低学年の「不登校」と、「規律」ある「時間」

どうも、どうも。
秋の紅葉も見ごろよのうなんて思ってたらすっかり冬モードになってきた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。と思ったら暑い日とかあって地球環境まったなしっすね。

それにしても、早い! 早いぞ早過ぎるぞ時の過ぎるのが!
前回の記事から1ヶ月以上すぎておるのではないか。。。
休みの日に家族でお出かけ予定をちょっと立て続けに入れたら、このブログどころかヒルネットの活動記録すらままならない!(そう、このブログが月一連載になっておるのは、こちらのヒルネット活動記録も同時に書かねばならんからなのです。宜しければ、ご覧あれ)

さてさて、そんな言い訳はともかく、今月のテーマ。
それは「規律」。そして「時間」

あーやだなー。規律とか規則とかやんだーよなー俺。
だいたいルールって奴がデーっキレーなんだよなー。だって子どものころ、母親から、「この芝生入るべからず」という公園芝生に書かれた看板を叩き割るスナフキンの勇姿を描いたムーミンの漫画見せられて、「こんな人間になると良いぞよ」というような教育を受けたような受けなかったような気がするオイラっすよ? 
特に論理的根拠のないルールとか、無理。
「どうして〇〇してはいけないんですか?」と尋ねて、「いえ、そういう決まりなんで」とかって答えられると完全に大人であることを忘れて激昂しちゃいそうになるんだよなー。

。。。と、「規律」という一語を書いただけで、長々と発作的に無駄な文章を書き連ねてしまう僕は本当にサイコな人間です。生まれてきて誠に申し訳ございませんでした。

いやね。ある種のルールというか、規律みたいなもんが必要な場もあるとは思いますよ。
例えば、誰かの話を多人数で聞いているときに、一人が鼻クソほじりながら横の奴とくっちゃべったりしやがるのは、話し手に失礼ですし宜しくないでしょう。
あるいはウチの愚息は空手習ってるんですが、そういう武道の世界で「礼」ってやつは大切ですよ。素人がいうのは僭越ですが、武道が暴力ではないのは、この「礼」の心構えがあるからなんじゃないかと思います。

でもなあ。
やっぱ「前ならえ!」とか必要なくない?
ていうか、なんかのたびに何でいちいち整列せにゃあならんの?

別に校長先生の話聞くのに整列しておく必要ないやん?(今はコロナのせいでしてないのか?)
体育、みんな揃いの体育着でせんでもええやん?
移動するのにいちいち並ぶ必要ある?

はい。例にって学校の話です。
また学校の批判かよそんな細けえ悪口ばっか言ってないで別の切り口から教育の問題語って見せろよマンネリ野郎って悪口が聞こえてきそうなんですが、やっぱり種々の教育相談受けてると、なんで学校って場所はこんなに頑ななんかなあと思うことが多々あるからなんすよ。
いや、僕が会社勤めをしたことないから判らんだけで、日本の会社もこうなんだろうか? 日本社会全体の病気の縮図だったりして。。。

もちろんそんなこと気にならん人はたくさんいるでしょうし、整列することにも揃いの体育着にも、もともと意味があったことだって知っています。
それこそ鼻クソほじりながらくっちゃべるような大人にさせないための教育効果を期待していたのかもしれず、昔は貧富の格差から「揃い」の服を用意しないとそうした格差がトラブルを起こしかねなかったのかもしれず。
(でも、まあそれ以前に戦前あるいは明治から続く「軍隊」的教練指導の残滓なんじゃないかなあって気もするんですが。特に「前ならえ!」とかね)

でも、ねえ。僕みたいなサイコじゃなくても、こういうことに異常に緊張を感じるタイプの子だっているんですよ。しかも、結構たくさん。

そんなことを書くのは、つい最近、まだまだ低学年の、小さなお子さんの不登校に関する相談をよく受けるからです。

小学校高学年以上、とりわけ中学生くらいの不登校、あるいは登校拒否は、学校の制度的な問題だけではなく(それももちろん大きいんですが)、周囲との人間関係やら思春期特有の鬱屈やら色々な問題が絡んでいて、それこそ「原因」なんて本人にも判らない。それはこのブログでも何回も書いてきたことです。

それは、もちろん低学年だって変わらない。何か一つの「原因」のせいにできれば簡単なわけです。が、少なくとも特に低学年において大きいだろうなと推測できるのが、この学校特有の「規律」ってやつなんです。

そして、この「規律」ってもんが、学校では、「時間」と同時攻撃してくる。

どういうことか。
つまり、「この時間までに〇〇を終わらせましょう」とか、「この時間になったら、皆で〇〇に移動しましょう」って奴が多過ぎる!

いや、これはまたまた自分の古い古い三〇年前の記憶なんですが、体育の時間に決まった時間内に体操着に皆と一緒に着替えるのが大変辛かった!
何で? と思われるでしょうが、自分でも何でだったのかよくわかりません。

でも、決められた時間に何かをやらなければいけないってのは、幼い子どもにはけっこう大変なことなんじゃないでしょうか? 

少なくとも、そう感じるのは僕だけじゃないようです。
教室移動の時間になっても自分の子どもだけがのんびりぐずぐずいつまでも教室にいて皆においていかれる。。。
授業内に終わらせる課題がいつまでたっても終わらずみんなが次の作業にうつっているのに我が子だけが前の課題をやっている。。。。
宿題がいつまでたっても終わらず翌日の朝に回して学校に遅刻する。。。。

こんな相談をたくさん受けます。
でも、どうして皆が皆、同じ時間に同じ行動を取れると思うんでしょうか?
みんな違う人間で、成長の度合いも、それこそ生まれた月も違う。早生まれの子も4月生まれの子も。字を覚えたのが早い子も、なかなか音声と字が結びつかない子もいる。

同じ時間に同じことできるわけ、ないやん

こういうことを考えるとき、僕は一本の映画を思い出します。
それは『サーミの血』という映画です。このブログでも以前紹介しました。
あらすじをチョー簡単に説明すると、30年代当時、狩猟生活を続けるサーミ人の女の子が、その差別的境遇から抜け出したくて、都会の人間になりすまして生きていこうとするお話です。チョー良い映画なんで、このブログとは関係なくご覧あれ。

以前、このブログにも書きましたが、その映画の中に、印象的なシーンがあります。
主人公が都会の学校の生徒のフリをして、ちょうど体育の時間に紛れ込みます。
そこで、都会の学校の生徒たちは、ある「リズム」に合わせて、いっし乱れず「規律」正しい準備運動的ダンスを行います。
しかし、「一定のリズムに合わせて規律正しい動作を行う」ということを、それまでの人生でやったことのなかった主人公は、他の生徒と同じように動くことができません。
その姿は、哀れです。
しかし、本当に「哀れ」なのは、主人公ではない。
本当に「哀れ」なのは、「規律」に従い、「リズム」に従って、非常に奇妙に見える動作を繰り返す都会の子どもたちなのです。その子どもたちの動きは、非常に、滑稽です。

その後、彼女がどんな人生を送ったのか。
映画では、老婆となり、「都会の人間」として生きてきた主人公の姿だけが映されます。

サーミの彼女は「都会」の人間になれた。
皆と一緒の時間に体育着が着替えられなかった僕は?
学校にはいかなくなりました。

「同じ時間」に「同じ行動」を取ること。
それを「規律」と呼ぶこと。
そこに簡単に順応できる子もいれば、できない子もいる。

では、それができない子は、排除されても、その「場所」からいられなくなってもいいんでしょうか?
サーミ人の子のように、自分を殺して、順応すべく耐え忍ぶべきなんでしょうか?

日本の教育は、社会は、本当にそれで良いんでしょうか?

それでは、それでは。


教育と偶然性: 大学的な、あまりに大学的な

どうもどうも。
少しずつ秋の気配が漂いつつあるもののやっぱりまだまだクソ暑い東京から中継しておりますが皆さんいかがお過ごしでしょか。こないだ浅草行ったら暑くて死にそうでした。

さてさて、月一連載を公言するようになった当ブログ。
だいたいいつも記事が長すぎんだよもっと短くコンパクトにまとめて記事増やせよなという心ある忠告をこの間幾度も受けておりますが、しゃーないやんけワシ文章書き出したら無駄に長くなるんじゃい。ホント、メールとかでも。
孫正義やホリエモンみたいな人間からしたら全く非効率極まりない生き方をしているわけですがそもそも人間の「生」などほとんど無駄のカタマリのわけですから無駄を無駄として楽しめないなら早く死んでしまうのがもっとも効率的なわけでもあります(中二感)。

さて、そんな無駄について無駄な前書きをだらだら無駄に書いておるわけですが、実はこれが無駄ではない。

というのも、今日のテーマは「偶然」についてだからであります。
もっと言うと、日々の中で「偶然」出会う、様々な「無駄」についてこれから無駄に書いていく。

 

さて、この「コロナ禍(最近飽きられ始めたらしい)」の渦中においても、すでに公立私立の小中高の教育機関が通常の活動を、まあ多少制限されながらも無事行っておることは皆さんご存知の通り。
おかげさまで当方が運営しておるフリースクールのヒルネットも、今月から都心の方にもボチボチ出かけようかなと思っております。こないだ浅草行ったしね。

ところが、ここに一つ、頑として通常の活動を行わない教育機関がある。

そう。それが、大学。

いやーひどいね。ひどいね大学大学ひどい。
なんか後期もリモートだってよ。で、下手したら来年度もなんて噂も飛びかってやがるぜ。マジか。いやアホか。

いや、コロナに関するリスクはわかりますよ。
一箇所に集まる人数も桁違いだし、高校生なんかと違い、授業の帰りに呑んだりもするでしょう。同調圧力の強い日本で風評被害が起こるのも怖いかもね。

でもさ。じゃあ、学費返せよ。
あるいは、せめて休学者募って学費免除しろ。
4年間の維持費がどうとか研究機関として維持する必要がとかチマチマ言い訳してんじゃねーよ。
本当にそこに通ってる学生のこと考えてんのか?
必死に働いて子どもの学費なんとか稼いでる親がいることわかってんのか?
もう時代は昔のバブルじゃねーんだぜ? 学費自腹で払ってる学生だっていっぱいいるってわかってんの?
年間100万の重みは昔とは違うんだぜよ?
リモート授業で十分だと? お前ら戦後日本の大学が学生にとって「授業」を受けるだけの場所じゃなかったってこと一番よく知ってるよな!?

。。。などと興奮してはしたない言葉遣いでもって非中立的言辞を述べたてたことをここにお詫び申し上げます。
(ついでに言っておくと、実際にオンラインで授業をやっている先生方は被害者。非常勤だと一方的にお金切られたりもしているからね。ということで、以上はむしろ大学上層部にむけて)

ま、実際、私立大学も(あるいは国公立も)金儲けの機関ですからね。
特に、かつて研究機関に身をおいて内側から非常勤講師等の使い倒しを見てきた上、逆に学生を送り込む側の立場にも身をおいてきた自分からすると、まあこんなもんだよな、という突き放した気分にもなります。
営利企業としては、リモート授業等により「顧客=学生」の不利益を最小限にしつつ、「社員=教授・講師」の給与支払いおよび施設管理・維持を行い、その上で資本の再生産を可能にするギリギリの経営判断を行っているのでしょう。

(余談:ちなみに「教育」が、単なるサービス産業なのか、あるいは営利を超えたものであるべきなのか、という議論においては、もちろん本来的には後者の立場をとるべきである。しかし、義務教育機関が保守硬直化し、高等教育機関の監理化・資本主義化の進んだ日本において、純粋に「教育」が非資本的営為である余地はどんどん少なくなってきていると言えよう。
個人的には、税金や寄付で賄えない「教育事業」は、営利活動で構わないと思う。が、過剰に純利益を求めて子どもたちやその保護者を「だます」ようなやり口は、「教育」やそれに類する営為においては厳に慎まれるべきである。本来的に「教育」は、資本主義社会においても、少なくとも「理念」としては利他的なものでなければならない)

さてさて、それにしても僕は何をこんなに怒っているのでしょう。
それこそ大学生でも、その保護者でもないくせに。
それは現在の大学がーーオンラインの場のみに「閉じた」環境にある大学が、教育機関としては大切なはずの、「偶然性」と「無駄」の効用に対してあまりに無自覚であるように思われるからなのです。

 

ご存知の通り、って全然ご存知じゃないかもしれないんですが、僕がやってるヒルネットの活動では、毎週、木曜になると様々な場所に、「お出かけ探検活動」と称してブラブラ出かけております。
知らない街を散策することもあれば、山や川に遊びに出かけることもある。
あるいは、毎日、天気さえ許せば、お昼の時間、近所の善福寺公園や、時々足を伸ばして井の頭公園なんかに「散歩」にも出かけます。

特に「散歩」については、最近みたいに暑い中だと、けっこう子どもたちはブーブー。
公園でお弁当を食べることにしてるんですが、「教室で食べればええやんかいさ」と文句も言います。

だけど、僕としては、けっこうこの「散歩」が大事だと思ってるんですよね。
もちろん、木曜の「お出かけ探検」も大切。
それは歩くことで体力を付けてもらいたいってこともありますけど、やはり何より、教室にずっと閉じこもっていては得られない、様々な「偶然の出来事」に出会えるから。

川沿いをのんびり歩けば珍しい野鳥に出会うこともある。
なぜか渓谷を散策していたらウサギを拾うようなこともある(事実)。
天気だと思って山を歩けば突然の雨にも合うし、浅草の街で蒸し風呂のような暑さに苦しむことだってある。

良いこともあれば、悪いこともある。
当たり前のことですが、予定通り、計画通りに進むことなんてあまりない。
世界は偶然に満ちあふれているのです。

そして、実はこれは、教室での活動にだって言えることなのです。
絵画の話がアニメの話になってしまったり。論語を読むはずが孔子の悪口大会になってしまったり。逆に雑談のはずが意外と深い話になったりすることもある。
急に怒りだす奴がいるかと思えば、誰かと誰かがふとしたことで友達になることもある。
それは僕たちのような少人数のフリースクール以外の場所にも言えることでしょう。
人間が集まる場所には、何かしらの「偶然性」があふれている。常に何かハプニングがある。
教室の「外」、自然環境のなかに飛び出せば、それがより意識化されるということです。

大切なことは、こうした「偶然の出来事」の一つひとつは、一見たわいもないこと、「無駄」なことにも見えるということです。
渓谷にいってウサギを拾って帰ってどうする。
せっかく高尾山に登るのに雨なんてひどい。
でも、本当にそうでしょうか?

僕たちを成長させ、世界に、そして社会に向き合える人間へと成熟させてくれたものの中には、そうした一見「無駄」な、たわいもない出来事の累積があったとは言えないでしょうか?
他者への共感を育み、アクシデントへの適応力を育てるのは、そうした「偶然」=ハプニングや、「無駄」ともいえる失敗の積み重ねではないでしょうか?
真夏の暑さも知らずに育つことが、自然への感受性を育てるでしょうか?

僕が、人間の「学び」に、リアルに人間が集う「(居)場所」が必要だと思うのは、こうした理由からです。

オンラインでも勉強はできます。
実際、「講義」を聴いたり行ったり、純学問的な議論を行うだけなら、Zoomでやるのもけっこうでしょう。もちろん、それらも「生」であるに越したことはないにせよ。

ですが、総体としての「教育」、「学び」の環境としては、それは十分ではない。
そして大学は、研究機関でもありますが、多くの学生を「教育」する機関でもあるのです。

実際、一つ学問を学ぶにしろ、それは授業でのみ学ばれるわけではない。
授業の合間の昼食時に。あるいは、その帰路で。たわいもない会話を友人と交わす折々の中で。
ふと、さっきの授業についての話をする。
関連する本についての感想を言い合う。
あるいは気の合う仲間と、そのままカフェで話し込む。安い酒を酌み交わしながら議論する。
最初は教授の禿頭を笑う話だったかも。でも、いつの間にか、彼が授業の最後に語った政治観へと話が及ぶ。文学論への違和が口をついてでる。
授業やゼミでわざわざ発言するほどの意見じゃない。でも、それが一つのきっかけなって親しい者同士だから交わすことのできる議論が巻き起こる。

大学ってのは、そういう「場所」です。
いや、少なくとも、僕にとっては、そういう「場所」でした。

いや、そんな大学生活を送ったのはアンタだけだよと言われるかもしれません。
でも、何もそんな「マジメ」な学問の話でなくてもいいんです。
大学時代、友人と過ごした何気ない日々。日常のふとした思い出。くだらないけれど、とても幸せだったような、そんなちょっとした仲間との記憶。
そして、そんな日々が、やはり振り返っていると、いまや大人になった自分の大事な一部分を作っていることに気づくはずです。

そう。一見、「無駄」な、それらの記憶。
ですが繰り返せば、そうした様々な「偶然」と「無駄」が積み重なって、ヒトは人生の貴重な「学び」を得ていくものなのです。
そして、大学もまた、そうした「学び」を得るための場所の一つのはずなのです。

 

コロナ禍が今より騒がれていた5月ごろ。
ネットでは、盛んにオンラインによる学校教育の是非が議論されていました。
そうした議論を見ながらも、僕はどこかで違和感を感じずにはいられませんでした。
僕自身、Zoomで個人レッスンなどは行いつつも、それがコロナ禍の中での「教育」のモデルとみなされることには、ひどく居心地の悪い思いをしたものです。
確かに「勉強」は教えられる。それ自体は悪いことじゃない。
だけど、これがずっと続くっていうのは、やっぱり「教育」のありようとしてはディストピアなんじゃないのか?

いま、オンラインに「閉ざされた」大学の惨状を見て、そのときの違和感がやっと言葉になったという思いでいます。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

 

中高生と不登校

どうもどうも。
気がつけばすっかり春の陽気に花粉も飛んですっかり冬も終わりという雰囲気になってまいりましたが、皆さん如何おすごしでしょうか。

さてさて、全くもって月一回ペースとなりつつある、このブログ。
これじゃいかんと思いながらも、一週間の疲れが休みに残る今日この頃。怠け癖がついてしまっております。
そうはいっても3月末には、なんとかかんとかやってきたヒルネットの活動も一年。その感想記事なんかも書かんといかんよなあと思い、その前に溜まっている書くべきことを消化せねばなどととも思って、今日月曜(休み)も夕方になって思い腰を上げてパソコンの前に座ってみたわけです。
ちなみにさっきまでは読書のWSで読む短編小説と絵本を図書館に物色に行ってました。やっぱ忙しすぎるYO!!

 

ということで、最近受ける相談。
相変わらずシリアスなものから、そこまででもないものまで種々の教育相談を、特にヒルネットを始めてから受けておるわけですが、今日特に書きたいのは、中学生について。

不登校の現実は種々様々、以前書いたように、一見、「原因」らしきものが見当たらないものから、低学年のケースに顕著なように、むしろ学校やクラス・担任先生のキャパ不足から、実質的に不登校に「追いやられている」ように見えるケースまで、まあほんとにいろいろとあるわけなんですが、総体的に言えば、年齢が上がれば上がるほど自意識との葛藤は深まる傾向にあるわけです。
(逆に低学年のお子さんの場合は、本人にその意識がなくとも、直接的間接的「原因」が、心理的なトラウマを作っているケースがあります)

どういうことかというと、「学校にいけない自分」「いかない自分」を恥ずかしく思い、親や周りの人間が何も言わずとも「ふつうじゃない」「落伍者」といった自罰的な枠組みで責めるようになってしまうのです。

繰り返せば、問題は、親や周囲の大人が、少なくとも意識した言動としては、そうした態度を取ったり言葉を口にしたりせずとも、自分自身でそう思ってしまう。
十数年の間に染み込んでしまった「ふつう」という名の「枠組み」がそう思わせてしまうのです。

そして、無理して通学し続けるうちに、「エネルギー不足」の状態へと陥ってしまう。。。

 

「そんなにしんどいなら学校なんかいかなくてもいい」
「いじめられるような場所になぜ無理して通うのか?」
「人生には多様な生き方があっていいんだ」

僕たち大人は、こういうことを簡単に言います。
もちろん、僕も言います。
そして、少なくとも社会的にはそうしたメッセージを発し続ける必要があります。
それこそ、クソみたいな「ふつう」という「枠組み」を壊すためには。

しかし、それを直接聞かされる中学生の感想は、

「うるせーよ」
というものかもしれません。

 

当たり前ですが、口で「学校にいかずともいい」と言いながら、どこかに「ふつう」の幸福を親が望んでいるとしたならば、それを子どもは鋭く見抜きます。
「きれいごと」は通用しないのです。

しかし、心底、「学校なんていかなくてもいい」と思っていたとしても、そういう大人の言葉を子どもは素直に受け取ってくれないかもしれません。
例えば、十代の子どもたちの多くは、過剰に心配されたくありません。特に両親には。
大人と子どもの境目である彼・彼女らの自意識にとって、親の「保護」は、自分を「弱いもの」と見なす視線と同義に思えるものです。
したがって、「心配されている」という状態自体が、すでに彼・彼女らの自尊心を大きく傷つけてしまうのです。

 

では、どうすればいいのか。

もちろん、いつものことですが、一概に通用する答えはありません。ケースバイケース。
しかし、それでも、一つのざっくりとした答えは、すでに上に書いています。

そう、心配しないこと、です。

心配されるのが嫌なら、心配しなければいい。
「多様な生き方」を認めているのなら、学校に行こうが行くまいが、どっちだっていい。勝手にさせる。
無理に「学校にいかなくても道はある」なんて言わなくてもいいんです。
「学校以外の道」は彼・彼女が自分で見つけます。
まして「学校にはいかなくてもいい(けれど、◯◯にはなってほしい/◯◯になってほしくない)」なんて思ってはいけない。
どこにどんなふうに転んでいっても、それが彼・彼女の人生なのです。

 

学校に行かず昼まで寝てる息子や娘をみても、「ああ、今日は学校いかないのね」ぐらいに思っておく。
逆に学校に行ったら行ったで、何も言わない。
何だか日々をぼんやり過ごしているようでも、そういう時期もあるさぐらいで済ませておく。
逆に何かを始めたいと思っているようなら、そのとき初めて手助けする(できることなら)。
つまり、少なくとも、それらの日々を「特別」なことではなく、緩やかな「日常」の「出来事」として受け止めていく。

いやいや、そんな最初から「悟り」の境地に達せられたら苦労はせんわい、と思われるかもしれません。
実際、僕だって自分の子のことでは、いつも既に「煩悩」のなかにおります。。。
けれども、少なくとも「理念」としては、頭のなかに持ってはいたい。

そして、そんなふうに覚悟を決めてはじめて、「人生いろんな生き方があるよな!」という言葉に、「心配」ではなく、「信頼」のメッセージがこもるんだろうと僕自身は思います。

それでは、それでは。