「国語力」とは何か?

どうも、どうも。
最近は朝晩すっかり冷え込んで参りましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕はちっとも風邪が治りきりません。

さてさて、本日は「国語力」について。
僕は一応国語の先生なんで(なぜか最近、歴史とかを教えることがすごく多いですが)、基本的には「国語力」をあげたい、という生徒がレッスンにたくさんやってきます。
ですが、みなさん「国語力」って、いったい何なんでしょうか?

「そんなん決まっとるやんけ。うまい文章書けたり、難しい本スラスラ読めたりする力やないけ」と、こう思いますかね?
まあ確かに、そう言えます。めちゃめちゃ難解な文書を読み解ける。人を感動させるような美しい文章を書ける。
これらは大切な国語の力です。
でも、あえて言いたい。
「国語力」って、ほんとにそれだけ?

実はね。それだけではありません。
それらは「国語力」の一部分でしかないのです。
いや正確に言うと、そうした能力は、「国語力」のある人が結果的に身につけたテクニック、とでも言える力なんですね。

少なくとも僕は、あるいは僕のレッスンでは、「国語力」というものを、もっと大きくとらえたいと思っています。
では、その「国語力」とはどういうものでしょうか?

それは物事を論理的に思考し、また理解する力のことです。
つまり、思考力と理解力。
そして、この二つの力は実は一つのものなんですね。

どうして思考力と理解力が「国語」に関係するんでしょうか?
いや、実はそれは考えてみれば、当たり前の話なんです。
国語力とは、日本人にとっての日本語、つまるところ言語にかかわる力のことです。
そして、僕たちはいつだって、何か物事を考えたり、理解しようとするとき、言葉を使ってそれを行なっています。
意識的にも、無意識的にも、そうです。
言葉がなければ、僕たちは明日のスケジュールひとつ、考えることができないでしょう。
つまり、人間の「思考」や「理解」とは、言葉を用いることで初めて可能になるものなんですね。

ですから、言葉を巧みにあやつる力に秀でている人が、思考力や理解力に優れているのも、当然といえば当然なのです。
語彙が豊富で、わかりやすく文を構成できるような人と、そうでない人とであれば、考える力や理解する力に自然と差が出てくる。
「日本人がディスカッションを苦手とする原因は、読解力ばかりを重視して、表現力を伸ばすことをおろそかにしてきた、国語教育にこそあると思う」
と明快に説明できる人と、
「日本人はやね、アカンのんだよ。えーっと苦手なんよね、ほら話し合いとか、意見いうたり。なんでって教えられてないから。ほら読むばっかりでしょ。えっと国語の授業って。自分の考えとか、その話し方とか、ぜんぜん勉強してない。せやからアカンのんよ」と、こんなふうにしか説明できない人がいるとします。

後の例の人は、たぶん頭の中でも、同じような語彙で、同じように順序もバラバラにしか、思考できていないのではないでしょうか。
もちろん、口下手であるとか、性格もあるでしょうけどね。

ひるがえって、前者はどうでしょう?
こうした人は、頭の中でもきちんとした語句を用いて、筋道の通った考え方をしているに違いありません。
いやいや、たぶん逆で、普段から言葉を論理的に用いて思考しているからこそ、それを口に出しても、自然と筋道の通った話し方ができるんですね。

そして、同じことは〈理解力〉についても言えます。
さっきも言った通り、僕たちは物事を言葉を使ってしか理解することができません。当たり前ですよね。
僕たちは、何かを見たり聞いたりした際、それを無意識に、自分自身の言葉に直して整理し、意味をつかみ直そうとしています。
ですから、人の話を聞いて一発で理解できる人と、そうでない人がいるとすれば、後者は自分の言葉で内容を整理し直すことが苦手な人だと言えるでしょう。

何を見ても「かわいい! ちょーかわいい! めっちゃかわいい!」としか表現できない人がいたとしたら(そんな人いんのかって? まあ僕の学生時代にはいましたよ)、その人はたぶん実際にそれを「かわいい」という言葉でしか理解できていないんじゃないでしょうか。
そんでもって、そういう人が仮に政治とか経済とか法律なんかについての小難しい話を聞かされたとしたら、どうでしょう?
たぶん、なかなか内容を理解できないんじゃないかと思います。
それは内容を整理し翻訳するような自分自身の言葉、語彙を持っていないためなんですね。これは話題についての知識のあるなしとは、また別の次元の問題だと思います。
そして逆に、どんな内容であっても、難しい議論がすぐに理解できる、というような人は、その内容を整理する言葉をたくさん持っている、ということなのです。

ところで、さっき自分の言葉で整理し直す、と書きました。
実を言えば、それは言葉を論理的に用いる、ということの言い換えにほかなりません。
つまり、理解力が高い人、というのは、物事を自分の言葉で論理的に解釈できる人のことなのです。
思考力と理解力とが実は一つのものである、というのは、こういう意味だったんですね。

そこで、だいたいこんなふうに言えると思います。
「国語力」を高めるというのは、つまるところ物事を論理的に思考し、深く理解できる人間になろうとすることだ、と
そして、そういうヒトのことを、僕たちはふつう、頭のいいヒト、かしこいヒトと呼びます。
そう、要するに「国語力」とは、「頭の良さ」とでもいうべきものの、もっとも根本的な部分を形づくるものなんですね。

さてさて、今日は長々と真面目なことを書きすぎました。
でも、実はこれ、最近、僕がひそかに書き溜めている「国語ノート」の一部分の内容なんですよね。
そのうち、また別の「ノート」の内容をここに紹介したりすることがあるかもしれません。

それでは、それでは。

「ブラック部活」はやっぱり問題だと思いますよ

どうも、どうも。
台風中はえらい涼しくなっていよいよ秋到来かと思ったもののその後は30度越えの暑さという自律神経がまるでついていかない今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕はせっかく秋物ジャケット買ったのに全然着る機会がありません(どうでもいい)。

さてさて、今日は最近話題の「ブラック部活」の問題。
つまり、現今の学校クラブ活動の問題。
これが最近、拘束時間があまりに長すぎるのではないか、教師に無用の負担をかけているのではないか、いやそもそも生徒全員に部活動を奨励するような「空気」自体、問題なのではないか等々、マスコミなどがいろいろと騒ぐようになってきておるわけです。

とはいうものの、僕個人は元不登校児、いわゆるクラブ活動の記憶なんてものは、はるか昔中学一年の時の陸上長距離部だった時のものしかなく、その後の10代、20代はバンド活動とか演劇活動とかの「文化的活動」しかやっとらんものですから、個人的体験としては、あんまりフェアには語る立場にないんですがね。
まあ、あくまで「勉強その他を学校外で教えている人間の立場」から書かせてもらおうと思います。

で、そういう立場の人間からするとですね。
正直、「今さらかよ、だいぶ前からチョー問題だと思っとったよワシらは!」という気分です。

というのもね。
やっぱりサッカー部とか野球部とか、体育会系のチョー忙しいクラブに入ってると、ほんと時間ないんですよ。平日の帰宅は遅いし土日も試合とか練習が入る。
これだと、僕達みたいな個人レッスンの指導ですら、なかなかまともに授業が組めません。
しかも、なんとか空いてる時間を見つけても、練習後の時間だったりすると、もう身体が疲れ果てた状態でレッスンに来るので、生徒によってはほとんどアタマが使い物にならない状態。
そりゃ、そうですよね。
肉体労働やってからデスクワークやるみたいなもんですから!

いや、そりゃ自己管理のちゃんとできてる子もいるでしょうし、すごく克己心の強い子だっているでしょう。
でも、いつもこのブログで書いてますが、そんな子ばっかりじゃないんです。
いや、むしろこの場合は、そういう「文武両道」を全うできる生徒の方が少数派、という印象です。
激しい部活をやりながら成績も良くしたい、なんてのは二兎追うものは一兎をも得ず、「スポーツ頑張ってるけど勉強はそこそこ」だったら良い方で、「スポーツはまあ普通で勉強はけっこう残念」という状態に陥っちゃう子も多いんです。

まあ、ね。そりゃ、学校は勉強だけするところじゃありません。
サッカーや野球をプレーする喜びもわかりますし、何より部活で共に汗を流した友人たちとの絆も大切でしょう。そういう楽しさを知るのは10代の特権でもあります。
また社会的見地から見ても、学校の部活動というものが、例えば貧困等の問題により「習い事」としてスポーツをやれない子ども達に、その機会を与える貴重な場であるということも重要です。

でも、それでもやっぱりほぼ毎日三時間以上もそれに時間を費やすのは、端的に「異常」だと思います。土曜も日曜も夏休みも、それだけやらせるのは、おかしい。
まして、その「活動」によって、子ども達の他の活動が制限されてしまうなら、これまた10代の特権である、多様な形での「学び」を奪ってしまうことにもなりかねません。

さらに言えば、なんとなく、生徒みんなが部活動に参加しなくてはならない、という「空気」。
これは僕のような「全員参加」とかって言葉が大嫌いな人間からすると、端的に「最低」です。そういう「空気」が教育の現場にあること自体、「最低」です。
何も部活に参加していない子どものことを、「帰宅部」と呼ぶ習慣?が昔からありますが、そんな言葉があること自体おかしくて、「帰宅部」こそが本来、「普通」のはずです。
だって学校の本義は「部活」にあるのではないのですから。
わざわざ「部活」に参加することの方が「特別」なのであって、参加してないことを殊更に言う必要はありません。

そう、部活に参加するかしないかは、絶対的に自由意志であるべきです。
運動や「体育会系」のノリが苦手な子だっている。
もし、そういう子が部活に参加しないからといって、「帰宅部」などと呼ばれ「差別」される風潮が学校現場にあるとするなら、そんな場所は「教育現場」であることを名乗る資格がありません。

こういうことを言うと、「いや、でも昔から学校の部活はこんなんだったし、それどころか俺たちの時代はもっとヒドかった! でも後から考えるとそれがすごく大切な経験だったぜ!」的なことを言う大人がいます。
でも「大切な経験」は他でも得られる可能性が高いしその「経験」が他の多様な経験の機会を阻害している現状もおかしいし何よりそれを全員に強要するのは違うでしょ、という長々としたツッコミはおくとしても、やっぱり現状の部活が「ブラック」などと呼ばれることの一因は、社会の変化が大きいんだと思います。

昔の部活動というものは、「大人」になるためのイニシエーションとしての側面があったと思うんですね。
「大人」には会社組織などの中での上下関係を含めた対人関係スキルが重要であり、また嫌な仕事、辛い仕事も「根性」で乗り切らなくてはならない局面が多々ある。
こういう「大人」としての能力を身につけるための通過儀礼ないし準備期間として「部活動」が機能していた部分があったと思う。
同じことは、やはり最近「ブラック」の名を冠されていた「アルバイト」などにも言えるかもしれません(まあ、こちらが「ブラック」と言われるのには、貧困問題など、もっと政治経済的な見地からの考察が必要ですが)。

ところが、現在はこういう「大人」の「組織人」としての能力は、あまり重要なものと見なされない傾向がある。
いや、現状の社会では相変わらずこういう「組織人」的な頑張りが評価されているのかもしれませんし、実際にそういう能力が必要な局面も多いでしょう。
ですが、少なくとも社会的風潮としては違う。
むしろ、「個人」として組織に頼らずともやっていけるスキルや発想力など、「個人」の能力、価値を高めることが重要視されている。
組織の中においてさえ、そういう力が求められているのではないでしょうか。

そうなってくると、「部活」における長時間の拘束や上下関係、激しい練習などが、かつてのように日本企業人になるための通過儀礼とは見なされなくなるのも当然でしょう。
むしろ、長時間労働とパワハラに根性で耐える「ブラック企業人」になるための通過儀礼のように思えてくる。
これが「昔はもっと大変だったけど良かった」式の議論が、現状とは噛み合わない理由です。

ま、いずれにしても、ですよ。
やっぱり学問含むその他の経験、可能性を子ども達から奪っているかもしれないとするなら(まあ僕個人はそう見えるケースと多く出会っているんですが)、やっぱり現今の部活動のあり方はいろいろ改善していくべきなんだと思います。
その練習量や練習時間はもちろん、「空気」感も含めて、ね。
例えば週2、3日、一回二時間の練習。やりたい人だけやる。とか。
それ以上にやりたい人は、学校外でやればいい。ただ、そうする場合も、他の「学び」の可能性がなくならないよう、ブレーキをかけながら、それこそ親子で話し合ったりしながらにした方が賢明でしょう。
なんにせよ、こんなに多くの子ども達が「スポーツづけ」になる必要はないんじゃない? とチョー文化系の僕なんかは思っちゃうんですが、やっぱりこれってフェアな見方じゃあないんですかね。

それでは、それでは。

読書のよろこび:「読書道場」のことなど

どうも、どうも。
梅雨が明けたはずと思っていたら、むしろ何だか曇りや雨続き、一体どないなっとんねん洗濯乾かへんやんけと思う今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。雨が大嫌いな僕は天気予報アプリを5つも入れてます。

さてさて、先週の7月27、28日。
夏休みということで今年も「読書道場」を開講しましたよ。
なんと今回は告知があんまり早くなかったにもかかわらず、マックス6人の参加! 小3二人に小5四人。おかげで盛り上がることができました。

取り上げた本は、江戸川乱歩の『怪人二十面相』。
いやー前から一度、ちゃんと長編小説をみんなで読みたかったんですよね。
これまでは、短編、長くても中編くらいの小説しか取り上げられなかったんで。
でも、やっぱり小説の面白さ、その醍醐味を味わえるのは長編です。
2時間映画やアニメには入りきらない情報量。ジャンプ的少年漫画にはない物語上の伏線や仕掛け(まあ最近の漫画はいろいろありますが)。
こうした長編小説でしか味わえない、小説的魅力が詰まっています。
今回、時間的にはけっこう押しましたが、なんとかこの面白さを生徒たちに味あわせたいと思ったんです。
結果としては、思った通り。
生徒たちの本への反応としては、一番良かったんじゃないでしょうか。

実際、面白いですからね。「怪人二十面相」。
僕も小学生のころ、少年探偵団シリーズを図書館で借りて読みふけった記憶があります。
読書好きの方なら、誰でもそうした経験をお持ちじゃないでしょうか?

そう考えると、この「怪人二十面相」、そして少年探偵団シリーズは、児童書として本当によくできてるんだなあと思います。
最初に書かれたのは1936年ですよ。なんと戦前。
そのまま戦後になっても続刊していくわけですが、シリーズ終盤で60年代刊行。
おそらくは、今の生徒たちの、おじいちゃんおばあちゃんの青春時代です。

それが今でも読み継がれている。
実際、読んでみると十分面白い。
別に「読書道場」と関係ない生徒たちでも、「僕も読んだ」「私も読んでる」という声をいろんな所で聞きました。

こうした児童書の名作は他にもたくさんあります。
ミステリーなら「シャーロック・ホームズ」シリーズや、「アルセーヌ・ルパン」シリーズ。
ファンタジーなら「はてしない物語」や「ゲド戦記」、「ナルニア国物語」。「指輪物語」はちょっと長いか。
SFなら「海底二万里」などでしょうか。
これらは単に「名作」というだけでなく、読んでおもろい。めちゃめちゃ面白い。

僕自身、こういった本を子供のころ、寝食を忘れて読みふけったものでした。
本当に親に内緒で徹夜近くまで読み続け、めちゃくちゃ怒られた記憶もあります。
今から思うと、本当に幸福な読書経験でした。

僕が「読書道場」を始めようと思ったのは、こうした経験、気分を今の生徒たちにも、少しでも味わって欲しいなあと思ったからです。

前も書きましたが、現代の環境において、子どもたちが放っておいても本を読む、というようなことは稀でしょう。
本以外の娯楽がたくさんある。映画にテレビ、ゲームにスマホ。
それに時間もけっこう限られてます。学校から帰ってくれば、もう3時。友だちと2時間遊んで5時帰宅。そこから宿題をやったら? グズグズしてるともう夕食です。これに塾だ習い事だとたくさんあれば、ゆっくり本を読む時間なんてありません。
で、たまに時間のできた夜や休日。この時間を埋めてしまうのが、例えば上記の他の娯楽です。
どうやったって、読書は一日の時間から放逐される運命。

でも、例えば僕の子ども時代にだって、映画もテレビもゲームもありました。学校だって今と変わりません。土曜日にまで授業です。
あれ? じゃあ、どこに時間があったんだ?
簡単なこと。人間づきあい大嫌いの偏屈少年だった僕は「今田アソボー」などと声をかけられる前に教室からダッシュで自宅に走って帰り誰がやってこようと居留守を使い、ただじっとじっとコタツで本を読んでおったのです。。。。
こんなの生徒にはすすめられません。こんなんになってはいけません。

いけませんが、でも、もしも読書の魅力に気づけたなら、それが手軽に「空想」で遊べる楽しい道具だと知ったなら、テレビを消してゲームを忘れて、一日の中に本のページを開く時間が増えるかも知れません。
もし、そうなったら。

そうなったら、その子はいつかきっと読書することに、その喜びを知っていることに感謝する日が来るでしょう。
月並みですが、人生に悩んだとき、他者との関係に苦しんだとき、ここでないどこかに行ってしまいたいと願ったとき。
読書はきっとその子を「救って」くれるに違いない。
古今東西いろんな本に、それが書かれているからです。
他でもない「この私」の苦しみが。そして何より、「この私」の喜びが、希望が。

だからどうか、子どもたちには少年のうちに、ホームズと一緒に謎を解き、ノーチラス号に乗り込んで、バスチアンとともに小説の世界を旅して欲しいと思うのです。

読書道場は今月、もう一度、今度は奥多摩の囲炉裏教室で行います。
http://www.vnet-consul.com/lesson/speciallesson/entry-180.html
未だ本を読む「よろこび」を知らない、という子どもたちにこそ参加して欲しいと思っています。

それでは、それでは。

 

とりあえず文章を何でも書いてみるのは大切ですよ

どうもどうも。
GWも終了しずいぶん日も長くなってきた今日この頃。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。私は昨日の夜からどうも風邪気味で、というよりがっつり発熱してるみたいでとっても体調の良くない感じです。
じゃあ何でブログなんて書いてるんだ早く布団入って寝ろって声が聞こえてきそうなもんですが、実際さっきまで横になってました。が、寝れず。
そこで何となく最近また滞りがちだったブログでもテキトーに書くかと思って文書練習のつもりで今こうやってパソコンの前に座ってます。

文章練習?
そうです。
やっぱり文章ってもんはどんなもんでもいいんで何かしら弄んでいないと結構劣化しちゃうもんなんですよね。
それはきっと高名な作家の先生だってそうではないかと思います。
何でしょうか。文章のリズムというか勢いというか、そういうもんが書き慣れてないと生まれない。
いや、もちろんある程度文章を書いてそれを仕事に役立ててる人間は、試行錯誤すればそれなりの文は書けますよ。
でも、そういう時の文章って、どうもぎこちなくてリズムがなくって読みにくいもんなんです。
あるいは理系的なデータを駆使したような文章? あるいは企画書なんかに用いる目的のはっきりした文章。
そんな文章は別にリーダビリティが高い必要ありませんし、むしろ字数等限られている中で抽象化された内容を書く必要があるわけですから、どっちにしろ試行錯誤したもんになります。結果、読みにくいがそういうもんです。

ですが、こうしたブログなんかもそうですが、不特定多数の人間が読むような文章、しかも特に伝えたい内容意見があるわけでない、いうなれば「読むこと自体」が目的とされた文章は、そうはいきません。
サラッと読めないといけない。
ある種の小説もそうですね。
ものによってはあえて「読み」を阻害するような文体で書かれた文学作品もありますが、娯楽に供されるようなもんはそれじゃダメですよね。
例えば娯楽として読まれるもんでも、特に読書を趣味にしていないような人がよく、海外文学・小説なんかの翻訳文体が苦手だなんていうのを耳にします。
それはいわゆる翻訳ものの文章が、訳者によってある程度試行錯誤された末に出てきた文章だからなんじゃないかと思います。外国語から日本語に移しかえる段階で、思考がワンクッション挟まるのは当然ですよね。
それに対して母国語で最初から考えられた文章は、それこそ作家の文章のリズムなり勢いなりをそのまま反映していることがままあるので読みやすい。まあ繰り返せば、そうじゃないものもあるし、読みにくいから悪文というわけでは決してありませんが。

で、何が言いたいのかというと、そうした文章のリズム、またそれを生み出す練習が一番必要なのが、子どもたちの作文なんじゃないかと思います。

いわゆる中三受験生以上が書くような小論文と違って、本来、作文は自分が思ったこと考えたこと感じたことを徒然なるままに書き綴るものですよね。別に伝えたいことなんかなくてもいいから文章で己を表現するという技術自体をマスターしてもらいたいというのが作文です。
ところが、これがやっぱりたまにしかそういう機会がないと、いざ作文書いてみなっていったって書けるわけないんですね。
大人だって劣化するんだから。特に文章修行したわけでもない子どもたちがそうなるのは当たり前です。

曰く、何を書いたらいいのかわからない。
曰く、最近とくにイベントなかったので書くことない。
曰く、感じたこと考えたこと書けって言ったって、何も思わなかった。

そりゃ、当たり前なんです。
実は「感じたこと思ったこと」なんてもんは、「書く」という行為自体の中から生まれてくるものなんです。
原稿用紙に向かわずともいい。メモでも走り書きでも何でいいからテキトーに「書く」中から内容のイメージなり形なりが浮かび上がってくるもんなんですね。
実際に書き始めることで、「そういえばこんなことがあったな」「あ、こんなこと思ったな」「これも書いてもいいかも」といった具合にアイデアが生まれてくるわけなんです。
それを鉛筆も持たずに机の前でうんうん唸ってたって、実はアイデアなんて何も生まれてきません。

とはいえ、それは子どもたちのせいではありません。
やっぱり何でもいいから「書く」機会が与えられなければ。
繰り返し繰り返し「書く」時間が設けられなければ、記述することによって生まれる思考のリズムなんて身につきません。
だから逆にいえば、子どもたちが文章を書けるようになるには、どんな内容でもいいしどんな悪文でもいいから、とりあえず繰り返し定期的に文章を書くと言う作業に慣れさせる必要があるんですね。
しかも、一旦書き始めて集中しているようなら、なるべくそれを止めない。止めさせない。
一気呵成に書き上げさせる。
もちろんアドバイスを求めているようであれば中断してもいいですが、できるだけどんどん書かせることです。
で、出来上がったものを可能であれば褒めてあげる。
それを繰り返すことで、文章を書く楽しみを覚えられるのみならず、「書く」という行為のリズムーー文章のリズムと、そして書くことによって生み出される思考ーーを身に付けることができます。

実際、定期的に書いている子どもたちは、こちらがどんな題目を与えても、それこそテキトーに文章を作成し構成します。スラスラ書いちゃうんですね。
功利的なことをいえば、こうした能力こそ都立中高一貫校の作文試験で求められていることの一つなんじゃないかと思います。
例えば今年の都立武蔵中の試験は「自由」について書けというもんでしたけれども、そんなもん普段から考えてる小学生なんかいません。
しかも試験ですから時間的制約があってじっくりその場で考えるなんてこともできません。
やっぱりテキトーとは言いいませんがその場でメモなんかを「書きながら思考をまとめていく」作業を普段からやってる人間じゃないと、なかなか厳しかったんじゃないかと思いますね。

ともあれ定期的に繰り返し、何でもいいので「文章を書き続ける」こと。
子どもたちの文章能力向上には絶対に必要な環境だと思います。

ああ、今日はやっぱり体調のせいかいつも以上にとりとめのない、ほんとに私の「文章練習」になっちゃいました。
まさしく「何でもいいから書く」状態。
でもまあ、大人の方も含めて少し文章表現の力をつけたいなと思っていらっしゃる方は、こんなもんでもいいのでテキトーに文章をでっち上げてみてください。
お粗末様でした。

それでは、それでは。

読書感想文・芥川龍之介

どうもどうも。
春休みも終わってようやく新年度の日常を感じつつある今日この頃、みなさん如何お過ごしでしょうか。
私は変わらず生徒と作文書いたり国語問題解いたり文章記述の仕方を教えたり小説を一緒に読んだりする日々なのですが、私が生徒と読む小説でかなりよく取り上げる作家の一人が、芥川龍之介です。

この芥川、みなさんはどんな印象をお持ちでしょう?
人によって様々でしょうが、いわゆる「ザ・文学」の人って感じがしませんかね?
何てったって、あの芥川賞の芥川ですから。川の名前は伊勢物語にも出てきますし。
もっとも「芥川賞」も最近は「賞取った直後はめっちゃ本売れるけど数年後には『あの人は今』的な感じでどこに行ったか判らなくなる新人作家とお笑いの人がとる賞」ってイメージかもしれません。

そんでも、芥川の権威はそう簡単には揺るぎません。
相変わらず、中学の教科書に載ってる。
つまり、学期試験にでる。なんか登場人物の心情の変化とかを記述で書かされる。
こういう、いわゆる「ザ・(うざい)文学」の人。

で、実際、学校の授業の、しかも中学の国語授業で取り上げられると、すごーーーくつまらん感じがしちゃいますよね。
だから小説読むのが趣味の人間としては、逆に学校教科書に好きな作家が載って欲しくなかったりします。
ま、とは言いながらも、たまに自分の授業で生徒の試験対策とかなんかで、何とかナオコーラとかペプシとかの小説読まされるのはもっと苦痛なんですが。

ともあれ、芥川龍之介。
実のところ、私はよくもう一人の「ザ・文学」、太宰治と一緒に取り上げるんですが(この人も教科書によく載ってます)、それは何も「文学的」見地からでなない。
理由は簡単。二人とも、実はまあまあ、とっつきやすいからなんです。

「文学」ってまあそもそもジャンルとしてどんなもんかよく判りませんし現代小説においては正直言って小説雑誌のカテゴリーにすぎない気もするんですが、一般的には何か難しそうな小説って印象じゃないかと思います、あと、何かつまらなそう。
で、実際、一部の実験的な現代小説は一読すると難解だし、つまらない。
村上春樹ですら、ハズレみたいなの読むと内容は薄いしモテ男の日常を書いてるだけだし描写はまどろっこしいし、あまり小説読まない人には「軽く」はない。
古井由吉の「杳子」なんて読んでごらんなさいよ、最初の数ページにわたる描写だけでたいてい読むのを止めると思います(いや、私は好きなんですがね)。

私は「文学」=「するめ」説を唱えているんですが、そういうまどろこしい小説も、実は我慢して読んでいくと、だんだん面白くなってきますし、そうなると逆にいかにもテキトーに世俗受け狙って書いたんだろうなあって感じの小説は耐えられなくなります。
けど、まあそうなるにも最初から「杳子」ってチョイスはない。

その点、芥川は読みやすい。しかも、たいてい短い。
もちろん、晩年の「或阿呆の一生」とか「歯車」とかは、初心者はやめときましょう。死にたくなります。
「神々の微笑」とか、思弁的なやつも、予備知識がないとしんどいでしょう。
でも逆に、「アグニの神」とか「煙草と悪魔」とか、超カルイ、ショートショート風のものもあります。面白いかどうかは別として。

実は学校教科書でよく取り上げられる、「羅生門」とかも、いきなり読むのはほんとはマズイ。あんまりはっきりした物語がありませんからね。
芥川の短編は、多くが非常に構成が整っていて、整っていすぎて、はっきり言うと面白くないぐらいなんですが、そのぶん今風にはエンタメ的に読みやすいものが多いです。
ところが、「羅生門」は構成ははっきりしてますが、物語的などんでん返しとかはないので、芥川を初めて読む人にはそんなにおもろくないでしょう。
まして、なんか道徳的な話なのかなあなどと思うと余計まずい。
ウィキペディアなんかには「人間のエゴイズムを克明に描き出し」なんて書いてますが、そんなふうに読むと、マジつまらんです。

そうじゃない。
芥川龍之介の「平安もの」を読む面白さがあるとするなら、まず一つ目は、その「暗さ」。そして映像的な描写のような気がします。
例えば、書き出しのこんな文章。

 ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。

「円柱に蟋蟀」なんて描写がかっこいい!ついでに漢字もかっこいい!なんて私は思うんですがどうでしょうか。そんなことはフツーはないんですかね? あるいは、

羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子ようすを窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤くうみを持った面皰にきびのある頬である。

これも非常に映像的。最初の文章がロングショットでとらえた描写なら、そのあと「うみを持った面皰にきびのある頬」にカメラがずっと寄っていく感じがする書き方です。
そして、話のトーンがずっと、暗い。
人間のエゴイズム云々とかそんなことはどうでもよくて、ただひたすら平安末期の陰鬱な感じ、薄暗く汚らしい感じが行間を漂っています。
羅生門の上で死体から髪抜いてる老婆とかマジ不気味。

でも実際、芥川の羅生門が最初に評価されたのは、そうした陰鬱な「雰囲気」が、非常に現代的に感じられたからではないでしょうか?
そうしたモダンな「暗さ」があって初めて、人間の「内面」云々の描写に新鮮なリアリズムが感じられたんだと思います。
決して「道徳」的な表現として評価されたのではなく、もっと背徳的な小説という印象があったのでしょう。
それを教科書的なモラリズムに貶めて教えるのは、本当に罪深いことだと思います。

ところで、芥川の「平安もの」には、この「羅生門」以外にも「偸盗」という小説があるんですが、私自身は話もこちらの方が面白いし、そうした描写の「暗さ」がはっきり出ていると思います。

男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳はやなぎが一本、このごろはやる疫病えやみにでもかかったかと思う姿で、かたばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車ぎっしゃのわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さなながむしも、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつかあぶらぎった腹を上へ向けて、もううろこ一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこのながむしの切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。

この「偸盗」はお話の展開も、登場人物も皆、古典的なエンタメ作品としてよくできているので、芥川の初読者にはオススメです。
教訓とかは、ありません。
いや、あるのかもしれませんが、そんなことは無関係に、平安末期の陰鬱な、ハードボイルドな作風を楽しめばいいんじゃないかなと思いますね。

如何でしょうかね。
今日は本当に「感想文」。
いつも以上ににとりとめのない文章に終始してしまいました。
それでもちょっとだけ、芥川龍之介を手にとってみよう、もう一回読んでみようなんて気になったとしたら、つまらん試験の題材にされてる作家たちも少しは浮かばれるかもしれません。

それでは、それでは。

雨天、焚き火。

どうもどうも。
さて、この間の日曜日、久しぶりに焚き火の会が催されました。
参加された皆々さま、お疲れ様でございました。
僕は久しぶりに小学3年娘を連れて参加。相変わらず1ミリも役に立ちませんでしたが、娘は存分に楽しんだようであります。他の先生方、焚き火スタッフの方々に多謝。

この焚き火もまあ、何やかんや言いながら、ほんと結構長く続いとります。
毎回千葉のバンブーファクトリーさん、奥多摩の百間茶屋キャンプ場さんにお世話になっておりますが、もうかれこれ7、8年になりますか。
初期のメンバーで中1だった生徒が今や大学生。他の小中学生の面倒をみる立場。はたまた当時高校生だった生徒にいたっては、音読サイコロ道場に教師の立場で参加してくれてます。

で、そんな彼らも参加してくれた、今回の焚き火。
が、あいにくの、雨。

当初の予報では午後にはやむはずだったものの、風がないのが災いしたのか、ズルズル雨雲が居座り、結局、終日、雨、雨、雨。

でも、これがかえって良かったのかもしれません。いや、大人にとっては良かったと言えないまでも、子どもたちにとっては結構いい体験だったかも。
大人の杞憂もなんのその、午前中はドロドロになりながら草地の方を「探検」。
午後は松永先生用意のバットとボールで一心に野球。雨の中、ずっとずっと。
寒くなったら、小屋の中で燃え盛ってる焚き火にあたり、といっても、ものの数秒もすると、
「お、ちょい雨やんだんと違う?」
「ほんまや。もう小雨やん」
「続きやろで、続き」
ともちろんホントは東京弁で軽妙に会話しプレイを続行。
ええ、もちろん、小屋の外はまだ大雨ですホントは。
で、また小一時間後。
全身ドロ雨で茶色く変色した身体を焚き火にあててシューシュー水蒸気を小屋の中にたてながら、
「あ、お前カラダから煙出てるで」
「お、ほんまや。でも、お前も出てるで」
「まじか。なんかかっこええな変身できそうやな」
「そんなんええでさ、野球やろで野球」
「え、俺、もうちょい乾かしたい」
「でも、もう雨やんだやんチャンスやん」
「あ。ホンマや。雨やんどる」
「続きやろで、続き」
と、もちろん外は大雨の中、再びドロ雨にまみれて野球を続ける子どもたち。
こんな感じで数時間、ずっと遊んでおりました。

で、思ったんですが、やっぱりこういうのこそが、大事なんですよね。
参加されていたお父さんとも話していたんですが、そう、ふつう雨が降ったら不便なもの。不快なもの。
身体は冷えるし足元はぐちゃぐちゃ。上の子どもたちのように全身ドロミドロになる。それが当たり前。
同じように、夏は暑いし、冬は寒い。喉も乾けば風邪もひく。
ところが、都会で生活していると、これが簡単には体感できない。
夏はクーラー、冬は暖房。
雨の日は室内で過ごせばいいし、それでも遊びに事欠かない。ゲームもあればテレビもある。

でも、ね。
やっぱり子どものうちくらい、感受性を育て判断力を育むこの時期くらい、そうした不便さ不快さを体感し、でもまたそれを喜びに変えていくような、そんな体験をした方がいいと思うんですよね。

だって単純に、子どもの頃、泥だらけになって遊ぶって、楽しかったですよね。

その楽しさを知らずに、大人になるって、やっぱり損じゃないですかね?

そんな話をしていたら、だいぶ前に松永先生が話していた、編集者とのやりとりを思い出しました。
正確な話は忘れましたが、確かこんな感じ。
ある著作に松永先生が「ナマの体験が大事だ」云々と書いたところ、ある編集者が「ナマの体験って何ですか判りにくい」云々といってきたそうです。
松永先生は手を替え品を替え、文章であれこれ説明したそうなんですが、その編集者には伝わらない。
その顛末はどうなったのか忘れましたが、その折僕は、その編集者自身がきっと「ナマの体験」をあまり経験しなかったんだろうななどと思ったものでした。

さて、じゃ、「ナマの体験」って何でしょうか?
その答え、間違いなく、この間の焚き火に参加した子どもたちには自明だと思います。

では、今日はこの辺で。
それでは、それでは。

 

読書のチカラ

さて、お話のはじまり、はじまり。
いくつも山を越え、
いくつも森を越え、
いくつも大海原を越えた辺り、
天上ではなくて、この地上の、
とある村に爺さんが住んでいた。
爺さんには息子が三人あった。
いちばん上の息子は利口で、たくましい若者。
二番目の息子はまずまずといった若者。
ところが一番末の息子というのは、
まるっきりのお馬鹿さんだった。

さて、これは『せむしの小馬』という本の書き出しです。
この本、ロシアの作家ピョートル・エルショフが今から180年前に書いた古典的作品なんですが、どうでしょうか皆さん、ご存知でしたかね?
いや、お恥ずかしい話なんですが私は全然知りませんでした。
数年前、自分の娘用にと友人の編集者がプレゼントしてくれたんですが、最近本棚で目にしてちょっと読んでみたんですね。すると、結構おもしろい。
お話は、ちょっとお馬鹿な青年イワンが(この辺は「イワンの馬鹿」になぞらえています)、小さいけれども賢い小馬といろいろ冒険した結果、最後は皇帝になるという、おとぎ話的なもの。なんとロシアではバレエになったりアニメ映画になったりしています。
でも、このお話が面白いのは、なんと言っても、その語り方。
上の書き出しもなかなか魅力的なんですが、ロシア文学的な諧謔に満ちた詩的な文章は、むしろ大人が読んで面白いかもしれません。
もちろん読書の楽しさに目覚め始めた、小学校中・低学年のお子さんにもオススメできます。

さてさて、なんでいきなりこんな本の紹介を始めているか。
それは前の記事でも書きましたが、現在僕はやや時間に余裕のあることもあり、生徒の子どもたちと読む、いろんな本を物色中だからなのですね。
何より春休みには「子ども読書道場」という、まさに生徒と「本を読む」ことを目的とするレッスンを準備中でもあります。
が、この読書道場。今回はあんまり反応良くないですね。去年の夏やったときは、かなり受講者も問い合わせも多かったんですが、この春はむしろ国語記述や作文の短期レッスンの方がいっぱいの状況です。
新年度始まりであるのと関係あるんでしょうが、まあ正直、よくわかりません。
とはいえ、この春が不発でも、懲りずに続けていく予定ではあるので、例えば小学校高学年の感性豊かな少年少女であれば、こんな文章を読むのも良いのではと思っております。

「この本のページはね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことではないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
だからこのページ一つが一さつの地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいていほんとうだ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えてごらん、そら、それは次のページだよ。
紀元前一千年。だいぶ地理も歴史もかわってるだろう。このときはこうなのだ。へんな顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか。」
その人は指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニはじぶんというものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆるひろい世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっときえると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。

これはご存知、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節です。
宮沢賢治はまあもう国民的な児童文学作家と言ってもよいような人ですけれども、彼の生涯をみてみますと、戦前、国柱会というナショナリスティックないわゆる当時の新興宗教に入れ込んじゃったりとなかなかヤバイところもある作家なわけです。
でも、やっぱり作品はいいですね。
しかも昭和の作家にしては珍しく、音読してもいい。
上の一節なんかも、それこそどう解釈したっていいわけですけれど、彼の作品には価値観を相対化してくれるような、そういう多義性が多く含まれていると思います。
こちらもやはり、子どもはもちろん、大人になってからもう一度読み直して良い小説と言えるんじゃないでしょうか。

まあ、上にも書きましたが、僕は受けようが受けまいが生徒に喜ばれようが退屈されようが、レッスンで一緒に本を読み読書を奨励していくつもりです。
なんとなれば。
やはり国語力、言語力の基礎ってもんは、他人の書いた文章を読み理解し楽しめることで間違いなく一番養えるものと思うからです。
国語のテストでどんな良い点とったって、それで言語的な力があるとは限りません。
しかし読書家の言葉の力は、たとえ中学国語の内申が3しかなくたって、絶対その子の将来を裏切らないと確信するからです。
手前味噌ながら、私自身がそうでした。
登校拒否になって高校中退してグレてバンドやって全然勉強しませんでしたけれど、読書だけはずっと好きでした。
おかげで、十代の最後にやっと勉強しようって気になったとき自力で学習する力が残っていました。

V-netにくる子どもたちは、みんなチョー個性的でおもろい奴らで、でもだからこそフツーの学校やあるいはフツーのしょうもない価値観にはなじめず苦労してるかもしれない奴らです。そんな子どもたちが多いです。
勉強だって、必ずしもすごく出来るわけじゃないかもしれない。
でも、だからこそ。
だからこそ、僕は彼らに一つだけでも武器をあげたい。
自分で学び自分で考え自分で自分を表現できる、言葉をあやつる力をあげたい。
そして、それを身につける一番の近道が、読書なんだと思うわけです。

それでは、それでは。