な対処法を知っています。
本当にその仕事が「しんどい」なら、知恵を絞って、その仕事以外に自分の生きる道、家族を養う道を探すでしょう。
「仕事を辞める」=「社会から脱落する」というわけではない、というくらいの視野の広さもあるでしょう。

でも、子どもには、まだそれがない。
というか、今まさにその「経験値」をためている最中なわけです。
だから急に、「よし。俺、学校辞めるわ」とはならない。
ギリギリまで踏ん張っちゃおうとしちゃうんですね。
そして踏ん張った分だけ、「糸」が切れた後に、そこから立ち上がるのに必要なエネルギーをも消耗してしまいます。

で、ここから更に重要。
以上のように「イケテナイ」自分と格闘しながら、それだけでも精一杯なところに、中学生くらいだと、場合によっては「学校に行けない」ことが「親に迷惑をかける」「家族のお荷物になる」といった意識まで生じてきてしまいます。
これは特に「よくできる子」「真面目な子」に多いパターンです。
例えば、本人が学校生活を「しんどい」と思っていても、勉強自体はよくできたりするため、周囲はむしろ模範的な子どもと見ていたりする場合。
そうした他者からの視線によって作られた「自己像」と、学校が既に「しんどくて」たまらなくなっている自分とのギャップに苦しみます。
不登校になることで、親はどう思うだろうか?
「ふつうの子ども」でなくなった自分のせいで心配をかけるのでは?

そんな心配しなくてもいい、と思うでしょうか?
ですが、僕たち親は、えてして子どもたちに「ふつう」であってほしいと無意識に願っているものです。
口では「自由に生きたらいい」などと言いながらも、心のどこかで「自分はともかく、この子は平凡でも幸せな人生を送ってほしい」と願ってしまうものでしょう。
それは悪いことでは、もちろんない。
僕だって、そう思います。自分はゆるふわに生きてるのに。

ですが、その意識的・無意識的な「思い」が、「平凡」でなくなった子どもたちを苦しめる場合もある、ということなのです。

さて、そこで冒頭の話。
もうすぐ学校が始まる。子どもによっては、それは「死刑執行まで残り数日」といった気分です(大げさではありません)。
もし、子どもたちが既に辛そうにしている、それこそ、その「サイン」に気づけたなら、「大人」の我々は「学校辛いんじゃないの?」と声をかけてあげるべきです。
しかも、真剣に。
それが決して「イケテナイ」ことなんかでないこと、「学校」以外にも「社会」は広く存在し、「不登校」もまた一つの「選択」なんだということをちゃんと説明してあげるべきでしょう。

そして、もし明瞭なサインがなかったとしても、少しでも自分の子どもが「学校システム」に向いていない、あるいはそこからはみ出す「個性」を持っている、と日ごろ考えていたならば。
少なくとも「学校に行かないなんて大したことではない」といった「思い」が子どもに伝わるようにすべきでしょう。
「平凡」じゃなくていい。
「ふつうの幸せ」以外の幸せが必ずある。
だから、どんな「選択」をしても親である私たちは、必ずその「選択」を尊重し支援するよ、というメッセージを、できれば明るく伝えてあげるべきでしょう。

 

そんな「メッセージ」に関係する話の一つとして。
昔、ある不登校だった生徒から聞いた話です。
地元の公立中学に通えなくなって数ヶ月。
朝、元気に通学する「元同級生」や「元先輩」たちの姿を窓越しに眺めながら、彼は自分の現状を嘆き将来に絶望していたそうです。
自分は本当にどうしようもない人間だ。一生こうやって窓の外を眺めながら家族のお荷物として生きていくんだ、と

そんなある日、母親が彼にこう伝えました。
お祖父ちゃんがあなたのことを褒めてたわよ、と。
彼には意味がわかりません。

彼の祖父は変わり者で有名な人物でした。
祖父の父、つまり彼の曽祖父がとある有名企業の創立メンバーの一人だったにもかかわらず、なぜか曽祖父の会社には入らず名も無い中小企業に就職。50歳を越えた後に自分で小さな会社を始めた人物でした。
そんな変わり者の、しかし独立独歩を貫いてきた祖父を、彼は尊敬していたそうです。

その祖父が自分のことを褒めている? どうして?
母は答えました。お祖父ちゃんはこう言ってたわ。
俺は親父の力に頼らず、自分で会社もおこした。オモロイなと思えることには何でもチャレンジした。せやけど、学校に行かんちゅうようなことは思いもつかんかったな。そんなこと思いつくだけで、あいつはオモロイやっちゃで。きっと大物になるわ。

祖父がどういうつもりでそんなことを母親に言ったのかはわかりません。
冗談のつもりだったのかもしれません。
しかし、それでも彼は、その言葉に大いに励まされたそうです。
そこから彼は、徐々に「不登校」という自分の状態を、前向きに、一つの「選択」だったのだと考えられるようになっていったということです。

現在、彼はもちろん、立派に社会人として暮らしています。

それでは、それでは。

 

 

 

 

「発達のでこぼこ」具合と「不登校」と『サーミの血』

どうもどうも。
ついに梅雨が開けたと思ったら昼食に使う長ネギを買いに出かけただけで熱中症になりそうなほどのクソ暑さに見舞われている東京ですけれども皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもう何もしたくありません。

さてさて、先日の記事ではちょっと不登校について、改めて色々考えてみたわけですけれども、そもそも日常の学校生活に「疲れる」って言うけれども全然そんなことない、めっさ楽しく学校生活送った記憶しかないわいって方もおられるかと思います。いや、今の小学生、中学生にだって当然います。

例えば、御歳73歳となる我が父もそうでした。今から60数年前(すごいな)の我が父は運動会の徒競走でダントツビリを走りながらも笑顔でゴールインするような超ポジティブ小学生だったそうです(なお、その遺伝子は我が甥子に受け継がれている模様)。
ところが、そんなポジティブ学校生活を送った人の息子が突然、不登校になる。なんか理由もはっきりしない。
はっ?なんでやねんそれ?となるのも当然ですよね。

じゃあ、例えば「登校」を「拒否」しちゃいたくなちゃった子は、そもそもどうして「疲れる」のか?
いや、別に「不登校」にならなくてもいい。
学校生活が「しんどい」と感じるのは何故なのか?

そりゃ、もちろん原因はホントに様々です。
が、前の記事でも少し触れたように、その一つに、いわゆる「発達のでこぼこ」具合ってやつが少からず関係してることもあるでしょう。

と言ったって、僕は最近の、ウィスクの結果がどうだとかグレーゾーンが何だとかADHDがどうこうだとかって言説傾向は、あんまり信用してません。いや、それぞれにフォローが必要だとしても、過剰に深刻な形では捉えません。これは昔の記事にも書きました。

というより、僕が特殊なだけかもしれませんが、僕の実感では、生徒はもちろん、自分の子やその周囲の友だちとか皆んな引っくるめて、少なくとも小中学生の6割くらいの子は、何かしら「発達」が「でこぼこ」してます。
そして生徒に関して言うと、多くの場合、良くも悪くも、高校生くらいになると、なんか「ふつう」になっちゃいます。いや、ほんとに良くも悪くも、ね。

だから、前もって言っておくと、僕はこの「発達なんちゃら」とかって呼ばれるようになった子どもの「でこぼこ」具合は、ある種の「個性」の発露だと考えるようにしています。
そうした「個性」は、短所として目立ってしまうこともあれば、長所として捉えられることもある。
単純作業が嫌いな代わりに好きなことならずっと集中してられる、とかって具合に。

 

ところが。
この「個性」が長所よりも、どうしても短所として目立ってしまう場所がある。
それが「学校」をもその一部とする、「近代の規律・訓練型の社会制度」なんですね。おっと、ちょっと難しい言い方だな。

わかりやすく言えば、「一週ぴったり7日間の1日24時間中、毎朝何時に起きて何時の電車やバスに乗って何時に仕事や学校行って、似たような課題をこなしたら夜もだいたい決まった時間に帰宅して、これを5日間続けて土日はふつう休息日」みたいに、毎日の生活が一定のルールやリズムのもとに規律正しく行われ、しかもそれを自発的に行えちゃう社会のあり方。
これがいわゆる「近代の規律・訓練型の社会」と、政治哲学で言われるものです。

ところが、この近代社会の「一定のルールやリズム」ってやつは、大昔から存在してたわけじゃない。
長い世界史の中で見れば、「つい最近」習慣化されたものにすぎません。
近代の中で徐々に形成され、全面化したのは、世の中の人間の多くが「工場」、そして「会社」で働くようになってからのことなんです。
日本で言えば、大正時代、つまりたったの百年前です。
少なくとも、例えば日本人は、百年前までそんなふうには生きていなかった。

このことに関して、ある映画を紹介したいと思います。
その映画は、『サーミの血』。
2017年公開のスウェーデンを舞台とした映画なんですが、とっても良い映画です。

ネタバレしない程度に簡単にあらすじを書いておくと、北欧でトナカイ狩猟を生業とするサーミ人の少女が、「差別」に抗して、スウェーデンの「街」での自由な生活を求めようとする、ってな感じの話。
で、物語の表面的なテーマは、やはりサーミ人とその「差別」についてなんだと思うんですが、隠れた裏テーマとしては、そうした狩猟民族から見た「近現代社会」の異様さなんじゃないかと僕は思いました。

その点については、象徴的なシーンがあります。
サーミ人の少女が初めて「街」の学校の授業に出ようとするシーンがあるんですが、その授業の内容が体育。
そして、その体育の最初に、生徒全員がメトロノームのリズムに合わせて変てこな体操(準備体操?)をするんです。
で、そんなのやったことない主人公は、当然、周りについていけない。

でも、このシーン、異様に見えるのは、体操についていけない主人公ではなくて、むしろ周囲の「ふつう」の生徒たちなんですね。
カチッカチッというメトロノームの規則的なリズムに合わせて、皆が皆、教師含めて完璧に、一糸乱れず同じ動きをする。
なんとも言えない不気味さを感じさせるシーンです。

この場面には、「毎日同じ時間に起きて同じ電車に乗って同じような仕事をする」近現代社会に対する明確な批判が込められていると思います。
もちろん、他の場面、ストーリーのなかでも「街」の「気持ち悪さ」は強調されます。
それに対して、サーミ人たちが暮らす自然の雄大さの美しいこと。

つまるところ、ある種の「個性」をもつ子どもたちが学校生活に「疲れる」のは、そうした「一定のリズム、ルール」のなかで活動することに対する「しんどさ」があるからではないでしょうか?
「メトロノーム」のリズムに合わせて、他の人と同じ「動き=課題」をするのが「しんどい」のでは。
少なくとも、僕は今でも「しんどい」と感じてしまいます。

おいおいちょっと待て。だけど「学校」というものは、多少の特殊性はあったとしても、まさしくここで述べている「近現代社会」の雛形ではないのか?
多少「しんどく」とも、そこに合わせることが、実際の「社会」で生きていくためには必要では?
そうした疑問もあるかと思います。

おっしゃる通り。「学校」はまさしく、そういう意味ではある種の「社会」の雛形だと思います。
例えば、大きな企業に就職したり、そうでなくとも一定の組織のなかで安定的な職業に就こうと思うなら、「学校」は簡単に「拒否」していいものではないのかもしれない。
実際、上に書いた僕の父親は、いわゆる「大企業」に40数年勤めておりました。
それに対して、息子の僕は、40過ぎても、ゆるゆるフワフワ生きてます。

たけど、当たり前ですが、僕はこんなふうにも思います。

別にゆるフワ生きるのが良いとは全く言わないけれど(いや、ホントに。それはそれでしんどい)、一方で必ずしも「大きな組織」の中で生きるのが絶対に幸せだとも限らない。
「街」で「ふつう」に生きるのが苦手なら、自然のなかでトナカイを追う生活をしたって良いじゃないか。

いえいえ。これはもちろん、価値観の問題です。
その子、その人が、どんな生き方をしたいかの問題です。

ただ、少なくとも僕は、彼や彼女のもつ「個性」を、単に「短所」としては絶対に捉えたくない。
それを「短所」としてしか見られない場所に彼女を置いておきたくない。

計算ドリルをこなすのに2時間かかってしまうけれども、彼女の描く絵はとても美しい。
他人の気持ちを上手く察せないかもかもしれないが、彼の意見はいつだって正直なものだ。
気の向かない作文は全然書けないけれども、電車のことだったら誰よりも詳しく書ける。
反復作業は大嫌いだけど、一つのアイデアに夢中になったらいつまでだって考えられる。

これら子どもたちの「個性」は間違いなく「長所」です。

「大きな街」で「メトロノーム」に合わせて動くのは苦手かもしれない。
だけど、それなら大自然のなかでトナカイを追う暮らしを望んだっていい。少なくとも、僕はそう思います。

そして、その暮らしはきっと、やはり映画のあるシーンで描かれるように、明るく優しい陽光に満ちたものとなるはずです。

それでは、それでは。