教育と偶然性: 大学的な、あまりに大学的な

どうもどうも。
少しずつ秋の気配が漂いつつあるもののやっぱりまだまだクソ暑い東京から中継しておりますが皆さんいかがお過ごしでしょか。こないだ浅草行ったら暑くて死にそうでした。

さてさて、月一連載を公言するようになった当ブログ。
だいたいいつも記事が長すぎんだよもっと短くコンパクトにまとめて記事増やせよなという心ある忠告をこの間幾度も受けておりますが、しゃーないやんけワシ文章書き出したら無駄に長くなるんじゃい。ホント、メールとかでも。
孫正義やホリエモンみたいな人間からしたら全く非効率極まりない生き方をしているわけですがそもそも人間の「生」などほとんど無駄のカタマリのわけですから無駄を無駄として楽しめないなら早く死んでしまうのがもっとも効率的なわけでもあります(中二感)。

さて、そんな無駄について無駄な前書きをだらだら無駄に書いておるわけですが、実はこれが無駄ではない。

というのも、今日のテーマは「偶然」についてだからであります。
もっと言うと、日々の中で「偶然」出会う、様々な「無駄」についてこれから無駄に書いていく。

 

さて、この「コロナ禍(最近飽きられ始めたらしい)」の渦中においても、すでに公立私立の小中高の教育機関が通常の活動を、まあ多少制限されながらも無事行っておることは皆さんご存知の通り。
おかげさまで当方が運営しておるフリースクールのヒルネットも、今月から都心の方にもボチボチ出かけようかなと思っております。こないだ浅草行ったしね。

ところが、ここに一つ、頑として通常の活動を行わない教育機関がある。

そう。それが、大学。

いやーひどいね。ひどいね大学大学ひどい。
なんか後期もリモートだってよ。で、下手したら来年度もなんて噂も飛びかってやがるぜ。マジか。いやアホか。

いや、コロナに関するリスクはわかりますよ。
一箇所に集まる人数も桁違いだし、高校生なんかと違い、授業の帰りに呑んだりもするでしょう。同調圧力の強い日本で風評被害が起こるのも怖いかもね。

でもさ。じゃあ、学費返せよ。
あるいは、せめて休学者募って学費免除しろ。
4年間の維持費がどうとか研究機関として維持する必要がとかチマチマ言い訳してんじゃねーよ。
本当にそこに通ってる学生のこと考えてんのか?
必死に働いて子どもの学費なんとか稼いでる親がいることわかってんのか?
もう時代は昔のバブルじゃねーんだぜ? 学費自腹で払ってる学生だっていっぱいいるってわかってんの?
年間100万の重みは昔とは違うんだぜよ?
リモート授業で十分だと? お前ら戦後日本の大学が学生にとって「授業」を受けるだけの場所じゃなかったってこと一番よく知ってるよな!?

。。。などと興奮してはしたない言葉遣いでもって非中立的言辞を述べたてたことをここにお詫び申し上げます。
(ついでに言っておくと、実際にオンラインで授業をやっている先生方は被害者。非常勤だと一方的にお金切られたりもしているからね。ということで、以上はむしろ大学上層部にむけて)

ま、実際、私立大学も(あるいは国公立も)金儲けの機関ですからね。
特に、かつて研究機関に身をおいて内側から非常勤講師等の使い倒しを見てきた上、逆に学生を送り込む側の立場にも身をおいてきた自分からすると、まあこんなもんだよな、という突き放した気分にもなります。
営利企業としては、リモート授業等により「顧客=学生」の不利益を最小限にしつつ、「社員=教授・講師」の給与支払いおよび施設管理・維持を行い、その上で資本の再生産を可能にするギリギリの経営判断を行っているのでしょう。

(余談:ちなみに「教育」が、単なるサービス産業なのか、あるいは営利を超えたものであるべきなのか、という議論においては、もちろん本来的には後者の立場をとるべきである。しかし、義務教育機関が保守硬直化し、高等教育機関の監理化・資本主義化の進んだ日本において、純粋に「教育」が非資本的営為である余地はどんどん少なくなってきていると言えよう。
個人的には、税金や寄付で賄えない「教育事業」は、営利活動で構わないと思う。が、過剰に純利益を求めて子どもたちやその保護者を「だます」ようなやり口は、「教育」やそれに類する営為においては厳に慎まれるべきである。本来的に「教育」は、資本主義社会においても、少なくとも「理念」としては利他的なものでなければならない)

さてさて、それにしても僕は何をこんなに怒っているのでしょう。
それこそ大学生でも、その保護者でもないくせに。
それは現在の大学がーーオンラインの場のみに「閉じた」環境にある大学が、教育機関としては大切なはずの、「偶然性」と「無駄」の効用に対してあまりに無自覚であるように思われるからなのです。

 

ご存知の通り、って全然ご存知じゃないかもしれないんですが、僕がやってるヒルネットの活動では、毎週、木曜になると様々な場所に、「お出かけ探検活動」と称してブラブラ出かけております。
知らない街を散策することもあれば、山や川に遊びに出かけることもある。
あるいは、毎日、天気さえ許せば、お昼の時間、近所の善福寺公園や、時々足を伸ばして井の頭公園なんかに「散歩」にも出かけます。

特に「散歩」については、最近みたいに暑い中だと、けっこう子どもたちはブーブー。
公園でお弁当を食べることにしてるんですが、「教室で食べればええやんかいさ」と文句も言います。

だけど、僕としては、けっこうこの「散歩」が大事だと思ってるんですよね。
もちろん、木曜の「お出かけ探検」も大切。
それは歩くことで体力を付けてもらいたいってこともありますけど、やはり何より、教室にずっと閉じこもっていては得られない、様々な「偶然の出来事」に出会えるから。

川沿いをのんびり歩けば珍しい野鳥に出会うこともある。
なぜか渓谷を散策していたらウサギを拾うようなこともある(事実)。
天気だと思って山を歩けば突然の雨にも合うし、浅草の街で蒸し風呂のような暑さに苦しむことだってある。

良いこともあれば、悪いこともある。
当たり前のことですが、予定通り、計画通りに進むことなんてあまりない。
世界は偶然に満ちあふれているのです。

そして、実はこれは、教室での活動にだって言えることなのです。
絵画の話がアニメの話になってしまったり。論語を読むはずが孔子の悪口大会になってしまったり。逆に雑談のはずが意外と深い話になったりすることもある。
急に怒りだす奴がいるかと思えば、誰かと誰かがふとしたことで友達になることもある。
それは僕たちのような少人数のフリースクール以外の場所にも言えることでしょう。
人間が集まる場所には、何かしらの「偶然性」があふれている。常に何かハプニングがある。
教室の「外」、自然環境のなかに飛び出せば、それがより意識化されるということです。

大切なことは、こうした「偶然の出来事」の一つひとつは、一見たわいもないこと、「無駄」なことにも見えるということです。
渓谷にいってウサギを拾って帰ってどうする。
せっかく高尾山に登るのに雨なんてひどい。
でも、本当にそうでしょうか?

僕たちを成長させ、世界に、そして社会に向き合える人間へと成熟させてくれたものの中には、そうした一見「無駄」な、たわいもない出来事の累積があったとは言えないでしょうか?
他者への共感を育み、アクシデントへの適応力を育てるのは、そうした「偶然」=ハプニングや、「無駄」ともいえる失敗の積み重ねではないでしょうか?
真夏の暑さも知らずに育つことが、自然への感受性を育てるでしょうか?

僕が、人間の「学び」に、リアルに人間が集う「(居)場所」が必要だと思うのは、こうした理由からです。

オンラインでも勉強はできます。
実際、「講義」を聴いたり行ったり、純学問的な議論を行うだけなら、Zoomでやるのもけっこうでしょう。もちろん、それらも「生」であるに越したことはないにせよ。

ですが、総体としての「教育」、「学び」の環境としては、それは十分ではない。
そして大学は、研究機関でもありますが、多くの学生を「教育」する機関でもあるのです。

実際、一つ学問を学ぶにしろ、それは授業でのみ学ばれるわけではない。
授業の合間の昼食時に。あるいは、その帰路で。たわいもない会話を友人と交わす折々の中で。
ふと、さっきの授業についての話をする。
関連する本についての感想を言い合う。
あるいは気の合う仲間と、そのままカフェで話し込む。安い酒を酌み交わしながら議論する。
最初は教授の禿頭を笑う話だったかも。でも、いつの間にか、彼が授業の最後に語った政治観へと話が及ぶ。文学論への違和が口をついてでる。
授業やゼミでわざわざ発言するほどの意見じゃない。でも、それが一つのきっかけなって親しい者同士だから交わすことのできる議論が巻き起こる。

大学ってのは、そういう「場所」です。
いや、少なくとも、僕にとっては、そういう「場所」でした。

いや、そんな大学生活を送ったのはアンタだけだよと言われるかもしれません。
でも、何もそんな「マジメ」な学問の話でなくてもいいんです。
大学時代、友人と過ごした何気ない日々。日常のふとした思い出。くだらないけれど、とても幸せだったような、そんなちょっとした仲間との記憶。
そして、そんな日々が、やはり振り返っていると、いまや大人になった自分の大事な一部分を作っていることに気づくはずです。

そう。一見、「無駄」な、それらの記憶。
ですが繰り返せば、そうした様々な「偶然」と「無駄」が積み重なって、ヒトは人生の貴重な「学び」を得ていくものなのです。
そして、大学もまた、そうした「学び」を得るための場所の一つのはずなのです。

 

コロナ禍が今より騒がれていた5月ごろ。
ネットでは、盛んにオンラインによる学校教育の是非が議論されていました。
そうした議論を見ながらも、僕はどこかで違和感を感じずにはいられませんでした。
僕自身、Zoomで個人レッスンなどは行いつつも、それがコロナ禍の中での「教育」のモデルとみなされることには、ひどく居心地の悪い思いをしたものです。
確かに「勉強」は教えられる。それ自体は悪いことじゃない。
だけど、これがずっと続くっていうのは、やっぱり「教育」のありようとしてはディストピアなんじゃないのか?

いま、オンラインに「閉ざされた」大学の惨状を見て、そのときの違和感がやっと言葉になったという思いでいます。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

 

中高生と不登校

どうもどうも。
気がつけばすっかり春の陽気に花粉も飛んですっかり冬も終わりという雰囲気になってまいりましたが、皆さん如何おすごしでしょうか。

さてさて、全くもって月一回ペースとなりつつある、このブログ。
これじゃいかんと思いながらも、一週間の疲れが休みに残る今日この頃。怠け癖がついてしまっております。
そうはいっても3月末には、なんとかかんとかやってきたヒルネットの活動も一年。その感想記事なんかも書かんといかんよなあと思い、その前に溜まっている書くべきことを消化せねばなどととも思って、今日月曜(休み)も夕方になって思い腰を上げてパソコンの前に座ってみたわけです。
ちなみにさっきまでは読書のWSで読む短編小説と絵本を図書館に物色に行ってました。やっぱ忙しすぎるYO!!

 

ということで、最近受ける相談。
相変わらずシリアスなものから、そこまででもないものまで種々の教育相談を、特にヒルネットを始めてから受けておるわけですが、今日特に書きたいのは、中学生について。

不登校の現実は種々様々、以前書いたように、一見、「原因」らしきものが見当たらないものから、低学年のケースに顕著なように、むしろ学校やクラス・担任先生のキャパ不足から、実質的に不登校に「追いやられている」ように見えるケースまで、まあほんとにいろいろとあるわけなんですが、総体的に言えば、年齢が上がれば上がるほど自意識との葛藤は深まる傾向にあるわけです。
(逆に低学年のお子さんの場合は、本人にその意識がなくとも、直接的間接的「原因」が、心理的なトラウマを作っているケースがあります)

どういうことかというと、「学校にいけない自分」「いかない自分」を恥ずかしく思い、親や周りの人間が何も言わずとも「ふつうじゃない」「落伍者」といった自罰的な枠組みで責めるようになってしまうのです。

繰り返せば、問題は、親や周囲の大人が、少なくとも意識した言動としては、そうした態度を取ったり言葉を口にしたりせずとも、自分自身でそう思ってしまう。
十数年の間に染み込んでしまった「ふつう」という名の「枠組み」がそう思わせてしまうのです。

そして、無理して通学し続けるうちに、「エネルギー不足」の状態へと陥ってしまう。。。

 

「そんなにしんどいなら学校なんかいかなくてもいい」
「いじめられるような場所になぜ無理して通うのか?」
「人生には多様な生き方があっていいんだ」

僕たち大人は、こういうことを簡単に言います。
もちろん、僕も言います。
そして、少なくとも社会的にはそうしたメッセージを発し続ける必要があります。
それこそ、クソみたいな「ふつう」という「枠組み」を壊すためには。

しかし、それを直接聞かされる中学生の感想は、

「うるせーよ」
というものかもしれません。

 

当たり前ですが、口で「学校にいかずともいい」と言いながら、どこかに「ふつう」の幸福を親が望んでいるとしたならば、それを子どもは鋭く見抜きます。
「きれいごと」は通用しないのです。

しかし、心底、「学校なんていかなくてもいい」と思っていたとしても、そういう大人の言葉を子どもは素直に受け取ってくれないかもしれません。
例えば、十代の子どもたちの多くは、過剰に心配されたくありません。特に両親には。
大人と子どもの境目である彼・彼女らの自意識にとって、親の「保護」は、自分を「弱いもの」と見なす視線と同義に思えるものです。
したがって、「心配されている」という状態自体が、すでに彼・彼女らの自尊心を大きく傷つけてしまうのです。

 

では、どうすればいいのか。

もちろん、いつものことですが、一概に通用する答えはありません。ケースバイケース。
しかし、それでも、一つのざっくりとした答えは、すでに上に書いています。

そう、心配しないこと、です。

心配されるのが嫌なら、心配しなければいい。
「多様な生き方」を認めているのなら、学校に行こうが行くまいが、どっちだっていい。勝手にさせる。
無理に「学校にいかなくても道はある」なんて言わなくてもいいんです。
「学校以外の道」は彼・彼女が自分で見つけます。
まして「学校にはいかなくてもいい(けれど、◯◯にはなってほしい/◯◯になってほしくない)」なんて思ってはいけない。
どこにどんなふうに転んでいっても、それが彼・彼女の人生なのです。

 

学校に行かず昼まで寝てる息子や娘をみても、「ああ、今日は学校いかないのね」ぐらいに思っておく。
逆に学校に行ったら行ったで、何も言わない。
何だか日々をぼんやり過ごしているようでも、そういう時期もあるさぐらいで済ませておく。
逆に何かを始めたいと思っているようなら、そのとき初めて手助けする(できることなら)。
つまり、少なくとも、それらの日々を「特別」なことではなく、緩やかな「日常」の「出来事」として受け止めていく。

いやいや、そんな最初から「悟り」の境地に達せられたら苦労はせんわい、と思われるかもしれません。
実際、僕だって自分の子のことでは、いつも既に「煩悩」のなかにおります。。。
けれども、少なくとも「理念」としては、頭のなかに持ってはいたい。

そして、そんなふうに覚悟を決めてはじめて、「人生いろんな生き方があるよな!」という言葉に、「心配」ではなく、「信頼」のメッセージがこもるんだろうと僕自身は思います。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

「集団行動」って何?

どうもどうも。
いよいよ寒さも厳しくなり年の瀬も押しせまりつつある今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は疲労がチョーやばいです。めっちゃ寝ちゃいます。

いよいよ最近、このブログも月一連載みたいになってきましたが、決してサボっているわけではない。いや、サボっているのですが、ヒルネットの活動記録を書きながらブログも書いてチョー大量に押し寄せるメールの大群と格闘もしていると、なかなか更新の時間を取れないのでありますよ。

と、更新が少ない言い訳から始まるのもお約束になりつつある今日この頃。今回はちょっとおふざけ気味に行きたいと思います。
そんな今回のお題は、「集団行動」。

どうでしょうか、皆さん。集団行動、好きっすか?

ちなみに僕は嫌いです。大嫌いです。
思わず太文字になってしまうくらい嫌いなんですよ。

この四十数年間を、いかに集団行動を取らずに生き抜くことができるかを最大のテーマとして生きてきたと言っても過言でないくらい嫌いです(大袈裟ではない)。
バリバリの就職氷河期世代でロストなジェネレーションですが、最初から「就職なにそれオイシイの?」的学生だった僕には最初からロストするものなど何も存在しなかった。ある意味で無敵の人です。

ところが、そんな「集団行動」をめっちゃ金科玉条のごとく言ってきやがる場所がある。
それが、日本、の、「学校」。

今から数年前、僕の娘が何かやらかした案件で小学校に妻とともに参上した折のこと。
その際、担任の先生の口から繰り返し出た言葉が、これ。
「〜集団行動を考えると。。」「〜集団行動を守らせる上で。。」等々。

ギャーッヤメローヤメテケレーッ!
その言葉は俺を100年石化させた上で美女に接吻されても今度は醜男に生まれ変わらせてしまうような強力な呪いの言葉なんだ!!(意味不明)

いや、誤解なく言っておくと、その担任の先生はめっちゃいい先生で、その後も娘が十二分にお世話になった理解ある先生でした。
ただ、そんな先生からも、特に違和感を感じておられぬ様子で飛び出してくる、その言葉。

そんなに「集団行動」って、大事なんでしょうか?

まあ、この日本で普通に会社員になったり公務員になったり、もっと言えば普通に「社会人」になる上では、ある程度、必要でしょう。いや、必要だったのでしょう(僕はよう知らんけど)。

ですが、大昔から、そんな社会人的集団行動だって苦手だった人はいる。
いや、むしろそうした「集団」に馴染めなかったからこそ成功を収めた人だってたくさんいるわけです。

さらに言えば、現在の日本社会はもうすでに「集団」に合わせることがそれほど重要な社会ではなくなってきている。
少なくとも「横並び」に「みんなと同じ行動」をとっていれば安穏と人生を渡っていけるような社会ではなくなってきていることは衆目の一致するところなわけでしょう。
いや、よう知らんけど。

ところが、あかん感じの学校でだけは、相変わらず古臭い「集団行動」を是としておるわけです(「あかん感じ」じゃない学校もだんだん出来てきてますけどね)。

そもそも「集団行動」とは何じゃろか?

皆と同じように行動することが集団行動なのか?
皆と同じ時間にホウキ持ってホース持って「掃除の時間」を演じるのが集団行動?
皆と同じ時間に体育着に着替えて皆と同じ時間に指定の場所にいけるのが集団行動?
皆と同じスピードで給食を食べ終わるのが集団行動?
皆と同じように「空気を読んで」45分間「良い子」でいるのが集団行動?

ウソだろそんなの後100回生き返ったってやっぱり出来っっこないって感じだぜっ!!

。。。という僕の社会人失格的言動は別にしても、それってやっぱり本当の意味での「集団行動」ではない気がします。

本当に必要なこととは、自分とは大きく異なる他者とでも、会話し協力しお互いを気遣い一人の力では出来なかった何事かを成し遂げられるような力を養うことではないでしょうか?
つまり他者と「コミュニケート」し「コラボレート」する力の涵養。

「他者」とはただの「他人」とは違う、自分とは考えも知的文化的背景も全く異なる存在のこと。
日常的に言うなら、「空気の読み合い」なんてものが通じないような人のこと。

しかし、現実の「社会」では、そうした他者との間とでも協力関係を結べないことこそ問題であるはずです。
そして、そんな他者と関係する力を養うのが「集団」を模倣する力であるはずがない。「掃除の時間」のわけがない。

そうではなく、全く年齢や生育環境の異なる子ども同士が、一つの遊びや課題を一緒に行うことができるか? 必要な気遣いができるか? まったく共通の話題がない中でも会話し協力できるか?
折々にそうした「協力行動」の機会を設けることこそが、「みんなと同じ」ことよりもよほど大切なんじゃないかと思います。

そんでもって、そういう「コミュニケーション」「コラボレーション」をすることなら、「集団行動」が苦手な子どもにだってできないわけじゃない。
むしろ異個性・異年齢の子どもたちが「協力」して事にあたる姿を、ヒルネットやV-net焚き火会などで、たくさん見てきました。

そしてまた、そういうことなら少なくとも、「集団行動」には呪われてる子どもの頃の僕にだって出来たんじゃないの?とかって思わないでもないわけです。いや、どうかな。。

それでは、それでは。