再開! 読書のワークショップ

どうもどうも。
昨日の台風、皆さんは大丈夫だったでしょうか? 大したことないと思われていた東京でも凄まじい風の強さ、我が家の近くの公園の木々もなぎ倒されんばかりの勢いでした。もちろん西日本はそれどころではなかったようで、関西出身の僕としても非常に心配しましたよ。

と、そんな中、いよいよ夏も終わり、いや少なくとも夏休みは完全に終わり、教室に通う子どもたちもブーブー言いつつ普段の学校生活へと戻っていってる今日この頃。
僕が行う読書のWSも、先月はお盆休みのため上級コース、初級コースともに月一回づつし開講しませんでしたが、今月からはまたいつも通り、それぞれ月二回づつ隔週で行う予定です。
で、先週の土曜日はその第一回、上級コースのレッスンを行いました。

上級コースについては、ほぼ一ヶ月ぶり。
久しぶりということで、そんなに難しくなく、気軽に楽しめる小説をテキストとして選ぶこととしました。
で、選んだのがG・H・ウェルズの「奇跡をおこす男」(講談社青い鳥文庫版)。

詳しいネタバレはしませんが、簡単にいうと、今風に言う超能力みたいな感じの「奇跡」をおこす力を身につけた男が、その力を使ってるうちにとんでもないことが……といった感じのお話です。
ウェルズ特有の文明批判っぽいニュアンスも読み取れますが、基本的には肩のこらない、おもろいお話です。物語のオチも秀逸。

なので、当然、子どもたちにも上々の評価だろうとタカをくくっておりました。
ところが。。。

「どや、今日の話。おもろかったやろ」
「せやな。ま、おもろかった。いや、確かにおもろかった。ただ、おもろいにはおもろかったんやけど……」
「お、なんや、その奥歯にものの挟まったような言いよう」
「なんやろな。なんか、薄っぺらいな」
「へ」
「いや、だから、なんかこう、深みっちゅうんかな。読んで得した感っちゅうんかな。いまいちコクが足らんというか……」
「なにぬかしとんねん」
「せやかて、そない思たもんはしゃーないやん。なんや、ハリウッドの映画見てるみたいなもんで……」
「文学性が足らん、と」
「そう! それ文学性! なんや読んだあと、余韻みたいなもんが残らんのよねえ」

などとクソ生意気なことをおっしゃるではありませんか!(失礼)
「文学性」ときたもんだ。
いや実際、女の子で一人参加したNHちゃんにいたっては、はっきり「嫌い」と申しておりました。

いやー面白いですね。
こちらとしては、ちょっとばかり彼ら少年少女に「媚びた」つもりで選んだ物語だったのですが、見事に返り討ち。
いや、もちろん、全体としては楽しんでくれたようでしたし、なかには「面白かったし好きだった」と言ってくれた子もいたんですがね。

その後に書いてもらった作文もなかなか良かった。
自分が奇跡を起こせたら小学生メジャーリーガーになりたいと書いた子から、その奇跡でおばあちゃんとお母さんを仲直りさせるとちょっと泣かせることを書いた子まで。学校の宿題を無くして学校を週三回一日三時間にする、と書いた子も。

なかでも、「僕は奇跡を起こしたくはない。なぜなら何でも奇跡で解決してたら、喜びや悲しみ、怒りや悔しさといった感情が無くなってしまいそうだからだ」と書いていたのにはびっくりしました。
いや、お見それしました。
ほんとに鋭い感想です。
こうした子どもたちの作文は、そのうち「国語ラボ」のHP上にまたまとめてアップしようと思います。

と、こんなふうに表面上、取り上げた小説が好評であれ不評であれ、子どもたちが様々な「鋭い」反応を見せてくれるので、このレッスンは教えている僕が、ほんとに楽しく、そして嬉しくなってしまうレッスンです。
そこいらの大人と読書会を開くより、子どもたちは遠慮がない分、よっぽど面白いかもしれません。

さて、今週の土曜は初級コース。
こちらはトミー・ウンゲラーの『あたらしい ともだち』という絵本を読むつもり。これもなかなか考えさせられる絵本です。

さらに次回15日の上級コースは絵本作家で有名なシルヴァスタインの『人間になりかけたライオン』という本を取り上げます。
こちらは子どもから大人まで楽しめる、そして深く考えさせられる「寓話」です。上級コースとしてはちょっと異色のテキストとなりますが、子どもたちのみならず是非、保護者の皆さんにも読んでもらいたいと思うほど、素晴らしい物語です。

こんなふうに今後も様々な本、小説を取り上げて、彼・彼女たいと大いに話し、盛り上がりたいと思います!

それでは、それでは。

 

ブラッドベリ「青い壜」:読書のW・S

どうもどうも。
相変わらず夏みたいに暑い日が続いたかと思うと急に涼しくというか肌寒くなったりして、何とも自律神経の追いつかない日々が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕のところは家族が風邪です。

さてさて、先日の読書のW・Sでは、ブラッドベリの「青い壜」という短編を取り上げました。
ブラッドベリは50年代〜60年代に活躍したSF作家ですが、その高い叙情性、主題の深さなどから文学的な評価も高い作家です。
『華氏451』や『火星年代記』といった小説が代表作と言えるでしょう。未読の方も、タイトルぐらいはどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。
今回、取り上げた「青い壜」という作品も、文庫本で20頁くらいの短編なのですが、非常に叙情的で、大人が読んでも十分に面白い小説だと思います。

舞台は文明が崩壊した火星。
その荒廃した大地を主人公の二人が、望みを何でも叶えると言われる伝説の青い壜を探して旅をする、というお話です。
ネタバレになってはいけないので、詳しい説明は避けますが、大人が読めば、色々と自分の人生含め、人間にとって生きるとはどういうことか幸福とは何なのか、といったことを考えずにはいられないだろうと思います。そういう深い小説なんですね。

ですが、そういう深いテーマをもつがゆえに、果たして子どもたちは理解してくれるだろうか?という心配もありました。
が、結果的には杞憂でしたね。

もちろん大人が理解するように理解しているわけではないんでしょうが、おぼろげながらも小説が伝えようとしていることを、イメージしてくれていたようです。
ある程度、小説を読み進める中で、私が「ガイド読み」をしていたこともあるでしょうが、どうして主人公たちが青い壜を求めざるをえないのか、そうした男たちの人生は幸福なのか否か、といった内容について考えてくれていたように思います。

読了後の議論では、こんな会話が飛び交っておりました(ここから、ちょっとだけネタバレがあります)。

「このベックってやつ、アホちゃう? 何で意味なく壜探し回っとんねん?」
「え、せやけど、クレイグの方がどうなん? こいつ、なんにも人生に目的ないねんで」
「でも人生そんなもんちゃいまっか?」
「いやいや。そんなん主体性なさすぎやろ。このクレイグとか、自分の意思ないやん? ただただ食っちゃ寝の生活しとるだけやで」
「でも、ベックの人生も虚しいもんやで。こいつかて自分のほんまの願いとかわかっとらんやん。ただ意味なく生きがいが欲しいだけやで」
「まあ人生そんなもんちゃいまっか?」
「先生、どない思わはるん?」
僕「わし? わしはどっちも嫌やけど、強いていうならベックみたいな方がええかなあ。意味なくても生きがいあった方がええやん? ねえK先生(学生の女性の先生)?」
K先生「私は人生に安楽だけが欲しいです」
僕「……」

もちろん、これはデフォルメしてる上、実際はもっと話は脱線してますが、まあ、だいたいこんな感じの議論がなされたわけです。
で、レッスンではこの後、こうした話し合いもをとに各自作文を書いていったわけですが、こういう議論をすること、話が「愉快」な方に脱線しようと何をしようと、色々とそれぞれがくだらないこと含めて、「意見」を言えるって、僕はほんとに大事だと思ってるんですよね。
作文にして自分の意見を文章化することも大事なんですが、同時にアドリブ的に自由に意見が言えないとダメ。

っというのも、皆さんよくご存知の通り、日本人はほんとに意見が言えない。
質問ができない。
これは昔、大学などで非常勤講師をしていた経験からも、はっきり言えることです。
授業の終了後に質問を受け付けても、誰も手をあげない。
これは実は大人でもそうで、昔、放送大学というところで非常勤講師をしていたことがあるんですが(放送大学の学生は単位の認定上、一定の頻度で「リアル」の授業も受けないといけないんですね)、やはり折々の機会に発言を求めてもほとんど手が上がることがない。あるいは発言する人は決まった「常連」の人になってしまう。

まあ、こういう傾向は日本人の国民性というか、出る杭は打たれる社会のせいというか、「恥」の文化が染み付いているせいでもあるのでしょうが、特に子どもや学生に関していうと、やはり学校文化が大きいように思います。

学校で何か目立った行動をする。
目立った発言をする。
すると、すぐ悪目立ちしてしまう。あるいは周りからつまらんチャチャを入れられる。
こういう経験が繰り返されるなかで、
「知らないことをみんなの前で質問するのは恥ずかしい」
「変な意見を言って、変な奴だと思われたくない」
こういう心理的傾向が、意識的・無意識的に醸成されていってしまうんでしょうね。
これは先生のせいとかではありません。
ある種の、「日本の学校文化」のように思います。
だからこそ、変えるのが個人の努力では難しい。

まあ、しかし、その原因が何であれ、読書のW・Sに限らず、僕のレッスンでは今後も、どんなことでも自由に発言できる「場」を作っていきたいと思いますね。
どんなにつまらん質問でも、変てこな発言でも、しっかり汲み取ってあげられる空間を目指したいと思います。
そうすることが、将来、子どもたちを、周りの意見に何となく合わせるのではなく、主体的に自分で考え、自分の「言葉」を持てる人間へと成長させるものと信じています。

では、今日はここらへんで。
それでは、それでは。

メロスはやっぱりバカだった?

どうもどうも。
近頃はようやく日中の気温も上がってきてちったあ暖かくなってきたかなと思いきや急に寒い朝晩があったりしての三寒四温(誤用)、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

さて、今日は短め。
受験指導もひと段落した先日、個人指導のレッスンで、読書のワークショップを行いました。短い小説を一緒に読んで、それを題材に、意見を言ってもらって作文にまとめるレッスンです。
これ、もうすぐ、ちょっと改良して集団レッスンでも行う予定のものなんですが、個人の指導では少しく前からやってることなんですな。
で、取り扱ったのが「走れメロス」。
生徒は実は個人といいながら兄妹で、インターナショナルスクールに通っていることもあってか、素直な意見をバンバンぶつけてくれる二人です。

実は、この「走れメロス」。
随分と前ですが、このブログで僕自身が解説(?)したこともある小説なんです(2014年のブログですね)。
知っての通り、「走れメロス」は中学の学校教科書なんかに必ず載ってる文章。
で、大抵の場合、友情の大切さとか正直の美徳とか、なんか「道徳の教科書」的な小説として紹介されてることが多い。
でも、ね。
僕の解釈では、そんなことはあり得ない、あの太宰がそんなアホな話を書くわけない。
で、僕はこのブログの中で、むしろこの「メロス」を、主人公を単純バカ人間として描いた、太宰が元ネタのシラーの詩をおちょくって作ったお話なんじゃないかと(半ば冗談で)書いたんですね。

で、先日のレッスン。

爆笑でしたよ!
というのも、生徒二人のメロスに対する評価がひどい!
「このウスノロ、まじムカつくんですけど!」
「セリヌンティウスって無関係っすよね、この案件に!? なに勝手に巻き込んじゃってんのメロスのアホ!」
「友の為に走らねばって、だからお前のせいだろ何自分に酔ってんだよこのナルシストめ!」
とばかり、「兄妹は奸佞邪智なメロスに激怒した」状態。

そこで僕は太宰の小説全般について解説。
めっちゃひねくれ者のアイロニストだってことを告げる。
「そんな太宰が、これ友情の話だよって、本気で書いたと思う?」
あり得ない、とご兄妹。
「じゃ、メロスのこのバカっぷりは、一体何なんだろう?」
と僕が聞いたところ、ご兄妹はすぐさま、
「わざとこんなふうにムカつくバカとして書いてると思う」
「読者に感情移入できないようにさせてるんじゃないか」
僕「何で? 何のために?」
「こんな友情あり得ないって言いたいんじゃない? それか、こんな正直者はおかしいって言いたいのか」
僕「じゃ、このお話の結末はどうなるだろう?」

ご兄妹はバッドエンドを期待していたようでしたが、残念ながらお話はハッピーエンド。
納得のいかない二人にレッスンでは例外的に、結末の多様な解釈について補足的に解説。
詳細は上記の過去ブログを読んでほしいんですが、最後に素っ裸のメロスに少女がマントを手渡すシーン。
これは、いわゆる「裸の王様」のパロディの可能性もあるんだよ(つまり「正直者」のメロスこそが間抜けな「裸の王様」)ってな話をすることで、なんとか納得してくれました。

さてさて、まあ上の兄妹には、こんな感じでボロカスにけなされた「メロス」の物語(まあ、お話自体は気に入ってくれてたみたいですけど、ね)。
でも、他の生徒と読んだら、きっとまた、別の反応でしょう。

だが、しかし。
これを単純な「友情の物語」とか「正直の美徳」とかって方向にのみ読ませようとするのは、無理がある。
そうでなくとも、学校教育の中で、本の読み方を、文章の解釈を「一つの正解」に導くような教え方は、もういい加減にやめたらどうだろうか。
テストでそんな「正解」を問うのは、もっとナンセンス!

そういう「誤読」を封じるデタラメな「国語教育」が、子どもたちから古典文学を読む喜びを奪っていると思います。
いや、もっと言うと「自由にものを考える」能力を奪っている。

微力ながらも、僕のレッスンでは、文章の多様な読解可能性を、子どもたちに教えてあげたいと思う今日この頃です。

それでは、それでは。

 

 

読書で多様な「読み」を身につけたい

どうもどうも。
明けまして、おめでとうございます。って、もう明けちゃってからだいぶんたってますけど、一応。

いやいや、いつものことですが、今は受験シーズン真っ最中、めっちゃ忙しくてブログ書くヒマもない。というか、休みの日に気力がわかない。まあ、走り書きのメモみたいなもんで大したブログじゃないんですがね。

で、今日は朝から降ってまいりました雪のせいで大事をとり授業が休講。
期せずしてお休みになりましてね。まあ、ちょこっと、新年のご挨拶がてらに記事を、更新しようかと。
受験のことを書いてもいいんですが、それは今、ほんとに佳境も佳境、あっさりした感じで書く気にもなれないので、例のごとく読書のことでも。

何度もいいますが、国語力をつけたいなら、一も二もなく読書です。その次に作文。

で、作文については今はおくとして、読書。
ときどき「ウチの子、本はけっこう読むんですが、国語の点数はさっぱりで……」みたいな話をする親御さんもいらっしゃいますが、それでもやっぱりゆっくりとでも効果は表れます。
小学校ぐらいではパッとせずとも、中学高校に入るころには、娯楽としてでも、よく本を読んでるか読んでないかでは、ずいぶんな差になっています。

だけど、まあそんなことははっきり言って、だれでもわかっていることであって、じゃあ、現に今、全然本を読まない子どもはどうすんだ?ってことですよね。
読書が趣味とならない原因の一つに、それこそ寝食忘れて熱中できるような「面白い」本に出会えなかったことがあると思います。が、この「面白い」は難しい。
人によって「面白い」の感覚は違いますし、単にハラハラドキドキするだけならマンガやアニメで十分っと、子どもが判断してしまうかもしれません。

ましてや、「文学的」といえるような作品の「多義的な面白さ」には、子どもななかなか独力ではたどりつけません。
そこに至る、リテラシーが足らない。
では、どうするのか?
端的に言えば、その「面白さ」に気づけるよう、「読み」の手伝いをしてあげる必要があります。
「読み」の「多義性」に関心を向けられるよう手伝ってあげる必要があります。

例えば、本来「読書会」というのは、そういう役割を担っていたんだと思います。
何人か同じ本を読んだ人間が寄り集まって、その本をネタにあーでもないこーでもないと話し合う。
まあ、楽しみとして行うものなので、途中いろいろ話は脱線するでしょうけれど、そうした会話によっても、本の多様な「読み」に気づかされていく。そういうものだったと思います。

あるいは学校の国語の授業にだって、本来的には、そういう役割が期待されていたのだと思います。
でも学校授業は人数が多すぎるのと、やっぱり先生が「読み」の方向を一つのベクトルに向けてしまいがちです。
何より先生自身が「読書家」でない場合、文章の「読み」がどこかで聞いたことのある、「マニュアル」に沿ったものになってしまうでしょう。

で、そういう「読み」の多義性に気づかされないまま、下手すると国語の試験問題なんかで、完全に一義的な、「正解」とされる「読み方」を押し付けられるようになっちゃって、一気に国語が嫌いになっちゃう。
で、そうなると余計に読書もしなくなる。完全に悪循環ですね。

これを解決するには、さっきも書きましたが、子どもたちから多様な「読み」を引き出す手伝いをしてあげなきゃいけない。
勝手に夢中になって読んでいるのなら放っておけばいいんですが、そうでないなら、さっき書いた「読書会」みたいな場を、雰囲気を、大人の方で作ってあげる必要がある。

例えば、絵本の読み聞かせ。
子どもに絵本を読んであげるとき、単に物語を読むだけじゃなくて、話の先を予想させたり、登場人物の気持ちを想像させたり、いろんな質問をして子どもたちが話に「没入」できる手伝いをしてあげる。
そして、読み終わったら、必ず感想を聞きたい。
好きか嫌いか? 物語の結末が気に入ったか? もし気に入らなかったなら、その理由は? 別のどんな結末がいい?
小さい子どもだけじゃなく、小学校低学年くらいまでなら、親子でそれをネタに話し合えると思います。
もう少し大きい子どもでも、ちょっとした短編を使って、同じことができます。
もちろん、その前提として、親御さん自身がそのお話が大好きで、ぜひ子どもに読んでほしい、という気持ちがないといけませんが。

とはいえ、これがもっと大きい、小学校高学年くらいだと、やっぱり親子じゃ難しい。
「読書会」みたいなことを、子どもが自発的にやるはずもない。じゃ、どうするの?

ということで、現在、以前からやっている「読書道場」を改良しとうと模索中です。
絵本や短編を読んで、質問し、意見を言わせ、書き、話し合えるような場を構想中。

なんだよ結局、授業の宣伝かよと言うなかれ。
読書の重要性は上に書いた通り。
だからこそ、その素晴らしさをもっと生徒たちに「体感」してもらいたい。
単にハラハラドキドキするのじゃない、文章のもつ多義性に「面白さ」を感じてもらいたい。いくつもの「誤読」が許される物語の魅力を感じてほしい。
ここ数年、ずっとこうしたことを考えてきました。

そうしたレッスンを、なんとか春から始動させようと思っています。
乞うご期待。(って、別に誰も期待してないかな……?)

と、今日はこんな感じで短めで。
なんせ明日から、もう受験まで休みもない。ノンストップで「走り」続ける必要がある。いや、走るのは僕じゃなくて生徒なんですけどね。
と言うことで、受験生のみなさん、あと少しなので何とか一緒に頑張りましょう!
最後まで「走り」続けりゃ、きっといいことあるはずさ!

それでは、それでは。

読書感想文・芥川龍之介

どうもどうも。
春休みも終わってようやく新年度の日常を感じつつある今日この頃、みなさん如何お過ごしでしょうか。
私は変わらず生徒と作文書いたり国語問題解いたり文章記述の仕方を教えたり小説を一緒に読んだりする日々なのですが、私が生徒と読む小説でかなりよく取り上げる作家の一人が、芥川龍之介です。

この芥川、みなさんはどんな印象をお持ちでしょう?
人によって様々でしょうが、いわゆる「ザ・文学」の人って感じがしませんかね?
何てったって、あの芥川賞の芥川ですから。川の名前は伊勢物語にも出てきますし。
もっとも「芥川賞」も最近は「賞取った直後はめっちゃ本売れるけど数年後には『あの人は今』的な感じでどこに行ったか判らなくなる新人作家とお笑いの人がとる賞」ってイメージかもしれません。

そんでも、芥川の権威はそう簡単には揺るぎません。
相変わらず、中学の教科書に載ってる。
つまり、学期試験にでる。なんか登場人物の心情の変化とかを記述で書かされる。
こういう、いわゆる「ザ・(うざい)文学」の人。

で、実際、学校の授業の、しかも中学の国語授業で取り上げられると、すごーーーくつまらん感じがしちゃいますよね。
だから小説読むのが趣味の人間としては、逆に学校教科書に好きな作家が載って欲しくなかったりします。
ま、とは言いながらも、たまに自分の授業で生徒の試験対策とかなんかで、何とかナオコーラとかペプシとかの小説読まされるのはもっと苦痛なんですが。

ともあれ、芥川龍之介。
実のところ、私はよくもう一人の「ザ・文学」、太宰治と一緒に取り上げるんですが(この人も教科書によく載ってます)、それは何も「文学的」見地からでなない。
理由は簡単。二人とも、実はまあまあ、とっつきやすいからなんです。

「文学」ってまあそもそもジャンルとしてどんなもんかよく判りませんし現代小説においては正直言って小説雑誌のカテゴリーにすぎない気もするんですが、一般的には何か難しそうな小説って印象じゃないかと思います、あと、何かつまらなそう。
で、実際、一部の実験的な現代小説は一読すると難解だし、つまらない。
村上春樹ですら、ハズレみたいなの読むと内容は薄いしモテ男の日常を書いてるだけだし描写はまどろっこしいし、あまり小説読まない人には「軽く」はない。
古井由吉の「杳子」なんて読んでごらんなさいよ、最初の数ページにわたる描写だけでたいてい読むのを止めると思います(いや、私は好きなんですがね)。

私は「文学」=「するめ」説を唱えているんですが、そういうまどろこしい小説も、実は我慢して読んでいくと、だんだん面白くなってきますし、そうなると逆にいかにもテキトーに世俗受け狙って書いたんだろうなあって感じの小説は耐えられなくなります。
けど、まあそうなるにも最初から「杳子」ってチョイスはない。

その点、芥川は読みやすい。しかも、たいてい短い。
もちろん、晩年の「或阿呆の一生」とか「歯車」とかは、初心者はやめときましょう。死にたくなります。
「神々の微笑」とか、思弁的なやつも、予備知識がないとしんどいでしょう。
でも逆に、「アグニの神」とか「煙草と悪魔」とか、超カルイ、ショートショート風のものもあります。面白いかどうかは別として。

実は学校教科書でよく取り上げられる、「羅生門」とかも、いきなり読むのはほんとはマズイ。あんまりはっきりした物語がありませんからね。
芥川の短編は、多くが非常に構成が整っていて、整っていすぎて、はっきり言うと面白くないぐらいなんですが、そのぶん今風にはエンタメ的に読みやすいものが多いです。
ところが、「羅生門」は構成ははっきりしてますが、物語的などんでん返しとかはないので、芥川を初めて読む人にはそんなにおもろくないでしょう。
まして、なんか道徳的な話なのかなあなどと思うと余計まずい。
ウィキペディアなんかには「人間のエゴイズムを克明に描き出し」なんて書いてますが、そんなふうに読むと、マジつまらんです。

そうじゃない。
芥川龍之介の「平安もの」を読む面白さがあるとするなら、まず一つ目は、その「暗さ」。そして映像的な描写のような気がします。
例えば、書き出しのこんな文章。

 ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。

「円柱に蟋蟀」なんて描写がかっこいい!ついでに漢字もかっこいい!なんて私は思うんですがどうでしょうか。そんなことはフツーはないんですかね? あるいは、

羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子ようすを窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤くうみを持った面皰にきびのある頬である。

これも非常に映像的。最初の文章がロングショットでとらえた描写なら、そのあと「うみを持った面皰にきびのある頬」にカメラがずっと寄っていく感じがする書き方です。
そして、話のトーンがずっと、暗い。
人間のエゴイズム云々とかそんなことはどうでもよくて、ただひたすら平安末期の陰鬱な感じ、薄暗く汚らしい感じが行間を漂っています。
羅生門の上で死体から髪抜いてる老婆とかマジ不気味。

でも実際、芥川の羅生門が最初に評価されたのは、そうした陰鬱な「雰囲気」が、非常に現代的に感じられたからではないでしょうか?
そうしたモダンな「暗さ」があって初めて、人間の「内面」云々の描写に新鮮なリアリズムが感じられたんだと思います。
決して「道徳」的な表現として評価されたのではなく、もっと背徳的な小説という印象があったのでしょう。
それを教科書的なモラリズムに貶めて教えるのは、本当に罪深いことだと思います。

ところで、芥川の「平安もの」には、この「羅生門」以外にも「偸盗」という小説があるんですが、私自身は話もこちらの方が面白いし、そうした描写の「暗さ」がはっきり出ていると思います。

男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳はやなぎが一本、このごろはやる疫病えやみにでもかかったかと思う姿で、かたばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車ぎっしゃのわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さなながむしも、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつかあぶらぎった腹を上へ向けて、もううろこ一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこのながむしの切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。

この「偸盗」はお話の展開も、登場人物も皆、古典的なエンタメ作品としてよくできているので、芥川の初読者にはオススメです。
教訓とかは、ありません。
いや、あるのかもしれませんが、そんなことは無関係に、平安末期の陰鬱な、ハードボイルドな作風を楽しめばいいんじゃないかなと思いますね。

如何でしょうかね。
今日は本当に「感想文」。
いつも以上ににとりとめのない文章に終始してしまいました。
それでもちょっとだけ、芥川龍之介を手にとってみよう、もう一回読んでみようなんて気になったとしたら、つまらん試験の題材にされてる作家たちも少しは浮かばれるかもしれません。

それでは、それでは。

いまんもレッスン日記⑧子ども読書道場

どうもどうも。
いやーなぜだか春休みは忙しかった。
春休みの特別レッスンの依頼がけっこうあって、そのせいでほとんど毎日朝からレッスン。
こちとら一週間中完全休日を2日は絶対もうけるナマケモノ。なのに、それが危ぶまれる毎日でした。
新年度の初めなんだから当たり前。ってわけでも例年はないんですけどね。こんなに忙しかったのは久しぶりです。さて、今年度はどんな一年になるやら。

そんななか。
開催の危ぶまれた「読書道場」も、なんとか子供たちが集まってくれて、いろいろ本を読めました。
前半に普段から教室に通っている悪ガキ三人衆。後半は種々の事情が重なってしまい、新小4男子一人。

まずは前半、悪ガキ三人衆と。
選んだ本は、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、宮澤賢治「なめとこ山の熊」、トルーキン『農夫ジャイルズの冒険』。
今回、ちょっと欲を出しました。
単純に面白そうな本、というよりも、少し子どもが一人では読みなさそうな、文学的なやつをあえてチョイスしてみたわけです。
普段のレッスンでも、僕は一緒に本を読む時間なんかを設けたりするんですが、その際に太宰治なんかの文学的なやつが意外と評判が良かったもんで選んでみたんですね。

結果、どうだったか。
「なめとこ山の熊」は撃沈しましたね。えらい、評判悪い。
「話がくどい」
「退屈」「つまらん」「長い」
「登場人物がいちいちムカつく」
と、散々な評価でした。
これ、別の生徒に読んだときはそんなに悪評ではなかったので人によって違うと思いますが、元気いっぱい系男子には向かないかもしれません。。。。
反対に「蜘蛛の糸」はすっきり短く終わるせいか、意外と悪い印象ではなかったようです。
まあ、「これ、ホントにお釈迦様はカンダタ救うつもりあったんかいな?」という僕の質問には、全員「いやこれ救うつもりないよね上から目線でムカつく釈迦だよね」って評価でしたが。

『農夫ジャイルズの冒険』はトルーキン(『指輪物語』の作者ですね)が肩の力を抜いて書いた、ちょっと笑える感じの中編ファンタジーなんですが、こちらはまあ好評だったと思います。
途中ちょっと話の展開がダレる部分もあるんですが、後半のドラゴンを味方につけての国王との対決シーンなんかは、なかなか盛り上がりました。
ひょっとしたら将来ハリウッドなんかで映画化されたりして。

まあしかし、少なくともいろんな子が参加する「読書道場」では、まずはある程度「読んでオモロイ」ことを基準にしなきゃだめだなってことを改めて学ばせてもらいましたよ。
それがやっぱり、読書の楽しみの基本なんですね。間違いなく。

さて後半戦。
後半はやや幼さも残る奥手な少年Aくん。
こちらは初めてということで、去年の夏の読書道場でも取り上げたアシモフのロボットSF短編とウェルズの「タイムマシン」。
途中、小泉八雲の「耳なし芳一」を挟もうとも思いましたが、「話を知ってるし昔の話はヤダ」とのことで取りやめ。アシモフの短編を急遽追加しました。

このAくん。お母さんは、読書経験も浅いし「二時間もたないのでは?」とずいぶん心配していらっしゃったようなんですが、フタを開けてみれば何のことやあらん、二時間以上バッチリ集中して一緒に二冊、本を読み切ってくれました。
最後にしっかり作文も書いて何も問題なし。

ここから言えることは一つ。
きちんと環境さえ設定されれば、誰だって楽しく本に熱中することができる。
そりゃ、家では無理かもしれません。
何と言っても、他に娯楽が多すぎる。それに友達と遊びたいのはもちろんでしょう。
でも、他に何もできないしすることのない時間に、誰かと一緒に本を読み進める。かつて絵本を読み聞かされたように活字と音声が一体化する読書経験を味わう。
そうすると、不思議とみんな、少なくとも本を開いている間は、静かに集中して、活字を目で追ってくれるものなんです。
もし一人なら、きっと読み終わらなかったような一冊を、二時間強で読んでしまえるものなんです。
そして、そうした経験が積み重なれば。
おそらく、その頃にはきっと、自分一人でも読書を進めていけることでしょう。

一人でも多くの子どもたちが、こうしたレッスンを通してそうなってくれることを、僕はひそかに期待しているのです。

それでは、それでは。

 

いまんもレッスン日記⑦詩とか作ってみる

どうもどうも。
今日はめっちゃ短い記事。読了まで5分(とかってたまにネットの記事に書いてあると、いかにも功利的効率主義っぽくてイヤですよね)。

さてさて最近、レッスンでたまに生徒と詩とか作ってみたりしてます。
これはもともと、小4から教えている現在小6男子 U太とのレッスン中、いろいろ課題をやった後、残り30分ぐらいで何をするかという話になったことがきっかけでした。
残り30分。
作文を一から作るのには少々時間が足りない。国語問題をやるのも難しい。
歴史社会についてはその日、すでに前半の課題としてやってしまっていました。

で、思いついたのが、詩を読んでみて、自分たちでも書いてみる。

まず宮沢賢治の詩を二人で読む。春と修羅。が、U太的にはなんかピンとこない感じ。
で、次に翻訳もの、ということで、最近というか5年生くらいから思春期っぽい雰囲気のあるU太にはギンズバーグの詩をチョイス。「吠える」。
こっちななかなか気に入ったようなので、なんとなく盛り上がったような気がする雰囲気のまま、僕たちも実践してみました。

まず、テーマをテキトーに決めました。なんとなく、語呂で決めただけのテーマ。
夜とお茶。
何だよそれは全く意味わかんねーじゃねーかよとか言いながら意味不明なところにこそ詩想は宿るに違いないと勢いだけで作りました。
で、出来上がったU太の詩が次のやつ。

「夜とお茶」

夜のお茶はうまい
なんかうまい
意味もなくうまい
なんか落ちつく

夜に食べる そして 飲むやつはうまい
意味がわかんないが なんかうまい

夜のお茶はうまい
とくにつめたいやつ
日々のつかれがとれると思う
なんかうまい

気づいたら なくなって お茶を作っていた
なんか つかれた

 

さてさて、こんな感じで他の子とも作ってみようと調子に乗った僕は、その次に、インターナショナルスクールに通うTMとも作ってみることに。
TMは英語ペラペラながらも将来日本で暮らしたいので日本語も忘れぬようにと毎週僕と作文を作ったり日本語小説を読んだり読解したりしている生徒です。
この日は日本史をやって小説を読んで終わってみると、残り15分。延長してもいいけどキャロムもやるなら、あんまり時間ない。
ということで、TMともテーマを超テキトーに決めて詩を作ってみたわけです。
出来上がったのが、以下。

「無」

無はなんなのか
本当にわからない
無は黒だと思う

だが

黒もなにかだ
本当にわからない
やはり 僕の想像を超える

どうでしょうかね。
なんか、それっぽいでしょう。

でも本当はその出来なんて、どうでもいいんです。
それよりも、言葉を使って「表現」すること。
そして、その「表現」のあり方はすごく自由だということ。
そのことを子どもたちが学んでくれればいいんですよね。

本当は作文だってなんだって、本当は文章「表現」なはずなんです。
小学1年生の時、あるいは年長さんのとき。
お友達に手紙を書いたり。
初めて自分で字を書き文章を作ったその成果を、誰かに見せて回ったり。
その時は、みんなあらゆる子どもが、言葉を記すことで、自分を「表現」することを楽しんでいたはずなんです。

だけど学校なり何なりで、こー書きなさいあー書きなさい、これはマルこれはバツ云々と言われているうちに、みんなその楽しさはどっかに行っちゃって、ただの「課題」になってしまう。

僕はその、かつてみんなが感じていた、言葉で表現する楽しさを、少しだけでも思い出してほしい。そう思っています。
言葉を使った自己表現は、誰にとっても身近で、そしてもっとも素朴に直截に、誰かに伝えられる表現だから。
そして人間は、誰しも、自分を表現せずにはいられない存在なのだから。

では、今日はこんな感じで。
それでは、それでは。