教育で一番大切なこと:年の瀬に徒然なるまま

どうも、どうも。
今年も一年がいよいよ終わりですなあ色々あった一年ですが皆さん年の瀬をいかがお過ごしでしょうか。僕はこの記事を大掃除の合間に書いています。しんどい。

さて、それにしても今年はほんとに色々あった。個人的には年初に人生初めての骨折を経験。そして言うまでもなくコロナ禍。オンラインでのレッスンも多々こなしつつ、そういう中で教育の本質、というとちょっと大袈裟だけれども、少なくとも自分が子どもたちと関わっていくなかで大切に考えざるを得ないものが何なのか、といったことを深く考えさせられた一年でもありました。

例えばコロナ自粛期間中。
個人レッスンについては不便もありましたが、まあ慣れた生徒が多かったのもあり、個人的にはレッスン自体はそんなに違和感なく行えたようにも思いました。細かいデメリットも多々ありましたが、メリットを感じさせる場面も結構あった。
現在は「原則的」に個人レッスンも対面でなるべく行う形にしていますが、この個人レッスンに関しては、今後はネットを使って、ケースに応じて様々な形でレッスンを行える可能性もあるでしょう(もっとも、だからこそ以下に記すことも踏まえて、あえてセッションの醍醐味を生かす「対面」にこだわるというのも大事な考え方だと思います)。

一方で、僕の現在の活動のもう一つの柱は、少人数のフリースクールであるヒルネットの活動にあります。

こちらも自粛期間中、リモートで時間を共有する機会を作っていました。皆に個人での「活動」(Workと読んでいます)を発表してもらうような形で、だいたい活動日に2時間〜3時間くらいzoomで時間共有を行なったでしょうか。

とはいえ、フリースクールのような子どもたちの「居場所」であることを重んじた教育の場においては、リモートというのは自ずから限界があります。
子どもたちが、自由にぶらりと立ち寄れ、誰かとたわいもないお喋りに興じたり、一緒に遊んだり、あるいは共に学んだりすることのできる「場」であるためには、やはり現実の空間が必要となります。

特にヒルネットは、そもそも「体験」ということを一つの理念としていました。屋外への「散歩」やフィールドワークといった活動により、子どもたちが「ナマ」の自然環境や都市環境と触れあうこと。それが大切な理念でした。

こうした活動は、当たり前ですが、ネットの中ではできません。
焚き火の炎のぬくもりも、山を登るしんどさも、川の水の意外な冷たさもネットの画面越しには伝わりません。
(YouTubeには燃えている焚き火が映っているだけという謎動画も多数ありますけどね)。

だからこそ、自粛が解け、再び教室で子どもたちと会えた時はとても嬉しかった。
再び山に、川に、様々な街に、子どもたちと一緒に「お出かけ探検」できるようになって、こんなに楽しいことはないと思った。

上にヒルネットの理念としてナマの「体験」というものがあると書きました。
しかし、それが本当に大切な理念であると真に実感したのは、再び種々の「体験」を子どもたちと共に行えるようになった、この時だったのかもしれません。

自粛期間中、リモートで子どもたちと接していたとき、気づいたことがあります。
それは、子どもたち同士でのトラブルが極端に少ないことでした。
もちろん時間が短かったから、ということもあります。
しかし、ネットのなかでは(たとえそれがzoomのように顔が見えるものであっても)、「誰か」が不快な行動をとったとしても、いともたやすく無視できるのです。シャットダウンしてしまうことができる。

現実に再び教室に集ってしまうと、そうはいきません。
歳の近い子ども同士は、つまらないことで言い合いを始めます。ケンカになることだってあります。
それを年長の子どもたちが鬱陶しく思うこともあるでしょう。
突然誰かが何かにイライラして大声をあげます。「散歩」に出かけると急に走り出す子がいます。それを追いかける子も。誰かがそれらを諌めるとそれはそれでケンカになったり。すると年長組はまたヤレヤレといった顔。

こうしたトラブルは「面倒」なことです。
しかし、実際に人と人が出会うということは、いつも既にこうした「面倒」な出来事と隣り合わせな「体験」なのです。
そう、極限すれば、ナマの「体験」というのは、すべからく「面倒」なものなのです。

山に出かけようと思ったら、雨が降る。
川遊びに出かけたら、水にドボン。着替えがない。
街歩きを行えば道に迷い、何キロも歩くはめに陥る。

この「面倒」な出来事、ということを、「偶然性」という言葉を用いて表現してもいい。
物事が決まった通りに動かないこと。自分が思っていたのとはまるで違う結果が生じてしまうこと。
現実の世界はそうした「偶然性」に満ちあふれています。
現実の世界のなかで生きていこうとするなら、そうした「偶然」の出来事は回避できない。
それにより引き起こされたことが、どんな「面倒」なことであっても。

僕が教育においてナマの「体験」が大切であると考えるようになったのは、そうした現実の「偶然性」をまさに身をもって知る、「学ぶ」ことが、子どもたちが成長するなかで何より重要ではないかと感じるようになったからでした。
「偶然」に引き越される失敗。数々のアクシデント。
それらをまさしく「体験」していくなかで、僕たちは大人になるために必要な「知恵」を蓄えていくのではないでしょうか。

もちろん「体験」に宿る「偶然性」は、面倒ごとだけを引き寄せるわけではありません。
思わぬ出逢いが新たな好奇心の源になることだってあります。
川で溺れそうになることもあるけれど、その水の冷たさが夏の日に喜びを与えてくれることもあります。

繰り返すなら、ナマの「体験」とは面倒なものです。
ですが、その面倒なことが僕らを成長させ、また僕らに歓びをも与えてくれるのです。

ネットの効率的なコミュニケートの中に、こうした「偶然」は多く生じません。
「面倒」なことも起こらないが、新たな歓びを与えてくれる「出逢い」も多くはありません。

ひょっとしたら、僕は当たり前のことを言っているのかもしれませんね。
なぜなら、僕が今年を通して実感した上のようなことは、自由な行動や他者との接触を制限された、日本中の、世界中の人々が感じたに違いないことだからです。
仕事はリモートだってできる。カリキュラムのある「勉強」はネットのなかでもできる。

でも、それとは違う、人と人とが対面して出会う「体験」が人間には必要だ。
自然に触れ、自由に街を歩けるようになることが僕たちには必要だ。

そして何より、子どもたちにこそ、そうした「体験」が必要だ。
何が起こるかわからないナマの世界を「体験」することこそが必要だ。

そんなことを深く深く実感した一年でありました。
いや、コロナ禍が再び僕たちの日常を侵し始めている今、そうした思いをより強めている年の瀬です。

ゲッ! なんてことを徒然なるままにひぐらしつづっておるうちにあやしうこそものぐるほしけれ。大掃除がどこかにいってしまった。
まあ、いいか。それもまた「思い通りにいかない」現実の一つですよね。

それでは、それでは、皆さん来年も宜しくお願い致します。
良いお年をお迎えください!

低学年の「不登校」と、「規律」ある「時間」

どうも、どうも。
秋の紅葉も見ごろよのうなんて思ってたらすっかり冬モードになってきた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。と思ったら暑い日とかあって地球環境まったなしっすね。

それにしても、早い! 早いぞ早過ぎるぞ時の過ぎるのが!
前回の記事から1ヶ月以上すぎておるのではないか。。。
休みの日に家族でお出かけ予定をちょっと立て続けに入れたら、このブログどころかヒルネットの活動記録すらままならない!(そう、このブログが月一連載になっておるのは、こちらのヒルネット活動記録も同時に書かねばならんからなのです。宜しければ、ご覧あれ)

さてさて、そんな言い訳はともかく、今月のテーマ。
それは「規律」。そして「時間」

あーやだなー。規律とか規則とかやんだーよなー俺。
だいたいルールって奴がデーっキレーなんだよなー。だって子どものころ、母親から、「この芝生入るべからず」という公園芝生に書かれた看板を叩き割るスナフキンの勇姿を描いたムーミンの漫画見せられて、「こんな人間になると良いぞよ」というような教育を受けたような受けなかったような気がするオイラっすよ? 
特に論理的根拠のないルールとか、無理。
「どうして〇〇してはいけないんですか?」と尋ねて、「いえ、そういう決まりなんで」とかって答えられると完全に大人であることを忘れて激昂しちゃいそうになるんだよなー。

。。。と、「規律」という一語を書いただけで、長々と発作的に無駄な文章を書き連ねてしまう僕は本当にサイコな人間です。生まれてきて誠に申し訳ございませんでした。

いやね。ある種のルールというか、規律みたいなもんが必要な場もあるとは思いますよ。
例えば、誰かの話を多人数で聞いているときに、一人が鼻クソほじりながら横の奴とくっちゃべったりしやがるのは、話し手に失礼ですし宜しくないでしょう。
あるいはウチの愚息は空手習ってるんですが、そういう武道の世界で「礼」ってやつは大切ですよ。素人がいうのは僭越ですが、武道が暴力ではないのは、この「礼」の心構えがあるからなんじゃないかと思います。

でもなあ。
やっぱ「前ならえ!」とか必要なくない?
ていうか、なんかのたびに何でいちいち整列せにゃあならんの?

別に校長先生の話聞くのに整列しておく必要ないやん?(今はコロナのせいでしてないのか?)
体育、みんな揃いの体育着でせんでもええやん?
移動するのにいちいち並ぶ必要ある?

はい。例にって学校の話です。
また学校の批判かよそんな細けえ悪口ばっか言ってないで別の切り口から教育の問題語って見せろよマンネリ野郎って悪口が聞こえてきそうなんですが、やっぱり種々の教育相談受けてると、なんで学校って場所はこんなに頑ななんかなあと思うことが多々あるからなんすよ。
いや、僕が会社勤めをしたことないから判らんだけで、日本の会社もこうなんだろうか? 日本社会全体の病気の縮図だったりして。。。

もちろんそんなこと気にならん人はたくさんいるでしょうし、整列することにも揃いの体育着にも、もともと意味があったことだって知っています。
それこそ鼻クソほじりながらくっちゃべるような大人にさせないための教育効果を期待していたのかもしれず、昔は貧富の格差から「揃い」の服を用意しないとそうした格差がトラブルを起こしかねなかったのかもしれず。
(でも、まあそれ以前に戦前あるいは明治から続く「軍隊」的教練指導の残滓なんじゃないかなあって気もするんですが。特に「前ならえ!」とかね)

でも、ねえ。僕みたいなサイコじゃなくても、こういうことに異常に緊張を感じるタイプの子だっているんですよ。しかも、結構たくさん。

そんなことを書くのは、つい最近、まだまだ低学年の、小さなお子さんの不登校に関する相談をよく受けるからです。

小学校高学年以上、とりわけ中学生くらいの不登校、あるいは登校拒否は、学校の制度的な問題だけではなく(それももちろん大きいんですが)、周囲との人間関係やら思春期特有の鬱屈やら色々な問題が絡んでいて、それこそ「原因」なんて本人にも判らない。それはこのブログでも何回も書いてきたことです。

それは、もちろん低学年だって変わらない。何か一つの「原因」のせいにできれば簡単なわけです。が、少なくとも特に低学年において大きいだろうなと推測できるのが、この学校特有の「規律」ってやつなんです。

そして、この「規律」ってもんが、学校では、「時間」と同時攻撃してくる。

どういうことか。
つまり、「この時間までに〇〇を終わらせましょう」とか、「この時間になったら、皆で〇〇に移動しましょう」って奴が多過ぎる!

いや、これはまたまた自分の古い古い三〇年前の記憶なんですが、体育の時間に決まった時間内に体操着に皆と一緒に着替えるのが大変辛かった!
何で? と思われるでしょうが、自分でも何でだったのかよくわかりません。

でも、決められた時間に何かをやらなければいけないってのは、幼い子どもにはけっこう大変なことなんじゃないでしょうか? 

少なくとも、そう感じるのは僕だけじゃないようです。
教室移動の時間になっても自分の子どもだけがのんびりぐずぐずいつまでも教室にいて皆においていかれる。。。
授業内に終わらせる課題がいつまでたっても終わらずみんなが次の作業にうつっているのに我が子だけが前の課題をやっている。。。。
宿題がいつまでたっても終わらず翌日の朝に回して学校に遅刻する。。。。

こんな相談をたくさん受けます。
でも、どうして皆が皆、同じ時間に同じ行動を取れると思うんでしょうか?
みんな違う人間で、成長の度合いも、それこそ生まれた月も違う。早生まれの子も4月生まれの子も。字を覚えたのが早い子も、なかなか音声と字が結びつかない子もいる。

同じ時間に同じことできるわけ、ないやん

こういうことを考えるとき、僕は一本の映画を思い出します。
それは『サーミの血』という映画です。このブログでも以前紹介しました。
あらすじをチョー簡単に説明すると、30年代当時、狩猟生活を続けるサーミ人の女の子が、その差別的境遇から抜け出したくて、都会の人間になりすまして生きていこうとするお話です。チョー良い映画なんで、このブログとは関係なくご覧あれ。

以前、このブログにも書きましたが、その映画の中に、印象的なシーンがあります。
主人公が都会の学校の生徒のフリをして、ちょうど体育の時間に紛れ込みます。
そこで、都会の学校の生徒たちは、ある「リズム」に合わせて、いっし乱れず「規律」正しい準備運動的ダンスを行います。
しかし、「一定のリズムに合わせて規律正しい動作を行う」ということを、それまでの人生でやったことのなかった主人公は、他の生徒と同じように動くことができません。
その姿は、哀れです。
しかし、本当に「哀れ」なのは、主人公ではない。
本当に「哀れ」なのは、「規律」に従い、「リズム」に従って、非常に奇妙に見える動作を繰り返す都会の子どもたちなのです。その子どもたちの動きは、非常に、滑稽です。

その後、彼女がどんな人生を送ったのか。
映画では、老婆となり、「都会の人間」として生きてきた主人公の姿だけが映されます。

サーミの彼女は「都会」の人間になれた。
皆と一緒の時間に体育着が着替えられなかった僕は?
学校にはいかなくなりました。

「同じ時間」に「同じ行動」を取ること。
それを「規律」と呼ぶこと。
そこに簡単に順応できる子もいれば、できない子もいる。

では、それができない子は、排除されても、その「場所」からいられなくなってもいいんでしょうか?
サーミ人の子のように、自分を殺して、順応すべく耐え忍ぶべきなんでしょうか?

日本の教育は、社会は、本当にそれで良いんでしょうか?

それでは、それでは。


「暴」について

どうもどうも。
すっかり秋めいた涼しいというか肌寒い季節となってまいりましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は秋雨前線が大嫌いです。

そう秋雨前線、まじダルイっすよね。焚き火も山登りもなかなかでけへん。
ということで、最近疲れ気味のワタクシ。今日はちょい短めの記事にしときたいと思います(いや、いつもが無駄に長すぎるという説あり)。

ということで、早速、今月のお題。それは「暴」について。

「暴」? それって何って感じですよね。
実は先日、ヒルネットでこの「暴」にまつわるミーティングをメンバーと行いました。

「暴」とは、暴力の「暴」であり、暴言の「暴」であり、あるいは単に「暴れる」ことの「暴」でもある。

ヒルネットに限らず、僕も個人レッスンやグループレッスン、果ては大昔の予備校講師時代含めると、なんやかんやでもう20年近く在野で教師的な何かを仕事としてきました。
それこそ小学生のころ知り合って、今やすっかりオッサンになってしまった生徒だって何人もいます。

その中には、勿論いろんな子どもがいました。
そして今もやっぱり、いろんな子どもたちがいます。

そうした「いろんな」傾向の中に、「暴」言を吐いてしまったり「暴」力的になってしまったり、いろいろな意味で「暴」れてしまう子だっている。
また、逆に一緒に過ごしていて、そういう「暴」の空気を敏感に感じ取り、心をざらつかせてしまう子だっています。

ヒルネットという「居場所」は、別に皆が「仲良く」する必要はないけれども、誰もが安心して過ごせる場所ではあってほしいと僕は思っています。
そういう意味では「暴」力的な言動で傷ついてしまう人がいるならば、それはなるべく抑制してもらいたい。

だけど、ね。
これが難しいのは、誰だって好きで「暴」力をふるいたいわけじゃないってことです。

いや、大人だったり大人に近い年齢の子どもたちはそうじゃないかもしれない。
でも、まだ比較的、小さい子どもたちは、どうか。
いや「小さい」と形容するには歳を重ねているにせよ、十分に成熟しきっていない少年少女にとっては、どうか。

その「暴」は、彼・彼女の一種の「表現」であるかもしれないのです。
そう、「言葉」ではまだ十分に「表現」できないがゆえの何かしらの感情の。

極端に言って、それは「愛情」なのかもしれない。

例えば、ヒルネットのミーティングでは、一人の少年がこんなことを言っていました。
「僕は本当にMやNのことが大好きなんだ。でも、好きって気持ちが強くなっちゃうと、ついちょっと叩いたりしちゃうんだ」

とても印象に残る言葉でした。それはまた、彼自身が、自分でそう客観的に判っていながらも、なかなか留めることができない苦しさが滲む言葉でした。

他にも、大好きなスタッフにまとわりついて離れず、にもかかわらずずっと「悪言」を言いっぱなしの子どももいます。また、これは別の場ですが、好きな先生のいうことほど聞かず、また好きな子には意地悪ばかりしてしまう子もいました。

繰り返すなら、これは一種の「表現」なのです。
さらに難しくいうなら、それは自己の存在を他者から全的に承認されたいという欲求の裏返しでもあるのでしょう。
簡単に言えば、「甘えたい」のです。

ですから、こうした「暴」の抑制を個々に言葉で求めることはできても、「禁止」することはできません。いや言葉で「禁止」とは言えても、それを「排除」することは決してやってはいけません。

とはいえ、一方で、誰かのその「暴」により傷つく人間も確かに存在する。
いや、当事者はもちろん、そういう空気の「乱れ」を敏感に感じて、気分を落ち込ませる人だっている。

では、どうすればいいのか?

もちろん、いつものことながら、簡単な解決なんてありません。
でも、例えば、子どもたちからはこんな意見が出ました。

ーー誰かが暴れだしちゃったりケンカになっちゃたりしたとき、結局どうすればいいだろう?
「そのときは、スーッと別の場所に行っちゃおうかな」
「関係ないよって顔しとこう。だってそれは、その子とその子のモメ事だから、本当ならその子たち自身で解決しなくちゃいけない問題だから」
ーーでも、誰かが暴れていると、みんな嫌な気分になっちゃうことない?
「別に。僕は無関係だもん」
ーーでも、無関係だって思えない人だっているんじゃない?
「まあ余裕のあるときは、暴れちゃってる子に、『落ち着けよ』って声ぐらいかけてあげるかな」
「いま『暴走』しちゃってるよって肩をトントン叩いてもらえるといいかもね」
「肩トントンはいいね。それで『暴走』してるよって合図になる」
「それなら、『どうどう、落ち着けよ』って言ってあげた方がいいんじゃない」
「なんにせよ、声ぐらいはかけてあげていいかも。もっと余裕があれが、その場から引き離してあげられたらいいよね」
ーーでも、みんなにそういう余裕がないときはどうする?
「そんときはイマンモかレイセンが『イケニエ』になるしかないでしょ当たり前じゃん!」

実際、いつもいつも皆に「余裕」があるわけではないでしょう。
むしろ、そんなときは多くなく、僕やレイ分隊長が「イケニエ」になることの方が多いかもしれません。
でも、「暴」をふるってしまう子も、それが嫌な子も、一人ひとりが、それぞれの「解決」を考える。そのこと自体に意味があるんだろうとも思います。
そんなことを考えさせられた最近の活動でした。

それでは、それでは。